3-10 炎天下での作業
荷物を詰めたダンボール箱を持ちながら、俺はアパートの階段を一歩一歩登っていた。
階段を登り終えたところで、一旦ダンボール箱を通路の床に置き、額に噴き出す汗を腕でぬぐう。
雲ひとつない青空に目をやると、激しい眩しさに自然と目が細められる。
さすが八月。太陽も本気だ!
炎天下での引越し作業は、俺の体力をじわじわと確実に削っていた。
だが、一時期お世話になった引越しバイトの先輩が聞いたら、きっと恐ろしくバカにされるだろう。
なにせ、俺の今回の引越しは「同じアパートの105号室から204号室へ」という、短いにもほどがある移動距離なのだから。
「あ、お疲れさまですー。あとで麦茶持って行きますね」
205号室から現れた月見さんは、俺の姿を見て微笑んだ。
そうだ。俺が204号室に引っ越すと……、
204は俺、205が月見さん、206がナツさんという並びになる。
今まで俺の真上の部屋だった月見さんが、今日からは右隣になる。
それはちょっと照れくさいような不思議な感覚だった。
そんな俺の心を知ってか知らずか、月見さんはテキパキと歯切れよく話す。
「えーっと、電気・ガス・水道などの契約変更は融通利かせて頂きました。
今日からすぐに使えるようにしてありますよ」
「あ、どうも」
「あと、事務作業が終わりましたので、私もこれから荷物運ぶのを手伝いますね!」
腕まくりしながらの月見さんの言葉に、俺は大きく手を横に振った。
「いやいや、いいですよ! この暑さですし、ゆっくり部屋で休んでてください」
「いえいえ、私もお手伝いしないと気が済まないんです」
月見さんは俺の隣をすり抜け、階段をリズミカルにトントンと降りていった。
(まあ、確かに手伝ってもらえるのは助かるけど)
俺は足元の荷物を再び持ち上げ、204号室へと運んだ。
軽く伸びをしてから首をまわし、そして105号室に戻っていくと、
……そこには最も恐れていた光景が広がっていた。
月見さんは、床にペタンと座り込み涙目だ。
両手を口元にあてオロオロと戸惑っている。
「わ、わたし、小さなダンボールなら持てそうだって思って、
それで……、す、すいません、すぐ詰め直しますね!」
一目見ただけで、最悪の状況だとわかった。
倒れたダンボール箱の中から、雪崩れるように飛び出した本が、何冊も床に散らばっている。
本のタイトルは、遠くからでも丸見えだ。
『会話なんてコワくない!』、『コミュ障につけるクスリ』、『なぜあの人だけがモテるのか』
『普通に会話できないアナタへ』、『萌えて学べる☆彼女の作り方』などなど。
それらの本をそっと持ち、月見さんは丁寧にダンボール箱に詰めなおそうとする。
「ちょっと倒しただけなので、本は傷んでないと思います。ご、ごめんなさい」
心臓を遠慮なくぎゅっとわしづかみにされたようだ。
苦しくなって焦って泣きたくなり、気が動転している。
足元から崩れ落ちそうな感覚が俺を襲う。
ああもう、いっそのこと崩れ落ちてしまいたい。
穴があったらそこに入り込むので、しばらく放っておいて欲しい。
あー。あー。あーあ……。
――最も見られたくないものを、月見さんに見られてしまった……。
混乱する頭の中に、引越しバイトの思い出が駆け巡る。
ほんと、本は要注意なのだ。
本は箱に隙間なく入り、予想以上に重くなる。
だから本は小さめの箱に詰めるべきなのだ。
大きな箱に本を詰めている依頼主を見るたび「頼むから考えてくれ」と思ってた。
その経験もあり、俺は小さめの箱に本を入れていたのだ。
小さなダンボール箱を見つけた月見さんは「これなら持てそう」と思ったのだろう。
そうして持とうとして予想以上の重さに箱を倒してしまったのだ。
俺は荷物をダンボール箱に詰めても、ガムテープで閉じることはしていなかった。
だって、105号室から204号室へは少しの移動距離だ。
いちいち、ガムテープを貼ったり剥がしたりするのは面倒だと思っていたのだ。
うわーん、俺のバカ!
