記憶喪失の僕が本当に失ったもの
考え事をする時間が有り余っている。一日中考えて考えて、何も浮かばなくなり、頭痛がするほど疲れてしまった。それでもあまりに退屈で、代り映えのない景色を一つ一つ取り上げていく。リクライニングベッドのおかげで上体を起こせるのが小さな幸せだ。そうじゃなければ天井を眺め続けることになっていた。
クリーム色、というのだろうか。どこかあたたかみを感じる壁と、光沢のある白い床。ベッドは僕のを含めて四つ。二つずつ横並びになって、足が中央へ向かい合うように置かれている。それらを仕切るカーテンも壁と似た色をしている。
一昔前の白くて殺風景な病室とは大違いだ――そんな風に思っていたが、四日も経てばもう感動はしなくなっていた。そのくせよそよそしさは健在で、いつまで経っても心が休まらない。
これがもし貸切状態だったらまた違うのだろうか。そんなことを思いながら、はす向かいのベッドへ目を向ける。通路側のそこには目も耳も悪いお婆さんが入院している。唯一の同室人だ。今はカーテンを閉めきり昼寝をしているようだが、起きているとどうにも気が散る。何を言っているか分からないほど小声でもごもご言い続けているし、医者や看護師と会話する時は耳を塞ぎたくなるほど大きな声で何度も何度もしゃべったり……。少し、いや、かなり鬱陶しい。
一般病棟でこれだから精神病棟はもっと酷い有様だろう。自然と窓の方へ視線が動く。窓の向こうにその病棟があるらしい。けれど角度が悪く、赤くなりはじめの空が見えるだけだ。ここは五階と聞いている。もしかしたら隣の病棟はもっと低い建物なのかもしれない。ベッドから降り立って、窓を見れば全て解決する。しかしそれもできない。
自覚した途端に足が、胸が、腕が、頭が痛む。波のように押し寄せてくる痛みをじっと堪える。痛み止めなんて本当に効いているのだろうか。疑わしい。
じりじりと夏の日差しのような痛みに目を瞑っていると、鋭敏になった聴覚が近づいてくる足音を聞きつけた。
「失礼します。西畑さん、点滴の交換をしましょう」
声を聞いただけで痛みが和らいだ、気がする。
病室へ入ってきたのは色白で化粧っ気のない顔と、長い三つ編みをお団子にまとめたヘアスタイルが印象的な美人看護師だ。淡いピンクの服も彼女の雰囲気によく合っている。今どきの病院は色彩に気を配ることで患者を和ませているのだと、ほかならぬ彼女が教えてくれた。
「はい。カーテン動かします」
通路や他のベッドからも隠れるようにカーテンが視界を覆う。窓側だけ閉めなかったのはそちらから人目を気にする必要がないからだろう。
「隣、座ってもいいかな?」
入室時の義務的な口調から一転、彼女は親し気に話しかけてくる。僕が小さく頷くとベッドに腰かけ、膝を抱えた。こうすると通路から足が見えなくなるので完全に隠れられるらしい。半分サボりでここへ来ているようなものだが注意はしない。僕らにとっては確保しなくてはならない大事な時間だからだ。
「じゃあ、自由に話してみて」
促されるままに語る。
「僕は西畑 弘明。大学生。一人っ子で父親が他界している」
ざらついた低い声に自分が驚く。入院してからというもの、たまにしか声を出さないせいで話し始めはいつもこうだ。咳ばらいをしてから話を続ける。
「君は小松 奈々子。同い年の23歳で新人看護師。……僕の幼馴染」
彼女がしっかりと頷いて見せた。けれど僕には自信がない。与えられた設定をただ読み上げている気分だ。他人事にしか感じなくて、それがどうしようもなく悲しかった。
「廃墟探索が趣味の僕は五日前、この近くの廃病院を一人で歩き回っていたところ何らかの事故に遭う。それから、気付いたらここに……」
「うん」
「それで……右腕と両足骨折。左腕は打撲。あばらもひびが入っているらしくて絶対安静。あとは……記憶喪失」
記憶喪失。口に出すたび気が滅入る。病院で目覚めた日を境に、それより昔の記憶がきれいさっぱりなくなってしまった。今言ったことだって見知らぬ幼馴染が何度も根気よく説明してくれたことだ。本当に何も思い出せない。
そんな僕に彼女はとても優しく接してくれる。
「目が覚めてからのこと、ちゃんと覚えているんだね」
「頭の中が真っ白だから、新しい記憶の方が思い出しやすいんだ」
僕のくだけた口調は彼女に合わせて無理をしている。他人行儀な振る舞いをすると悲しそうな顔をされてしまう。色白の彼女が表情を暗くすると、看護師なのに病人に見えてしまうのだ。それでは仕事に支障をきたす。だから僕はたどたどしくも彼女との距離を縮めている。きっと彼女も無理をしているに違いない。会話はいつもぎこちなく、一つの話題から話が広がらなくて沈黙を挟んでから次の話をする。
