第2章 第1節 苦難の職業選択~大破局の予感
光一は、会社に今から3か月後の12月31日付で会社を辞め、新年度から将人の新会社で働くことを上司に伝えた。
光一の働いていた会社はそれほど有名ではないにせよ、一部上場の創業100年以上の安泰企業であり、倒産の心配がなく、そこそこの給与も保証されているようなものだ。
光一は30歳になろうとしていて、デフレ経済が長期におよび、転職が厳しい年齢になっていた。
当然、上司も両親も、光一が転職を考えているとは思ってもいなかった。しかも転職先が光一にとってまったくの異分野であり、未経験の営業職だ。これから設立する新会社でもある。これには上司や両親だけでなく、会社の同僚からも猛反対された。
光一の働いていた会社の社員は安泰志向が強いため、光一の考えを理解できないどころか、光一はおかしくなったと本気で思っていたのだ。
同僚は、転職を辞めさせようと何度も説得してきたが、それでも光一は、将人と約束したことでもあり、考えを変えなかった。
光一は、同僚や両親の猛反対にあい、眠れぬ日々を過ごしつつも、やがて同僚や両親もあきらめるようになった。しかし同僚、特に両親は転職にまったく歓迎していないことには違いなかった。
ついに同僚からはパワハラを受けるようになり、両親からはいじめともいえる仕打ちさえ始まった。
同僚からは12月31日まで「細かく引き継ぎ書をつくれ。おまえは常識がまったくない。俺はおまえを残りの勤務時間、厳しく指導する。光一、これはおまえの将来のためだ! 俺が上司だ。お前の時間は俺のものだ」と言いつつ、毎日、大声で罵声をあびせられた。たくさんあった有給は使わせてもらえる空気ではなかった。今では明らかに労働問題になることでもあったが、当時の社会環境では、有給休暇を使うことはタブーの空気があり、退職日となる年末ぎりぎりまで有休を使うことなく、働くことになった。
(自分の道、しかも転職を選んだだけなのに、こんなに苦労するなんて……本気で僕の人生を考えて言っているのかなあ。みんな、社会的体裁ばかり考えているんだよね、僕はみんなの私有物ではないんだけどなあ……)
さすがに光一も心では愚痴をぼやくようになっていた。
光一にとって新会社への転職の決断は勇気がいることだった。それにもかかわらず、励ましてくれるどころか、むしろ気苦労ばかりおきる。このため新しい仕事のことで勉強したいことが山ほどあるのに、まったく手がつかなかった。
将人からは、「新会社の準備を一緒にやらないか」と言われていたが、会社の引継ぎから離れられなかった。引き継ぎ書もキングファイルでゆうに5つ分、つくることになった。
唯一、救いだったのが、将人から電話がかかってきたときだった。
光一「毎日、同僚や上司から怒鳴られながら引継ぎしていますよ」
将人「一日でも早く、光一君と仕事ができることを楽しみにしてるよ」
光一は苦笑いしながら、将人に回答した。
光一は、明るく接しているものの、精神的にはかなりまいっていた。光一にとっては、会社の仕事から手を引けるまでの3か月間がとてもとても長い道のりにさえ感じていたのだ。
そんな状況の中、ある夜、仕事が終わって会社の寮の部屋で休んでいた時、光一に電話がかかってきた。
三谷「やあ、久しぶり。俺だよ。三谷だよ」
光一「え、三谷さん! 本当に久しぶりですね」
三谷「ああ、元気だぜ」
三谷宗次郎を覚えているだろうか。三谷は光一と大学時代の掃除のアルバイトで出会い、大学を卒業して再び交流することになった人物だ。
かつて若宮レナの協力の元、下町の大富豪、白鳥さんのマンションまで押し掛けたのは、光一と将人、そして三谷だった。
そんな三谷から2年ぶりに電話があったのだ。
三谷「あいかわらず、元気そうだな。光ちゃん」
光一「まあ、元気と言えば元気だけど……」
三谷「なんかあったのかい? 光ちゃん」
三谷は光一が何か不安そうにしている雰囲気を感じた。
光一は、先日、会社に辞表を出し、将人が社長を務める新会社で働くことを三谷に話した。光一は、希望と同時に、初めての転職でもあり、本当に自分にできるだろうかと不安もあった。
光一の話を聞いた三谷は以外にもけろっとしていた。
「光ちゃん、そんなことで悩んでいたのか。俺なんてもう何十回も職場を変えているんだぜ。はじめての転職くらい、どうってことないぜ」
「くすっ、そうでしたね。三谷さんは何度も何度も職場を変えていたんだっけ」
三谷は一時期、将人の会社の代理店で働き、将人から仕事を回してもらって生計を立てていたが、代理店の仕事を途中で飽きて止めてしまい、今でも定職に就かずにバイトをしているらしいということを将人から聞いていた。
いったい、三谷は何度、仕事を変えれば気が済むのだろうか。
しかし、仕事先を変えることを何十回、繰り返しても常に前向きで生きられるのは、ある意味すごい。それもひとつの才能かもしれない。光一は三谷の楽観的な性格にうらやましささえ感じた。
光一は三谷と話して、気が少し楽になった。
三谷「ところでよ、今度、若宮さんと一緒に食事会しようと思ってね。そこで光ちゃんを誘ったんだよ」
光一「え、レナさんと食事会、いいですね!」
三谷「ああ、来週の土曜日、光ちゃん、都合どうだ」
光一「僕は大丈夫ですよ!」
三谷「じゃあ、来週の土曜日、夕方5時半だからな」
光一「僕と三谷さんだけですか?」
三谷「ああ、おそらくな」
光一「あの…将人さんは来ないんですか?」
三谷「将人な、若宮さんとは面識も話したこともないしな。電話して留守電に入れてるけど返信ないから、来ないんじゃないかな。昔からこういうの好きではなかったしな」
光一「確かにね…」
こうして三谷と光一、若宮レナと久しぶりに再会することになったのだ。