2-4 本棚にミステリー
七月。
俺は喜びに打ち震えながら、気象庁の梅雨明け宣言を聞いた。
辛く長く湿度の高い戦いがようやく終わったのだ。
梅雨明けの世界は輝いてみえた。
いつの間にか、アパート前の畑には、赤、ピンク、白……と色とりどりの小さな花も咲いているではないか。
思えば五月末の俺は、何もわかっていなかったのだ。
雨の日に、四十分以上自転車を漕いで大学に通うのが、どれだけ面倒なのかということを。
カッパを着ても靴は濡れて、ズボンも濡れる。
太ももまでびっしょり濡れて講義に出ることは、本当に哀しかった。
鈴木にも憐れみをかけられた。何度サボろうと思ったことか。
いや、実際には何度かサボりましたともさ、ええ。
しかしながら、割と俺は頑張った。自分を誉めてあげたい。
そうして梅雨明けの数日後、「七月の第二火曜日」がやってきた。
今日は月に一度の、そばを食べて映画を観る日なのだ。
――午後八時。
205号室の月見さんの部屋で、俺とナツさんはそわそわと子供のように食事を待っていた。
子供が待っているのはお子様ランチが定番だが、大人な我々が待っているのは、そばだ。さすが大人だ、渋い。
と言った先からナツさんは、箸でちゃぶ台をドラム演奏のように叩き
「まだかな~まだかな~♪」と歌っている。
こ、この人のマナーって幼児並だな、おい。
「お待たせしましたー」
月見さんが台所から、大事そうに器を運んでくる。
ちゃぶ台にそっと置かれた器を見て、俺とナツさんは歓喜の声をあげた。
「具よ!」
「具がある……っ!」
そう! 今日のそばは、かけそばではない。
――山菜そばだ。
「月見ちゃん、これって」
「はい。近所の山から採ってきました!」
さすが月見さん。一分の隙もない倹約っぷりだ。
温かい湯気に癒され、ダシの香りに魅せられながら、俺はそばに箸をつけた。
一口食べると、舌に快楽がもたらされ感動で震えがきた。
や、やはり美味い。
山菜を口に運ぶと自然の恵みが口の中いっぱいに広がり、爽やかな野山の香りが鼻腔に抜ける。
そこらへんに生えている山菜も、こんなに旨いとは!
台所へ七味を取りに行った月見さんに、声をかける。
「月見さん、これなら大家より蕎麦屋が――痛ぇっ!」
脚の脛に激痛が走る。
ちゃぶ台の下で思いきりナツさんに蹴られたらしい。ナツさんは鋭い眼光で俺を睨み付けている。
「それ禁句。あたしも前言って、落ち込ませた」
「りょ、了解っす」
七味を片手に戻ってきた月見さんが「さっき呼びました?」と首を傾げ、俺は慌てて「いえいえ」と誤魔化した。
――危なかった。
「月見さん、これなら大家より蕎麦屋が向いてそうですね」は、図星すぎてシャレになってないらしい。
つーか、ナツさんも以前言っちゃったのかよ! まあ、そのぐらいに美味いということだ。
喉ごしを堪能しながら、俺はあっという間にそばを完食した。
「で、今日は何を観るんですか?」
食後に淹れてもらった緑茶を飲みながら、ナツさんに質問する。
そばを食べた後は、俺の部屋105号室に移動して映画を観る予定のハズだ。
「今日は、ホラー映画を借りてきたんだ。人がガンガン死ぬやつ。でも……」
「でも?」
俺の問いかけに、月見さんがおずおずと挙手をする。
「すみません、映画を観る前に、私から灰田さんに相談したいことがあるんです」
月見さんからの相談……。
予想外の言葉に、ちょっと構えてしまう。
「あたしは気にしなくてもいいと思ってるんだけど、月見ちゃんが心配性でさぁ」
緊張感がまるで無いナツさんとは対照的に、月見さんはひどく真剣な表情だ。
「最近、このアパートで不可解な事件が起きているんです」
月見さんは、一呼吸置くと、まっすぐ俺の目を見て言った。
「……灰田さん、推理して頂けませんか?」
おいおいおいおいおい。
あまりにもあんまりなお願いに、顔がひきつる。
いや、あまりにもお願いする相手を間違えていて、思わず失笑しそうになった。
「な、何言ってんですか」
俺が半笑いの表情を浮かべているにも関わらず、月見さんは硬い表情を全く和らげない。
「厚かましいのはわかっています。
でも、実際に気になることが起きていますし、警察に相談するほどでもなくて……。
私ひとりで考えても、どうしてもわからなくって。
灰田さんなら素晴らしい推理を披露して頂けるのではないかと。
私がハーフであることも当てましたし」
「だから、見た目でハーフってわかるんですって。
たいした推理してませんって!」
必死になる俺にナツさんのヤジが飛ぶ。
「推理、得意なクセに。灰田くんのケチ」
ケチとかそういう問題じゃねーよ!
「俺じゃわかりませんよ。推理とか出来ませんって」
そう、俺にあるのはシミュ力であって、推理力ではないのだ。
コミュ力不足を補うため、発達したのがシミュ力である。
要するに、シミュ力は俺のコンプレックスの裏返しでもあるわけで、推理力とは全く違うものだ。
大体、率先して意気揚々と推理する男なんて、どうせイケメンのインテリくんだろう。
俺はそんなキャラには、なりたくてもなれないのさ、けっ。
「あのさあ、灰田くん」
ナツさんは、子供をあやすような不自然に優しい笑顔で、俺に語りかける。
「この前、灰田くんの部屋に入ったときに見たけど、本棚には随分ミステリーが多いのね。だから大丈夫よ、うん。キミなら出来る。やっちゃえ、推理」
アホか。本棚にミステリーが多かったら探偵になれるのか。
だったら、ベストセラーの分だけ、世の中に探偵が生まれるのか。
ちなみに、俺の本棚は見えるとこにはミステリー小説が並んでるが、
奥の棚にはずらりと『愛され☆会話の法則』『人生は会話で9割決まる!』『話題が途切れない無敵マニュアル』などが並んでいる。
それは絶対に知られたくない秘密だ。
「……どうしても、無理、でしょうか?」
寂しそうな表情で、上目遣いで呟く月見さん。
うわ、自覚ないだろうけど、すごく卑怯だ。
うーん、と少し悩んだ。
うぅーん、とさらに熟考した。これが精一杯の妥協点だ。
「推理は出来ません。その事件の内容を聞いても解決も出来ないと思います。
ただ、思ったこと気付いたことを、言うことなら出来ます。
そういうのでもいいですか? 何も役立たないかもしれないけど……」
萎れていた花が咲くように、ぱっと月見さんの顔が明るくなった。
「あ、ありがとうございます! 助かります!」
「もったいぶっちゃってー。よっ、名探偵」
もう一人のヤジは、無視することにした。




