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亀の足音  作者: 青砥緑
3/3

 翌日、有紀が大学から帰ると周一は持参した問題集を解いていた。おかえり、と言う様子はどっしりと落ち着いてまるで家出中という気配がない。

「ねえ、あんたいつまでここにいるつもりよ」

 周一はペンを下ろして、上目づかいに有紀を見た。

「帰らなきゃ駄目かなあ」

「大学入る気ならね。いつまでも学校休めないでしょ」

 二人の視線は開かれたままの問題集に向かう。周一は項垂れた。

「やだなあ」

 有紀は周一をねめつけた。

「甘ったれないの。あんた、私がいるだけ恵まれてんのよ。そこんとこ、もうちょっと感謝してほしいわね」

 最初の家出騒動のおかげで高校生の有紀は地元ではかなりの有名人だった。どこへ飛び出してもすぐに親に通報がされ有紀には安心して逃げ出せる場所は無かった。今度こそはと訪ねる新たな友人宅でも親から親への通報は徹底されていた。最後の方は家を飛び出すことよりも、どこまで行けば親の手の中から逃れられるのかを試すことが目的になっていたように思う。

「そんなこと言っても姉ちゃんだって、年がら年中飛び出してたじゃん」

「私とあんたじゃ事情が違うわよ。私はね、同じ居場所がないなら、自分の家より他人の家の方がマシだったのよ。なくて当たり前なんだから」

 有紀の言葉が形を持って周一を打ったように、周一は顔を顰めた。

「今でも、そんな風に思ってるの?」

 有紀はふんと鼻で笑った。

「思ってるって、それが事実よ」

 有紀の言葉に周一の顔つきが変わった。有紀を睨む表情は彼女の記憶にあるどの周一とも違う。

「まだ父さんが姉ちゃんなんかいらないって思ってるとか言ってんの? 俺の方が大事なんだろうって?」

 周一の頬は紅潮し耳朶までが赤く染まった。それでも声を荒げない抑制は既に子供の怒り方ではなく、かえって凄みがあった。有紀はどこか言い訳めいた早口になる。

「別にあんたを恨んでるわけじゃないわよ。あんたが恵まれてるのはあんたの責任じゃないし」

 周一は鋭く有紀を遮った。

「姉ちゃんはさ、自分ばっかり可哀想だと思ってるよね」

 周一の唇が歪む。

「昔っから悲劇のヒロイン気取りだよね」

 有紀の喉は怒りに詰まった。

「正直言って迷惑なんだよ。勝手に不幸ぶって、一人で無理してなんでも背負いこんでさ。俺に親をとられましたみたいな顔してさ。そんなことされて、俺だけ親に学費出してもらって平気で大学いけるほど能天気だと思ってた? 何にも考えないと思ってた?」

 周一は答えられない有紀を見つめる。

「父さんと喧嘩したのは、姉ちゃんと仲直りしてくれって言ったからだよ。俺に学費出す気なら、その前に姉ちゃんと話してそっちにも学費出してくれって」

 途端に有紀は目の前が真っ赤に染まった。

「そんなこと頼んでない! 何も分かってないくせに勝手なことしないで! 放っておいてよ!」

「いい加減にしてくれよ!」

 大きな声に頬を張られたように有紀は口を閉ざした。周一は肩を落として苛立ったため息をつく。

「なんも分かってないって。じゃあ、姉ちゃんに俺のことが何か分かるわけ? 姉ちゃんに私の居場所がないって言われるたびにお前が盗んだって言われてるように聞こえんだよ。俺が邪魔だって。俺がいなけりゃって」

 周一はじっと有紀を見つめる。

「姉ちゃんはそうやっていつまでも拗ねてりゃいいのかもしれないけどさ、そのために俺に悪役押し付けないでよ」

「そんなこと……」

 有紀は目を逸らした。周一はすっと立ち上がる。

「頭冷やしてくる」

 有紀は何一つ言い返せずに、乱暴に玄関が閉ざされる音を聞いた。

 周一の足音がすっかり遠ざかった後、有紀はテーブルの上にだらりと突っ伏する。

「迷惑……ね」

 窓に目をやれば外は綺麗に晴れ渡った秋の青空。部屋の中から見ていれば心地よさそうな天気だ。しかし静まった部屋で耳を澄ませればいつの間に吹き出したのか北風がうなりを上げている。その温度や叩き付ける風の強さは外に出てみなければ分からない。