「事故の時の……廃病院で何があったか思いだせた?」
「何も……」
「第一発見者が私だったんだけど、私の呼びかける声とかも聞いてない?」
「そうなのか?」
初耳だった。彼女は病院に運び込まれた時のことと、思い出話を少しずつ教えてくれる。僕の負担にならないようにする配慮だろうけど、それにしたってもっと早く教えてくれてもいいじゃないか。
まあ僕が完全に思い出したって証明にもなるから、今まで言わなかったのかもしれない。そう、思い出せない僕が悪いんだ。
「びっくりしたよ。あっくんを見つけた時」
僕から顔を背け、自身の膝へ視線を落とす。膝を抱えている腕にぎゅっと力が込められた。
「すごくドキドキした。なんでこんな所に? どうして? って。……意識はないのに心臓だけはちゃんと動いてて、生きてるんだって嬉しくなったり、死んじゃったらどうしようって悲しくなったり、もっと一緒にいたくて、一緒に遊びたくて、それで、それで――!」
ハッとしたように目を開き、口をつぐむ。感情のままにしゃべっていたと自覚したらしい。膝に顔をうずめ、とにかくびっくりした、と言葉を繰り返す。
「あの、質問、しても大丈夫?」
僕は慰め方が分からず、話を進める。すぐに彼女は顔を上げて頷く。平気と言わんばかりに口角を持ち上げてみせた。
僕らは大きな傷口を見ないようにすることで、幼馴染の関係を辛うじて続けている。互いが互いを思いやって目を背けている。
「奈々子さん――……奈々子はどうして廃病院に? 僕と一緒に来たわけじゃないの?」
「ううん。一緒じゃないよ。あそこはね、つい最近まで使われていたの。ちょっと変な言い方かもしれないけれど、比較的新しい廃墟。っていうかこの病院の旧病棟で、私の元職場なんです」
「移転、したのか」どうりでここが綺麗な病室だと思った。
「そう、建物の老朽化って奴だね。そこそこ大きい病院だし、お引越しは大変だったなぁ。その時に大事な物を失くしちゃってさ、それでこっそり探してたの」
なるほど。内部の人間なら侵入も簡単だろう。廃病院の方は近いうちに取り壊されてしまうので、その前に回収したかったというわけだ。
「探し物は見つかったのか?」
「うん。見つかったよ。次に会った時に見せるね。きっと驚くと思うよ。ショック療法になっちゃったりして?」
驚けるといいけど。と、言いかけてぐっと堪える。意識してないとついネガティブな物言いになってしまう。間を置いてから、楽しみにしていると返事をした。彼女も笑顔で頷いてから、僕の顔を見つめる。
「事件の話はここまでにしよっか。思い出話とか聞く?」
やや強引な話題転換。僕にかかる負担を見極めてくれる、看護師としては未熟だけど暖かい優しさが身に沁みた。
彼女の真似をするように頷き返してから質問を考える。小学校時代からの幼馴染らしいので、その辺りに関係しそうな話を聞こうか。
「あ、そうだ。なんで僕をあっくんって呼ぶの?」
僕の名前は西畑 弘明。一応『あ』はあるけれど、なんでそこから取ったのか疑問だった。もしかしたら名前とは全然関係ない出来事にちなんでいるかもしれない。
「変、かな? 変だと思う?」
「まあ、少しだけ」
何がおかしいのかそこで彼女は笑った。
「あっくん、自業自得だね」
「何が? 何で?」
「小さい頃、私の事を小松菜って呼んだり、ツナって呼んだりするからさ、仕返しに変なあだ名つけちゃえーって」
「それで、あっくん?」
「うん」
「変は変だけど仕返しになっているのか?」
「今、あっくんが変って思ったんなら、それで充分仕返しになったよ」
彼女の精一杯の悪意がそれか。可愛いもんだ。
まったく聞き覚えのないエピソードだけど懐かしく思いたい。他の誰かに指摘されたら僕が説明してやるんだ。きっと二人で笑い合える。
「さてと……。さぼりすぎちゃってるし、点滴交換したら行くね」
「ああ、うん。って、手ぶらじゃないか」
「ここにあるよー」
彼女はベッドから降りると枕元にある棚の前でしゃがんだ。そこには僕の私物や小型のテレビと冷蔵庫が置かれている。冷蔵庫の開閉音がして、立ち上がった彼女の手には点滴パックがあった。
「おいおい、そんなところに置いていいのかよ?」僕は冷蔵庫を使えないからいいけどさ。
「いいの。おまじないをかけたかったし」
言うが早いか黒いペンを取り出すと、大きなハートマークを点滴パックに描く。点滴の中身は赤い液体。な、なんという恥ずかしいことを! そんなの他の看護師とかに見られたくない。
