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「新人、交代だ」


 階段を上ってきた、狐顔の近衛がぶっきらぼうに言う。廊下に立っていた近衛は、渋い顔で振り返った。


「ロイです。いいかげん、名前で呼んでいただけませんか? レイド殿」

「今日配属されて来たんだから、『新人』でいいだろう。細かいことを言うな。それより、異常はなかったか?」

「異常……」

「何かあったか?」


 一瞬考え込むロイに、レイドが鋭い眼差しを向ける。


「……いえ。特にはありません。しかしーーああ、もう。なんで僕なんですか? いくらこの階担当の近衛がパーティーで暴れて使い物にならなくなったと言ったって、他にいくらでも優秀な近衛がいたでしょうに……! 何でよりにもよって、二階担当の僕なんかに陛下のいらっしゃる三階警護のお鉢が回ってくるんです⁉︎」

「俺が知るか。上からの命令だろ。諦めてとっとと休憩行け」

「……はい」


 立てた親指でレイドに冷たくあしらわれ、ロイはしょぼんと項垂れた。そのまま階段を下りかけ、ふと立ち止まる。


「レイド殿」

「何だよ。まだ何か文句あるのか?」

「違います。……陛下のお客様ですが、黒髪に、緑色のヴェールを被った方です。失礼のないようお願いします」


 顔だけをレイドに向け、ロイが淡々と言う。

 レイドの休憩中に皇帝の客人が入れ替わったのだ。それはけっして『異常』などではないが、情報は共有すべきと思った。すれ違いにレイドが僅かでも動揺し、勘の鋭い客人に悟られる事のないように。


「ーー了解。任せとけ、()()


 胸を叩くレイドに手を上げれば、さっきより幾分気分が軽くなった。ーーそういえば、あれは言わなくて良かっただろうか?


(いやでも婚約者だし )


 夜の訪問など珍しくもないだろう。階段を下りて行きながら、ロイは大きな欠伸をした。






 ふわりと白く、あたたかな湯気が浴室を満たす。ほどよい温度のお湯が張られたバスタブには、冷えや筋肉痛改善に疲労回復など、様々な効果のある薬草が束ねて浸された。


「これで準備完了ですわ……!」


 腕まくりをしたマシェリが、やたらさわやかに言い放つ。ふぅ、と額の汗を拭う仕草はまるで、一仕事終えたあとの職人である。


「……大丈夫? マシェリ」

「もちろん大丈夫ですわよ、殿下。ただ今タオルを準備いたしますわ!」


 心配げにドアから覗き込む、この部屋の主にマシェリは満面の笑みで応えた。


(大丈夫……! 妹のサマリーの湯浴みなら、何度か手伝った事があるし、体だって、下を見なければ……いや、前? それとも目をつぶればいいのかしら? でもそれだと洗えない……!)


 ぶつぶつ言いながらタオルを着替えの籠に入れる。

 外開きのドアを開けると、麗しい笑みを浮かべたグレンが、ガウン姿で目の前に立っていた。慌てて、全開にしたドア側に避ける。


「入ってもいいかな? マシェリ」

「え?ーーあ、はい」


 促されるままドアを閉め、カチャリと鍵がかかる音を聞いたとたん、マシェリはハッと我に返った。ーーやられた!


 コンコンコンッ。

 連続でドアを小突く。ーーいや、叩扉する。


「ひどいですわ、締め出すなんて! 湯浴みのお手伝いをさせていただく約束をしたじゃありませんか。鍵を開けてくださいませ!」

「君はバスタブにお湯も張ったし、タオルも用意してくれただろう? もう十分だ。僕は十分満足した」

「それでも皇太子ですの? 満足の基準が低すぎます! 大体、背中のひとつやふたつ洗わせたって、減るものじゃないでしょう⁉︎」

「背中はひとつしかないし、僕の矜恃が間違いなくすり減る!」

「……っ」


 ドア越しの不毛な言い争いに、先に白旗を揚げたのはマシェリだった。これ以上言ったら、痴女と罵られそうである。


 マシェリは椅子に座り、落ち着こうと深呼吸した。ーーさて、どうしたものか。

 蒼竜石を持ち出したことで、グレンはおそらくルディから折檻を受けている。体にはその時できた傷があり、鎮痛薬で痛みをごまかしているはずだ。パーティーの時にやたら果実水を飲んでいたのも、きっと薬の副作用のせいだろう。

