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「マシェリ……」
グレンがマシェリを抱き締める。マシェリはグレンの背中に手を回し、バスローブをきゅっと掴んだ。
「……痛くないんですの? その、傷は」
「背中だけだ。それも鎮痛薬でだいぶおさまってる」
マシェリを離すと、グレンはバスローブを少しはだけて見せた。背中側の肩に数本、薔薇の棘で引っ掻いたような傷痕が残っている。
「これも月光を浴びれば治る。ーー本当は、湯浴み前に済ませたかったんだけど」
「……! ごめんなさい、わたくしったら余計な事を。もしかして……沁みました?」
「うん少し。たぶんあの薬草かな。ピリピリして、さすがの僕も長くは浸かれなかった」
「……」
どんよりの原因はそれか。
つい効能をよくばりすぎて、成分の強い薬草を使ってしまったのが裏目に出た。気まずくなったマシェリが、グレンから少し離れる。
しかしグレンは、その距離をじりっと詰めてきた。
「あ、あの……殿下?」
「ダメだよ。もう言い訳は聞かない。君は僕が約束を守る事を要求した。つまり、君は僕のことが」
「よ、よ、要求なんてしてません! わたくしはただ、殿下が約束を放棄するような事をおっしゃるから、無責任だと思っただけです!」
「ほらやっぱり。君は僕にちゃんと責任を果たしてほしかったんじゃないか」
「……っ!」
にやにやと嬉しそうなグレンの顔をキッと睨む。ーーもう、無理矢理にでもひん剥いて、薬草を追加した湯に放り込んでやろうか。
鎮痛薬もどこかに隠して、月光もどうにかして隠して……いや無理だ。月はでかいし、マシェリに魔法は使えない。
そうして唸ってる間に、ちゅっと唇を重ねられた。
軽く、羽のように触れるキス。
「さて、僕はテラスで傷を治してくる。君はその間に湯浴みでもしてくるといい。ベッドは右側が空いてるから」
にっと笑い、グレンがマシェリの頬に触れる。ーー次の瞬間、ばちーんと派手な音が廊下まで響いた。
駆け出しかけたレイドを、ちょうど戻って来たロイが押さえる。はずみで肘打ちにあったロイは、やっぱり報告は大事だとつくづく思い知るのだった。
翌日ーー
朝早く、神妙な顔つきをしたルドガーが皇城を訪れた。
昨日クルルが突き止めた水竜の卵の居場所が、少々厄介な場所だったらしい。サロンのテーブルに腰を下ろし、グレンとマシェリを前にしたルドガーが気まずげに頭を下げる。
「その、すいません。お二人の邪魔をしてしまって……怒ってます? よね」
「いいえ。これっぽっちも怒ってませんわ」
「僕だってご機嫌だが」
「で、でも……とてもそうとは。だって、殿下……その顔の赤い腫れはいったい……」
「ああ、これの事か?」
グレンが頰をさすりつつ、なぜか嬉しそうに目を細める。
「痴話喧嘩だ」
「……ちっ⁉︎」
ルドガーが目を丸くする。マシェリは片手で顔を覆うとため息を吐いた。
「満面の笑みでおっしゃらないで下さいませ。まったく……貴方ときたら」
昨夜ーーグレンがテラスで月光を浴びると、浮き出た翡翠色の鱗が剥がれ落ち、あっという間に背中の傷が消えた。水竜の血を引くグレンならではの、そんな便利な修復機能は、意識すれば修復する箇所を特定できるらしい。
見目麗しいこの皇子様は『マシェリと痴話喧嘩した』と言いたいがためだけに、あろうことかその便利機能を無駄遣いし、わざわざ頰の内出血を残したのだ。
もはや国の未来が心配になるレベルである。
「殿下の事は放ったらかしで大丈夫ですわ。それより、卵の反応はどこら辺にあったんですの?」
「ここから西の方角にある禁呪の森です。反応があったのはその森の奥、ブルーナ公国との国境ギリギリでした。水竜の卵に国境が理解できてるとは思えませんし、探すこちらも、万が一知らずに踏み込んでしまえば国際問題になりかねません」
「放ったらかしでいいとは酷いな。ーー分かった。だから僕が必要なんだな?」
「はい」
きっぱりと言い、ルドガーが頷く。
不測の事態が起きた時に備え、フランジア帝国の皇太子の後ろ盾が必要だということか。ぼけっとしてるように見えて、この男存外抜け目がない。
約束していた散策がわりに、マシェリも森へ同行させてもらえる事になった。準備を整え、待ち合わせ場所の噴水へ向かう。
ルドガーの隣に、本日一回目の黒い顔が見えた。
「気を付けて行ってらっしゃいませ」
「ああ、夕方までには戻る」
恭しく頭を垂れるビビアンに見送られ、下中庭にある厩舎へ向かう。グレンとマシェリが馬車へ乗り込むと、馭者をつとめるルドガーが馬に鞭を打った。
馬で後ろを付いて来る護衛の騎士二人とともに、城門の鎧戸をくぐって城を出る。
(六日ぶりの外! まあ、森の向こうに町が見えるわ)
木々の隙間から覗く赤や青、橙のカラフルな屋根を見て、マシェリの目が思わず輝く。方角からいって、あれはきっと皇都だ。先が細く尖って見える屋根はもしかしたら時計台だろうか?
