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は、と息を抜くようにアズミが笑う。
「断る」
「そう言うと思ってましたわ。ーーイヌル!」
「はーい!」
先ほど燃料補給しておいた大型犬、もとい水の精霊が元気に駆け寄ってくる。マシェリは剣を構えたまま短く耳打ちし、アズミの背後にある鳥カゴを指さした。
「さあ、水竜の卵を奪い返すわよ。 お手伝い頼んだわね、イヌル」
「うん、分かった!」
ピン、と耳を立ててイヌルが応える。マシェリは目の端でちらと確認した。ーー大丈夫。彼はちゃんと気付いている。
「馬鹿が! 国境を超えればこちらのものだ。総員、弓を引け! その犬捕獲してくれる!」
いつから隠れていたのか、茂みの中から数人、弓を手にした兵が立ち上がる。皆一斉にイヌルに向かって矢先を向けた。
「ひどい! 僕、犬じゃないもん!」
イヌルは膨れっ面で数歩後退し、国境手前まで走ると地を蹴った。
兵が弦を引き、弓が大きくしなる。
「ーー今よ、クルル‼︎」
ブルーナ公国側で滞空していたクルルが、マシェリの合図に反応して急降下する。虚をつかれた兵が慌てて弓を構え直すも、間に合わない。
クルルは鋭い爪で卵の籠を掴むと、そのままあっという間に空高く飛び上がった。兵が苦し紛れに放った矢を華麗によけながら、心配げに待つ主人のもとへ戻って行く。
籠を受け取り、ルドガーが微笑んだ。
「おかえり、クルル。ーー怪我はないかい?」
ルドガーが優しく頭を撫でると、クルルは小さく「クルル」と鳴いた。
「ご苦労様、クルル。イヌルも、お手伝いありがとう」
マシェリは剣を下ろし、ルドガー達を振り返った。
すると、国境ギリギリで体を翻すも、地面に落っこちたらしいイヌルが埃まみれになってしょぼんとしている。マシェリは剣をグレンに返すと、慌ててイヌルの汚れを払ってやった。
「くそ、返せ! それは私が捕獲した魔物だぞ。……っ、この泥棒!」
「元々はこちらの物だ。僕達が泥棒なら、そっちも同類って事だろう。全く……子どもか君は」
グレンがため息とともに剣を鞘に戻す。地面を悔しげに足で踏みつけ、文字通り地団駄を踏むアズミを冷めた目で見ながら、グレンはふと、薄い唇に笑みを浮かべた。
「アズミ殿下」
「ああ? 今度は何だ、いったい?」
「黙っておこうと思ったんだが、やはり一応言っておく。僕は、君との約束は破ってない」
「……は? 何を言ってる。お前は私が登城した日、いくら待っても現れなかったじゃないか! あれが約束破りでなくてなんだ。私は……!」
「貴女は一日間違えて皇城に来たんだ。そして僕は、その日フランジアにいなかった」
「え……っ」
ぽかんとしたアズミの顔が、幼い日に見た可愛らしいお姫様の記憶と重なる。グレンは、苦笑いで誤魔化しながら、唇に女らしさを残した公女と向き合った。
「だが貴女に真実を告げなかった父の罪は、戯言では済まされまい。この通り、息子である僕が心から詫びよう。ーー本当に、すまなかった」
グレンが胸に手をあて頭を垂れる。
「……何で、お前が謝るんだ。元はといえば私が」
アズミの目から鋭さが消えていた。赤い唇を震わせ、下ろした拳を握り締める。
「仕方ない。僕の婚約者は、無礼を許してくれないから。もしばれたら、次は僕が剣を突き付けられる……!」
苦悶の表情で言うグレンに、アズミの手の力が抜けた。かわりに限界まで眉を寄せ、グレンをまじまじと見つめる。
「……まさか怖いのか? お前、そんな理由で今私に謝ったのか⁉︎ 婚約者に怒られるのが怖いって、たかがそんな理由だけで?」
「たかがって何だ! 言っておくが、マシェリは本当に、ほんとーに、半端なく怖いんだぞ! 口をきいてくれないと精神的にきついし、時々ひっぱたかれると物理的に痛くて辛い。中でも一番辛いのがーー」
「……殿下。いい加減になさいませ」
横からマシェリに襟首を掴まれ、グレンがぐっと口を噤む。呆気にとられるアズミに、グレンはぱちんとウインクして見せた。
「コレだ」
「何の事です? もう、貴方はわたくしを一体何だと思ってーー」
マシェリの言葉は、ブルーナ公国側で打ち上がった花火の音に遮られた。狩猟時間の終了を知らせる合図だ。
護衛が、深々と頭を下げる。
「お時間です。アズミ殿下」
「……ああ、今行く。少し待て」
アズミが一瞬で凛とした表情に変わる。あどけなかったお姫様はもうそこにはいない。