「……なんか、みっともないものを……見られちゃいましたね……」
立ち尽くしたまま、掠れるような声でそう言って苦笑いするのが、やっとだった。
月見さんはピタリと手をとめ、きょとんとした表情で俺をじっと見つめる。
や、やめてくれ今の俺を見ないでくれ!
「あのぉー、みっともないって、もしかしてこの本のことですか?」
「ええ、まあ」
わずかに間を置いたあと、少し恥ずかしそうにうつむきながら月見さんは訥々と語った。
「……不得意なものについて学ぶことって、大事じゃないですか?
わ、私もハウツー本みたいのたくさん買いましたよ」
俺は驚き、条件反射的に問いかけた。
「え? ど、どんな?」
「それはその……
『カリスマ大家になるために』とか、『勝ち組大家はここが違う!』とか、
『儲ける大家、損する大家』とか、『サルでも出来るアパート経営』とか……」
泣き出す直前のように、月見さんの声が弱々しく震えているのがわかった。
「つ、月見さんっ?」
月見さんは堪えきれないように「ぷっ」と噴き出し、照れたように笑った。
「あはっ! そういう本をいっぱい読んだんですけど、
やっぱりダメ大家なんで、かっこ悪いなあって思います。
あっ、でもでも、すごくいいことも書いてあったんですよ」
いたずらっぽく微笑み、俺に問いかける。
「――灰田さん。
大家に向いている人って、どんな人だと思います?」
突然の質問に頭が真っ白になった。
大家に向いている人? 経営とかお金の計算が得意な人だろうか?
それとも、面倒見が良かったり社交的な人だろうか。いまいちわからない。
「うーん。正直、わからないですね」
月見さんは満足げに頷き、それから唱えるように言った。
「あのですね、あるハウツー本に書いてあったことなんですけど、
大家に向いている人は
『自分が住む部屋は、ボロでもいいって思える人』らしいです」
「へ?」
「いい部屋、素敵な部屋があったら、
『こんないい部屋、自分が住むのはもったいない。人に貸そう。その方がお得だ』
って思える人が、大家に向いているらしいです。面白いでしょう?」
ええええ。そんな答えアリなのか? 俺はつい言い返してしまう。
「えー、でもそんな人っていますか?
みんな、自分自身がいい部屋に住みたいに決まってるじゃないですか」
月見さんは可愛らしい微笑みを浮かべたまま、小首を傾げる。
「ん~。そうでしょうか?
実際に私は、自分はボロい部屋でも構わないんです。
入居者さんがいい部屋に住んでくれた方が、有意義だなあって思います」
そ、そうかぁ? そう思わない俺は、大家には向いてないってことだろうか。
あー、農家の人が見栄えのいい野菜を出荷して、見栄えが悪いものは自分で食べるのと同じ理屈だろうか。
わかるようなわからんような。
そうして少し悩んでいるうちに、ふとあることに思い至った。
「じゃあ、もしかして……
月見さんが住む205号室がリフォームされていないのも、そういう考え方の影響ですか?」
月見さんはコクンと頷く。
「そうですー。
お貸しする部屋はリフォームして綺麗になったらすごく嬉しいですけど、
私自身の部屋は、リフォームする必要を感じないなあ、なんて……」
頭に軽い衝撃が走る。
なんてこった。
今になって、最初の謎の真相がわかるなんて!
月見さんの部屋がリフォームされていない理由は
「これ以上、借金を増やさないため」だと勝手に結論付けていた。
でも、そうじゃない。本当の答えは、
『月見さんには大家魂があり、リフォームが羨ましくないから』だ。
俺は、月見さんのことを、ずっと頼りない大家だと思っていた。
実際今でも頼りないけれど、ほんの時々、芯の強さを感じる。
思わずこんな言葉が口を突いた。
「月見さんって案外、大家さんに向いてるかもしれないですね」
月見さんは、ちょっと頬を膨らます。
「あ、案外は余計ですよ」
そうして二人で顔を見合わせ、笑ったのだった。