1-2 ボロは着てても心は錦
「確かに、外装は古く見えるんです。で・す・が――!」
夏目さんはにぶく銀色に光る鍵を取り出し、得意げに開錠した。
「さあ、どうぞ。中をご覧ください」
玄関のドアを開けると、そこに広がっていたのは――開放感のある素晴らしい空間だった。
広々としたピカピカのフローリング。シミひとつない清潔感のある真っ白な壁。
外装からは予想もできないほど、内装は綺麗だったのだ。
こ、これは嬉しい! 落差のせいもあるだろう。
トンネルを抜けると雪国であった、みたいな感動がある。
「おぉー!」思わず、感嘆の声をあげる。
そんな俺を導くように、夏目さんは弾むような声で、内装設備をひとつずつ解説してくれた。
「ご覧ください! この部屋は、内装をしっかりリフォームしていて、設備も充実しているんです。
ほら、モニタ画面付きのインターフォンでしょう?
なんとトイレはウォシュレット、さらに、お風呂は……」
風呂は温度調節可能の、追い炊き機能付き。
驚愕することにジャグジーまでついていた。
男ひとりで泡風呂を楽しんでも仕方ないが、ゴージャスなのは嬉しい。
駅から遠いせいか、家賃も安めだった。
外見こそボロイが、中身はこれ以上なく良い物件だ。
ボロは着てても心は錦、とはまさにこのこと。
掘り出し物はここにあったんだね!
このアパートが、大学にも駅にも遠いのは一般的にはデメリットかもしれないが、俺にとってはまさに望みどおりだった。
俺は、ちょっとした理由があって……大学から遠いところに住みたかったのだ。
うんうん、条件ピッタリだ。運命の出会いってこういうことなんだろう。
俺は両手に力を込め、熱っぽく宣言した。
「ここに決めます! 今は大学の宿舎に住んでますが、すぐに引越してきます!」
即決した俺に、夏目さんは輝くような満面の笑みを浮かべて喜んでくれた。
その笑顔を見たとき、俺は自分がとてもいいことをしたような気持ちになったのだ。
◇
――ああ。たった二週間前のことなのに、なんだかひどく懐かしい。
「何か困ったことがあったら、いつでも連絡くださいね」とニコリと笑ってくれた夏目さん。
そんなお姉さんを「水漏れだなんて、誠に申し訳ありません!」と平謝りさせるのは、大変心苦しいが、そこは「いえいえ、夏目さんが悪いわけではありませんから」と、学生ながらも大人の余裕で言うつもりだ。うん、完璧。
全てのシミュが終わった。
俺は名刺に記載されている電話番号を見ながら、携帯のボタンを丁寧に押していく。
そして数十秒後、俺は自分の考えが甘かったことを知る。
電話先の夏目さんは、実にめんどくさそうに、こう言い放った。
「えー、水漏れぇ? それって、ポタポタって感じ? それともジャージャー?」
俺は激しく戸惑いながらも、天井の染みに目を凝らした。
「えっ? ええっと……。ポタッ、ポタッみたいな……?」
「台所の天井だっけ? じゃあ、しばらく台所使わないで我慢しなよ。
大学生男子の一人暮らしなんて、たいして料理もしないでしょ?
今日はピザの出前でもとったら?」
なんだこの流れ! 俺のシミュと違う!
ていうか、夏目さんのキャラが違う! 焦り出し、思わず早口になる。
「ちょ、ちょっと、それってひどくないですか? 俺は料理しますよ!
つーか、水漏れですよ!? これからもっと酷くなるかもしれないじゃないですか」
「ん? 時は一刻を争うってこと?」
「そうです、そういうことです!」
俺は携帯を両手で支え、うんうんと首を縦に振る。
ようやく伝わったのかと思ったのもつかの間――
「……じゃあ、ひとつお願いしてもいいかなぁ?」
「は?」
「キミの上の階の205号室の様子を見てきて。あまり電話が繋がらない人なの。
直に声かけてよ。水道管の老朽化だと思うけどさ、もしかしたら二階の部屋にもなんかトラブルでてるかもしんないし。ちょっと行ってきてよ」
「嫌ですよ! なんでいきなり俺が、上の階の人に文句言いにいかなきゃいけないんですか」
「文句じゃないでしょ。ちょっと様子を見てきてって言っただけ。
ほら、キミ言ったじゃない。時は一刻を争う、でしょ? じゃあね」
ガチャッ、ツーツーツーという無情な機械音で、一方的に切られたことを理解した。
その音を聞きながら、俺は呆然と立ち尽くし二つのショックを受けていた。
一つ目は、電話の会話が「全くシミュ通りにいかなかった」ということ。
俺の熟考なんて挟む暇なく、ひたすら素早いセリフの応酬だった。
あらためて会話の難しさを思い知る。
会話のキャッチボールなんてよくいうけど、そんな速度じゃない。俺にとっては会話の卓球だ。
そして二つ目のショックは、夏目さんのこと。
今回の電話で、俺はようやく彼女のことを理解した。
――どんと来い、人間不信。
どうやら、夏目さんの巨乳以外の特徴「優しく・親切」は、演技だったらしい。
営業スマイルってやつだ。俺が入居したことで、サービス期間も終わってしまったということか。
(いや、でも……!)
俺はまだ希望を持っていた。
単に電話ではツンツンした話し方になるだけかもしれない。
ほら、電話アレルギーとか、電磁波の影響を受けやすい体質とか?
ていうか、実際ちょっとおかしいだろ、この対応。夏目さん、どうしたんだ?
なけなしの勇気と未練を胸に、再度電話をかける。
「あ、そちらのアパートに入居している者ですが、担当の夏目さんを……」
妙~にくぐもった女性の声が聞こえてきた。
「あぁ、夏ぅ目はぁ、本日からぁ海外に異動になってしまいましてぇ」
「………。あのぉ~、夏目さんですよね? 何やってんですか」
鼻をつまんで喋ってるだけだ。バレバレだ。子供かよ。
「と、とにかく、いつかそのうち、折り返し電話するからさ!」
本日二度目のガチャッ、無機質なツーツーツーという音。
折り返しの電話って、いつかかってくるんだ? 今日中? 明日? あさって?
望んでいた新生活なのに、なんだこのスタートは。
掘り出し物と思って、はしゃいでいた自分が哀れになる。
押し寄せる不安、後悔の嵐。
……ちょっと泣きたくなったが、だがしかし!
やはり、安めの家賃でこの部屋は随分お得だ。
というか、宿舎も退去して、この部屋の敷金・礼金も払い込んだ。
引越し費用、初期費用は俺がバイトで必死に貯めた金だ。
ちなみに、バイトは引越し業者の手伝いなんだから皮肉なもんだ。
とにかく、そうやすやすと「お部屋選び、失敗しちゃったな~。テヘ☆」なんて思えない。
もう後戻りは出来ないのだ。
洗面器に落ちてくる水滴に注視する。ポタッ、ポタッ、のテンポに変化は無い。
確かに、今のところはまだ緊急性もないようだ。
よし。気持ちを切り替えて、引越し作業の続きをしよう。
ポケットから自作メモ――引越し当日のTODOリストを取り出す。
リストの一番下には『近所への挨拶』の文字があった。
まあ、いい。どうせ両隣と上の階には、今日中に挨拶に行こうとしてたのだ。
「上の階の205号室の様子を見てきて」という夏目さんの指示通りになってしまうのは癪だが。
ひじょーに癪だが。