1-1 苦情を言わねば
引越し後に、一番最初に必要になるものが「洗面器」だとは思ってもみなかった。
この現実は受け入れがたい。
だが実際に、悲劇は目の前で起こっていた。
ここは、アパート「プレーヌ・リュンヌ」の105号室。
一人暮らし用1DKで、家賃は月額二万九千八百円也。
設備について話すと長くなるので、説明は後にする。
今はそれどころではないのだ。
そう、とにかく俺は、目の前のことに迅速に対処せねばならない。
ひとまず床に洗面器を置いてみたが、これは一時的処置でしかなかった。
顔を上げて、台所の白い天井を仰ぎ見る。
目を凝らすと、天井の一部に、液体による染みが発生しているのが確認できる。
染みの中心には水のような液体が溜まり、溜まった液体は水滴となって、定期的に床の洗面器の中に落下していく。ポタッ、ポタッ、と。
――絶賛、水漏れなう。
なんでだ。
なんで、引越してきた当日に、新居でいきなり水漏れを発見せねばならんのだ。
この先不安にも程がある。
俺はすぐに、管理会社に苦情の電話を入れることにした。
だが、しかしだ。ここで焦ってはいけない。
俺は「足りないコミュ力を、シミュ力で補う」人間だ。
まあ要するに、人との会話が苦手。相手の顔が見えない電話とか、特に苦手!
苦情言うとかね、すげー難易度高いってば!
だから俺は、今回も念密にシミュレーションをする。
主張と要求を整理して、どのように喋るかをイメージトレーニングするのだ。
そうして俺は、急ぎながらも的確に要点をメモ書きした。
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自分/御社が管理するアパートに、本日入居した灰田。
状況/今日引越してきたばかりの部屋の、台所の天井で水漏れが起きている。
怒り/そちらの紹介で入居したのに、ヒドイ!
がっかりだよ! テンション落ちたよ。
要求/水漏れ、速攻直してくれ(できれば、今月の家賃とか、安くしてほしい?)
都合/工事の日程については、特に希望は特にありません。
そちらの都合に合わせます(※俺の謙虚さ、素直さをアピール)
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うむ、大丈夫。シミュレーション完了だ。
というものの、今回の電話は割と楽なミッションになりそうだ。
なんてったって、俺はまったく悪くない。
引越し当日に水漏れが起きているなんて、買った服に穴が開いているようなもんだ。
俺は困っている善良な被害者なのだから、ごくフツーに喋ればいいだろう。
また、これから電話をかける相手についても、まったく心配ない。
電話をかける相手――この物件を紹介してくれた夏目さんは「優しく・親切・巨乳」という、まさに理想のお姉さんなのだ。
俺は財布から、夏目さんの名刺をそっと取り出す。
名刺には数行の文字列と、連絡先の電話番号が記されていた。
『賃貸トータルサポート!
任せて安心、正直な不動産管理会社です。
株式会社安直コミュニティ 筑緑支店
業務課 夏目奈津実』
最初「安直コミュニティ」という店舗を見たときには「なんて安直なネーミングだろう」と不信感を持ったが、実は「安心、正直」の略らしい。
そこで働く夏目さんと、俺は片道五分間のドライブを楽しんだことがある。
二週間前――このアパートを紹介して貰ったときのことだ。
◇
俺は夏目さんが運転する営業車の、助手席に乗っていた。
「すぐ近くには公園もコンビニもあるし、オススメですよー」
ハンドルを握り、嬉しそうに語る夏目さんの胸元をチラチラと見ながら、俺はどうしようもなくどきまぎしていた。
車の運転を始める前に、夏目さんは紺色のジャケットを脱ぎ、薄手の白いブラウスの上にきっちりとシートベルトをした。
シートベルトは胸の谷間に食い込み、山と谷の高低差をあらわにする。
ことさらに強調される二つの山の膨らみ。うはー、シートベルトってエロいなあ。
また、胸以外にも注目ポイントは多い。
白く透き通った肌に、肩の辺りまで伸びた艶のある黒髪。横顔で際立つ長い睫毛。
唇には口紅を塗っているようだが、ピンクというより桜色と表現したくなる自然な色だった。
本当に、自然体の美人なお姉さんだ。
その日、俺はたまたま見つけた安直コミュニティの店舗前で、掲示板に貼り出されている賃貸物件の間取り図を眺めていた。
すると突然、キレイなお姉さん――夏目さんが、優しく俺に話しかけてきてくれたのだ。
十分後には「オススメ物件の部屋の内見」と称して、ドライブが始まっていた。
これが管理会社の店舗での出来事でなかったら、逆ナンパだ。実に素晴らしい。
「ほら、見えてきました。あの物件ですよ」
夏目さんの嬉しそうな声で我に返り、慌てて視線を前に向ける。
……あれ?
今日のデート先は、心霊スポットだったでしょうか?
ツタが絡まった変なアーチ型の門が、目に飛び込んできた。
その門の向こうには、古ぼけた二階建てアパートが佇んでいる。
見る人をとても寂しい気持ちにさせる、そんな残念なアパートだった。
車はそのまま門をくぐりぬけ、ゆるやかに停車した。
門をくぐりぬけたところが、このアパートの敷地内のようだ。
車数台分の駐車場と、屋根付きの駐輪場、なぜか畑まである。
頬を引きつらせながら車を降りると、夏目さんが明るく溌剌と俺に問いかけてきた。
「灰田さんっ! このアパートの第一印象って、いかがですか?」
「……わび、さび……がありますね」
出来るだけ言葉を選んだつもりだ。
気をつけないと「ボロい」という本音が、口からポロリと漏れてしまう。
築三十年以上の鉄筋アパートと聞いていたので、古いのは覚悟していた。
だが実際に目の前にすると、このアパートは、俺の予想を遥かに超えるボロさだったのだ。
色あせたクリーム色の外壁は、非常に年季が入っている。
いや、入っているのは年季だけではない。あちこちの壁に数々のヒビも入っている。
建物の左右両端には、二階へ上るための白い鉄骨階段があるが、その階段は激しく錆びており、剥がれかけのペンキの白色と赤茶色の錆の色がせめぎ合っている。
各部屋のドアもくたびれており、部屋番号を示す木製のプレートは、今にも落っこちそうだ。
あのドア「ギィ~」って軋みながら開きそうだなあ。
これなら、今入居している質素な大学宿舎の方が、まだマシに思えてしまう。
明らかにテンションダウンな俺を見て、夏目さんは苦笑いを浮かべた。
「まあ、ぶっちゃけ、ボロアパートに見えますよね」
あ、言っちゃっていいんだ。
「確かに、外装は古く見えるんです。で・す・が――!」
夏目さんはにぶく銀色に光る鍵を取り出し、得意げに開錠した。