第70話 セメントの量産開始・密偵の引き抜き・証券取引所の現在の課題
3570日目~3594日目。
ようやくセメントの量産体制が整いだしたので、思い切ってセメント建造物をたくさん作ることにした。
セメントとは、水和や重合反応で硬化する粉体を指すのだが、ここでは、石灰石、粘土、珪石、酸化鉄を高温で焼成したあとに、粉砕して混ぜたものを差す。
(消石灰に火山灰を混ぜて、さらにレンガ材のクズや石材のクズを混ぜ合わせて、砂も適当に混合すると、水和反応で固まる……はず)
歴史的に、火山灰、生石灰、砕石、水を混ぜあわせると固まることが知られている。
古代の人々は、これをモルタルとして、石材と石材の間の接着剤代わりに活用したり、壁のひび割れの補修に使ってきた。
このセメントという材料は、石、レンガを使用した建築と比べるとかなり革命的な材料で、自由に成形できることから、斬新な設計が可能であった。
丸みを帯びた曲線的な構造も作ることができる。しかもセメント材は圧縮に強いため、外力を圧縮力に変えて受け流す曲線構造は合理的であった。
ただし、古代帝国の解体後、その知識は散逸されて、再現不可能だとされてきた。
――唯一、ドワーフを除いて。
(ドワーフから教わったこの魔法の粉だが、ようやく自分たちでも原料と配合比率と焼成温度を突き止めることができた)
ドワーフの里に伝わる秘術の一つ。
それがこの魔法の粉、セメントの製法である。
今までは、建築物の補修用のモルタルをドワーフから譲り受けてきた。高価な取引ではあったが、こちらにも十分に利があるので、バスキア領ではそれをずっと呑んできた。
だが、これからは自分たちでもどんどん作ることが可能となる。
(まさかここで、例の女密偵の力を借りることになるとはな……)
俺は改めて、優れた密偵の恐ろしさを思い知る羽目になった。
踊り子に扮してバスキア領にやってきた密偵の女。もとい、尋問を続けてバスキア領に寝返らせた多重密偵の一人。かつては我がバスキア領に仇なす存在だったが、今は非常に有能な部下として働いてくれている。
彼女は、ドワーフの職人たちと親密な関係になり、製法のヒントを聞き出してくれた。このことが、今回の発見につながっている。
(……やっぱり密偵はたくさん見つけてどんどん寝返らせるべきだな。こうやって有能な密偵をわざわざ送り込んできてくれるんだから、これを有効活用しない手はない)
セメントを使って、港の補強・拡大工事を手掛けつつも、川の上流の水を一時的にせき止めるダムの建造に着工する。その傍らで俺は改めて、諜報組織を強化しようと固く決意するのであった。
3595日目~3622日目。
先物取引を導入した狙いは、価格の安定である。だが、どこの世界にも悪い奴は存在するものである。
価格を不当に釣り上げたり、あるいは多量に売り込んで価格を崩壊させたり――そういった手合いはどこにでも蔓延っている。金融戦争。それは市場の敵である。それは、今のバスキア領にとっても同じことである。
百戦錬磨の資産家たち。仕手筋とも山師ともいう。
かつてのバスキア領の狙いは一つだった。彼らを利用することだ。
(基本的に、バスキア領としては、売買取引が盛んになれば盛んになるほど嬉しい。約定に伴う売買手数料は取引場の収益になるからな。それに情報も集まる。証券取引所を開いた理由はそれが大きい)
金が集まり、情報も集まる。
それだけで価値が生まれる。なぜならば彼ら資産家や大商会は、時にどこよりも情報に鋭く機に敏い。今年は凶作になるだろうという情報をつかめば、小麦や穀物を買いあさり、それで一気に儲けを得る。
では、どこに一番情報が集まるか?
――証券取引所である。何故なら彼らは売買しないといけないのだから、何を売りたくて何を買いたいか、取引所には筒抜けになってしまう。
買うべきか売るべきか。判断に迷った時は大手商人に従えばいい。何故なら大手商人は情報に敏いからである。
ただでさえ放っておいても手数料が転がってくる美味しい商売。そして誰よりも大手商人たちの動向の情報を集められて市場の動向をいち早く察知することが出来る環境。
これに目をつけないものがいるだろうか。
証券取引所は、この手数料収入と情報の観点で導入した施策であった。
――本来はその予定だった。
まさか代理人を立てられて、売買の動向の把握を困難にされてしまうとは思ってもいなかったわけで。
かつてバスキア領は、大手商会たちに一杯食わされるという失態を演じてしまったことがある。
そのときの教訓を今後に活かして、どうにか商人たちに一杯食わされるのを防ぎたいところである。
(貴族たちと手を結んで、大掛かりな保険契約を成立させた。これによって、王国中の貴族たちはバスキア領の経済状況を攻撃しない方が得する状況になった。これに並行して、大手商人の関係者たちを、顧問という名の人質として、監獄に招聘して警告を送っている。これである程度は牽制になっているはず)
だが、あと一手欲しい。
この状況は、あくまで"攻撃すると損だから攻撃しないけど、得になったら攻撃する"という話にしかなっていない。バスキアが今後も恐ろしい速度で成長し続けていけば、もしかしたら"やっぱり攻撃した方が得"という瞬間が訪れるかもしれない。
それを防ぐにはどうすればいいか――それが俺の今悩んでいることであった。
法律の整備か、もしくは新しい仕組みの導入か。
アイデアがないわけではないが、果たしてこれが上手くいくかは謎であった。