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亀の足音  作者: 青砥緑
1/3

 十一月。午前六時はまだ日の出前である。

 池袋の路上では店じまいを告げられた酔客が次の行き先を求めて薄い闇の中をさまよっている。

 緑山有紀は器用に自転車を操ってふらつく男女を追い越した。煌々と明かりの灯る牛丼屋の前で自転車を停め、手を擦り合わせながら自動ドアをくぐる。店内は終夜営業を終えた飲食店の従業員と徹夜仕事の合間に出てきている会社員で半分ほどが埋められていた。誰もかれもが疲れ切って項垂れながら朝定食をつついている。

 有紀もまた空腹と疲労で朦朧としながら、指が覚えているままに食券販売機のボタンを押した。習慣化した動作で食券を差し出し、カウンターに腰かけ、携帯電話を取り出す。しかし、どこを触っても携帯電話の画面は黒い。充電が切れたのを忘れていた。そういえば昨夜は充電器に繋ぐ余力もなく寝てしまったのだ。

 大学の講義が終わってから、仮眠する暇もなく朝五時まで営業する居酒屋での深夜バイト。十八歳での上京以来、二年半もこんな生活が続いている。友達と遊ぶ暇も無ければ、恋人を作る暇などまるでない。それでも有紀にこの生活を変えるつもりはなかった。親との大喧嘩の末に仕送りなどいらないと啖呵をきって故郷を出てきた。簡単に音をあげて父親に「そら見たことか」と言われるのは我慢ならない。

 有紀はもう二度と実家には戻りたくなかったし、父親に頭を下げるのはもっと御免だった。




 有紀が暮らしているコーポ羽根野は、江古田にある二階建ての小さなアパートだ。四十年という築年数と駅からの距離のお蔭で二十三区内にしては随分と家賃が安い。新宿区にある大学までの交通費を節約したい有紀には有難い物件だった。狭いユニットバスも、道路からの騒音も、慣れてしまえば苦にならない。

 疲れた足で自転車を漕いで、家に帰り着く頃にはすっかり夜が明けていた。有紀は電灯がつきっ放しの階段の下で郵便受けを探る。投げ込みチラシを掴みだしていると、上から五十絡みの女が大きなゴミ袋を提げて下りてきた。有紀の家の真上に住んでいる戸村だ。戸村は白髪交じりの髪をきちんと束ね、年相応にふくよかな体を年代物のスーツで包んでいる。朝からスーツで出勤する勤め人で、しかも女性。黄色い旗を持って小学生の通学を見守っている姿も見かけたことがある。有紀の知る限り、アパートの中でもっともまっとうな大人だ。有紀はもし急病になったらまず真っ先に戸村を頼ろうと勝手に当てにしている。頼りになるのは遠くの親戚より近くの他人なのである。

 有紀はとりあえず郵便受けを閉じて一歩ずれた。ゴミ袋を抱えた相手とすれ違うには郵便受け前の通路は狭すぎる。

「あら、ごめんなさいね」

 戸村は早足になって階段を下りてくる。半透明の袋越しに綺麗に洗われた食品トレーが透けて見える。有紀は自宅の台所の隅に重なっている弁当殻を思い起こした。

 会釈して通り過ぎていく戸村に頭を下げ返し、有紀は再び郵便受けを開いた。今日も私信は一つも届いていない。


 家に帰ると着替えもせずにゴミを袋にまとめてゴミ捨て場まで戻る。先週も、たしか先々週もそうだった。戸村がゴミを出すのを見て、自分も捨てなければと台所で慌ててゴミをまとめて飛び出した。もはや、そこまで含めて有紀の日常になっている。

 カラス除けのネットを捲り上げ、ビニールに詰めた弁当殻を放り込んだ。

 ネットを戻しているところで、目の端に人の姿を捕えた。他の人がまためくるならネットの端を丁寧に押さえる必要もない。振り返って確かめると、それは黒いキャップを目深にかぶった若い男だった。足早にまっすぐ有紀に向かってくる。足早というより小走りに近い速度に違和感を覚え、次いで男の手に目をやってぞっとした。

 ゴミ捨てに来たのなら、手ぶらであるはずがない。

 明らかに不審だ。痴漢か。通り魔か。

 有紀は思わず一歩下がった。足がネットを踏みつけ、ゴミ袋がガサガサと音を立てた。

 勢いよくやってきた男は有紀から数歩のところで立ち止まった。

 頬から顎にかけての輪郭を間近に見て、もしや、と思うのと男が声を上げたのがほぼ同時だった。

「姉ちゃん」

 呼びかけを聴いた途端、有紀は一気に弛緩した。記憶にあるよりも低い声、大きな体。だが、その呼びかけには確かな聞き覚えがあった。

「周?」

 有紀が思い切り眉を寄せて顔を窺うようにすると、男はキャップを外した。白い朝日の下に若い男の顔が露わになる。青年と言い切るにはまだ幼い。今頃は故郷で高校の教室にいるはずの弟、周一だった。