 有紀はただ、周一が寒い思いをしているだろうと思った。




 周一が家の鍵を持ったまま出てしまったことに有紀が気付いたのは、周一が飛び出した一時間も後だった。落ち込んでばかりもいられないとバイトに出かけようとしてようやく気が付いた。

「バカ周! どこまで頭冷やしに行ってんのよ」

 毒づきながら有紀はどこかにあるはずの合鍵を探した。これまで一度も出番はなかったが、万が一の紛失に備えて用意だけはしたはずなのだ。しかし、いざ必要だとなると見つからない。有紀は諦めてバイトを欠勤することを決めた。一晩で八千円のロスは痛いが、施錠しないで出かけた家に暗くなってから帰ってくるのはあまりに不用心だ。

 鍵があまりに見つからないので、探し物を不動産屋の連絡先に切り替えた。ところが、これまた見つけようとすると出てこない。そうこうしている内に、どこからか夕食の良い匂いが漂ってきた。

「あー、もう!」

 ごろりと寝そべった有紀は鼻をひくつかせた。肉の焼ける匂いが空腹を刺激する。

 肉の匂いは至極最近の記憶を呼び覚まし、有紀はぱっと身を起こす。鍵は一軒一軒異なるが、管理している不動産屋はアパート中どの家でも一緒だ。不動産屋の連絡先ならば隣近所に聞くことができる。

 有紀はスニーカーをつっかけて家を出た。階段を上り戸村の家に向かう。戸村なら不動産屋の連絡先も知っているだろう。朝一番で電話して合鍵を都合してもらえば明日はバイトにいける。


 有紀がチャイムを鳴らすと、すぐに台所でガシャンと大きな物音がした。驚かせてしまっただろうかと有紀は首を竦める。

「……どなた?」

 扉の向こうからの声には予想していた苛立ちの代わりに警戒感が滲んでいた。有紀は殊更に明るい調子を心がけて返事をした。

「突然すみません。一階の緑山です。ちょっとお伺いしたいことがあって」

「え?」

「不動産屋さんに連絡したいんですけど、連絡先が分からなくて」

 短い返事の後、いくら待っても扉は開かない。代わりに家の中から大きな物音がした。それと僅かな悲鳴。

「あのう、戸村さん?」

 恐る恐る声をかけるも、返事がない。有紀の声は段々と大きくなった。呼びかけながら扉を拳で叩く。玄関の鍵を開けようとしてふらりと倒れる戸村の姿ばかりが頭に浮かんだ。

「戸村さん! 戸村さん! 大丈夫ですか?」

 もう一度、拳を下ろそうとした有紀の前で扉が開いた。自力で立っている戸村の姿にほっとする暇もなく有紀は肩を突き飛ばされて廊下に転がった。

「わっ、え?」

 有紀は口を開いたまま、凍り付いた。尻餅をついた有紀を見下ろしている戸村の目は血走り頬は蒼白だった。どろりとした瞳からは理性が感じられない。尋常ではなかった。それを裏付けるように普段の戸村からは想像もつかない怒声が響いた。

「とうとう本性を現したわね! あんた、ずっとうちを探っていたんでしょう!」

 一切の容赦のない怒鳴り声に有紀は反射的に身を丸くした。

「毎朝、毎朝。うちの郵便受け覗いてたの知ってるわよ」

「そんなことしてません!」

 戸村は有紀の声が聞こえないように続ける。

「渡さないわ。あんたみたいな人さらいに渡す子供なんかいない!」

 戸村の口から飛んだ唾が有紀の頬にかかった。

 有紀は混乱した。戸村の郵便受けなど触れたこともなければ戸村の子供など見たこともない。呆然と頬を拭う有紀に向かって渡さないと繰り返す戸村の声の調子はどんどん外れていく。有紀は怖くなって尻餅をついたまま後ずさった。

