2-10 あまりに無茶な要求
俺の問いかけに、月見さんは少し目を伏せる。
「一ヶ月近く前、私がダンボール箱を抱えていたのを覚えていますか?」
それなら覚えている。そばを食べさせてもらった数日後のことで、そば麺を箱買いしているようだった。
少しよそよそしい反応をされて、ヘコんだけど。
「あれは、この106号室のドアの前に置かれてあった、ダンボール箱だったんです」
意表をつかれる告白に、俺もナツさんもひどく驚いた。身を乗り出して質問する。
「えっ!? この106号室の前でっ?」
「中身は何が入ってたの、月見ちゃん?」
月見さんは目を伏せがちにしたまま、物静かに語った。
「ガムテープは止められていなかったので、その場ですぐに中身を確認しました。
中は……空っぽだったんです。
あの朝106号室の前に置かれていたんですが、空室の前に置いてあるなんて、
イタズラにしては無意味だし、単なるゴミだと思いました。
ナツさんや他の住民の方に心配をかけるのも嫌だったので、一人でこっそり持ち帰って、ゴミの日に畳んで出しました。
今思えば……、あのダンボール箱は、この不法占拠に関係するものだったのかもしれません」
なるほど。この部屋に荷物を運び込むのに、ダンボール箱を使って、置き忘れていたのかもしれない。
しかし、そのダンボールはすでにゴミに出されているし、空っぽだったのであれば、推理の材料にもならないだろう。
「あの時点で、ちゃんと不審さに気付いて、106号室をチェックしていれば良かったんです。
ささいなことでも、きちんと気にして見守るのが私の仕事だったのに……。
ですから、ナツさんの責任ではありません。私が悪いんです。
私これから、この部屋のことをしっかり警察に相談したいと思いま……」
「ちょっと、待ったーーー!!」
ナツさんが叫ぶ。近所迷惑だぞ。
って、この106号室は角部屋だし、上はナツさんの部屋、左隣は俺だから大丈夫だろうけど。
反論の隙も与えず、ナツさんは拳を握り一気にまくし立てる。
「待って! 警察に相談するのは、もうちょっと待って!
今日水曜日は、うちの店舗は休みでしょ?
まず、あたしが明日、休み明けの上司に報告するから。
上司に報告せずに警察に届けるのはヤバいし、その上司は休日は電話に出ない人なの。
あ、それに店舗のマスターキーも確認したいし。
とにかく今日一日は待って。お願い、月見ちゃん!」
ナツさんの勢いに圧されるかのように、月見さんは渋々と同意した。
「え、えっと、ナツさんがそう仰るなら。
でも一日だけですよ? 住民の皆さんの安全にも関わることですし、
明日には絶対に警察に連絡しましょう」
「そう、ね。うんうんうん。じゃあ今日はひとまず解散ね」
その言葉で皆が立ち上がり、俺たちは解散となった。
とにかく今日はいきなり大変だった。
つーか、俺、数時間後には講義なんですが。なんとか仮眠をとりたいところだ。
そうして自分の部屋である105号室に帰ったほんの一分後に、ピンポンが鳴った。
インターフォンのモニタ画面には、先ほど別れたばかりのナツさんが映っている。
「ちょっといい? 月見ちゃんには内緒で、話があるの」
◇
「すぐ帰るから、玄関で大丈夫。てゆーか、靴脱ぐのだるいし」
ナツさんは玄関の上がり口に腰を下ろした。つられるように俺も座り込む。
「話ってなんですか?」
「相談かな。いや、相談じゃなくて、要求ね」
ナツさんは大真面目な顔で、キッパリと言い放った。
「この事件、今日一日で解決しなさい」
――眠い。
あまりに無茶なことを言われて、拒否の言葉を考えるのもだるいぐらい、眠い。
「俺、眠りたいんですよ」
「結論から言うわ。この事件、警察沙汰にしたら、月見ちゃんが破産しちゃう。
だから、警察に相談する前に、解決したいの」
「はぁ?」
あまりに意味がわからん。
警察に相談したら、金をとられるわけでもないだろう。
俺は眠いのと、疑問で口を半開きにした。
「あー、そりゃまあ、わかりづらいわよね。簡単に説明するわ。
このアパート、現在は大家に対して『賃料保障』があるの。
大家にローン組ませて、無茶な豪華リフォーム決行したのは、うちにもちょっと非があるからさ。ローンが毎月払えるように、念のために賃料保障はつけてもらえたわけ」
「……ちんりょう、ほしょう?」
聞きなれない外国語を発音するように、首を傾げながらリピートする。
「空室があっても、大家さんにお金が入るシステムよ。
契約はさまざまだけど、うちの場合、空き室でも六割の賃料を保障しているわ。
だから、月見ちゃんは空き室があっても、なんとかリフォームのローンが返済できているの。本当に毎月ギリギリなんだけどね」
へえー。それは随分良心的な話じゃあないか。俺は少し頬を緩めた。
「なんだ、ナツさんの管理会社、ブラック企業のアコギな商売してるかと思ったら、
結構親切なんですね」
ナツさんは一旦肩をすくめて、自嘲交じりにサバサバと喋る。
「ま、うちの会社の懐は痛まない仕組みになってるけどね。
色々な大家さんが、不測の事態に備えて積み立てしてる資金を利用していたり。
または、そういう賃貸保障をつけてでもリフォーム会社が儲かる金額に、工事料金が設定されてたってことよね」
うう、やっぱり、黒い話だ……。
厭世的な俺にさらに追い討ちをかけるかのように、ナツさんは唇を歪めて囁いた。
「で、優しい顔するのも最初だけ。
賃貸保障は、ありとあらゆる難癖をつけて、ガンガンと保障金額を下げていくの。
事故物件になったら一発でアウト。
それでなくても、本部から難癖をつけられる要素が発生すると、色々と不利になるの」
やっと俺は事情を察した。
自然と声のトーンが落ちてしまう。
「……つまり、不法占拠で警察沙汰ってだけでも、不利になるってことですか?」
ナツさんは眉を下げながらも笑顔を浮かべた。
まるで強がっているかのような表情だ。
「そりゃあもちろん。
うちの会社の本部なんて、喜び勇んで難癖つけて、保障金額を下げてくるわ。
大家が破産したらそれはそれで、また別の形の利益が転がり込んでくるしね」
「…………そうですか」
あまり感想は出てこなかった。
社会は色々な形でまわっているのだし、弱肉強食の世の中で、スキだらけの落ち度がある人は、食い尽くされてしまうんだろう。
全くあの月見さんは、可愛くて無防備で天真爛漫で、まさしくカモなんだろう。
カモのなかのカモ。キングオブカモ。カモクイーン。
でも、そんな可愛いカモを守ってあげたい、応援したくなるのも事実だ。
あーあ、まったくもう。月見さんはいい子だ。助けてあげたい。
でも、残念ながら俺は、名探偵じゃないんだってば!
「あたしはあたしで頑張るからさ、良かったらキミもキミで頑張ってくれないかな。
言いたいことはそれだけ」
「……っ!」
突然、ナツさんは俺の手を両手でぎゅっと握った。
「なっ、ナツさんっ?」
その手はゆっくりと離され、俺の手の中にはくしゃくしゃの紙切れが残される。
「これあたしの携帯番号。
何かわかったら電話して。期待して待ってるから!」
ナツさんは勢い良く立ち上がり、ひらりと身を翻す。
「ちょ、ちょっと!」
俺の声を置き去りにするように、ドアがバタンと閉まった。




