中国語に時制はない
中国語に時制はない。代わりに「相」がある。
なんじゃそりゃという感じだが、中国語には本当に時制なんてものは存在しないのである。漢文の授業で漢文には時制がないと習ったかもしれないが、現代中国語にもいわゆる「時制」はなく、英語のように「過去」「現在」「未来」を動詞の形をもって表すことはできない。じゃあ過去や未来のことについて表したい時どうするんだ、とおっしゃる方もおられるだろう。そこで登場するのがさっきのアスペクトである。
アスペクトこそ、中国語学習において最も習得が難しいと言われる部分だと私は思う。
時制とアスペクトというのは一見すると似ているようにも見える。が、しかし似て非なる概念である。時制というのは絶対的な過去・現在・未来という時間軸について時を表すのに対し、アスペクトは相対的にその動作が完了したか否かを表す。この時使うのが「了 le」という虚詞である。
「了」は日本語的に言うなら助詞ないし副詞で、完了を表すものだ。「了」にはいくつかの用法があり、日本人にとっては「た」と混同しやすいこともあって習得が難しい。
まず、時を表す「了」について説明していこう。
昨天我看了一部电影。 电影 dian4ying3 映画
昨日私は映画を見た。
こういう場合、「了」の用法はあまり日本語と変わらない。微妙な違いはある。日本語の「た」がただ過去のことについて表しているのに対し、中国語の「了」は「看 kan4 見る」という動作が完了したかについて言及している。
だがここで別の文を見てみよう。
我说了你也不知道的。 知道 zhi1dao0 知る
言っても知らない/分からないと思うよ。
この場合の「了」に時制は関係ない。あくまでも「说」という動作が話者の主観的に完了しているかどうかの問題だ。日本語でも「言ったとしても」と言うように、この「说了」はまったくもって「(昔)言った」という意味ではない。
昨晚很冷。
昨晩は寒かった。
形容詞は明確な開始と終了のある動作ではない。過去の状態である。つまり中国語の形容詞で過去を表したい時に「了」をつけることはないのだ。
では「冷了」と言ったらどういう意味になるのか? そう、「寒くなる」である。「了」は「た」というよりは「になる」のような性質を持っている。
動詞でも例えば「今行くよ!」というのに「我来了!」と言うことがある。これは「来る」という状態に変化するという意味で使われている。こうなると時制としては未来である。「快毕业了(もうすぐ卒業するよ)」の「了」も同じように未来を表すのに使う。「毕业 bi4ye4 卒業」に「なる」と言いたいのである。このように「了」に時制は関係なく、あくまでも「その動作が完了しているかどうか」という点に重きがおかれている。
***
少し補足すると、「快~了」で「~しそうになる」「もうすぐ~する」という近い未来を表す意味になる。
了は「已经 yi3jing0 すでに」と一緒に使うと、日本語の過去形に近い意味合いになる。
我工作已经三年了。 工作 gong1zuo4 仕事する
もう仕事して三年になる。
だが已经がつくものは全部過去になると思いきや、「天已经快黑了,咱们走吧! もうすぐ日が暮れるから、帰ろうよ!」とかになると未来のことになるんだよね……。
***
「了」はすべての動詞につくわけではない。
「当时我觉得很恐怖 その時私はとても怖いと思った」という文の場合、「觉得 思う」という動作は明確な開始と終了のない状態を表す動詞であるので、そもそも「了」も何もつけない。
まあ「当时」があれば過去だと分かるし、別に時を表す単語が文中にあろうがなかろうが「觉得」はいつでも「觉得」で何ら問題ないのだ。同じことが「是 shi4 である」にもいえる。「十年前他是农民」は「十年前彼は農民だった」である。日本語的に考えたら「どうして過去形じゃないんだよ!!」と思うだろうが、中国語において「是」は明確な開始と終了のない状態を表す動詞である。
