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亀の足音  作者: 青砥緑
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 遅すぎる昼食の後、有紀達はスーパーに立ち寄った。コンビニ弁当とバイト先の賄で生存している有紀の家には大した食料がない。食べ盛りの男子を泊まらせるには完全に不足していた。

「あ、俺、パンツと靴下も欲しい」

 スーパーの食品売り場でレジに向かおうというところで周一がぱっと顔を上げた。

「ここ、売ってるかな?」

「どんだけ居座る気よ?」

 有紀の言葉を聞き流して、周一はきょろきょろとあたりを見回している。

「衣料品は二階」

 スーパーの衣料品など仮にも女子大生の有紀には全く縁のない売り場だが急場を凌ぐ下着くらいなら手に入るだろう。周一は「ありがとう」とにっこり笑って食材の入った籠を有紀に押し付けた。

「お金は?」

「そのくらいはあるよ」

 財布を引っ張り出そうとする有紀を制して、周一はひらりと行列を離れていった。


 支払いを済ませて商品を袋に詰めようとしたところで、有紀は戸村を発見した。戸村は大きなエコバッグにせっせと商品を詰めている。バッグは既にだいぶ膨らんでいるのに買い物かごの中にはまだ食品トレーが残っていた。立派なステーキ肉が二切れ入っているトレーに思わず目を奪われる。爪に火を点すように生活している有紀ではこの半分の量であってもとても手が出ない。有紀はトレーがバッグにしまわれていくのを見送りながら、戸村が肉好きというのは意外だなと思った。有紀の両親は油っ気の薄い食べ物を好んだせいか、ある程度以上年配の人は肉より魚を好むという先入観がどうも抜けない。

 有紀の視線に気づいたのか戸村が振り返った。一瞬思いがけないほど鋭い視線が有紀に送られた。しかし、それはあっという間に穏やかな笑顔に取って代わられる。

「あら、こんばんは」

 つられて笑顔で会釈を返した有紀は、振り返った瞬間の戸村に感じた居心地の悪さを打ち消すように戸村の籠を指して話しかけた。

「お肉、お好きなんですね」

 戸村は照れたように笑った。

「今日は安かったから。つい」

「はあ」

 有紀にはちっとも安いとは思えなかったオーストラリア産のステーキ肉に続いて、唐揚げ用の鶏肉がバッグに吸い込まれていく。戸村の見た目は若く見積もっても五十代だが、舌の思考はずいぶん若いようだ。

 それにしたって、これだけの肉を本当に全部食べるのだろうか。

 有紀の心の声が届いたかのように、戸村が答えた。

「うちねえ、亀を飼ってるのよ」

「え?」

「お肉は安いときに買って冷凍しておいて、亀の餌にするの」

 有紀は亀という単語で小学校で飼っていたミドリガメを思い出した。暗い水のほとりでじっとしていた大人の手ほどの大きさの亀。緑に苔むした水槽からはいつも淀んだ水の臭いがしていた。有紀は水の臭いも薄汚れた惨めな亀も大嫌いだった。悪ガキの誰かが緑山とミドリガメをひっかけて、有紀のことをカメと呼び出したおかげで、有紀の亀嫌いにはますます拍車がかかった。

 有紀は記憶を押しやって戸村に意識を戻した。穏当な隣人関係のためには無難な返答をしなければならない。

「亀って肉食なんですか?」

 あのミドリガメが何を食べていたのか分からない。でも、さすがに生肉ではなかったことくらいは分かる。しかし戸村は頷いた。

「水棲のね、大きな亀は肉や魚も食べるの。食事は人間とそう変わらないのよ」

「へえ、そうなんですか」

 有紀と周一のための僅かな食料はすっかりビニール袋に詰め込まれていた。

「じゃあ、お先に失礼します」

 会釈した有紀を戸村は呼び止めた。

「もう暗いし、気を付けて」

 そこでふっと声を落とす。

「今朝、アパートの周りでちょっと怪しい男を見かけたの。本当に世の中物騒だから気を付けた方がいいわ」

「怪しい?」

「ええ、帽子で顔を隠して随分長いことウロウロしてたのよ。若い男みたいだったけど」

 さらに続く戸村の話を聞きながら有紀は頬が引きつらないように取り繕った。その怪しい男はおそらく周一だ。思い切り顔を顰めて怖かったわと言われてしまうと、弟だとは言い出しにくい。犯罪者は時間をかけて下調べをしているものだから常から用心が必要だと説く戸村に適当な相槌をうって会話を打ち切ると、有紀は足早にエスカレーターに向かった。おかしく思われていないかと後ろを振り返れば、戸村は肉の詰まった袋を手に出口に向かっていた。ほっとしながらも大きな買い物袋にもやもやとした思いが湧く。

 ボロアパートに住んでいながら、亀には肉をたらふく食べさせるのか。

 有紀の中で常識的な隣人としての戸村に小さな疑問符がついた。


 夜半、有紀は頬に冷たい感触を覚えて目を覚ました。しかしまだぼんやりしている。そこにもう一度ぽたりと冷たい刺激が与えられる。同時に生臭いにおいがして飛び起きた。頬を拭って手の匂いを嗅ぐと、悪臭がする。淀んだ水の臭いだ。ミドリガメの水槽の臭い。

「うぇ」

 有紀はベッドを転がるように下りる。暗がりで目を凝らせば枕の周りはじっとりと湿っていた。天井を仰ぐと一部が濃く染まっている。染みの真ん中で大きく膨らんだ雫が有紀の目の前でまたぽたりとベッドへ落ちた。