 にじっている最中に仁王立ちの戸村の足越しに家の中が見えた。

 有紀の手足は硬直し、視線は薄暗い床の上を這った。

 開きっ放しの扉の奥の床はあちこちささくれて白く見えるほどに多くの傷跡がある。傷跡の中に椅子。椅子の足には鎖。鎖の先には黒ずんで変色した女の足首。

 有紀は震えながら立ち上がり、家の中を指さした。

「あれ……」

 立ち上がれば女の全身が見える。椅子には若い女が腰かけていた。ぐったりとした様子の若い女。伸び切った髪が半ば顔を覆っている。

「まさか、死……?」

 有紀は声にならない悲鳴を喉に張り付かせた。その目の前で乱暴に扉が閉じられ、視界に戸村が割り込んでくる。

「渡さないわ!」

 有紀はもう一度突き飛ばされて今度は錆びた金属の柵に腰を強かに打ち付けた。鈍い音が廊下中に響く。有紀は痛みに崩れ落ち蹲った。その肩を、背を戸村が蹴りつける。頭を抱えて丸くなる有紀の上から、意味不明の叫び声が浴びせかけられた。

 有紀の腕は恐怖に震え、立ち上がることさえできない。

 罵声の合間に階段を駆け上がる軽い足音が響いた。

「姉ちゃん!」

 有紀を蹴りつける足が止まった。有紀の顔の脇を臙脂色のつっかけが駆け抜けていく。戸村の雄たけびのような声が聞こえた。

 何とか顔を上げた有紀の視界に黒いキャップのつば、そしてぐらりと傾いて階段を落ちていく戸村と宙を舞う臙脂色のつっかけが一足映った。

「周!」

 有紀は四つん這いのまま階段へ向かった。階段の下では戸村と周一が折り重なるように倒れている。周一はぴくりとも動いていないように見えた。

「周一!」

 有紀は手すりに縋って階段を駆け下りる。何とか起き上がろうとしている戸村を背中から押しのけて周一に取り縋った。

「周! 周! 周一!」

 騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた近所の住民が戸村を取り押さえ、警察と救急車を呼んだ。

 サイレンが近づいてくる間、有紀は周一の名前を呼び続けた。




 救急搬送された周一は脳震盪と診断され一時間も経たずに目を覚ました。本人は平気そうにしていたが、念のために一晩の入院を勧められた。断る理由のない二人はその夜を病院で過ごした。

 深夜、眠りにつけない有紀はずっと周一のベッドの隣に腰かけていた。

「周」

「何?」

「起きてる?」

「うん」

 二人部屋しか空きが無かったという病室のもう一つのベッドからは安らかな寝息が聞こえている。夜中にひそひそ声で話し合っていたのは有紀が中学に入る頃までだっただろうか。久しぶりに声を潜めると、その頃に戻ったように二人の距離が近づいていくような気がする。

「あのね」

 有紀はゆっくりと息を吸う。

「周がいなければいいなんて、思わない。もう、絶対」

 天井を仰いだままの周一の目が細まり、口角が僅かにあがる。有紀は仰向けの人が微笑む顔を初めて間近に観察した。

「もうって何だよ。やっぱり、思ってたんじゃん」

「ごめん。思ってた。本当は」

 白いシーツに顔を埋めて有紀は「ごめんなさい」と繰り返した。有紀は意識のない周一を抱いている間、ずっと懺悔していた。周一にも思いつく限りの神様にも、何度も謝った。いなければいいなんて、もう二度と思わないから周一を死なせないでくれと願っていた。有紀にとって実家は暮らしにくかった。弟さえいなければ、こんな惨めな気持ちにはならないのではないかと思ったのは本当だ。それを言えば父の愛情を羨んでいるようで悔しかったから押し隠していたつもりだったけれど、きっとそれは言葉の隙間から漏れ出して周一の心に届いていたのい違いない。有紀は知らぬ間にどうして生まれてきたのかと周一を責め続けていたのだ。そのことに周一は何の咎もないにも関わらず。