窓に張り付き、つい夢中になって見ていると、背後からくっくっくっ、と笑う声がした。
「……何がおかしいんですの?」
「いや……君、よっぽど外に出たかったんだなと思って。今日やたら生き生きしてるし、目に殺気もあんまりないし」
「失礼な事を言わないでくださいませ。それじゃいつものわたくしが、殺気立った幽霊みたいじゃありませんか」
耐えきれず吹き出すグレンは捨て置き、マシェリは窓を開けると顔を出した。馬の手綱をにぎるルドガーが、気付いてちらと振り返る。
「森まではどのくらいで着くんですの?」
「四半刻くらいです。とばせばその半分くらいで行けますけど」
しれっと言う、ルドガーの横顔が本気だ。
「結構よ。昼食のサンドイッチが心配だもの」
道路の状態があまり良くなく、馬車はがたがたと揺れる。料理長が朝から腕をふるってくれたローストビーフのバゲットサンドに、フローラ特製のスコーン。急ぐ必要のない道をわざわざ急いで、籠の中身を台無しにしたくない。
禁呪の森は昼間でも薄暗く、鬱蒼と生い茂った草は、日当たりが不十分なのにどれも大きめで、成長著しい。
マシェリ達を乗せた馬車は、狭い森の道を慎重に入って行った。その後を、騎士二人が一列になって付いてくる。
「道の周りの木がまるでアーチみたいに……上もびっしり葉で覆われてますわ。だからこんなに道が暗いんですのね」
「ここに生えてるものは蔓植物が多いんだ。毒のある棘が付いてるものもあるから、あまり触らない方がいいよ、マシェリ」
毒、という言葉に、窓から出しかけた手をひっこめる。
「不法滞在の魔物も住んでるってもっぱらの噂だ。変わった植物なんかも多いらしいが、調子に乗ってふらふら遠くへ行かないように」
「……分かりました。でも」
「何?」
「殿下のその言い方……まるでわたくしのお父様みたいですわ」
マシェリは口を尖らせた。
ーー子どもの頃、伯爵家が経営する領地へ遊びに行った時、遠くへ行くなとしょっちゅう父に叱られたのを思い出す。
辺り一面、畑や果樹園しかない、のどかな土地なのにも関わらず、一人になる事を極端に禁じられていたのだ。
(あっ、でも……さすがに『父みたい』は失礼だったかしら?)
ハタと思い。グレンの顔をそろそろと覗き込む。
覗き込んで見てーーすぐさま後悔した。
「なるほど……女の子は父親みたいな人がタイプだって言うからね。てことはやっぱり、君は僕の事が」
顎をさすりながら、真剣な眼差しでふざけた事をのたまう皇子。頭痛がした。
「……それ、昨日からいったい何回言ってるんですか。それに、いつまで続けるつもりなんです?」
「ん? それはもちろん、君が素直になるまでだよ。マシェリ」
「ーーなりません」
いっそ『はい』と頷いて、楽になろうかと思わなくもない。だけどそれはきっと、今言ったら負けな気がした。




