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ひねもす  作者: 吉田淑子
2/2

後編


□□□□□□


僕が勝手に彼の母親だろうなと思い込んでいた写真は、やはり彼の母親だった。

「どうしてわかったんだい」

「だって、そっくりですもの」

僕はその写真を手に取った。明らかに仕立ての良い着物、上品な佇まい。髪の色まで彼にそっくりだった。

「その写真ね、僕は大嫌いで、でもなぜか捨てられずに押し入れに深くしまっていたのだけれど、夜の僕が決まって取り出すんだ」

「へえ……」

僕はその写真をしげしげと眺めた。えんぜんと微笑む母親に比べると、手を繋いで一緒に写っている幼い彼は青白い、こわばった顔をしている。

「笑えと言われたが、ちっとも笑えなかった。おまえは笑顔すら作れないのか、と母親にずいぶんなじられた」

「そんなに強く当たれば子供が怯えるのは当然でしょうに」

「そうだね。僕もそう思う。けれども、当時の僕はひどく気に病んだものだ。こんな簡単なことも出来ないのだから、いったい僕は当たり前の人間ではないのではないかとね」

写真を見ながら僕は思った。夜の彼が自分に似た人間を愛するのは、彼がナルシストであるからではなく、自分に似た母の面影を求めているからではないか。彼が女装を好むのは、母により近くありたいからではないか。写真の中の青白い彼は何も言わない。

「宮野くん、もういいね。しまうから返してくれ」

僕はずいぶんぼんやりしていたらしく、彼に声を掛けられるまで写真を見つめ続けて憚らなかった。

「あ、すみません」

「さて、日が沈む……」

彼は悲しそうだった。夕陽の赤い光が窓から差し込んで、彼の白い頬を照らした。僕は思う。たとえばこの昼と夜が混沌とした夕闇では、彼はどんな心持ちなのだろう。

「美智雄さん」

と、呼んだ。振り向いた彼ははじめぼんやりとしていたが、そのうち目が狂気の色に爛々と輝いていった。それは太陽の明るさと反比例するようだった。外国では気狂いのことを『ルナティック』と月に喩えて言うそうだが、彼もその『ルナティック』であるのかもしれない。

「外に出る」

彼はおもむろに立ち上がりそう言った。

「どこへ行くんです」

「きみには関係がない」

彼は身に着けていたシャツとズボンを脱ぎ去り、女物の簡単な着物を着て鏡に向かった。唇に紅をさす仕草は女以上に女らしい。

「それとも、きみも行く? おそろしい繁華街へ」

彼は鏡に向かったままだ。

「いいえ……」

「きみはまるで生真面目な中学生だな。きみは僕がきらい?」

僕は首を振った。それは鏡越しに彼にも見えていることだろう。

「では行こう、行こう。僕はね、きみのような小姓を連れて歩きたいと思っていたんだ」

彼はいとも簡単に僕の腕を掴み、まずなじみらしい酒場に案内した。彼は僕を男女様々の仲間に紹介したあと、狭い酒場のほうぼう巡って適当に目をつけた誰かの手を握ったり挙げ句口づけまでしてみせた。僕が他の連中から同じように絡まれるとすかさず、

「彼は僕の色小姓だから、きみたちは触っちゃいけない」

と言った。連中は彼の言う事はよく聞くようだった。彼の前に置かれたウイスキーの量はどんどん減っている。人格が違うとはいえ体質は同じだろう。彼は確か酒には強くないはずだが――心配は的中して、彼はとうとうひっくり返ってしまった。

「美智雄さん」

僕が呼んでもいらえがない。代わりに酒臭い息で僕に口づけた。そしてにやりと笑った――僕は写真の彼の母親を思い出した。あの母親もきっと、こんなふうに媚びたように笑うだろう。

彼のその笑顔を合図に、どうやら乱交が始まった。僕はまるでショウを見るように部外者の顔でそれを眺めていた。初めて見た万華鏡よりもパノラマよりもそれは僕には感動的だった。彼の脚がふと増えて、それは誰か知らない人間の脚だと知る。狭い酒場のほうぼうにいろんな類いの変態がいたけれど、僕はすがるみたいに美智雄さんばかりを見ていた。昼には不健康な肌色は夜には輝いて見えた。僕はそれを見るにつけ、だんだん夜の彼こそが真実の美智雄さんなのではないかしらと思い始めた。彼に似合うのは、昼間の眩しい光ではなく、夜の淡い光ではないか。もっと言えば、この人工の味気ない電球の光ではないか。


