第59話
何かと何かがぶつかる、強い音がする。蔦が当たったのかと思ったが、衝撃や痛さを全く感じない。全く、何も…。思わず目を開けると、正にその瞬間、目の前にいる人物が倒れていくところだった。一瞬、何が起こったのか分からなかった。ただ、流れる時が異様に遅い。ほんの一瞬のはずの時間がとても長い。目の前で起こる出来事が、何故か非常にゆっくりと進んでいる。それなのに、全くわたしはそれに反応できなかった。倒れそうになっているゼンを、どうにかして支えなければ。そう思うのに、上手く体が動かない。これほど時間がゆっくりならば、簡単にどうにかできるはずなのに。ちゃんと、手を伸ばせるはず。それなのに…、何も、できない。きっと、本当はほんの短い時間だったのだろう。わたしが自由に動けるようになった時には、既にわたしのすぐ傍にゼンが倒れていて……。その近くで、蔦が蠢く。それを見て、ようやく気付いた。わたしは、ゼンに庇われたのだと。わたしがさっき目を閉じる直前に見えたあの綺麗な藍色は、ゼンの瞳の色だったんだ…。わたしは…、どうして……。頭が上手く働かない。上手く言葉が出てこない。それでもどうにかゼンに声をかけた。
「ゼン…。どう、して。何で…。いつも、わたしは、迷惑をかけているのに…っ。それなのに、どうして…」
どうして…、あなたはいつもわたしを助けてくれるの?危険を顧みずに。だが、その言葉は声にならなかった。それに、これは今に始まったことではなかった。数年前、最初に会った時からそうだった。協会に取り付けられている魔法仕掛けを発動させてしまった時から…。ずっと、そうだった。わたしは、どうして守られてばかりなのだろう。そんな思いが頭の中をぐるぐると回る。けれど、誰も何も答えてはくれない。ゼンは気を失っているようだった。どうすれば、いいのだろう。安全な場所に連れて行きたいけど、ここにはそんな場所は一つも存在しない。未だにあちこちで蔦が動いている。そのうちの一本が、こちらに近付いてくる。魔法の花はあちこちに散らばっていて、取りに行っている間にやられてしまう可能性が高い。普通なら、魔法の花がなければ魔法は使えない。使えない、はずだった。それなのに、わたしがぼんやりとした頭のまま、ほぼ無意識に手を軽く振った、その瞬間。
突然、その手の先に緋色の炎が生まれ、辺りの蔦を焼き尽くした。
その後も炎は音を立てて燃え続けた。何故かわたしは、魔法の花がなくても魔法が使えていた。けれど、その意味を深く考えなかった。取りあえず、蔦を燃やさなければならない。そんな衝動に駆られていた。ゼンを傷付けた蔦が、何もできなかった自分が、非常に腹立たしくて…、許せなかった。ゼンの前に出て、再び手を振り上げた。それと同時に先ほどよりも大きな炎が現れる。まるで、感情の大きさに比例しているかのように。手を蔦の方に向けると、先ほどの炎でも生き残っていた蔦が一気に燃え上がる。蔦が全体に広がっていたため、それに引火した炎は海のようになり、一面の緋色の世界を作り出す。熱風が吹きつけ、非常に暑い。それでもわたしは止めなかった。――止められなかった。恐らく、もう一回魔法を使えばこの部屋は全部燃え尽きてしまうだろう。下手したら、わたしごと燃えてしまうかもしれない。炎の奥にいるユリアさんが、怯えたような目でわたしを見る。後ろで誰かの声がしたような…気がした。間近で言われているはずなのに、ぼんやりとしていて何も言葉を聞きとれない。誰か、とても大切な人の、声のはずなのに。不意に前に伸ばした手を誰かに掴まれた。そこだけがひんやりと冷たく感じる。それと同時に、声が再び聞こえた。先ほどよりも明瞭に…。
「……シカ!これ以上は………っ!!」
