迷い子は森の中
「リゼ様、お目覚めになられましたか?」
キャルがいつもの様に部屋に入って来くるのを見計らい、リゼは慌ててベッドに潜り込んだ。キャルはいつもの様に部屋中のカーテンを勢い良く開き、差し込む陽の光に目を細めていた。
「頭が痛いの……」
布団にもぐったままで、リゼが弱々しく訴えると、キャルは心配そうな顔をして彼女に近づき、そっとおでこに手を当てた。さっきまで部屋の中を跳んだり走ったり、動き回っていたリゼの頬はうっすらと紅くなっていた。
「少しお熱がありそうですね。お薬をお持ちします」
そう言って早々に立ち去ろうとするキャルの袖を掴んでリゼは引き止めた。
「ゆっくり眠れば大丈夫。それより、キャルの作ったフルーツケーキが食べたいの」
リゼが目を輝かせながら頼むと、キャルは嬉しいような困ったような顔をした。どんなに不満に思う事があっても聞き分けの良いリゼが、こうして我がままを言うのはキャルに対してだけだった。
「作るのに時間がかかりますし、あれの材料は街の外れまで行かないと手に入りません。リゼ様をお一人にするのは……」
「ちゃんとお薬をのんで、しずかに寝てるから。ね?」
そう言いながらリゼは両手を合わせた。
「おねがい。あれを食べたら元気になる気がするの」
しばらく困り顔で悩んでいたキャルだったが、結局は愛らしいリゼの訴えに負け、材料を買いに出掛けることになった。
キャルの後姿を窓辺から見送り、リゼは布団の中に枕や服を詰めて人が寝ている様に装った。
リゼはこの日の為に、気付かれないように少しずつ品物を集めていた。歩きやすい靴、目立たない服装、長持ちしそうな食べ物や水、小さなナイフなどの備えをベッドの下から引きずり出すと、手早く準備を整えた。
国王のディーンは森の火災の状況を調べに昨晩から外出していた。ここ数日は女王のルフナが一人で出掛けたという話しはなかった。リゼはこの好機を逃すまいと、誰にも見つからないように慎重に廊下を進み、ルフナの部屋の近くの柱の影に身を潜めた。
薬草を取りに庭園に潜り込んだ時、ルフナが辺りを気にしながら城から抜け出す所に遭遇し、何の準備もなく後を追ったが、少し目を離した隙に湖のほとりで見失ってしまった。その後は尾行どころか、一人になろうとしただけでも何度となくキャルに見つかり、彼女を撒いている内に見失ったり、城で働く人々に遭遇せずに外出するのは至難の業だった。
もしも、今日がダメだったら諦めた方が良いのかも知れないと考えながら、リゼはその時をじーっと待っていた。
侍女がやって来てルフナの部屋の扉をノックした。しばらく待っても返事はなく、再度ノックをして中を覗くと来た道を戻り、廊下の突き当たりに立っている男に文句を言った。
「部屋にいないじゃない」
「あれ? 変だな。人手不足で昨夜から交代なしだったんだぜ。ここを通ってないから、てっきり」
「あんた、立ちながら寝てたんじゃないの」
「そんな筈ないだろう」
「どうだか。それにしても、出掛けるなら言ってくれればいいのに」
愚痴をこぼしながらも二人は世間話を始めた。リゼは二人が話に夢中になっているのを横目に、母の部屋に忍び込んだ。人気のない部屋の中を見回していたリゼは、パチッと薪の爆ぜる音に驚いて振り返った。見ると、暖炉の木がまだ燻って細い煙を棚引かせていた。近づくと暖炉の奥の壁から僅かに光がもれていた。不審に思って壁に触れると、扉が開き下り階段へと続いていた。城内にはいくつもの隠し通路が張り巡らされている。この様な通路がいくつもあるらしいが、リゼは見るのが初めてだった。
「すごい、こんな風になってるんだ!」
通路には等間隔に明かりが灯され、途中で折れ曲がっているので出口は見えない。リゼは意を決して足を踏み出した。
どのくらい歩いたのか、リゼの感覚では城を一周りするくらいの距離だったが、ルフナの姿も出口らしき物も見当たらない。
「おかしいな? ほかに道なんてなかったのに……」
不安に駆られながらも歩みを進めていたリゼを待っていたのは行き止まりの壁だった。
「うそでしょう……ここ戻るの? つかれちゃったよー」
全身の力が抜ける様に座り込んで壁に寄り掛かると、ゆっくりと壁が動き出し、その事にリゼが気付くと同時に勢い良く回転し、リゼの体はあっと言う間に通路の外へと放り出されていた。
「びっ、くりしたー」
仰向けにひっくり返ったリゼの目に、青い空と緑の生垣が映った。服に付いた埃を払い、目の前に生い茂っている木々をすり抜けて辺りを見渡すと、そこは前にルフナを見失った湖のほとりだった。
どちらへ行ったのか、何か手掛かりは無いか探っていると、水辺に紫色をした水あめの様に光る玉が空中に浮いているのに気付いた。
リゼは不思議に思いながらも右手の人差し指で突っついてみた。すると、パチッという静電気の様な痛みと眩しい光が発せられ、思わず目を瞑った。
両手で目を押さえたが、強い光でしばらく目がチカチカしていた。目の痛みが治まると、指の間から恐る恐る覗いてみた。そこはいつの間にか大木に囲まれた薄暗い森の中だった。
「…………なんで?」
