第38話 バスキア火山迷宮の発見③
シュザンヌが作戦を聞いたとき、最初に思ったのは(こいつ相変わらず最悪だな……)という素朴な感想であった。この悪辣さがいっそのこと頼もしい。アシュレイは決して英雄とは褒めたたえられないが、並大抵の英雄よりも遥かに魔物に対して苛烈である。
備えあれば患いなし、とはよく言うが、アシュレイの場合は度が過ぎている。彼の備えとは、思いつく限りの意匠をこらした底知れぬ"悪意"なのだ。
迷宮の守護者が待ち構えている場所までたどり着き、いくつかの準備を整えて、シュザンヌとアシュレイは最深部の部屋に向き直った。
足を踏み入れれば最後、この先にいる魔物と対峙することになる。
だからこそ、隣にいる悪辣召喚士は、一計を講じていた。
「よっしゃスライム、入り口を全部塞げ。酸欠で弱らせるぞ」
にゅるる、とスライムが一気に身体を膨張させ、そして部屋の壁面を這うように広がった。スライムの透明の身体越しに中の様子を窺ってみたところ、恐らく部屋全体の穴という穴は軽く塞ぎきったように見える。
部屋の中からは何の音もしない。もしかしたら迷宮の主は、スライムに気づいていないのかもしれない。洞窟の暗がりの中を、ほぼ無音で広がる透明の物質。気づくのも難しいだろう。
つくづく発想が外道だった。
「洞窟前に準備してきた粘土をたくさんもってこい。壁の穴を塗りたくって塞げ。端から順に塗り潰して、徐々に身体を戻せ」
どんどん粘土が運ばれて部屋の中に搬入されていくのを、傍から眺める。何となればこの土は、急いで倉庫をたくさん作ったときに出た不要な土を再利用していると聞く。こんなところまで効率的だった。
さらにアシュレイは、まだまだやるぞとばかりに命令を飛ばした。
「部屋の穴を埋めたら、入り口も粘土でほとんど塞げ。そして海水をたくさん引っ張ってこい。塩を作るための塩田にしてやる。赤熱しているありとあらゆる岩をガンガンに冷やせ。魔物本体に海水をぶっかけてもいいぞ、目を執拗に狙え」
徹底して正面から戦わないつもりらしかった。
酸素の供給源を断ち切り、塩辛い蒸気で蒸して、隙あらば海水をぶっかける。奥に待ち構えている迷宮の主を何だと思っているのか。
しかもアシュレイの作戦の怖いところは、本当にこれだけを執拗に続けるところだ。気付けば最深部に入るための入り口には、分厚い粘土の壁ができており、中の様子はほとんど見えなくなっている。
だが、粘土の壁に耳を近づければ、じゅわじゅわと海水が間断なく煮え立って蒸発する音が聞こえ、またきいきいと甲高い悲鳴も聞こえてくる。何が起きてるのか大体想像が付く。
もしこれで、迷宮の主が呼吸を行う生き物であれば、ほぼ詰んでいる。塩辛い蒸気と海水の目潰しで視界が阻まれている状態で、粘土で埋め潰した入り口を体当たりなり何なりで突破する――という知性が働かない限りは、もう勝ちである。
しかしアシュレイはそれを警戒しているらしかった。
「スライムに木の実をたくさん持たせている。熱したらバチバチ音が鳴って破裂するから、火の元に投げつけると気を引きつけられるはずだ。これで、音の鳴る方向に敵がいると錯覚させる。しかも海水をぶっかける方向も四方八方に散らしてある。方向感覚を奪い去るのと、海水をかけられた方向にも敵がいると錯覚させるのが狙いだ。光源となる赤熱した岩も海水をぶっかけて冷ましているし、部屋内部の暗さは普段よりも劣悪になるはず。出口なんて分かるはずがない」
「……本当にお前は、余念が無いな」
