2-7 挨拶しましたよ?
「そうだ! まずは、事件のあったこの周辺を図にしてみましょう」
俺は白紙の紙にすーっとまっすぐな線を書き、大きな長方形を描いた。
この長方形はアパートを模したものだ。
そして長方形をさらに十二個の小さめの四角に区切り、101、102……と番号を振る。
これはそれぞれの部屋をイメージしたものである。
さらに、畑やゴミ集積所、アーチ型の門の位置も書き込んでいった。
「なるほど! 大家手帳にも、図は書いていませんでした。
さすが、灰田さんです~」
月見さんに誉められるのは嬉しい。
だが、すぐに書き終わってしまった。
「………」
「………」
「……で?」
ナツさんの冷ややかな目が、突き刺さるように痛い。
この先は考えていなかったのだ。ごめん。悪かったよ、ちくしょう!
その時、月見さんが「ちょっといいですか」と言って、畑にお花の絵を描き込み始めた。
「あ、それならあたしもー」とナツさんが言い、一階の右から二番目の四角である105号室に、いびつな男の顔を描く。
「……これ、もしかして俺の似顔絵ですか」
「そうよ。他の住民も描きたいけど、あたし絵ヘタだから、灰田くんしか描けないわ」
俺だけは、いびつに描いてもいいということか。
「まあ、いいです。じゃあ他の住民も、名前だけでも書き込んでください」
「ほいほーい」
ナツさんが鼻歌まじりにペンを走らせ、202号室の四角には「小場」
205号室の四角には「月見」……など書き進めていく。
意外と丁寧で綺麗な字だった。
でかでかと壁に貼られた『ゴミ漁り・お花事件、対策本部』の汚い文字が余計恥ずかしいではないか。
「出来た! これで間違ってないよね、月見ちゃんもチェックして」
「はい。この通りだと思います!」
ナツさんは胸を張って、出来上がった紙を俺に手渡す。
その見取り図を見て俺はすぐに気が付いた。……いきなりミスってるよ、ナツさん。
「あー、コレ106号室が書いてありませんよ。106は何て人なんですか?」
「は? 106は人いないけど?」
「引っ越しちゃったんですか?」
「何が?」
俺の質問にナツさんは即答するが、なんだか話がかみ合わない。
俺は見取り図の中の、105号室の文字を指さした。
「ここが俺の部屋、105号室でしょ?」
いびつな絵を俺と認めたみたいで少しイヤだけど、図の上ではここが俺の部屋だ。
そのまま指を左隣の104号室へと動かす。
そこには丁寧な文字で「脇本」と書かれている。
「この脇本さんって、男の人ですよね?」
「そそ。お仕事で深夜はいないから、騒いでも平気だけどねー」
先日の大騒ぎへの言い訳だろうか。
確かに隣の住人が不在なら、夜中に大音量で映画を流しても平気かもしれない。
だがしかし、反対側にだって部屋はあるのだよ。
今度は指を右隣へと滑らした。
指はいびつな俺の上を通りすぎ、空白の106号室へ。
「そしてこっちには、女の人が住んでるじゃないですか」
プレーヌ・リュンヌに引っ越してきた日。
月見さんと出会い、ナツさんの本性が明らかになった水漏れ事件が起きたあの日の夜
――104号室と106号室に引っ越しの挨拶をしたのを、俺は思い出していた。
104号室の住人は、ちょっと不機嫌そうな中年男性。
おそらくあれが脇本さんなのだろう。
不機嫌そうに見えたのは、出勤前の眠ってる時間だったからかもしれない。
そして106号室の住人は、どこかのんびりした話し方をする若い女性だった。
同意を求める俺の言葉に、ナツさんは怪訝な表情を浮かべる。
「106号室は、ずっと空き部屋よ。何言ってんの?」
言葉が通じないみたいだった。
コンビニでアイスを買ったのに、「温めますか?」って言われたみたいだ。
ぽかんとする。
「あの、良かったら詳しく話してください、灰田さん」
不思議そうな表情の月見さんから促され、俺は長々と説明を始めた。
「五月末ですよね、俺が入居したの。
荷物を入れて一段落したとき、天井の水漏れに気付きました。
そうして上の階の月見さんに出会ったわけです。
あの騒動が落ち着いたのは、夜七時前でした。
俺はクタクタでしたけど、挨拶はその日のうちにしておいたほうがいいかなと思って、
タオルを持って両隣に向かいました。
104号室では男の人、106号室では女の人に挨拶してタオルを渡しました。
粗品のタオルは三つ用意していて、上の月見さんと左右両隣に手渡ししたんです。
間違いありません」
月見さんとナツさんは戸惑うように顔を見合わせ、やがて眉を下げた月見さんが申し訳なさそうに言った。
「……でも、106号室は空き部屋なんですよ?」
「そうよ。あたしたちが映画を観た日に、105号室で大騒ぎが出来たのは、上の205号室は月見ちゃん、106号室は空き部屋、104号室の脇本さんは夜勤のお仕事で、深夜は不在って知っていたからよ」
ああ、そういうことだったのか。
ナツさんは大音量に慌てふためく俺をからかってたんだな。
それはムカつく。でも――
「でも、俺五月末に、106号室の女の人に挨拶しましたよ?」
「幽霊でも見たんですか?」
「幽霊にタオル渡しますか? 幽霊がタオル受け取るんですか?」
「じゃあ、どんな女の人だったんですか?
その七人目の住民、美少女さんなんですか?」
不思議と不安をごちゃまぜにした顔の月見さんの質問が続く。
だが、俺だって不思議でたまらない。どうしてこんなに話が通じないんだ。
「顔もよく見てませんよ、声が女性だったってのはわかりますけど」
そうだよ。俺はあまり人と目を合わせない! 特に初対面とは。
そうだ、目を合わせないから、服ばかり見た。
妙におしゃれだった気がする。あ、胸が大きかった、かな。
「そんな馬鹿な……。
てゆーか、灰田くんの勘違い以外にありえないのよ。よく思い出してみてよ」
「ちゃんと覚えてますよ。俺は!」
全くナツさんの勘違いもひどい。
106号室には住民がいるのだ。それなのに……。
ナツさんと俺が平行線の言い争いをするなか、月見さんがすくっと立ち上がった。
月見さんはすっと押し入れを開け、しばらくカチャカチャと何かいじっているような音を出したあと、大事そうにそっとあるものを取り出した。
――それは、銀色に鈍く光る鍵の束だった。
普段は、押し入れの中の小型の金庫にでも保管してあるのだろう。
月見さんは緊張を隠せない声で、しかしハッキリと言った。
「私、マスターキーを持ってます。
念のために、今から106号室を見てみましょう」