しかし僕がどれだけ抗議しようと無駄だ。彼女は手際よく僕の左腕と繋がっていた点滴パックから針を引き抜き、新しいパックへ差し込む。パックが吊るされると管の中の液体が色変わりするように動いていく。元々僕に繋がっていた透明な黄色い点滴はまだ残っていたが、完全になくなる前に交換するのもありなのか。
「合理的だよな。最初は点滴の交換をするたびに針を刺されると思っていた」
「なるべく患者さんの負担を減らす為だね。私だって何回も注射されるの嫌だなぁ」
「注射するのは好きなのか」
「うん。もっと上手になりたいし」
楽しそうに笑いながらも真面目な顔つきだ。手元でツマミを調節し、パックの近くにある透明なカプセル型の部分を見つめている。そこでは雫がぽたぽたと滴り落ちており、手元のツマミが動くたびに落下速度が変わった。なんとなく彼女を見つめていたら、ちらりと視線が投げかけられ思わず目を逸らす。
「そんなに見られると緊張しちゃうよ」
「ごめん、つい……」
「謝るほどじゃないよ。それよりも点滴を早く終わらせようとして、このツマミとか触っちゃだめだからね。適切な速度っていうのがあるんだから」
「言われなくてもこんな腕じゃ届かないよ」
実際トイレも風呂もしておらず、寝たきりのままだ。僕が忘れていると判明しているのは自分の記憶に関することだけだが、常識とかも忘れていたらと不安になる。はたして日常生活をちゃんと送れるのだろうか。
「これでよし、と」
そんなことを考えているうちに、処置を終えた彼女はこちらへ向き直る。何か言いたげで、けれど何も言ってこない。僕と同じく話し足りないのだろう。それでも彼女は勤務中なのだから、そろそろ自重すべきだ。
「今日も……来てくれてありがとう」
「また……来るからね」
「ありがとう。待ってる」
使用済みの点滴パックを手に、彼女は立ち去る。もうじき夜になるのでいつものようにカーテンも閉めてもらった。狭まった世界で僕は目を閉じる。
深いため息が一つ。今日もまた何も思い出せなかった。せっかく色々話してもらったというのに……。
「奈々子……」
名前を口に出してみる。僕の幼馴染……けれど本当にただの幼馴染という関係で済ませていいのだろうか。もっと特別で、もっと親密な……。
僕は大学生で奈々子は看護師。しかも実家は飛行機を利用するくらいの距離にあるという。僕らは二人で新天地にいるのだ。何か意味を見出したくもなる。
それについて僕は踏み込めずにいて、奈々子も語らないままだ。もしも恋人だったり将来を約束した仲だったら、それはとても幸せだけど残酷だ。僕は今よりも気負うだろうし罪悪感に苛まれる。今以上に弱っている姿なんてとてもじゃないけど見せられない。奈々子だって記憶喪失の幼馴染より恋人の方が精神的にきついだろう。
僕らのギクシャクした関係は居心地がいいとはいえない。それでも粉々に砕けてしまうよりははるかにマシで……。そうやって僕らは大事なことから目を逸らし続けているのだろう。
思い出したい。そうすれば全て解決するのに。
きっとあの廃病院で起きたことが鍵になっている。そして少しずつピースは揃ってきた。何もかも偶然なんかじゃないはずだ。気になっていることを整理して、明日以降確かめよう。
大丈夫。考える時間だけはある。
奈々子の元勤務先の廃病院へ、僕は一人で行った。奈々子の探し物について事情を聞き、一人で探しへ行ったのだろうか。
それにこの怪我……。とんでもなく古い廃墟ならまだしも、つい最近まで使用されていた施設だ。高層階から一番下まで床が抜けた、なんてこともないだろう。第一発見者がこんなにも身近にいるんだ。もっと詳しく奈々子に聞かなければ。奈々子に……奈々子……。
また傷が痛む。きっと傷のせいだけじゃない。
奈々子、奈々子。ごめん。早く思い出すから。
思いだせ。知っているはずだ。分からない。分かれ、分かれよ。
そうやって苦悩し続けてどれくらい時間が経っただろう。ほんの数分かもしれないし、何時間も経った気がする。僕の耳が足音を聞きつけた。
「失礼します。西畑さん、点滴の交換に来ましたよ」
現れたのは年配の看護師だ。たしか怒らせたら怖いと噂の婦長である。ノートパソコンや医療器具を載せた台車をカーテンの内側へ入れようとしている中、僕はそっと声をかけた。
「点滴なら奈々――あ、小松さんが交換してくれましたよ」
「うちに小松という看護師はいませんよ」
きっぱりと言い放たれて、言葉を失う。いないって、どういうことだ?
