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清美は与志子の部屋で、紫陽花を眺めながら待っていた。――やがて、鍵を開ける音がした。笑顔で待ち構えていた清美を、与志子は睨み付けた。
「清美さん、あんた大した女だね」
「……なんのこと?」
清美には与志子の言っている意味が分からなかった。
「なんのこと? じゃないよ。カマトト! 大学で何習ってんだ? 男の誑かし方か」
与志子に罵倒された清美は驚いた顔をしていた。
「昼間っからホテルに行きやがって。おうっ!」
与志子の怒りの原因を知った清美は、深いため息を吐いた。
「何が箱入り娘だ――」
「別れるために行ったのよ」
「……何? どういうことだ」
「彼と付き合ってたの。でも、あなたに出会って、別れ話を告げたわ。そしたら、彼、別れるから最後にホテルに行こうって。……別れてくれるならと思って」
「ほう。で、どうしたの?」
「……」
「本当に別れる気ならホテルなんか行かないんだよ。あー! 尻軽女! 純情ぶりやがって、騙しやがって」
与志子の罵声は止まなかった。
「あなた、何も分かってないじゃない。私の気持ちなんか。……もういいわ」
辛そうな表情でそう言って、立ち上がった。そして、バッグを手にすると部屋を出て行った。
引き止めなかった。与志子は過度の嫉妬で、我を忘れていた。惚れていたからだ。だが、本当に惚れているなら、清美に正面な恋愛をさせるべきだと思った。
……俺みたいのと付き合わないほうが幸せだよな、どう考えたって。与志子は、清美との別れを決めた。
――枯れ葉が舞い散る頃だった。由紀に元気がなかった。
「どうした? 顔色悪いぞ」
一男が心配した。
「うむ……ちょっと怠くて」
「部屋で休んでろ。後で抜け出すから」
一男は鍵を渡した。由紀からはシャネルの№5の香りがした。一男がプレゼントした香水だった。
「……え」
由紀は一度も一男の顔を見なかった。
一男がスペアキーで部屋に入ると、由紀はソファに座っていた。
「寝てればいいじゃないか」
「……お話があるの」
由紀は深刻な顔をしていた。
「……なんだ」
嫌な予感がした一男は、腹を据えると、スーツのジャケットから出した煙草を一本抜いた。
「……別れてください」
俯いたままだった。
「好きな男でもできたか」
「……」
「……俺達、何年になるか。お前に彼氏がいるのを知ってて、敢えて口説いた。……一目惚れだった。男しか知らないお前を自分のものにした時は、……嬉しかった。分かるか? そんな俺の気持ちが」
「……え」
「……お前はもう俺のものだと自信があった」
一男は涙を堪えるかのように、唾を飲み込んだ。そして、煙草を揉み消すと、立ち上がった。
「どこの誰だ? 年上か、年下か。ほら、言ってみろよ。女同士ってのはな、男と女の関係より嫉妬深いんだよ。そんなに別れたいなら、脱げ! 別れの宴だ」
「……」
由紀は言われたとおりに、帯締めに手をやった。
「……もういいよ。同情されるほど惨めなものはない。分かったから帰れ」
そう言って一男は寝室に入ると、激しくドアを閉めた。
「……さようなら。元気でね」
由紀の声がした。そして、ドアの閉まる音がした。
一男は咽び泣いた。……別れを告げに来たというのに、俺の好きな香水をつけやがって。……莫迦な奴だ。……幸せにな。――
一男は気分転換に、久しぶりに与志子のアパートに遊びに行った。ドアが開いていた。
「おいっ、ヨシ!」
無断で部屋に入った。
「あれ、兄貴。珍しいじゃん、遊びに来るなんて」
ズボンのベルトにはたきを挟んでいた。
「掃除か?」
「ああ。やけ掃除」
「なんだ、そりゃ」
「やけ酒ならぬ、やけ掃除ですよ。嫌なことがあると掃除するんですよ」
「へぇ、変わってるな。で、嫌なことって、何があったんだ」
「……ま、ちょっとね。コーヒー淹れましょうか」
「ああ。へぇー、手紙か?」
テーブルに白い封書があった。
「故郷にか?」
「ええ」
清美のために買ったブルーマウンテンに、沸かしたばかりのポットの湯を注いだ。
「お前は小忠実だな」
そう呟きながら封書をひっくり返した。宛名を見た途端、
「! えっ?」
一男は目を丸くした。
〈小生一二三〉
それは忘れることのできない名前だった。




