2-1 未曾有の異常事態
俺は平凡なサラリーマン家庭に生まれた。
父と母と妹との四人暮らしの、特筆すべきことがないほどに普通の家庭。
ただ、その普通の家庭を維持するのに、母のさまざまな努力があったとは、物心つくまでよく知らなかった。
うちの家族は父の会社の社宅に長いこと暮らしてたから、ご近所さんというと父親の同僚ばかり。
そのためだろうか、母親は近所づきあいについて、非常に細かやな気配りをしていたのだ。
俺は一人暮らしを始める際、そんな母からご近所マナーをクドいほどに何度も聞かされた。
引越し時の挨拶を欠かした者は不幸になる、ゴミの分類を間違えた者は呪われる、夜中に騒音を出した者は地獄に堕ちて業火で焼かれる、などなど。
ちょっと大げさだがそんな感じ。
とにかく人に迷惑をかけず、静かに生活しろと口を酸っぱくして言われた。
大丈夫ですよ、お母さん。
俺はそんな非常識人間じゃありませんって!
◇
――プレーヌ・リュンヌの105号室である俺の部屋は、実に平凡な部屋だ。
205号室の月見さんの部屋のように質素でもなければ、206号室のナツさんの部屋のようにインテリアカラーがあるわけでもない。
今、俺の部屋のカーテンは緑色で、布団カバーは水色だが、それはたまたまそれが安かったからだ。
部屋の中央には木製のローテーブルがあり、俺はそこでいつもご飯を食べている。
食後は、黒いパイプベットに寝転がり、本を読んだりする。
あ、本棚は割と立派で充実しているかもしれない。本にはそれなりにこだわりがあるのだ。
そんな俺の愛すべき平凡な部屋では、今、未曾有の異常事態が発生していた。
本日は平日火曜の午後十一時過ぎ。
こんな時間は、もう真夜中だというのに、女性二人が俺の部屋に押しかけ、はしゃぎまくって大声をあげているのだ。
「灰田く~ん、りんごジュースと氷貰うねー。ていうか、お酒ないの~?」
「すごい! ベットで寝てるなんて、ブルジョアでセレブですー!」
冷蔵庫をパカパカと勝手に開けるナツさんと、ベットひとつに感嘆の声をあげる月見さん。
ああ、イノシシが民家に乱入してきたような大騒ぎだ。
俺は、声を大にして言ってやりたい!
お前らは、このアパートの管理会社社員&大家だろー!?
絶叫の言葉をぐっと飲み込み、俺は両手を広げ、牧師のように柔らかに冷静に語りかける。
そうだ、感情的に訴えることは非効率的だ。
「あのー、そんな大騒ぎ、近所迷惑だと思うんですよ。
ナツさん、管理会社の正社員ですよね。
アパートにおける騒音の住民トラブルってどう思います?
もう少し静かに話しませんか?」
ナツさんはコップを片手に、ひらひらと手を振る。
「堅いこと言わないの! 気にしなくても、へーきへーき」
「ナツさんがそう仰るんなら、安心です~」
俺は思わず頭を抱えた。
ダメだこいつら。両隣から苦情来たらどうしよう、マジで。
引越しの日、両隣の人に挨拶したときを思い出す。
アパートを正面から見て、俺の左隣104号室には、少し不機嫌そうな中年男性が暮らしている。
また、俺の右隣106号室には、おっとりした感じの若い女性が暮らしている。
俺は隣人それぞれに対する謝罪のシミュレーションを始めていた。
うーむ、「知人が突然やってきて勝手に騒いじゃって」って、正直に言っても許してもらえないよなあ。
悩んでいる俺の様子をうかがうように、月見さんが恐る恐る話しかけてくる。
「あのぉ、灰田さん。すみません、平日の夜に突然お邪魔しちゃって。
明日も朝から学校があるんですよね?」
「いえ、それは大丈夫です。久しぶりに話せて嬉しいですし」
社交辞令ではなく、これは正直な気持ちだった。
先日そばを食べさせてもらって以来、月見さんとは挨拶程度しか顔を合わせていなかった。
アパートの住民同士なんてそんなもんだ。
しかし、こうして久しぶりにゆっくり話せると、やはり月見さんは癒される天使だ。
そして、その天使を懐柔しているのが、テキトーでいい加減な小悪魔のナツさんだ。
ナツさんは冷蔵庫のりんごジュースをごくごく飲んだ後、上機嫌で語る。
「ごめんね、灰田くん。あたしの仕事って明日の水曜が休みでさ。
お休み前夜ってテンションあがるじゃない?
どーしても映画見たくなっちゃったわけ。
で、灰田くんブルーレイ持ってるし、テレビ画面もあたしのとこより大きいみたいだしさ~」
「テレビ持ってるなんて、すごいですー。うちにはテレビありませんよー」
「ほら、この子もテレビ見たがってる。
テレビをこんなに見たがるなんて、昭和中期の子っぽくて、健気。泣けるぅ」
月見さんを盾にするとは、なんつー奴だ。
しかも、その月見さんも、両手を祈るように組み、水色の瞳を宝石のようにキラキラさせているから困る。
そんな目で上目遣いされたら、俺はもう降参するしかない。
「まあ、いいですよ。俺もその映画、観たかったんです。
ちょうど大学受験の前で、映画館には観に行けなかったけど」
「えー、ホント? じゃあ、ちょうどいいじゃん!
さすが灰田くん、心が広い!」
「ナツさんも灰田さんも観たい映画って、私も興味ありますー。楽しみです」
女性二人の万歳や拍手喝采を浴びながら、映画を観る準備をする。
ブルーレイを起動させると、月見さんの「ぶんめいかいか……」という呟きが聞こえてきた。
ふと思い出して、この前コンビニで買ったポテトチップスを出す。
月見さんは「おおお……神の食べ物です」と恐れおののいた。可愛い。
と、ここまでは概ね平和だった。
しかし、映像が流れ始めると、ナツさんは信じられない暴挙に出た。
「映画は大音量で観なくっちゃね!」とばかりに、
深夜にも関わらず音量を上げまくったのだ。
俺は思わず「ひぃぃぃいいい!」と叫ぶ。
怖い! 隣人からの苦情が怖い!
「あはは! まだ宣伝映像なのに、怖がっちゃってもう~」
「なんで音量上げるんですか! リモコン返してくださいっ」
次の瞬間、ナツさんはリモコンを胸の谷間に挟んだ。
「取れるもんなら、どうぞ」
うわ、巨乳の無駄遣いだ! バカ!
俺は冷静さを装いつつ、テレビ本体のボタンで音量を下げた――直後、ナツさんがリモコンで音量を上げた。
そんなことを五回ぐらい繰り返した後、俺は……諦めた。
俺たちの様子を眺めて、月見さんは朗らかに微笑み、幸せそうにニコニコしている。
「なーんか、楽しいですねえ」なんて言って。




