2-11 カツ丼と無料麦茶
――筑緑大学、第二講義室にて。
ナツさんと別れて数時間後、俺は汚い文字の黒板をひたすらに眺め、お経のような講義を真面目に聴いていた。
要するに、ごくフツーに大学の講義に出席しているのだ。
名探偵でもない俺が現場にいても役には立たない。
それなら自分の日常を消化しておく方が懸命だ。
普段の何気ないことが、事件解決のヒントになるってこともあるかもしれない。
そう判断した。
……とはいうものの、内心は焦っている。焦りまくっている。
やはり、月見さんと「106号室の不法占拠事件」のことが気になって仕方ない!
いや、待て待て。『焦るときこそ、まずはメモ!』
これは、俺が「愛され☆会話の法則」という本で学んだ教訓だ。
俺は教訓に従い、ノートの隅に走り書きのメモをとった。
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106号室の犯人について
1.犯人の目的、動機
2.犯行可能であった人物
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犯人について考えるとき、大事なのはこの二つだろう。
『1.目的、動機』については、一晩かけて三人で考えた結果、結論は出なかった。
犯人の女性は、あの部屋で夜七時に来る誰かを待っていた、ということがわかっただけだ。
では、次に考えるのは『2.犯行可能であった人物』だ。
これについてはあまり考えてこなかった。
なぜかというと、犯行可能であったのは、鍵を自由に開けることができた人物――
つまり、鍵を持っている月見さんか、ナツさんなど管理会社の人間、または鍵開けの技術をもつプロの泥棒さん、ということになってしまうからだ。
これらの人物が、106号室にいた犯人の女性と共犯であればいい。
だが、月見さんの自作自演ではないだろうし、ナツさんなど管理会社の人間だったら非常にゲッソリする。
鍵開けのプロの仕業だったら、お手上げだ。警察に任せるしかない。
そもそも、106号室に入るとき、月見さんは鍵を開けて入った。
106号室には鍵がかかっていたのだ。
つまり犯人は、鍵の開閉が自由にできる人物となる。
そりゃテレビで見たことはある。プロの泥棒はほんの数十秒で、どんな鍵でも自由に開け閉めしてしまうのだ。
健全な小市民の俺には、縁遠い世界だ。
というか、普通だったらもっと怯えるべきなんだろう。
106号室の鍵を開けた犯人は、俺の部屋105号室だって、自由に侵入できるってことなのだから。
にも関わらず、俺が怯えないでいるのは、106号室に居たあの女性に挨拶しているからだ。
顔は思い出せないが、少し甘い声で「ど、どーもぉ」と言っていた。
正直、あの人が怖いとはあまり思えないのだ。
しかし、人は見かけによらないという。
あの女性が、秘密工具なんかを取り出して、鍵を開けてしまうのだろうか?
または、すご腕の共犯者がいるのだろうか。
ぐわー、考えがまとまらない。
――106号室に居たあの女性は、今、どこで何をしているのだろうか……。
◇
「灰田クン、喜びたまえ。朗報だよ、朗報!」
講義が終わり、早めの昼食をとろうと食堂に向かう。
そこで俺を待ち構えていたのは、友人――鈴木諭戒だった。
鈴木は俺を見て、なぜか嬉しそうにニコニコと微笑んでいる。
「灰田クンに見せたいものがあってね。
詳しくは、昼食でもとりながら話そうじゃないか」
俺はカツ丼と無料麦茶、鈴木は肉そばとお冷やをトレーに載せて席につく。
月見さんのそばを食べて以来、他でそばは食べられなくなってしまった。
真のそばを食べたことのない鈴木に、ちょっと同情してしまう。
席に落ち着くやいなや、鈴木は手元のバッグから数枚の紙を取り出し
「見ろ」とでもいわんばかりに、テーブルの上に置いた。
A4用紙に、日本語がぎっしり印刷されていて、右上がクリップで留められている。
パソコンのテキストデータをプリントアウトしたものらしい。
「なんだこりゃ?」と言いかけたとき、鈴木の解説が入った。
「これは、次回の『つくりょく!』の記事原稿でね。
担当者が執筆途中のものを、融通利かせて見せて貰ったんだ。
僕も一応、制作サークルに入ってるからね」
「へぇ、そうなのか」
俺は少しだけ興味を持ち、その紙を手にとった。
つくりょく、なら俺も知っている。
元々は「筑緑大学新聞」というごくフツーにお堅い学内新聞だったらしい。
それがネットが流行り始めた一九九〇年代後半から方向性を変え、今ではフリーペーパー&ネット配信の情報媒体と化している。
地域の居酒屋や美容室のクーポン券も便利だし、地域の不動産屋とも縁が深いので、学生ターゲットのお得な賃貸物件も掲載されているらしい。
特別会費でパスワードを入手すれば、専用サイトから講義ノートや過去問もダウンロード可能なんて噂もある。
過去問だったら非常にありがたいのだが、手元の紙に印刷されているのは、なんともイヤな特集記事だった。
曰く、『つくりょく! 第207号 新入生の残念エピソード特集』
今年の新入生のやらかしてしまった間抜けエピソードを、煽りたっぷりに紹介するらしい。
……く、くだらん。なんていうか、下世話な週刊誌のノリだ。
俺はシラケた表情で鈴木を見つめ、問いかけた。
「で、これがどういうふうに朗報なんだ?」
「見たまえ! 新入生の残念エピソード、ベスト10が紹介されている。
なのに、灰田クンの新歓ゲロ吐き事件のことは一切紹介されてない。
キミが起こしたことなんて、ベスト10にも入らないことなのさ」
「はぁ」
「だから、もう……気にしなくていいんだよ」
鈴木は自愛に満ちたまなざしで、俺を正面から見つめる。
これは、鈴木なりの励ましなんだろうか。
どっちかというと、すごく……余計なお世話なんだが。
「ちなみに灰田クン、ここでなぞなぞをひとつ出してあげるよ。
……はくことは出来るけど、脱ぐことは出来ないものって、なーんだ?」
なーんだ? の言い方が妙に癪に障ったが、無視してやった。
まあ、なぞなぞの答えはこれだろう。食事中には不向きな解答だが仕方ない。
「ゲロ」
俺の解答に、鈴木はそばを食べる箸を置き、実に悲しそうに眉をひそめる。
「やれやれ、答えは『ほうき』だよ。
灰田クン、まだゲロ事件のこと引きずってるんだね。天願さんのことも……。
そんなに心を病んで度々思い出さなくてもいいと思うよ、僕は」
「お前が思い出させてるんだろ!」
い、いかん。鈴木のペースに飲まれると、食べかけのカツ丼が冷める。
それより何より、俺はあの106号室の事件を考えるのに必死なのだ。
そう、月見さんを助けるためにも、こんな阿呆なぞなぞに付き合ってられるか!
「悪いけどさ、俺忙しいんだよ。ちょっと考えなきゃいけないことがあるんだ」




