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結界に食い込んだヒールを抜きとれば、出来た窪みからヒビが広がっていく。
「もうひと突きで破れそうですわね。まるで孵化するひな鳥のよう」
『ヤ、ヤメロ‼︎』
頭の中に響く意外なほど焦った声に、あら、とマシェリの目が丸くなる。そういえば、押さえ付けられた左手首もじっとり汗ばんできているような。
「わたくし足には自信ありますの。一瞬で済みますからご安心下さいな」
慈悲深く、マシェリが淑女の笑みで言う。息を呑む気配と共に左手がふっと軽くなった。
もしやあきらめたのだろうか? 横向きに膝を抱え込んで構えていたマシェリは、体を少し起こして半透明の結界の外に目を凝らした。
「……!……!!」
(あれは……騎士かしら?姿も声もよく分からないけれど)
結界越しのぼんやりした人の動きに、そう思ったのが最後だった。側頭部に強い衝撃が走り、視界が回る。
そして、また左手を掴まれた。
『サア、祝福ヲヨコセ』
声とともに意識が遠ざかっていく。最後に頭をよぎったのはーーまたしても、あの日見た背中だった。
目を覚ますと、マシェリはベッドに寝かされていた。サイドテーブルのランプだけが灯された、薄暗い部屋。
首だけ動かして視線を巡らせて見れば、天蓋も、ベッドも、カーテンも。マシェリの部屋の調度ではない。すっきりしない頭の記憶とすり合わせ、ようやくここがどこか分かった。いや、一瞬で気付かされた。
椅子に腰掛けたままベッドに突っ伏して眠る、グレンの部屋ーーだと。
(……紋章!)
弾かれたように飛び起きて、バッと左手のひらを見る。新緑色の瞳を真ん丸にしていくら覗き込んでみても、あるのかないのか、マシェリには判別がつかない。焦れた。
「……っ、起きて下さいグレン!」
寝顔すら見目麗しい皇子様を、甘さの欠片もない声で呼び、肩を掴んで揺さぶる。
「紋章は……! 蒼竜石の祝福は無事でしたの⁉︎ あれが無くなってしまったら、わたくしはーー」
言いかけて、はたと言葉を切る。……わたくしは。
マシェリに、何を困る事があるのだろう。何故問い掛けているのだろう。まして、婚約破棄しようとしている相手に向かって。
(馬鹿ね……わたくし)
唇を噛み締めながら頭を垂れ、グレンの肩からそろそろと手をはなす。その手を、不意に掴まれた。
「! 殿下」
「……捕まえた」
甘い声に、びくんと肩が跳ねる。
ぱっちりと目を開いた麗しい顔が、横のままでマシェリをじっと見つめていた。
とたん、背中に冷や汗が浮かぶ。
「で、殿下……いつから、その……お目覚めに」
しどろもどろになりつつ、距離をとろうとするマシェリの手を、グレンはがっちり掴んで離さない。そのまま静かに起き上がると、マシェリに向かってにっこりと甘い笑みを向けた。だが、しかし。
(め、目がひとかけらも)
笑ってない。今すぐベッドから飛び降りて、裸足で逃げ出したくなった。だが、まるでそれを見越したように、グレンがすくっと立ち上がる。
「それはもう。『起きて下さいグレン』の辺りから」
「す、すいません。不敬な呼び方を」
「その事ならもう許してる。僕にとってはむしろ喜ばしい」
「そ、そ、それは……ありがとうございます? で、でもそれなら何に怒ってらっしゃるのかーーあっ、もしかして近衛を椅子で殴り倒した事ですか? でもあの時はそうするしか」
「そんな事はどうだっていい」
手を引き寄せられ、そのままグレンの胸に落ちる。強く抱き締められながら、グレンが夜会服のままな事に今さらながら気が付いた。
カーテンの隙間から射し込む、明るい日の光にも。
「パーティーは……終わってしまったのでしょうね」
「それもどうだっていい」
いや、それはどうでも良くないだろう。
目を見張り、顔をしかめるマシェリに気付いたグレンが、こほんと咳払いで言を改める。
「ーーごめん。ちゃんと話すから」
「お願いします。でないと気になってしまって。……ああ、気になると言えばもう二つほど聞きたい事が」
「祝福の事、だよね」
腕の力を緩めたグレンが、黒曜石の瞳でマシェリを真っ直ぐに見つめてくる。マシェリは体を震わせながら、喉をこくんと鳴らした。
「残念ながらーー」
「……!」
さっと顔が青ざめたのが自分で分かった。血の気が引く、顔面蒼白、脳裏に咄嗟に浮かんだ文字が、生易しく感じるほどの衝撃がマシェリを襲う。
思わずくらりときて、再びグレンの胸に倒れ込む。労るように肩を抱く、優しい皇子様は、マシェリの耳元で悪戯っぽくささやいた。
「君は僕から逃れられない運命らしい」
それはまるでーー甘い、甘い毒のように。