「あんた、こんなとこで何してんのよ」

 驚きよりも安堵が勝る。ひどく気の抜けた情けない声が出た。

「姉ちゃん待ってた」

 周一は有紀を怖がらせたとは露ほども思っていないらしい。実家に居た頃と変わらない気軽な調子で言う。

「なんで?」

「メールしたじゃん。父さんと喧嘩して家出してきた」

 有紀はまじまじと弟を見つめた。軽い口調に反して真剣なまなざしが見つめ返してくる。

「は? 家出? いつ?」

「だから、昨日の夜。夜行バスで東京にって。ねえ、メール見てないの?」

「携帯、電源切れてた」

「えー? ああ、だからレスなかったのかあ。もしかして拒否られてんのかと思った」

 そこでようやく周一の顔に笑みが浮かんだ。

「で。そういうわけだから、しばらく泊めてくんない?」

 ――ああ、またこれだ。

 有紀は、いつの間にか自分よりも頭一つも大きくなった弟を見上げた。周一は昔からお願い事があるとにっこり笑って素直におねだりする子供だった。自分の願いが聞き届けられることを露ほども疑っていない天真爛漫な笑顔。有紀が家を出てから二年と半分が過ぎているが、周一は相変らずらしい。

 有紀は、反射的に眉を寄せた。

「あんた、そんな簡単に……」

 有紀の故郷は岐阜だ。岐阜の中でも田舎である。ちょっとした親子喧嘩で東京まで家出して来るには遠すぎる。黙って帰れと追い返すにも遠すぎる。

 顰め面の口からため息が零れた。

「とにかく、うちで話を聞くわ」


 狭い1DKに上がり込んだ周一は部屋の真ん中に突っ立ったまま、緊張した様子で周りを見回している。作りは古いし壁や建具も綺麗とは言い難いが、部屋の中はきちんと整頓されている。有紀の城だ。

 有紀は電気ストーブのスイッチを入れて座り込み、ベッドに背をもたれさせる。

「適当に座って」

 周一は有紀が指で示した辺りにあぐらをかいて坐った。有紀が手近にあったクッションを投げ渡すと尻に敷く代わりに足に乗せる。部屋の中はまだ外気と同じほど寒く、二人ともコートも脱いでいなかった。

「それで? 何で急に家出よ」

「だから父さんと喧嘩したんだって」

「なんで喧嘩したのよ」

 周一は俯いて、言葉を濁す。

 有紀は疲労の極みにある頭をたたき起こして考えた。高校生にとって岐阜から東京までは遠い。それをあえて出てきたと言うのだから周一と父は本格的にやりあったのだろう。そして飛び出す先に有紀を選んだことになる。

 状況の理解が進むにつれて、面倒事が飛び込んできた不快感を押しのけ、じわりじわりと意地の悪い笑いがこみあげてきた。

 有紀の父は古い常識を頑なに信じているところがある。例えば、家は長男が継ぐものだから、家にとって大事なのは何よりも長男だと信じ込んでいる。当然、有紀よりも周一を大事にした。有紀のことが憎かったわけではないのだろうが、父の中では女だということはそれだけで最初から何か欠損しているのである。昔から活発で成績も良かった有紀に父がかけた言葉は「お前が男だったら、どんなにか」だった。父の精いっぱいの褒め言葉は繰り返されるたびに父娘の絆を削り取った。最後は父に逆らえない母のとりなしは焼け石に水でしかなかった。

 有紀の進学に際して父が娘一人を東京に出すことに頑なに反対したところで、父娘の溝はいよいよ決定的となった。女だからと頭を押さえつけられる生活はうんざりだった。

 その父の大事な息子が、有紀のもとへ逃げてきた。

 有紀は慌てふためく両親を想像し、堪え切れず僅かな笑いを零した。

 このまま周一が父を見捨てたら、少しは胸のすく思いがするだろうか。

「まあ、いいわ。飛び出した勇気を買ってちょっとくらい置いてあげる」

 穏やかに微笑んだ有紀の言葉に周一はほっと息をついて笑顔を浮かべた。




 シャワーを浴びた有紀が一眠りして起きたのは十五時。出席予定だった講義の時刻を完全に過ぎていた。周一がやってきたおかげでバタバタして目覚ましをかけ忘れたのだ。毎回出席がとられる授業だったのにと身悶えているところで部屋の隅で参考書を読んでいる周一が目に入った。思わず睨むと、周一はきょとんと首を傾げる。

「おはよ」

 そのまま参考書に戻る周一に毒気を抜かれて、有紀はぼそぼそと「おはよう」と返した。


 高校三年生の周一は大学を受験する予定だと言った。志望校が東京の大学なのを聞いて最初に浮かんだ質問を、有紀は何とか飲みくだした。有紀の東京進学には頑なに反対した父が、周一には何の反対もしていないことを確認したら周一を父から奪う前に追い出したくなってしまいそうだ。

