前編
彼は二人いるらしい。昼間はとてもやさしく優秀な先輩。夜は倒錯趣味の変態。彼は昼と夜で、こころを交換しているのだ。
そんな彼は僕が好きだと言う。きみがいちばんかわいいと言う。
「きみは優秀でかしこいね。きみを連れていると、実に羨ましがられるよ」
「君は僕に似ているから、いっとう好きだ。僕の少年の頃を見ているようだ」
そういう理由で、昼も夜も僕を愛した。しかし、昼間の彼はともかく、夜の彼は当たり前の人間のような普通の友情も愛情も持ち合わせていなかった。持ち合わせているのは虚言癖くらいだった。彼の僕に対する愛情の言葉はすべてすべて虚言だ。性質が悪いのは、その場ではまったくその気になっているらしい事、誠実に言葉を選んでいるらしい事だ。彼は虚言癖というより、虚気癖とでも言いたいような性分だった。
彼は自分に興味を持った人間とは片っ端から付き合いを持つ。ある種の異常な人間というのは、時におそろしく魅力的なものだけれど、彼もその種類の人間で、彼のシンパは枚挙に暇がない。「神戸美智雄は魔法使いだ」そんな噂が流れたのも道理だった。
「彼は宗教家の器だね」と誰かが言った。魅力で言えばそうかもしれない。しかし、彼がなんの野心もないことは僕がよく知っている。彼はとんだ臆病者で、僕が彼によって少しでも傷つくと泣いて謝ったりする。僕が少し意地悪をして、名前を呼んでやらないと、途端に不安げに眉を寄せる。夜も昼もだ。彼は不遇の少年時代を過ごし、他人の傷にも自分の傷にも敏感なようだった。ひどい繊細のこの人が宗教家などというひとかどの詐欺師になどなれるものだろうか。
彼と僕は同じボロ家に下宿していたが、一応それなりに仕切りがあって、彼とそこで顔を合わせるのは稀だった。
しかしその日はたまたま、彼の部屋に女が入っていくのを見た。僕は特に感慨もない。まだ昼だ、さては強引に入り込まれたか、と思ったくらいだ。昼の彼は女性に対して特に臆病でろくに気の利いたことも言えないのだから。しかし優秀で金持ちの男を女は放っておかない。
女か!僕はちっとも悔しくなどないが、なにか腑に落ちない心持ちがしたので、女のじゃまをしてやろうと思った。女の顔もよく見たかった。何も知らないふりでドアをたたく。「美智雄さん。美智雄さん、ちょっとよろしいですか」用はなんて事はない。講義のノートを借りたかっただけだ。いや、それすら本当はいらないのだけれど。
すると、案外すぐに戸が開いた。「きみか。どうしたね」まだ夕方だ。彼はまだ明るい、昼の顔をしている……と思ったが、少し違和感があった。
「今日の講義のノートを借りたいのですけれど」
「待っていたまえ」
彼は後ろを向いて、学生鞄をあさっているようだった。女は見当たらない。はて、この狭い部屋のどこに女を隠したのかしら。
「美智雄さん」
「はい、今日のぶんすべてだ。きみは先輩のノートまで見て、非常に熱心だね」
「はあ」
なんだか拍子抜けしてしまった。見間違いだったのだろうか。
「美智雄さん」
ある事に気付いて、僕は彼を呼んだ。
「なんだい」
「美智雄さん、あなた――」
唇に紅をひいている――僕はこれだけのことを言い出せずうつむいた。「きみはへんな子だね」と彼は言った。
僕は部屋に舞い戻った。動悸がする。それこそ、こんなことくらいで頭全部が心臓に代わったみたいにドクドクいっていた。寝転がって本の続きを読もうとしても、手がふるえてやまない。
なにがこんなにもおそろしいのか?たとえば彼の部屋に入った女は彼自身であったこと、変装が取れ切らず、僕の前に紅をさらしたこと。これ自体は僕は彼の倒錯趣味はよくご存じだから構わない。しかし――
僕は古すぎてガタガタ鳴る窓を見上げる。日差しが差し込む。そう、空はまだ明るいじゃないか。まだ夜ではない。彼は、ナルシストの甘えん坊の倒錯癖の彼は、決して昼には現れなかった。
一般に多重人格というものは、別の人格の記憶を擁しないものらしいが、彼はしっかりとお互いの記憶を共有していたから、本来多重人格とは呼べないものなのかもしれない。
彼は夜になると、寂しいのだと言う。抱いてほしいと言う。「僕は母に愛されなかったから、きみにばかりは愛されたい」と、いかにも子供じみて言う。白粉も口紅も厭わない。その様子がいかにもあわれで、本来人間の持つ弱き者を助く心に強く訴えかけるものだから、彼は誰にも著しく庇護されるのだ。
しかし彼の悪いところは、生まれたての赤ん坊のように、その愛される技術を誰しもにも利用することだった。昼間の彼は、とかげのように人を見れば逃げるような臆病な性質だから、昼も夜も愛されているのは僕だけということになるだろう。
「目の前で血まみれの人がふたり倒れていたんだよ」昼間の彼が、いかにもおそろしいものを見たように呟いた。「確かに覚えている――僕は僕のかわいがる人間二人にたまたま遭遇してしまった。どちらの手を取るんだと言われて――それで、怖くって、僕はどうせなら強い人に庇護されたい。きみたち二人で、強いほうの手を取る、と言った。僕は――僕はどうしてこんな事を言ってしまうのかわからん。自分でも。しかし夜には、こんな傲慢な言葉も、金魚を掬うみたいにヒョイと出てしまうんだね。それで――気付いたら二人が血まみれで倒れていた」彼はだいぶん興奮していて、内容があまりにとりとめなく続いたので、内容は要約した。
昼間の彼は、夜の自分は鬼であると言っていた。
「夜の僕は変態趣味を持っていて、血を見るのが好きで堪らないんだ。なぜだろうね、夜になるとそう思うんだ。よくよく懐にナイフを忍ばせては、僕を愛する人に自分の喉笛を突けと命令する。――不思議なのは、そんなむちゃくちゃを実行する輩がいることだ。僕はそういった瞬間俄かにいつもの僕に戻って、おろおろする」
彼は、自分が血を流しているみたいに青ざめていた。
「だからきみ、大切なきみにだけは特に言っておこう。僕が何を言っても、きみはきみを傷つけてはいけないよ」
「美智雄さんは僕には優しいでしょう。昼も夜も」
「そうとも。僕はきみには優しくしている。しかしね――夜の僕はわからない。なんでもいいんだ。きっと。僕を深く深く愛してくれるならなんだって誰だって。それにね」
彼はいよいよ疲れたように息を吐いた。
「夜は僕を侵蝕している。確実に僕が僕でいる時間が短くなっている」
その時、彼の声が別人に聞こえてゾッとする。彼は不意に僕を抱きしめた。腕がふるえている。
「どうか僕を哀れと思うなら、言う事を聞いておくれね。きっとだ」
彼のふるえる声をまったく目の前で聞いて、いよいよ僕もおそろしくなった。僕は夜の彼も刺激的で嫌いではないが、彼はたやすく他人の生を破壊する。彼が怖がるのもよくわかる。彼は、彼自身すらもいずれ破壊するだろう。
「美智雄さん、安心してください。僕は昼のあなたの味方ですよ。あなたの言う事を聞きますよ」
僕はそう言った。
しかし、僕は昼間見たあの唇の紅が忘れられないのだった。今はまだ明るいが、ここにいる美智雄さんは、はたしてどちらなのかしら――