2-13 紙をひらひら
――頭の中で、カチャリと音が鳴ったような気がした。
今まで考えてもいなかったが、106号室にいたあの女性が
『鍵の業者』を利用していたとしたらどうだろう。
鍵開けのプロの泥棒でなくても、他の人と共犯しなくても、鍵が開けられる。
スペアキーも手に入れて自由に出入りできるようになる。
つまり、プレーヌ・リュンヌの106号室に住んでいるという証明さえ出来ればいいのだ。
――そのためにはどうしたらいい?
住民票や免許証、保険証などを偽造するのか? どうやって?
俺があれこれ思案している間に、鈴木はそばを食べ終えたらしい。早っ!
空になった器を横にズラし、鈴木はテーブルの上に身を乗り出して俺の顔を覗き込んできた。
「ところでさ……さっきのAさんが誰なのか興味がないかい?」
鈴木はとても上機嫌にこちらをニコニコと観察している。
その切れ長の瞳は、大好物のデザートを味わう直前のようにランランと光り輝いている。
背中にゾクリと寒気が走り、非常に嫌な予感がした。
こいつがこんな目をするときは、他人を驚かせたいときだ。
そう、こいつの名前は鈴木愉戒。他人の反応を愉快に面白がる奴なのだ。
だとすると、答えはひとつしかない。
さっきの記事に出てきたAさん、大の男をハイキック一発で気絶させられる武道の達人とは――
俺は身体の震えを抑えながらも、低い声で訊ねてみた。
「Aさんって……、まさか天願さんのことなのか?」
俺の言葉に、鈴木がこのうえなく明るい声を出した。
「ビンゴ! その通りだよ!」
「マジかよおおおお!」
俺は頭を抱え、驚きのあまり少し立ち上がり中腰になっていた。
昼食にはまだ早い時間であるが、食堂内にはポツリポツリと人もいて、そのうち数人が怪訝な表情でこちらを見た。
ああ、恥ずかし過ぎる。
でも今は、恥ずかしさ以上にショックがでかかった。
あんなに俺を睨みつけている天願さんがハイキック得意なんて、や、やめてくれよ、そんな追加設定。
知りたくなかったそんな情報。
なんなの? 俺もいつかハイキック食らうわけ?
顔を歪め、身もだえする俺を見て、鈴木はこう言いやがった。
「いやあ、その顔が見たかったんだよ」
鈴木は口元に手をあてて、一人でうっとりと悦に入っている。
「やっぱり、つくりょくの制作サークルに入って良かったなあ。
色んなネタが入手できるからねえ。フフッ」
「………」
俺が思いっきり睨みつけると、鈴木は大げさに脅えた素振りをした。
「おっとっと、そんなに怖い顔しないでくれよ。これでも親切のつもりだったんだ」
そう言って鈴木はニコニコと微笑み、食器とトレーを持ち立ち上がる。
「じゃあ、僕はそろそろ行くから」
鈴木が去った後、俺は体の力が抜け、しばらくテーブルにうっつぷしていた。
くっそー、やっとわかった。
鈴木の今日の本当の目的は、天願さんがハイキックの達人と俺に教えて、
俺の驚愕する顔を見ることだったんだ。あの暗黒ピエロめ。
大学には鈴木という暗黒ピエロがいて、アパートにはナツさんという小悪魔がいるって、俺の人間関係ってどうなのよ。
ふっと、ナツさんで思い出した。
そもそも俺は106号室の謎を解いている最中だったのだ。
鍵の業者に見せるために、身分証を偽造できるかどうかを考えているところだった。
まあ、鈴木の雑談により、鍵の業者のことを思いついたのだから、その点についてだけは、ほんの少し、アイツに感謝してやってもいいが。
俺は無料麦茶を飲み干し、軽く深呼吸をする。
(……よし、気持ちを切り替えて、事件のことを考えよう)
俺はさっそく財布を取り出し、自分の保険証を眺めた。
台紙には複雑な模様が印刷されているが、パソコンでスキャンして住所を書き換えて印刷すれば、なんとか偽造はできそうだ。
しかし業者も警戒して、念入りに調べるかもしれない。
バレないように保険証を偽造するとなると、これはもうプロの犯行だ。
やはり警察に調べてもらわないと、真相がわからない。
「はぁっ、やっぱダメか」
進んだと思った推理がまた止まる。
そうこうしているうちに、次の講義の時間だ。
俺は保険証をしまい、食器を載せたトレーを持って立ち上がる。
そのとき――隣のテーブルの上にある、一枚の紙に気付いた。
やばい、忘れるとこだった。鈴木に一旦ひったくられたアパートの見取り図だ。
(……あれ?)
その紙に、なんだか違和感があった。
いびつな似顔絵が描かれた俺の部屋――105号室は、六個並んだ部屋のうち、右から二番目のはずだ。
だが、今は、左から二番目になっている。
しかし、当然のことだ。
その見取り図は、鈴木によって裏返しにされていた。
よく見れば、部屋番号なども全部が鏡文字になっている。
濃いマジックペンで書いたせいか、裏からもくっきりと見えていたのだ。
(ナツさんが書く似顔絵は、表裏、どっちから見てもいびつだなぁ)
そう思いながら、紙を手に取る。なんとなく表から見て、次に裏から見る。
表から見ると、105号室は右から二番目。
裏から見ると、105号室は左から二番目。当然のことだ。
………。
ふと。紙をひらひらさせていた手がぴたりと止まった。
人間、何かを思いついた瞬間は、動きが固まってしまうのだろうか。
じわじわと高揚感が押し寄せてくる。
今、自分が思いついた推理と犯人の行動を、頭の中でシミュしてみる。
――よし、イケる。
俺は急いで食堂を飛び出し、ナツさんに電話をかけた。
十二回のコールで出たナツさんは、「んぁ?」と寝ぼけた声をあげた。
寝てたんかい。
「いくつか相談させてください。
……多分、犯人がわかっちゃった可能性があります」
俺の声は、まるでパズルが解けた子供のように弾んでいた。