「ひでえなあ」

 周一の声は穏やかだった。

「ひどい姉弟だなあ」

「ごめんって」

 有紀がシーツから顔を上げると、周一は天井を見たままぽつりと言った。

「俺も、思ってたよ」

 有紀は小さすぎる声を聴きとるために身を乗り出した。

「姉ちゃんがいなければ、俺、こんな面倒くさい思いしないで済むってずっと思ってた。姉ちゃんが荒れれば荒れるほど、母さんは俺に厳しくなったしさ」

 周一の告白は有紀にとっては意外なもので、意外だと思ったことが有紀はおかしかった。思わず笑いが零れる。

 どうして自分は周一に憎まれていないと信じていたのだろう。あれほど家を掻きまわして好き勝手に振る舞っていたくせに無条件で愛されていると信じていたのだろう。振り返ってみれば有紀は随分な自信家だった。

「でも、怖かった。帰ってきたら道からあのおばさんにボコボコにされてる姉ちゃんが見えてさ、すげえ怖かった」

 潜められた周一の声が震えていて、有紀は周一の腕を軽くさすった。

「うん。怖かったのに飛んできてくれてありがとね」

「……うん」


 翌日、二人は血相を変えて飛んできた両親に泣かれ、怒られ、抱きつかれた。

 父は有紀の名前も周一の名前も等しく呼んで、その身を案じ、周一の家出を責め、危険な家に住んでいたと有紀を責めた。

 有紀は髭も剃らない疲れ切った顔で説教を続ける父親をテレビ越しに見るように眺めた。久しぶりに見る父親は小さかった。白髪が増えていた。母に宥められて渋々と椅子に座り直す様子はまるで普通のおじさんだった。

 父が息を切らして口を閉ざした隙間に、有紀は声を上げた。

「父さん」

 ぴくりと父の肩が震える。

「周のことを怒らないで。周がいなくても私があの人の家に行くことはあったかもしれないでしょ」

「でもな」

 むっと口をへの字にする父親を遮って有紀は続けた。

「それに、助けようとして来てくれたんだから」

 有紀は父の目をまっすぐに見つめる。

「そもそも、私のために東京まで来てくれたんだから」

 有紀は周一にちらりと視線を向けて薄く微笑んだ。

「父さん。もう今の家に住む気にはならない。急いで引っ越ししたいから援助してください。お願いします」

 有紀が頭を下げると、父は戸惑ったように母と目を見合わせた。




 その後、有紀は報道で自分達が巻き込まれた事件の背景を知った。



 日日新聞 十二月一日

『実の娘を監禁 母親逮捕』

 十二月一日、野方警察署は戸村映子容疑者(五十六)を娘明子さん(二十六)を十六年に渡り自宅に監禁した容疑で再逮捕したと発表した。戸村容疑者は近隣住民に対する暴行の容疑で既に逮捕されている。


 戸村容疑者は十六年前に夫と長女を交通事故で失い、次女明子さんと二人が残された。明子さんは父親と姉の事故以来、小学校に登校していない。当時の学校関係者によると度重なる家庭訪問が行われたそうだが、戸村容疑者は頑なに教師による面談を拒否。水を浴びせるなどの行為に出たこともあったと言う。その後、母娘は転居を繰り返したが、いずれの家の付近でも明子さんを見かけたという証言は得られなかった。徹底して戸村容疑者が明子さんの存在を隠していたと思われる。

 明子さん発見当時、拘束された状態で意識を失っており、明子さん自らが逃亡することを恐れた戸村容疑者による虐待が常態化していたものと見られている。

 戸村容疑者自身について知る人は一様に「明るい人」「きちんと挨拶して礼儀正しい人」であったと語っており、今回の事件については「信じられない」と一様に驚きを隠せない様子であった。


 なお、戸村容疑者には心神耗弱の疑いがあり今後の対応は精神鑑定の結果を待って決定される。(社会部 青木)



 聞いたところによると、戸村家に亀はいなかったそうである。

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