聞き返すよりも早く、僕の方を向いた婦長が青ざめた。
「西畑さん、なんであなた――輸血されているんですか!?」
僕は見上げる。
赤い液体の詰まったパックに黒いハートマーク。
黒い心臓から一滴、一滴ずつ、僕の中へ――。
眩暈がした。吐き気もした。思考が高速で動いているのにまとまらない。
なんで? おかしなことばかりだ。
いつから冷蔵庫に血が入っていたんだ? 検査以外、ずっとこの部屋にいて……。じゃあ突発的じゃなくて、狙われているのは間違いなく僕で……。
ていうか血? なんで血? 誰の、何のための血? 誰が……?
――あれは誰?
存在しない看護師。存在しない幼馴染。
嘘だ。嘘が。嘘だった。
全部嘘で、嘘だから、僕の全てが嘘で……。
ぽたり、ぽたり。
一滴、一滴、真っ赤な嘘が僕を汚していく。
恐怖が理性に追いついた。
「うわあああああああ!!」
◆◆◆
僕は車椅子に乗っている。押してくれているのは男性の看護師。僕が暴れてもいいように、そこにいる。
どれほど時間が経ったっけ。たぶん、三日くらいかなぁ。
怪我をしていたにも関わらず、錯乱した僕は点滴を引きはがそうと暴れて、それから、なんだっけ。
薬……。話をしても信じてもらえなくて、薬が効いていて、点滴が怖くなったので頭がぼーっとしている。疑ってごめんなさい。薬は効いています。
あの時の点滴の中身が本当はなんだったのか分からない。怖い。
説明されたのかもしれないけれど、優しい薬が、頭、重くて思い出せない。だから怖い。医療ミスだ。隠ぺいの為に僕の頭をおかしくさせたんだ。ここは怖い。
今はぼんやりとした恐怖と不安の中、病室を移動中だった気がする。同室のおばあちゃんが僕を怖がって、本当に怖いのは僕なのに。
たぶん記憶喪失だし、嘘をついてないけど嘘つきだから、精神病棟に行くんだって。その途中です。たぶん。
その時でした。
「こんにちは」
聞いたことのある声だ。知っている声です。
俯いていた僕は裸足を見ました。その上に白地に苺柄のパジャマを着た女の子が裸足です。
そんな女の子と看護師が僕の知らない会話をしてる。頭の上で声があっちへこっちへ行きました。
「こんちには。スリッパはどうしたの? ミナミちゃん」
「床とスケートして前の病室に置いてきたよ」
「そっか。でもちゃんと履こうね」
「その人は新しい人?」
「そうだよ。西畑さんって言うんだ。談話室で会うこともあるだろうから仲良くしてね」
「うん。あっくんと遊びたいから仲良しだよ」
僕はあっくんじゃない。知らない。知らないのに知ってる。
西畑 弘明。23歳。大学生。一人っ子で父親が他界しました。廃墟探索が趣味です。
嘘だ――。たかぶるはずの感情が湧いてこない。穴があいている。底に、下に、あいている穴が、薬のせいだから、せいで怒れない。
怖い。でも逃げられない。男性看護師が車椅子を押しているから。
「あっくん、あっくん。ねえねえ、あっくん」
奈々子が僕に話しかける、な。怖いから。
奈々子が僕に差し出す。何か、怖いものを。
「約束覚えている? 探してたものだよ。ほら見て見て」
奈々子が僕に見せてくれる。知らないおじさんの写真……? 写真が動いている。まばたきをした。見間違いなんかじゃない。
「鏡合わせならぬ、鏡で答え合わせだよ」
鏡? じゃあこれは、いや、でもどう見ても40歳は超えている。
あれ? そういえば自分の顔なんて見ていない。思い出せない。
僕は誰だ? お前は誰だ?
思い出したらダメだ。だって僕が、たった数日だけど、僕が、僕が、23歳の幼馴染で新人看護師の大事な人がいる、僕が消えて、最初からいなかった僕が怖い。
思い出さなきゃ。奈々子との記憶を。どこにもそんなのない。ないんだよ。僕はいないのに、いる。
鏡がすごく怖い。
現実が怖い。
「また驚かせてあげるね」
そう――その、あの瞬間、確かに突き落された。
暗い、淀んだ自我へと落ちていく。
僕が、きえ――た。
読了ありがとうございました。
下記項目から感想、評価等が行なえます。