1-7 最高級の好意
そぉーっと天願さんを見ると、はい、やっぱり睨んでるし。
さて、それはさておき。
大規模な大学はひとつのコミュニティだ。
コミュニティといえば聞こえはいいが、要するにひとつの村だ。
大学の敷地が広すぎるのが、そう感じる一因なのかもしれない。
筑緑大学の敷地面積の広さは、数ある大学の中でもトップクラスなのだ。
宿舎に住んで大学の講義を受けて、構内の生協で弁当を買う。
または、食堂で食事をする。
すると恐ろしいことに、この大学村から一歩も出ずに一日が終わってしまう。
サークルに入っても、きっとそれは大学村の中のことだ。
ちょっと足を伸ばしてコンビニに行っても、中肉中背の俺と同じ年頃の大学生ばかりが、マンガを立ち読みしてる。
食堂に行くと、俺と同じような俺じゃない人が、俺が好きそうな定食を食べてる。
豚のしょうが焼き定食、から揚げ定食、カツ丼ね。
ああ、右を見ても左を見ても、似たり寄ったりだ。
中途半端に伸びた髪、ラフに着たジャケット、肩にかけたショルダーバッグ。
俺のバッグとあの人のバッグ、すげー似てるわ、茶色でさ。
――この人混みの中から差がついていくのか。
恋愛で成功したり失敗したり、学業で伸びたり伸び悩んだり、就職で勝ったり負けたり。
どこで差がつくのか、きっとまだ誰にもわからない。
でも、きっといつか明確な差が出るんだろう。
まあ、俺はいきなり大失敗して後悔しているわけですが。
ああ。――息が詰まる。
天願さんのことはきっかけに過ぎず、他にも理由はあった気がする。
ただ要するに俺は、とにかく脱出したかった。
学生街や、この大学村から。
マヌケな失敗で大学デビューをし損なって、落ち込んでいたのかもしれない。
宿舎を出て引っ越したい、気持ちを切り替えたい
……そんなリセット願望があった。
十分ほど自転車を漕いだところで、ようやく大学敷地内から抜け出ることが出来た。
自転車を漕ぐのは、そう悪くない。
ぐんぐん風を切りながら、梅雨の時期はカッパが必要になるんだろうなあ、と思った。
◇
結局、自炊するのが面倒になった俺は、コンビニで焼きうどんを買って帰宅した。
電子レンジで焼きうどんをチンして、早めの夕食を食べていると
――突然、音が鳴った。
ピンフォッフォーン!
あー、そうだ。ここのピンポンってこんな音なんだ。
インターフォンのモニタ画面を確認すると、非常に可愛らしい少女の姿があった。
アニメキャラのような髪と瞳の色。
見覚えのある天使――205の月見さんだ。
ドアを開けると、月見さんはぺこりと頭を下げる。
「こ、こんにちは。今、お時間よろ、よろしいでしょうか?
あの、先日は水漏れの件、大変ご迷惑をおかけ致しました。
水漏れだなんて、誠に申し訳ありません……!」
あ、デジャヴ感。
そうだ、こんなとき俺は、学生ながらも大人の余裕でこう言うハズだ。
「いえいえ、月見さんの責任じゃありませんから」
これは本心だった。
水道管の老朽化でヒビが入るなんて、どう考えても住民の責任じゃねー。
建物のせいだ。つまりは、管理会社とか大家の責任なわけで。
「で、でもでも、どうかお受け取りください!
よ、宜しくお願いしまっす!」
勢いよく、綺麗に包まれた大きめの平たい箱を差し出される。
この包装や形や大きさって、まさしく菓子折りだ。
「え、こんなのダメですよ。なんだか逆に申し訳ないです」
俺の言葉を受け、月見さんはぐっと熱の入った言葉で語る。
「で、ですが……、銘菓『秋の月』は、カスタードクリームをカステラ生地で包んだ饅頭型のお菓子でして、老若男女から幅広い支持を得ていますので、灰田さんの口にもきっと合うかと……」
いや、菓子にダメ出ししたわけではないが。
うーむ、ここは受け取らない方が失礼なのだろうか。
俺は明るい声で言い直しながら、丁重に菓子を受け取った。
「じゃあ、せっかくなので頂きます。なんかすみません」
「あ、ありがとうございます! あと、先日は言えなかったんですが……」
一呼吸置き、月見さんは真っ直ぐに俺を見つめて言った。
「わ、私、灰田さんが入居してくれて、とても嬉しいんです。
ずっとここにいてくださいね」
………!
それは、俺の人生至上でも最高級の「好意に満ちた言葉」だった。
ポンッと胸の辺りで何かが弾け、じわじわと嬉しさと戸惑いが広がっていく。
な、なにこれ。
これは、一目惚れされたってことなの?
それとも、この少女は誰にでもこんなこと言っちゃうのか?
飴をくれる不審者にもニコニコするような天真爛漫な子なの?
いや、俺不審者じゃないけどね!
「はぁ。なるほど。……そ、それにしても水道管、修理してもらえて良かったですね」
「…………」
月見さんは、少し顔を伏せたまま無言だ。
えーとえーと。
俺は今、何か重要なフラグをへし折ってしまったのだろうか。
正直に「俺も上の部屋に可愛い子が住んでて嬉しい」と言っておけばよかったのだろうか。
激しく後悔だ。
ああ! 俺はいつだって、アドリブに弱いんだ。こんなんじゃダメだ!
「あ、えーっと、俺も上の部屋に――」
「す、すいません…… ちょっと気分が……」
消え入りそうな言葉と同時に、月見さんは、ゆらっと倒れ込んだ。
と、とっさに腕を伸ばし、身体を支える。
引越し屋のバイトで、落ちかけた皿を拾った時を思い出した。
「だ、大丈夫ですか?」
「わ、私……緊張しすぎちゃって……」
その言葉を最後に、月見さんはぐったりと俺の腕の中に倒れ込んだ。
「す、少し休んだ方がいいんじゃないですか」
自分の腕の中に女の子がいて、しかもその子は、直前に自分に好意を示している。
俺は、かつてないほど立派なフラグが立っているのを感じた。
もう時刻は夜の七時で、すっかり暗い。
自分の部屋の前でドアを半開きにしたまま、俺はどうしたらいいのか、一瞬迷った。
いや、嘘だ。実はものすごく迷った。
(あー、こういうシミュは中学二年の時によくやった気がするぞ。
あ、でも、月見さん病人だよね。
てことは、本当に休ませなきゃ。てことは、えーと……)
しばらくフリーズしていたと思う。
俺を再起動させたのは、聞き覚えのある声だった。
「あっれー。それ、月見ちゃん?」
俺はとっさに顔をあげる。
アパートの入り口の門の付近に、スーツ姿らしき女性が腰に手を当てて立っていた。
「ちょっと灰田くん!
うちのアパートで拉致監禁でもするつもり? 殺すわよ?」
女性はこちらにスタスタと近付いてくる。
やがて外灯に照らし出されたものは、見覚えのあるキレイな顔立ちだった。
物件案内のときとは、まったく違う口調だったが、声は同じ。
表情は違うが、顔も同じ。
そう、管理会社社員の夏目さんだった。