部屋の内部からは、もがき苦しんで暴れるような音が聞こえた。
呼応して、炎の燃え盛るごうごうとした低い音も聞こえてくる。きっとこの部屋の中は地獄のような熱で焼かれているに違いない。それでも、焼く対象がいなければほぼ無意味だ。
身体の芯に響くような鈍い振動。迷宮がびりびりと震えるほどの呪力を込められた、劫火の息吹。
もし正攻法でこの中に攻め入っていたら――と思うとぞっとする。
だが、しかし。
「……? どうしたスライム、苦しいのか?」
びくり、びくり、と波打ったように震えるスライムを見て、アシュレイが案ずるような声をかけていた。
無敵と思われたスライムが、痛みに耐えるかのように震えている。核こそ全く無事で見る限り問題はなさそうだったが――アシュレイの表情の変化が尋常でなかった。
「! 壁を見ろ! 古代文字がびっしりと広がっている!」
「!!」
アシュレイが壁を指さして叫んだ。
これは解釈が分かれる。迷宮の主を瀕死にまで追いつめたときに、稀に見られる現象だ。
つまり圧倒的に優勢だともいえる。だがしかし、この現象が現れたときは、得てして迷宮の主がありったけの力を振り絞る時であり――。
「入口から離れろ!!」
◇◇◇
「入口から離れろ!!」
俺の叫び声とほぼ同時に、粘土で作り上げた土塁に強烈な衝撃が走った。きいきいと甲高い悲鳴が上がる。シュザンヌはほぼ反射的に飛び退って、俺はスライムに引っ張られてかろうじて衝撃から逃れていた。
入り口を塞いでいた土塁は、大きくひしゃげてしまっていた。重しがなかったら、きっと木っ端微塵に崩れて、突貫されてしまっていただろう。
(体当たり攻撃か、万が一に備えて土壁を厚めに作っていて正解だった)
苦悶の声が聞こえる。
粘土の中に仕込んでいた重し代わりの鉄屑――錆びた武器やら折れた武器やらに、真正面から突っ込んだのだ。少しぐらいは苦しんでもらわないと困る。加えて、トリカブトやらを中心に、エルフとゴブリンシャーマンに調合してもらった麻痺毒を塗りたくっている。並大抵の魔物ならこれで息絶えるはずだ。
瞬間、迷宮がどくんと脈打った。
土塁の隙間から勢いよく炎が噴き漏れる。気の滅入るような熱波。俺は舌打ちした。
しぶといことに、この中にいる魔物はまだ生きている。
恐ろしい強敵だ。ここまでの仕打ちを受けながらも、なお生きているとは。
(しつこい! 何てやつだ、王指定の魔物でもこんなに手強くはなかったぞ!)
鉄屑に仕込んだ呪符を発動させる。水縛鎖の呪符。水で縛るだけの術式だが、特定の魔物によっては攻撃にもなり得る。しかも俺が呪言を強めに仕込んだ一級品で、痛覚を司る神経をずたずたにする呪いがかかっている。
一際甲高い悲鳴が上がり、中の魔物がのたうち回る音が聞こえた。だが俺はさらにスライムに命令を下した。
「スライム! 隙間からやつの身体を滅多刺しにするんだ! 傷口から入れ! 体内に入って柔らかい場所をずたずたにしろ!」
我ながら最悪な命令だと思った。だがこれしかないと思った。
この魔物と直面したら死ぬ。
まだかろうじて閉じ込められているうちに、息の根を止めるしかない。
にゅるん、とスライムが身を伸ばして、粘土の隙間に入っていく。
同時に痛みに悶えるように核が震えた。思わず俺は核を強く抱えた。
骨身を貫く生々しい音と、迷宮を震わせるおぞましい絶叫が聞こえる。あまりの熱に何かが割れて爆ぜるような音。壁に激突するような音。炎の吹き荒れる音。
(こいつ、ここまでしてまだ生きているのか! 嘘だろ、これで終わってくれよ!)