翌日、美智雄さんが朝から青い顔をして大学に行くのを見た。

「美智雄さん、平気なんですか、からだは」

声を掛けると、彼は恥ずかしそうに早口で、

「別になんともない」

と言った。僕の目をまともに見れないらしい彼の蒼白な面は、僕の密かな加虐心を満たした。

それからは僕は昼間に彼と会うことは滅多になくなった。代わりに夜の彼はしょっちゅう僕を連れて夜の繁華街へ出かける。酒場、ダンスホール、ショーパブ、どこにだって彼の知り合いはいた。僕は少年らしい無邪気さで彼を慕った。大人の遊びを知っている彼が、とてもとても大人に見えたのだ。彼は相変わらずときどき他人の血を見ては、もっとやれ!とはやし立てるような残虐だったけれど、僕には優しかった。僕は彼がたまらなく好きになってしまった。

ところがある日、彼がいなくなった。彼なしで娯楽の満たされないようになっていた僕は居ても立ってもいられず、彼の部屋を訪ねた。まだ明るいが、構うもんか。主は現れなかったが戸は不用心にも開いたので中に入る。すると、僕宛てにと名前が書いた手紙を見つけた。以下内容。

『僕はどうやら気違いなので、自分で腦病院に入ることにする。あそこならば夜の彼もどうしようもないだろう。きみともこれを機に縁を切る。よしなに。 美智雄』

少し神経質そうな細い右上がりの文字がときどきふるえていた。腦病院!あのおそろしいキチガイばかり寄せ集めた牢獄!彼とてそんなところはおそろしいに決まっている。しかし彼には、それ以上に夜の彼がおそろしかったのだ。

僕は怒りに青ざめた。彼を、美智雄さんを、夜の彼をキチガイ扱いして奪っていった彼が許せなかった。彼は人より少し愛に飢えているだけだ。僕は短刀ひとつを懐に入れ、タクシーを止め、もっとも近い腦病院へと向かった。ものものしい看板が見えて、どうやらたどり着いたようだった。昼だというのにひどく暗い。獣のような声は、たぶん人間のものだ。

「神戸美智雄に面会を」

灰色の顔の看護婦に告げた。彼女は何も言わず、黙って紙を差し出した。三〇五号室――神戸という名字はあまり聞かないから同名ではないだろう。彼がいる!

「ありがとう」

三〇五号室はずいぶん遠くに思えた。みちみち、様々の狂気をはらんだ瞳にぶつかった気がした。空気さえ重苦しく、患者の思考にならない思考というものに支配されていた。一歩、二歩。三〇三、三〇四……

――三〇五号室。

檻に閉じ込められた彼はこちらに気付いていない。狂人の部屋に閉じ込められているくせに、相変わらず聖人のように理知的な、ま白い顔をして本を読んでいた。牢屋の中のジャン・ヴァルジャンも最初はこんな顔をしていたに違いない。僕はそれをしばらく眺めてから、声を掛けた。彼が驚いて顔を上げる。

「きみは……」

「会いにきましたよ、あなたに」

「僕はきみとは縁を切ると書いたはずだね」

彼は本を閉じて、一度見たきり僕の方を見ようとせず、ずっとまっすぐ前を見据えていた。まだ明るい。昼間の彼だ。

「美智雄さん、僕は短刀を持っているんですよ」

「僕を殺すつもりか。いいだろう」

彼は立ち上がり、格子の間から手を出した。

「切り落とされても構わない」

僕は頷き、短刀を彼の腕に当てたが、それはポーズでしかなかった。僕はすぐに自分の首に短刀を当て、喉をまっすぐ突いた。

『きみだけはきみを傷つけてはいけないよ……』

彼の声を覚えている。約束を破って、こうやって自分を傷つけるのがいちばん彼には効くと思ったのだ。案の定彼は檻の中でひどく狼狽した様子だった。せいぜい嘆くと良い。あなたは人を傷つけることしかしないのだと思い知ると良い。

そして僕はどうにか助かり、彼は悲嘆に暮れて自殺してしまった。悲嘆に暮れたのだから死んだのは昼の彼だろう。

彼の最期――女の着物にきちんと化粧をして血まみれになっている姿――それは夜の彼そのものだった。その血だまりの中に、彼の母親の写真があり、彼が最後までそれを眺めていたと知れた。「きっと次はかわいい子供に生まれて、母に愛され、正しく日本男児として生きたい」いつか夜の彼がそう言っていたことを思い出す。昼の彼の憂いを帯びた瞳も。


昼も夜も――彼は愛に飢えていたのだ。僕は気付かなかった。ひねもす彼は同じ人間であった。美智雄さんにはもう会えない。

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