「道に迷ったら動き回らずその場で待つか、近くの人に尋ねるように!」とキャルに口をすっぱくして言われていたリゼだったが、外出する事をキャルにさえ隠していたのに、待っていて助けが来る事を期待はできなかった。あてども無く歩き、どれだけの時間が経ったのか。自分がどこへ向かっているのか、無事に帰れるのか不安が胸に広がって行き、リゼは段々と泣きたくなるのを堪えるのに必至になり、大木の根元に蹲る様に座り込んだ。
「こんなハズじゃなかったのに……」
リゼは無理にでも心を落ち着かせようと深呼吸を繰り返した。そうしていると、気が抜けるような音でお腹が鳴った。
「あ……」
具合が悪い振りをして朝食を余り食べなかった事を思い出して、お腹を軽く摩った。
「そうよね。きっとお腹が空いているから気分がしずむのよ」
リゼは一人で納得したように笑い、持っていた袋の中からお菓子と飲み物を出して口に運んだ。
右を見ても左を見ても、上を向いてもリゼの何倍もある大木が視界を狭めている。
「さて、どうしよう?」
リゼはお腹が一杯になり眠気を感じながらボーっとしていた。すると、どこからか微かに女の人の歌声が聞えて来た。リゼはパッと体を起こし、疲れ切っていた事も忘れて声がする方へと走り出した。
辿り着いた先には、一面に赤い花が咲き誇り、草木も気持ち良さそうに風に揺られている。その真ん中辺りに、真っ黒なマントに身を包んだ女性が佇んでいた。
その姿を見つけた瞬間に、リゼは胸が熱くなり自然と涙が零れ落ちていた。
人と出会えた事に安堵したのだろうかと思いながら、リゼは溢れる涙を手の甲で拭い、女性の方へ歩き出そうとした。その時、突風が吹き抜け、目深に被ったマントと体中に巻かれた布の隙間から真っ黒な肌が覗いた。その日焼けとは明らかに違った異質さに、リゼは声を掛ける事を躊躇った。相手はそんなリゼの存在には気付かず、背中を向けてゆっくりと歩き出してしまった。
「あ、待っ……」
リゼは思わず声を掛けて飛び出していた。マントの女性はゆっくりと振り返ると、リゼの姿をしばらく見据えていた。
「あの、わたし道に迷ってしまって。街へ行く道を知りませんか?」
リゼは少し顔が引きつったが、できるだけ丁寧に尋ねた。けれど、相手はその場に立ったまま身動き一つしない。沈黙が続いてリゼは不安に駆られたが、噂の事を思い出してハッとした。
「わたしリゼです。もしかして、ルフナお母様とお知り合いではないですか?」
ルフナが森の中にある親戚の家にお見舞いに行っているという噂が本当なら、この人の事かもしれないとリゼは考えたのだが、ルフナの名を口にした瞬間に女性の表情が陰った。
リゼは何か悪い事を聞いてしまったのかとハラハラしながら女性が何か言うのを待っていたが、リゼを見つめたまま微動だにしなかった。
リゼは何となく自分を真っ直ぐに見つめる女性の視線から目を逸らし、あらぬ方向を見ながら、どうしたら良いか思案していた。
「……どうやってここへ?」
「ふぇ?」
不意に女性が声を発したのに驚いて、リゼは間抜けな声を出して体をビクつかせた。リゼが気付かぬ間に、女性はリゼの直ぐ近くに立っていた。
「あ、えっと……気付いたら森の中で、街への道を探してたら歌が聞えて……」
もじもじしながら答えるリゼを女性はただ静かに見ていた。
「道をおしえてもらえば帰れるので」
リゼが上目遣いで女性を見ていると、女性はリゼの頭の上に右手をかざした。リゼは何をしているのか不思議には思ったが、何故か不安や嫌悪感は全く無かった。しばらくすると、女性はフウッと息を吐いて何事も無かったかの様に背中を向けて歩き出した。
「あ……」
リゼが慌てて声を掛けようとすると、女性は立ち止まって振り返った。
「ついてらっしゃい」
「でも……」
「街の近くまで案内しましょう。ただ、一つだけ条件があります」
リゼはその言葉を聞いて慌てて袋の中に手を突っ込み、こっそり持って来た硬貨を差し出した。
「少ないかもしれいけど」
それを見た女性は静かに首を振った。
「対価は必要ありません。絶対に私には触れないで欲しいのです」
その言葉にリゼはルフナの事を思い出していた。ルフナはいつも真っ白い手袋を着け、煌びやかなドレスに襟元までしっかりと包まれ、頭の飾りには顔や髪を覆い隠す様な薄手の布が付いている。「他者に触れる事を恐れる心の病気なので仕方が無いのだ」とリゼは何年か前に父親のディーンから聞かされていた。
そのせいもあってか、リゼは女性が全身を布で覆っている姿を見ても不信感を抱く事は無かった。また、女性がルフナと同じ病気なら最もな条件だとリゼには思えた。
「わかりました」
リゼがそう言って微笑むと、女性も微かに笑みを浮かべたように見えた。
「行きましょう」
「あの!」
リゼが呼び止めると女性は不思議そうにしていた。
「お願いが……」
リゼが口ごもっていると女性は彼女の傍にしゃがんだ。
「あの、そ、その……な」
「何ですか?」
「名前をおしえてください!」
リゼが何とか思い切って告げると、女性は驚いた様な眼をリゼに向け、少し考えていた。
「他の人に言わないと誓える?」
「えっ? ……はい!」
リゼは戸惑ったが、そう答えないと教えて貰えない気がして自然と返事をしていた。
「私はラミン」
「ラミン」
リゼが繰り返すとラミンはどことなく嬉しそうだった。その姿にリゼは何故かまた胸が熱くなり泣きそうになった。