 水漏れだ。戸村の亀の水槽に違いない。

 有紀は台所の水道を捻って手を強くこするようにして洗った。流れ落ちる水が蛍光灯の光を気まぐれに弾いていく。銀色の流しに差し入れられた有紀の手は冷たい明かりの下で病的に白い。擦っても、擦っても、手は青白く作りものめいて、まるで自分の手ではないようだ。有紀は確かめるように両手を目の前に持ち上げ、そして再び臭いを嗅ぐ。まだ臭い。

 背後で天井から滴が落ちる度に部屋の中に緑色の水の、ヘドロの臭いが満ちていく気がする。有紀は吐き気を堪えて石鹸に手を伸ばした。ぬるりとした表面を撫で、その指が石鹸の縁を滑るはずのところで想定外に鋭い縁に触れた。

「ひゃっ!」

 慌てて手を離すと、ステンレスの流しにゴトリと転がる小さなミドリガメ。腹を上にして手足を甲羅の中にしまい込んでいる。

 叫び声を抑えるように口元に運んだ手から、強烈なヘドロの臭いがした。

 耐え切れずに流しに手をついてえずく。涙を流して荒く息をつく有紀の目の前で亀が甲羅からゆっくりと手足を伸ばしだした。自力でひっくり返ることなどできるはずがない短い手足、そして首が宙を掻く。


「……ちゃん! 姉ちゃん!」

 目を開けると、まだ夜中だった。肩に手の温かい感触がある。首を巡らせると心配そうな表情の周一が覗きこんでいる。

 有紀は天井を見上げた。そこにはいつも通りの天井があるだけで水の滴っている気配はない。そっと右手を引き寄せて匂いを嗅いでも何の匂いもしない。寝汗で湿った首筋を拭うと、自分の指先が凍るように冷えていることに気づいた。

「ちょっと、姉ちゃん大丈夫? すごい魘されてたよ?」

 有紀はベッドの上で膝を抱え、顔を膝に埋めるように頷いた。

「姉ちゃんってば」

「平気」

 有紀が顔を上げると、周一は情けない顔をして座り込んでいた。寝具代わりになりそうなものをありったけ並べた布団もどきに囲まれている様は、段ボールの中の捨て犬のようだ。

「ちょっと夢見が悪かっただけよ」

 有紀は立ち上がり、新しいTシャツを取り出した。周一は慌てたように背中を向ける。それを確認して有紀は汗にぬれた寝間着を着替えた。さらりとしたTシャツは得体のしれない悪いものから身を守ってくれるような気がする。

 有紀はようやく人心地着いた。

「戸村さんが亀の話なんかするからいけない」

「亀?」

 おずおずと振り返りながら周一が問い返してくる。

「そう。上に住んでる人なんだけど、さっきスーパーで会ったの。すごい大量にお肉買ってるから何かと思ったら亀の餌だって」

「それで亀の夢見たわけ?」

「そう。亀、嫌いなの」

 有紀は顔を顰める。せっかく忘れていたのにミドリガメを思い出してしまった。嫌いを越えて憎んでいたと言ってもいい。息苦しくて臭くて出て行きたいに決まっているのに、そこを出て行く力のない亀。気まぐれに子供たちに摘み出されても、簡単に連れ戻されてしまうのろまな亀。居心地の悪い家から逃れられないでいた無力な有紀と同じ。

 有紀は汗に湿ったままの髪を掻きあげた。全部、もう過去のことだ。有紀は淀んだ水槽を抜け出した。ここは違う。この家は有紀のために有紀が用意した、有紀の城だ。

 目を転じれば携帯電話の灯りで周一の顔が青白く照らされている。有紀はそのまだ細い顎の骨を見つめた。周一があの家の気配を連れてきたのかもしれない。無邪気な素振りで染みついた悪臭を有紀の城に持ち込んだ。

 周一への悪感情が首をもたげるのを感じて、有紀は慌てて思考を打ち切った。これは考えてはいけないことだ。

 周一とはうまくやらなければいけない。周一に父よりも有紀を選ばせなければならない。

「おお、亀って肉も食べるんだ。知らなかった」

 周一は無邪気に「見て」と携帯を突き出してくる。ペットショップのサイトの亀の項が開いていた。

「いや、私は興味ないって」

「でもこうやって売ってるってことは飼ってる人もそれなりにいるってことだよね。まあ、鳴かないし、毛も抜けないし、意外といいのかもよ」

 周一は画面をスクロールしていく。

「逃げても鈍いしね」

 布団に戻りながら有紀が付け加えると、周一は笑って頷いた。

「確かに」

 それから彼も寝転がって視線を天井に向けた。

「じゃあ、この音、もしかして亀の足音?」

 夜間は音が聞こえやすい。二人が黙ると、どこかから何かを引きずる音が聞こえた。

 ズズ……、ズズズ……。

「……たぶん」

「へえ、亀の足音なんて初めて聞いた」

 そのとき有紀はようやく今日の昼、仕事に出て行った戸村は留守だったのだから無人の戸村の部屋から音がするはずがないことに気が付いた。昼間感じた言いようのない嫌な感じは、そのことを脳のどこかが理解して発した警報だったのかもしれない。

 有紀は布団をかぶりながら考える。亀はどうやったら足を踏み鳴らす様な物音を発することがあるのだろう。

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