1-3 上の階へ
粗品のタオルを持ち、若干重い足取りで部屋を出た。
アパートの端にある鉄骨階段を、ゆっくり上りながら考える。
初対面の人間に会う前には、特に念入りなシミュレーションが必要だ。
シミュはもう、俺の癖のようなもので。
より正しいシミュのためにも、まずは205号室の住民像を推測したかった。
――205号室の住民とは、どういう人物であろうか。
まず、このアパートに住んでるということは1DK住まい。
普通に考えて一人暮らしだ。
そして「あまり電話が繋がらない人なの」という言葉は、重大な手がかりになる。
電話が繋がらない体験をしているということは、すなわち、夏目さんが205号室の住民に、度々電話する機会があったということだ。
管理会社の夏目さんが、入居者に電話を入れる機会があるとすれば、それは家賃の催促に他ならない。
引き落としができてない、残高が足りないということだ。
また、あまり電話が繋がらないとは、「電話に出ない」という意味ではなく「電話が止められていることがある」という意味ではないだろうか。
「直に声かけて」と夏目さんが言ってたことからも、今、部屋にいる可能性が高い。
だとすると、205号室の住民は
『家賃を滞納して、電話料金もろくに払わず電話を止められていて、かつ、昼間も部屋に引き籠もってる人物』となる。
……ダメじゃん。ダメっぽい人じゃん。
夢も希望もない住民像だ。
なんか俺まで気が重くなってきたなー。
そんなことを考えながら、階段を全て上り、二階の通路を見たとき――
俺の身体はこわばった。
205号室のドアの下から、液体がゆっくりと流れ出している。
やばい。
こんな時は、さすがの俺でもゴチャゴチャ考えるより、体が先に動くものだ。
ピンポンを激しく連打しながら、ドア越しに必死に声をかける。
「あのー! 下の階の者なんですけど! 大丈夫ですか、大丈夫じゃないですよね?
水漏れしてますよね? 起きてますかっ!?」
直後、ドアが勢いよく開いた。俺の顔面に205号室のドアがヒットする。
「痛っ! いってぇ~……」
俺が呻くのと同時に、か細く高い声が聞こえた。
「だ、大丈夫ですかっ」
鼻を擦りながら涙目で前を見ると、そこには――少女がいた。
交通事故に遭ったとき、人は見える風景がスローモーションになるという。
体験したことないもの、目にしたことがないものを見ると、確かにスローモーションになるようだ。
俺はその少女を見たほんの一瞬で、本当に色々なことを考えてしまった。
その少女の長い髪の色は、黄色がかった淡い褐色……いわゆる亜麻色で、アニメキャラのようだと思った。
次の瞬間「いや、アニメキャラじゃなくて、ハーフっぽいとか外国の少女みたいだと思えよ自分!」と突っ込みを入れつつ、国際感覚のない自分をちょっと恥じた。
次に引き込まれるように魅入ってしまったのは、少女の瞳の色だ。
瞳の色は、深みのある水色で、綺麗な海辺が、魔法で宝石になってしまったかのような色だった。
髪と瞳の色を見た俺は「あ、やっぱりハーフの子なのかなあ」と想いを巡らす。
いや、だが、髪と瞳の色だけが珍しいのではない。
バラ色のほっぺ、すっと通った鼻梁、ぷっくりした小さなサクランボのような唇。
全てのパーツがとても丁寧な特注品みたいに、気品がある。
そして最後に俺は、少女の服……純白の雲で作ったような真っ白なワンピース……が濡れてしまい、身体にぴったりとはりついてるのにも気付いた。
ええい、正直に言ってしまおう。
――天使が、水遊びした後みたいだな、と思った。思ってしまった。
「あああああ、頭大丈夫ですか?」
随分辛らつな天使だと思ったが、そうではない。
ドアが俺の頭にぶつかったことを言っているのだ。
少女は、ごめんなさいごめんなさいと繰り返し、縮こまっている。
「あ、頭なら大丈夫です」
そう言いつつ、俺は自分の靴の周りをサーッと流れていく水に気付いた。
俺の頭は大丈夫だが、205号室の状況は、ちっとも大丈夫ではない。
玄関の上がり口の下には水が溜まって、少女の靴が数センチほど、ぷかぷかと浮き上がっている。
玄関の奥――台所の床には、ふきん、バスタオル、マット、トイレットペーパーの残骸などが濡れて、ぐっしょりと積まれている。
それらも溢れる水を全て吸い込むことはできず、水たまりのうえに無力に浮かんでいるようだった。
「ゆ、ゆ、床から水が染み出してきたんです!
台所で皿洗いしてたら、床から……、それで、バスタオルで押さえてたんですけど、染み出てきて、ずっとずっと止まらなくて……」
目の前の天使の瞳は、涙目だった。
どうしていいかわからず戸惑っている姿は、雨に濡れる哀れな小動物のようだ。
本当に心細そうで、そっと毛布をかけてあげたくなる。
天使は悠長に水遊びしていたのではなく、必死で染み出す水と戦っていたらしい。
俺は夏目さんの、めんどくさそうな電話の声を思い出す。
――水道管の老朽化だと思うけどさ、もしかしたら二階の部屋にもなんかトラブルでてるかもしんないし。
まったく、すっげえぇーートラブルじゃないか!
「これ、早く修理してもらわないと」
緊迫した俺の言葉に、少女は、はっとした表情を浮かべた。
「修理! そうですよね。えっと、ナツさんに電話しなきゃ……」
ナツさんとは、夏目さんのことだろうか。
「あっ! でも、私、電話を止められてて、どうしよう……」
「あー、俺が貸すから!」
ポケットの携帯電話をすかさず渡す。
「あっ! まず手をタオルで拭かないと」
「あー、それ防水だから平気だから!」
少女はそっと携帯電話を持ち、少し震える手でおずおずとボタンを押していく。
「あの、私、プレーヌ・リュンヌの、月見と申します。
夏目さんを……、あ、夏目さんですか。ナツさん本人なら、話が早いです。
あの、あの……、何からお話すればよいのか、うまく説明できないのですが……えっと……」
ちっとも話が早くねえ! 俺は携帯を奪い取り、声を張り上げた。
「上の階、びしょびしょですよ! ざぶざぶです!
ばしゃばしゃ部屋の中に水たまりがある状態ですよ!」
いや、この人相手にはできるだけ大げさに言った方がいいのだ。
「部屋の中に、噴水が発生しています!」
………。
ぴったり二秒ほど間が開いて、電話の向こうで不満げな大声があがった。
「えええーー!? そんなの、早く言ってよー。ありゃー、早く言ってくれれば良かったのにー。
じゃあ、すぐに、業者手配するから!」
よかった。夏目さんにも最低限の良心はあるらしい。