第42話 幕間:(第三者視点)ある司教の独白
白の教団の一派、セント・モルト白教会の司教の一人、キルシュガイストは今置かれた立場の難しさに頭を悩ませていた。
教会内の派閥争いの結果、中央の政治から見放されて、半ば左遷のようにバスキアに追いやられたのがついこの間。今まで賄賂に塗れて生きてきたキルシュガイストだったが、それなりに知恵を尽くしたつもりではある。ただ運が悪かった。取り立てて才能も人望もない彼は、あっさり切り捨てられた。
捨てられた先が、バスキアという辺鄙な地。ここで一生腐って生きるのか、と最初は絶望したものである。
(私を蹴落とした連中が憎くてたまらなかった。私よりほんの少しだけ運がよく、ほんの少しだけ優れているだけの、そんな連中の嘲り笑う姿が、目にとても焼き付いた。能力の足りなさを笑われるだけならともかく、人間性まで貶めるのは許せなかった。教会内の政治から追い出されて、もう二度と奴らと関わりを持たないと知っていてもなお、許せなかった)
格付けが終わった、みたいな顔をするな。
ほんの少し運がよかっただけのくせに。
そんなキルシュガイストの無念は、しかし、燃え盛る炎のようにはならなかった。引き換えに、熱水が煮えるような、ふつふつとした嫉妬の怒りになり果てていた。身を焼く激情ではない。内臓や脳さえも熱くなる、もっとどろっとした質量のある憤りである。
(ほんの少し優れていることは知っている。だが、その"ほんの少し"を笠に着て、人ひとりを嘲って追放までしてもよいと思っているのか)
もう二度と、連中と関わる機会がないということは。
連中に馬鹿にされたまま終わる、ということである。
キルシュガイスト司教の抱えた苦みは、贅沢や享楽では癒えないところにあった。
しかし、それで話は終わらなかった。
バスキアが誰も想像し得なかった早さで発展しているのだ。
徒歩王ルーの血を引くとされるヴィーキングの末裔、ヴァイツェン海賊団と、女海賊メルツェンの率いるメルツェン海賊団を併呑し。
迷宮荘園を二つも領地内に抱えて開発をすすめ。
大陸共通語を解するドワーフ、エルフのみならず、意思疎通の困難なゴブリン、コボルトの連中さえも同じ領地内に迎え入れて。
貿易港を開き、様々な大商会たちと一気に取引を広げて、さらには自領地内の商人を育てるような優遇政策も並行して推し進め。
気が付けば、バスキアはめざましい大都市となっている。
早くから司教として赴任し、この地に足がかりを作っている功績をたたえられて、キルシュガイストの評判も随分と持ち直した。
教団中央の意志も追い風であった。バスキアに貿易港が開かれるらしい、となると王国西方への布教に力を入れておきたい、そろそろ大司教を任命してもいいだろう、さて誰を指名するか――と都合のいい話が舞い込んできたところである。
一度追いやられた自分が返り咲くには、恐らくこれが最後の機会。
そう、キルシュガイスト司教は必死であった。
バスキアの若造貴族から、もう少し搾り取ってやろうと思うぐらいに。
(もう一度、中央の連中に一泡吹かせてやろう。そのために、教会の威光を最大限に活かして、もう少しバスキア子爵から貰えるものを貰ってやろう……と思ったのだが)
そしてその焦りが故に、踏んではならない一線を踏み超えてしまった。
化け物との邂逅である。
(……チマブーエ辺境伯。あなたがこの風来坊の若者に肩入れする理由も分かってきました。彼は劇薬にもほどがある。下手に手綱を握ろうとすると、一気に振り回されてそのまま飲み込まれてしまう)
キルシュガイストとて知っている。政治の世界には化け物が棲んでいると。そしてその一人、"猛牛のチマブーエ"といえば、迂闊に関わってはならない殿上人でもある。
選王侯の一人。暴れる猛牛。王国の西方にいながら、王国の貴族の誰もが知っている女傑。
マエスタ・マーシェネス・チマブーエ。
ひと昔、麗しのマエスタ嬢として名を馳せた社交界の華。決して金品には靡かず、権力にも媚びず、才知ある者の情熱的な言葉にのみ心を許した女性。大陸にも名を馳せた、西方の麗人。
左遷された司祭ごときが、社交界の生きる伝説とまで言われている彼女との知己を得ることができたのは、この上ない僥倖であった。
そしてそれゆえ、想像だにしなかったほどの大きな話さえ進んでしまっている。
(私が、枢機卿……まったくもって恐ろしいことだ。想像さえしたことがない。そんな思い上がりを今までしたことなどなかった)
バスキアの若造領主を都合よく使ってやろうとしたら。
もっと大きな怪物に目をつけられて、駒にされつつある。
――ちょうどいいところです。この前懇意だった枢機卿の一人が隠居なさったところで、枢機卿への渡りがもっと欲しいと思っていたところです。
実質上の、枢機卿を傀儡としてやろうという不遜な言葉。しかし彼女は、さも当然とばかりに口にしていた。そしてそれを叶えるだけの力も持っていた。
都合のいい王を選べる貴族。選王侯の一人、猛牛のチマブーエ。
その気になれば枢機卿さえも、その掌の上で転がすことができると言っている――。
(……なるほど、バスキア子爵。あなたが憎い。あなたはあの化け物を、ちょっと気の利くお婆さんとしか思っていないのだ。ちょっとした気まぐれで一族丸ごと歴史の闇に葬れるような化け物を、あなたはどうとも思っていないし、逆に暴力でどうとでもなると思っている)
キルシュガイスト司教は、ここにきて本当の"差"を思い知った。
チマブーエ辺境伯、バスキア子爵――その二人と自分の間にある、埋めがたい溝を感じていた。
度胸の据わり方があまりにも違う。
一対一で勝てるから問題ない――それは、冒険者の理屈だ。
あの、どこか飄々とした青年の瞳を思い出す。
発想に常識の枷がなく、常に新しさを作り出している。バスキアを奇跡のような速度で発展させ続けている。
武力や権力による脅しをちらつかせても臆することなく、お前って退屈な奴だよね、とあっさり見切りをつける。
今だってわかる。あの男は、国王陛下であっても、教皇猊下であっても、退屈な奴だと思ったら見捨てていくのだ。
この世を意のままに操る女傑と、この世を意のままに作り変えていく青年。
(……私のような小物は、もはや枢機卿になるしか道がない。そうなってしまっている。あの化け物の機嫌を損ねられないのだ。それ以外になくなったのだ。この気持ち、バスキア子爵にはわかりますまい)
キルシュガイストは、晴れて大司教に任ぜられる予定である。
教皇猊下、ならびに教団の枢機卿たちからの期待もかけられている。
しかし同時に、チマブーエ辺境伯とバスキア子爵という二人の化け物からの期待も受けている。
処刑台に登るような気持ち。あるいは、一世一代のペテンに臨むような気持ち。
もはや彼には、かつて彼を蹴落とした連中など、どうでもよかった。
取るにも足らぬ連中への嫉妬にかかずらっている暇など、どこにもなかった。