1-9 そゆこと
夏目さんは「ん~」と唸り、やがてゆっくりと喋り出した。
「……うーん。管理会社ってさ、八方美人なんだよ。
大家から信頼を得られるようにして、リフォーム工事業者とか関連会社とも仲良くして、入居者にも満足してもらうのが使命。
でもさ、『大家と業者』『大家と入居者』の利益って、それぞれ相反してるよね?
わかる?」
「それは俺もわかりますよ」
大家は出来るだけ家賃が高い方がいい、入居者は安い方がいい。
部屋の工事にかかるお金も、大家は出来るだけ安い方がいい、工事を請け負う業者としては高い方がいい。
片方の得は、片方の損だ。そういうことだろう。
「じゃあ、これもわかるよね?
水漏れがあったとき、業者の営業時間外に特急で業者を派遣したら、その分、料金がかかるよね。
『特急夜間サービスの料金』も大家、または管理会社が費用負担しなきゃいけないから、大家のことを思うと、なるべく安い料金で片付けてあげたい。
保険の範囲内にしてあげたい」
少しトゲのある表現かもしれないが、俺は自分の理解をそのまま質問として口にした。
「つまり……入居者にちょっと我慢してもらった方が、大家の満足に繋がるってわけですか?」
肯定の意味なのだろうか。
俺の質問には答えず、夏目さんは鼻の頭を掻いて言葉を続ける。
「ま、この前の件は全て保険で片付いてよかったよ。
ちなみにうちの社長は、ひたすらケチね。
あたしはその会社からお金を貰って、生活してるわけだけど」
なんとなく、夏目さんの言いたいことはわかった。
「つまり、入居者が求める『管理』と大家が求める『管理』って、適正が違うんじゃないかってことですか?」
ナツさんはふふっと笑う。
勉強している弟を誉める姉のような、大人の微笑だった。
「さっすが、現役大学生。まとめ方がうまいねー。
つまりはバランスの問題なの。わかるよね。
具体的に言うと、水漏れがポタポタ程度ならすぐには対応しない。
水漏れが噴水レベルならすぐに業者手配するけどね。
あと、ぶっちゃけ、三万の家賃の部屋と、二十万の家賃の部屋では、優先順位も変わっちゃうよね」
正直むっとするが、言いたいことはわかる。
だが、自分の部屋で水漏れが起きていて、いつ悪化するかわからない不安感は、やっぱり忘れられない。
「そちらの事情もわかりますけど、だったら電話切って無視しないで、一週間以内に手配するとか二週間かかるとか、先の見通しを言ってくれればいいじゃないですか」
「……出来るだけ無視しろってのが、うちの会社の方針だからさー」
やっぱりひどいよ、この管理会社!
「あー、そんな目であたしを見ないでよ。せっかく正直に喋ってあげたのに」
夏目さんは頬っぺたに空気を溜めて、ぷぅっと膨れる。
確かに、夏目さんは包み隠さず正直に喋ってくれた。ひどいなりに考え方はわかった。
じゃあ、次だ。
俺は正座したまま軽く咳払いをして、できるだけ冷静に問いかけた。
「次の疑問です。なぜ、俺の部屋とこの部屋は、こんなにも違うんですか?