気高さを纏った、一人前の公女の姿がそこにあった。
「婚約披露パーティーに出席せず、大変失礼な事をした。ささやかながら、これは詫びのしるしだ。受け取ってくれ、マシェリ嬢」
「……! これは」
「ああ。ブルーナ公国のバターは一級品だからね、きっと美味いよ。ありがとうアズミ殿下」
「お前の分はない。ーーこれは、貴女だけに」
「ありがとうございます」
マシェリは、心からの感謝を伝えた。
(ブルーナ公国のお土産だったのね)
国境を越えてアズミから差し出されたのは、小さな薄紅色の包み。昨夜ルドルフに渡されたのと、全く同じものだった。
皇城に到着後、グレンは真っ直ぐ執務室へ向かい、水竜の卵を保護した旨を皇帝陛下に報告した。それにより、厳重になっていた国境の警備がまず解かれ、皇都に配備されていた捜索隊へも解散の伝令が出された。
ルドガーは卵を捕獲した功績を認められ、大臣達から城仕えの魔術師になるよう打診を受けた。しかしまだまだ未熟であり、見習いの身でもある事から丁重に断ったらしい。
イヌルはご褒美にフローラから皿いっぱいのスコーンを貰い、しっぽを振って喜んでいた。ちなみに、その時クルルにもしっかり分け前を与えており、食いしん坊が親分気質を発揮している、とサリエルは感心しきりだった。
皇帝陛下への報告後すぐ、ビビアンに「書類が溜まってますので」と執務室に引きずられて行ったグレンは、それきり戻って来ていない。
皆がいなくなった夕方、マシェリは一人、籠を手に三階の部屋へ向かった。
もう、足はぜんぜん痛くない。
(さて)
籠の野草を並べたテーブルを前に、マシェリが腕を組む。森から出る間際、急いで摘んだもので量は少ないが初めて見る種類のものばかりだ。
本をベッドに置き、青い実の付いた草を手に取る。ーーふと、壁の絵に目がとまった。
(……曲がってる?)
アディルに貰った花の油絵が、ほんの少し左に傾いている。マシェリは草を置き、絵をきちんと掛け直した。
「マシェリ様、お茶をお持ちいたしました」
叩扉に応じてドアを開くと、侍女のターシャが立っていた。
「ありがとう。ーー今日、アンの様子はどう?」
「すっかり元気ですよ。リズの倍くらいのスピードでハタキがけしてます」
「良かった。……首も、傷痕は残らないみたいだしホッとしたわ。ジムリ様は本当に名医ね」
ターシャが淹れた紅茶を一口含み、カップを皿に戻しながらマシェリが言う。ーー本音だった。
口は悪いが、治療も薬の処方も的確で隙がない。例え心中でも、禿げ爺などと罵るのはほどほどにしておこう、とマシェリは思った。
「ああ、そういえば。今日控え室を掃除していて、こんな物を見つけたんです。ご存知ではありませんか?マシェリ様」
片付けを終えたターシャがマシェリに取り出して見せたのは、見覚えのある金色の指輪だった。
ルシンキ公国の第三公女、メイサが持っていたものだ。
「メイサ殿下のものよ。……きっと忘れて行ったのね。あの時バタバタしていたから」
クロエの件もあり、パーティー後一度も顔を合わせる事なく、メイサはルシンキに帰って行った。カイヤニ大公と婚約したと聞いてはいたが、その後どうなったのかは分からない。
「どうしましょう。ビビアン様にお渡しした方が?」
「それならわたくしが預かっておくわ。ビビアン様、さっき忙しそうだったし。貴女もまだ仕事があるでしょう?」
受け取った指輪を仕舞い、ワゴンを引いて出て行くターシャを見送ると、入れ替わりにグレンが部屋に入って来た。
ノックは?とつっこむマシェリを無視し、ベッドへ倒れ込む。マシェリは慌てて、広げてあった本を脇へどかせた。
「つかれた……少し休ませて」
「ちょっ、ここは貴方の部屋じゃありませんわよ?」
「分かってる。でもここ、居心地がいいんだ……月が昇ったら起こして。図書館行くから」
「居心地、って……ご自分の部屋の方がよほど」
「あの部屋は寒いし寒い。それに寂しくて凍える」
「……」
色々と文法やら常識やらがおかしいが、疲れ切ってる事だけは見れば分かる。十四歳にも仕事は全く手加減なしのビビアンは、やっぱり腹の中も真っ黒だとマシェリは思う。
すぐ寝息を立て始めたグレンにショールを掛けてやり、マシェリは窓に視線を移した。
ーー日が沈みかけた空には、赤と青が混ざり合うように同居している。夜の帳が降りるまで、きっとそう長くはかからない。
(野草がわりに観察してみようかしら )
クスリと笑い、マシェリはベッドのグレンを見下ろした。