 せめて話してくれてたら、知っていたなら。体の痛みは代わってやれなくても、薬を塗ったり、傷が疼く時の看病くらいはしてやれたのに。

 マシェリは怒っていた。そのことを黙っているグレンにも、気付かなかった自分自身に対しても。


(もう、いっそのこと力尽くでひん剥いて、暴いてやろうかしら)


 淑女らしからぬ考えが脳裏をかすめたちょうどその時、浴室のドアが開いた。

 バスローブをはおったグレンが、やけにどんよりとした顔で立っている。濡れた黒髪から、ポタポタと滴が垂れていた。


「……マシェリ」

「は、はい?」


 手招きされ、椅子から立っていくと、グレンが手にしていたタオルを差し出してきた。


「昼間、お姫様抱っこし過ぎたせいで、腕が痛くて辛いんだ。責任とって、僕の代わりに髪を乾かしてくれない?」

「……はっ⁉︎ せ、責任って、そんなの」

「早く。風邪ひいちゃうでしょ」


 ん、とグレンが身をかがめてくる。

 タオルを手にしたマシェリの鼻先に、端正なグレンの顔が近付く。ええええ、とマシェリは視線をグレンとタオルの間で往復させた。


(な、何をそんなに照れる事が……ただタオルで水分を拭き取るだけでしょう。しっかりなさい……! )


 大型犬だとでも思えばいいのだ。そう、イヌルみたいな。


(これはイヌル、これはイヌル……)


 まじないのように呟きながら、マシェリはグレンの頭にタオルをふわっと被せ、ごしごしと両手で拭いた。


「マシェリ、ちゃんと見て拭いてよ」

「……拭いてますわ」

「そっぽ向いてるじゃないか。僕の方をちゃんと見て。しっかり乾かしてくれないと」

「ちょっ! あんまり近付かないでくださいませ。そのーーくっついちゃうじゃありませんか、色々と!」

「……湯浴みは手伝おうとしてたくせに?」

「そ、それは……っ」


 行動の多大なる矛盾を突かれ、マシェリはぐっと詰まった。


「マシェリ」


 タオルを使うマシェリの手を、グレンが掴む。

 床にパサリとタオルが落ちた。


「君、僕に何か隠し事してない?」

「……隠し事?」

「急に湯浴みを手伝うって言い出したり、髪だって……そんな無理してまで、一体何がやりたかったの?」

「む、無理ってそんな……わたくしは」

「だって、君は僕を好きじゃないだろう」


 マシェリの新緑色の瞳が見開く。黒曜石の瞳の奥に、ほの暗い光が揺れて見えた。 

 目を逸らすことも、否定もできない。


「……心配だったんです」


 ため息のように言葉が漏れた。


「何が?」

「貴方の体が。だって……陛下に黙って蒼竜石をーー」 

「こんなの、ただの自業自得だ。君が気にする事じゃない」

「殿下……!貴方、やっぱり」

「体の事なら大丈夫。僕は普通の人間じゃないし、月光を浴びさえすれば魔力で大抵のことは解決する。ーーだから」

「……っ。いい加減にしてくださいませ!」


 掴まれた手を振り解き、叫ぶ。グレンが、目を見開いてマシェリを見た。

 もう、我慢も限界だった。嫌われようが好かれようが、どう思われても構わない。ーーどうして全く、このひとは。ひとりで勝手に傷付いて、抱えようとしてしまうのか。


「わたくしがいつどこで、好きじゃないなんて言いました? そりゃ、キスも押し倒されるのも、全力でお断りいたしましたけども!」

「いや、今サクッととどめ刺されたけど。全力でお断りって。もう、好きな要素ゼロでしょこれ」

「そうですね。正直、無理矢理キスされた時は引きました」

「……いっそひと思いに殺してくれ」


 がくんと肩を落としたグレンが、片手で顔を覆った。


「……嫌です。だって、約束を果たしてもらえなくなるじゃありませんか」

「約束?」


 マシェリは足元からタオルを拾いあげると、戸惑うグレンの頭を優しく包んだ。


「わたくしを、一生かけて愛してくださるんでしょう?」


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