いえ、はっきり訊きます。
――俺が住んでる105号室は、事故物件なんですか?」
今度こそ、夏目さんがきょとんとした。
それから、あははっと笑う。
「あははは! 灰田くんって面白い人だねー。どして、そう思ったの?」
「え、だって、俺の部屋だけゴージャスにリフォームされてるじゃないですか。
過去に何かあったのかなあって、思って」
「あははは! おっかしー」
目に涙を浮かべ、全身で笑い転げる夏目さん。
脚をバタバタさせたからだろうか、スーツのスカートが際どく捲れあがり、も少しでパンツ見えそうだ。
これは演技なのだろうか、こうやってシラを切るつもりだろうか。わからん。
何せ、最初の案内の時には営業スマイルだったわけで、俺は演技を見破れるかどうか自信がない。
「……あ、あれ……?」
か細く高い声が、畳部屋から響いてきた。
大声を出し過ぎたのだろうか、寝ていた月見さんが目を覚ましたようだ。
「おっと、灰田くん。この話はまた後で」
そっと人差し指を唇につけウインクする。
うわあ、この人は小悪魔だ。
恥ずかしくなっている間に夏目さんは、月見さんの布団へと近寄っていた。
「……あ、ナツさん……、あ、灰田さんも……」
目を覚ました月見さんは薄幸の姫君のようだ。
やんわりとした微笑と戸惑いの表情を浮かべ、俺たちを交互に見てはゆるやかに頭を下げる。
「月見ちゃん、大丈夫? もー、心配したんだから。あ、ここまで運んだのはあたしだよ」
「ナツさんごめんなさい……。私、いつもいつもナツさんに甘えてばかりで……」
「やだ、気にしないで。あたしと月見ちゃんの仲じゃない。ね?」
何か嫌なものを見てしまった。他人事ながら、非常に心配になる光景だ。
俺はぴったりの表現を思いついてしまった。
――天使が、小悪魔に懐いている。
恐縮しまくる月見さんに「とにかくゆっくり休んでね」という言葉を残し、俺と夏目さんは205号室を後にした。
ドアがガチャリとしまった直後、夏目さんは俺の耳元で囁いた。
「じゃあ、さっきの話の続きをしようか。あたしの部屋で」
そうして、数歩ほど歩き、夏目さんは206号室のドアをガチャリと開けた。
◇
「何か喋ってよ。あたしの方が緊張するじゃん」
確かに俺は206号室に入ってから、一言も言葉を発していなかった。
その間に夏目さんは上着を脱ぎ、ティーバッグで紅茶を淹れる。
一つがマグカップ、一つがお茶碗に淹れられた紅茶だ。
茶碗の方が、俺用らしい。マジか。
俺は茶碗の紅茶を啜りながら、あらためて部屋の中をそっと見回した。
白いローテーブルや、白いチェスト。家具は白色で統一しているらしい。
クッションやカーテンなどは、水色やブルーで統一。すっきりして、かつ爽やかなインテリアだった。
いやしかし、注目すべきはインテリアではなく、この部屋自体の内装だ。
床はフローリング、部屋の壁に設置してあるインタフォンはモニタ付き、風呂とトイレを確認しなくてもわかる。
――この部屋は、俺の105号室同様、豪華にリフォームされた部屋だ。
テーブルの向かい側に、夏目さんがすとんと腰を下ろした。
俺は念のために、確認の質問をする。
「ここは夏目さんの部屋、なんですよね?」
夏目さんは大きく胸を張り、スラスラと答えた。
「そうよ。部屋を探しに来たキミに、この物件をオススメしたのは嘘じゃないのよ。
あたしは本当にこの物件って、お得だなーって思ってる。
自分が住みたくなるぐらいにね。確かに案内の時には営業スマイル増量だったけどさ」
そうか。じゃあ、さっき夏目さんは自分の部屋に帰ろうとして、俺たちと出会ったということだったのか。
小さな納得をする。
夏目さんはローテーブルに肘をつき、むくれたように頬を膨らます。
「さあ、わかった? リフォームされているのは、キミの105号室だけではないの。
そんな変な勘違いで事故物件なんて思われたら、こっちだって気分悪いわ。
第一、何か事件があってリフォームしたのだとしたら、その次に貸す人に対しては、事故物件の説明義務がある。
いくらあたしでも、その辺のルールは守ってるわよ」
「す、すいません」
思わず頭を垂れ、心の底から謝ってしまう。
確かに俺は誤解していた。なぜ、こんな誤解をしてしまったのか。
205号室の月見さんの古ぼけた内装を見たからだ。
ということは……。
そうだ、逆転の発想だ! つまり――
「もしかして、205号室だけリフォームがされてないんですか?」
「そゆこと」
夏目さんはあっさり認めた。ああ、そういうことだったのか!
心のつかえがとれた俺は気も緩み、少し饒舌になってしまう。