ああ、この声は。誰なのか、分かっていくのと同時に自分の中の炎がゆっくりと鎮まっていく気がした。まるで、氷で冷やされたように。それと同時に周りの炎も少しずつ弱まっていく。それと同時に伸ばしていた手ごと誰かに抱きしめられた。そして…耳元で、その人は――ゼンはそっと言った。
「大丈夫だよ」
不思議なことに、その言葉だけで何故か安心した。何かに怯えていた気持ちがどこかへと消えていく。一体、何を怖がっていたのかは分からない。もしかしたらそれは、制御できない自分自身だったのかもしれない。ゼンはいつの間にか起きていて、一見何ともないように見える。大丈夫…なのかな。辺りの炎はしっかりと鎮火していて、後にはただ白い煙だけが漂っている。その白く濁る部屋の先でユリアさんはふらりと座り込んだ。その顔は青ざめている。…これ、絶対にわたしが怖がらせたよね…。わたしはついさっきまでそこにあった炎を思い出す。…どうしてわたし、あんなに大規模な魔法を使えたんだろう?あれほどの炎を出せる量の花はなかったはずで…。しかも、あの時のわたしは自分で自分をコントロールできていなかったような、そんな気がする。もしもゼンに止められていなかったら、きっとわたしは…。そう考えるとぞっとした。それに、わたしだけでなくユリアさんやゼンを怪我させていたかもしれない。だが、取りあえず今はユリアさんに謝らないと。先に攻撃してきたのは向こうだけど、こちらがやりすぎたのも事実だし。そう思ったわたしは頭を下げ、
「ユリアさん、危ない目に遭わせてしまってごめんなさい!!」
と謝った。…だが、しばらく経っても返事が来ない。代わりにゼンがわたしの肩を軽く叩いて、「もう顔あげたら?」と言う。なので顔をあげると、目の前のユリアさんは非常に怪訝そうにわたしを見ていた。…??その反応に逆に戸惑っていると、ユリアさんは、
「何で最初に利用しようとしていたあたしに謝るのかさっぱり理解できない…。確かに危なかったけど、別にそこまで気にしてないし。むしろ、こっちが錯乱してあの事態を招いたんだから、謝るのはあたしの方じゃない?……悪かったわね」
ユリアさんはそう謝った。彼女の周りにあった、砦のような蔦はいつの間にか消えている。周りにその破片が散らばってはいるが…。ユリアさんはその後で、ゼンの方を向く。
「貴方にも攻撃を…。話を聞かずに…、魔法を使ってしまってごめんなさい。その本…、何が書いてあるのか教えてくれないかな?」
その瞳は何かを期待しているようだったが、表情は少しこわばっている。だが、ゼンは彼女を安心させるように優しく微笑み、地面に落ちていた本を拾い上げ、ページをめくる。
「この本は、初代協会長が遺した日記を知り合いの魔法使いがまとめたものなんだって。これによると…、初代は、君とのその契約を覆すために一生を費やしたそうだよ。来る日も来る日も、寝る間を惜しんで。そして、見つけたんだ、その方法を」
だから、彼はためらいなくその方法を試した。…その代償に、彼はユリアに関する記憶を失ってしまった。だから、彼女の元に行くことができなかった…。
「だからね、君への契約は既に切れているはずなんだ。たぶん、この正方形を壊せば完全に消えると思うんだけど。これが契約の証なんだよね?」
ゼンが最後にそう尋ねると、ユリアさんはうなずいた。そして、その本の表紙をそっと撫でる。蔦は二人を結ぶ象徴なのかもしれない。けれどそれは同時に、ユリアさんをここにとどめるものでもあった。ユリアさんは一つ微笑み、どこかへと歩き出した。向かう先は、ゼンが壊した壁の向こう。ついていくと、そこにもう一つ正方形があった。ユリアさんは本と壁の正方形を横に並べ、手をかざした。その瞬間、二つの正方形は音を立てて二つに割れた。
「……さよなら」
ユリアさんは最後に、寂しそうにそうつぶやいた。
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