 有紀は睡眠に続けて補給したコーヒーとチョコレートで気持ちを静め、改めて弟が転がり込んできた経緯を確認した。父親と大喧嘩になり「気に入らないなら、出て行け」「ああ、出て行ってやる」という典型的な売り言葉と買い言葉の応酬の末に飛び出して来たらしい。どうして三年近くも会っていない有紀のところを選んだのかと尋ねると「簡単に親に引き渡されてしまわないところが、ここしかなかった」と答えられた。

 話の途中、有紀は自分の連絡先が実家の電話の前に貼りだされていたことを知った。周一が引きちぎって持ち出してきたというメモには母の丁寧な字で有紀の現住所と電話番号が記されていた。

「これちぎってきたってことは、私んところに転がり込んでるのはバレてるんでしょうね」

 有紀がよれたメモ用紙を突き返すと、周一はきまり悪げに眼を逸らした。

「まあ、今ごろ自警団に山狩りやられてるよりはマシだけどさ」

 有紀が十四歳で初めての家出をしたとき、父は事故か事件かと動転して警察に駆け込み、地元では山狩りが行われようかとしていた。予想外に大きくなってしまった事態に青くなって家に戻った有紀は方々からこっぴどく叱られ、その後、不良娘のレッテルをべったりと貼られたものである。有紀は未だにあのときどうして自分ばかりが叱られなければならなかったのか納得がいっていない。

「で、肝心の喧嘩の原因を言う気はないわけ?」

 周一は居心地悪げに座りなおした。

「姉ちゃんは父さんのこと、どう思う?」

 有紀は目を眇める。

「は? 父さん?」

「うん」

 有紀は迷いなく答えた。

「煩くて頑固で偉そうな人」

 周一は「そう」と言ったきり俯いた。つむじに向かって有紀は問いかける。

「あんたはどう思うのよ」

 冷静な表情の下で、有紀の中の加虐心がむくむくと起き上がる。

 周一の口から、父親を罵倒する言葉を引き出したい。あの人のもとへは帰りたくないと言わせたい。周一がそう言ったと伝えて、父を絶望させたい。有紀を蔑ろにしてまで費やしてきた愛情が裏切られたと知って、激昂する姿を見たらさぞ痛快だろう。

 有紀は目を逸らしたままの周一に強く念じた。

 ――さあ、罵れ。大嫌いだと言ってやれ。

 しかし周一はため息を漏らし「そうだよね、頑固だよね」と呟いたきり口を閉ざした。それ以降、促しても何も言わない。

 途中からは我慢比べになった。周一は黙り込んだままだ。


 退屈に耐え兼ねて携帯電話に触れた有紀は思わず「うわっ」と声を上げた。ロック解除するより前に電話をテーブルの上に放り出す。点灯したままの待ち受け画面を見た周一もうめき声を上げた。有紀の携帯電話には終わりが見えないほど着信履歴が並んでいる。全て実家からのものだ。

「充電できたと思ったら、あっという間にこれだよ。あんたの電話にも来てるんじゃないの?」

「俺、電源切ってるから」

「おかげさまでこっちが大人気なわけね。相変らず愛されてるねえ、周」

 周一はますます渋い表情になる。有紀は滑らかに指を動かして着信履歴を削除していく。メールボックスには母からそちらに周一が向かったはずだが無事に着いたかという趣旨のメールが大量に届いていた。これでは家出ではなく子供のおつかいだ。

 未読マークを全て整理して、有紀はメールを打ち返す。

『周一はもう父さんの顔も見たくないそうです。しばらくうちで預かります。それから、ひっきりなしに電話をされるのは迷惑なので止めて下さい。』

 少し気の晴れた有紀は、周一に譲歩してやることにした。

「もう、分かった。事情は話したくなったら話せばいいわ。あんたとにらめっこしてても始まんない」

 有紀が腰を浮かしかけたところで急にドンと大きな物音がした。咄嗟に首を竦めた二人の耳にドン、ドンと大きな音が続く。

「え、何?」

 周一が視線で天井を指し示す。大人が足を踏み鳴らしているような音。通常の生活音では有り得ない。有紀は首を横に振った。

「分かんない。家具の組立とか?」

 有紀の部屋は角部屋で壁を接している部屋は一つしかない。隣接という意味では天井越しに繋がっている上階の戸村の家を含めて二軒。戸村は不用意に大きな物音を立てるような人物には見えないが、降ってくるような音の響きは戸村の部屋が発信源であるように思えた。

 中腰で固まっていた有紀は立ち上がり髪の毛を適当にかき上げてまとめた。

「ねえ、周。あんた、お腹空かない?」

 正体不明の騒音は気持ちが悪い。有紀はここに留まっているべきではないような気がした。

 結局、二人は近場のファミリーレストランに一時避難することにした。


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