背筋に冷たい予感が走った。
炎は再生する生命の象徴、と聞いたことがある。古の人は不定形の炎のゆらめきと輝きの中に、生命の力強さを見たのだ。
まばゆい光が世界を作った。
天高く燃え盛る太陽が大陸を広く遍く照らした。
そして輝きと熱の象徴たる炎こそが、万物の根源の一つだと。
とうとう土の壁を貫いて、満身創痍の魔物が姿を表した。
目の片方は、こびりついた塩ですっかり白ばんでおり、腹部からは血のようなものをぼとぼと溢している。火炎を身に纏い、身体中に突き刺さった武器を煌々と赤熱させ、それでも魔物はまだ生きている。
――古き伝承の語りて曰く。
燃え盛る火の中には蜥蜴が住まうと。
名前も知られぬ、滅びた時代の伝承の生き物。古代文字が迷宮を這い回る。
ˈsæləˌmændə(r)、の記号が熱とともに煌めいた。
瞬間、シュザンヌが日輪の剣を抜いて飛び退った。
ほぼ同時に業火が眼前を舞う。一瞬の出来事。
続けざまの二の矢、三の矢と火柱が地面から間断なく吹き上がるが、シュザンヌはそれらを剣で薙ぎ払い、かろうじて身をかわした。赤熱した石のつぶてが雨のように振ってくるが、これも剣閃で軽く弾く。
だが、魔物はさらに容赦がなかった。
ぼおう、と間抜けな音と、炎の大津波が一気に広がった。炎龍の気炎、あるいはそれ以上の粘っこい熱波が迫りくる。
「――ッ! 爆ぜろ、ガラティーン!」
叫ぶシュザンヌ。日輪の刃が煌めき、輝きの帯が直進して蜥蜴の顔面を貫く。ぼこぼこと沸騰するように蜥蜴の身体は無数の泡のごとく膨らんだ。スライムが逃げるとほぼ同時に、蜥蜴はその身を破裂させた。
これでとどめを刺したか、と思った刹那、身体が半身しか残っていない蜥蜴がのそりと立ち上がった。残りの半身は炎が蜥蜴の形になって補っていた。
――――――。
半身の蜥蜴は、言葉にならない謎のつぶやきを漏らしていた。何を考えているかも分からない。ただ真っ直ぐと、俺とシュザンヌをその目で見つめていた。
全く脈絡もなく、ふとスライムに見つめられたときを思い出した。こちらの全てを覗き込むような眼差し。この世の根源を見つめているような途方も無い感覚。
その刹那。
べろり、と。
全ては一瞬のことだった。
シュザンヌが二度剣を振るった。が、それより速く蜥蜴が彼女を抑え込んでいた。
否、シュザンヌの剣は的確に蜥蜴を捉えていたが――切られてなお、燃え盛る蜥蜴は崩れかけの身体で突撃を敢行し、恐ろしい膂力で女騎士を羽交い締めにしていた。
「! シュザンヌ!」
蜥蜴を蹴とばそうとするシュザンヌ。だが蜥蜴は揺らめく炎のごとく身体を変形させて、やはりシュザンヌを離そうとしなかった。俺はとっさに呪符を投げたが、炎に阻まれてしまった。
スライムはなぜか飛びかからない。蜥蜴は長い舌を伸ばして、シュザンヌの首に何かを刻み込んでいた。
そして、業炎が彼女を包んだ。
俺は絶句した。何を口走ったかも覚えていない。
とにかく、頭がかっと熱くなって、スライムに無茶な命令を下したような気がする。
だがスライムは従わなかった。むしろスライムは、俺が暴れないように俺を拘束していた。信じられないことに、炎に包まれるシュザンヌをなすがままにしていたのだ。
蜥蜴が急に小さくなった。そして炎が緩やかに消えた。衝撃が俺の脳をしびれさせていた。
肝の潰れるような思いだった俺は、結局何もできないままだった。
「な……え、えっ」
シュザンヌは、結局なにもないまま、無事に炎から解放されていた。そして首には謎の痣が出来ていた。
小さな蜥蜴が彼女の肩に乗って、ぺろぺろと首を舐めている。
――シュザンヌが、生きている。
叫び疲れた俺は、目の前の光景に思わず脱力してしまった。
もしや、もしやの話だが。
俺はまとまらない思考をかき集めて、何とか結論を導こうとした。
恐らく、シュザンヌと迷宮の主との間に、何かしらの契約が交わされたのかもしれない。