さらに、「我去北京的时候 北京に行った時」になると動作の完了とかはどうでもよくなるので「去」には何もつかない。
もう少し過去形に近い用法を持った虚詞もある。「过(過) guo」だ。
だが「过」も結局絶対的な過去形ではなく、「~したことがある」という経験の意味である。
我去过上海留学。
上海に留学しに行ったことがある。
日本語の「~したことがある」と大体一対一で対応しているので、こちらの方が習得は簡単に思う。
だがここで、もう一つの問題がある。
英語や日本語の場合、過去形になっても「ない」を表す助動詞なりなんなりを動詞につければいいのだが、中国語だとそもそもつくもの自体が変わるので慣れないと言い間違えやすい。
你去过上海吗? 我还没去(过) 还 hai2 まだ
上海に行ったことはありますか? まだありません。
「不去过」「不去了」ではなく「没去」ないし「没去过」になるのだが、これは「不去」が「行かない」という意味になるからである。「我不去上海」と言えば「上海なんて行かないよ」という意味になりかねない。「不」は状態の否定を表し、「没」は経験の否定を表す。
肯定文の「行く」「行った」が「去」「去了」「去过」のどれになるのかはっきりしないのに対し、日本語で「行かなかった」と言いたい時はほとんど「没去」になる。
それじゃあ「不去了」と言ったら何の意味になるのかというと、これは「行かなくなった」という意味になってしまう。「不去」という状態に変化する、と考えるわけだ。
日本語の「た」と中国語の「了」は全然似ていないようで、表す文法要素が中途半端に被っているところもあるのでますます理解が難しい。
さらに、アスペクトとは関係ない話だが「了」は同じ発音で語気助詞としても使われる他、多音字でもあって「liao3」と読むこともある。
語気助詞の「了」はさっきの完了の「了」と同じ文内で使われることも多く厄介なので、ここで説明しておこう。
この「了」は発音こそ同じだがかなり意味が違って、語気助詞である。語気助詞とは簡単に言うと日本語の「ね」とか「よ」などの間投助詞・終助詞と似たもので、それ自体に特に意味はない。しかし「知ってるよ」と言えば「私は知っている」と近い意味になり、「知ってるよね?」と言えば「(あなたは)知っていますか?」に近い意味になるように、主語がなくても「ね」「よね」があれば大体その文が誰が誰に対して言っているのか分かりやすくなる。終助詞は文が発話されている状況をある程度限定する。
中国語も語気助詞はたくさんあって、断定や推量など様々なニュアンスを追加する。
そして語気助詞の「了」は言い切り・催促・形容詞の強調等に使う。例えば「春天了(春だ)」とか「走了,走了(行こう、行こう)」「太好了!(そりゃいいや!)」というような感じで使う。
話を戻して、問題は語気助詞の「了」と完了の「了」を同時に使う時である。
「买书 mai3shu1 本を買う」を「本を買った。」にすると、「我买了书」になりそうなものだが、これだとダメなのである。「我买了书了。」にしなければならないのだ。
初見ではなんで「了」が二つもあるんだと思うかもしれないが、この二つの「了」は上記のように性質が違うのだ。「。」をつけて言いきるには「了」をつけなければならず、「我买了书」というと「私は本を買って……」という意味になってしまって、後ろに文を続けなければならない。
ちなみに冒頭で登場した「昨天我看了一部电影。」はなぜいいのかというと、「一部」という量詞(日本語でいう「匹」「台」「個」のような数詞)がついているからで、さっきの文も「我买了一本书(一冊本を買った)」にすれば何ら問題ない。後、「买书了」とか「看电影了」といった具合に最後に「了」をつけてもOKである。
まとめると、
× 买了书 → ○ 买了书,……
○ 买书了
○ 买了书了
○ 买了一本书
はぁ??? なんでやねん???
そろそろキレた方も出てきているかもしれないが、中国語文法の妙はまさにここにあるのだ。
先日触れたが、中国語の品詞が文全体で語がお互いにゆるやかに依存し合うことによって発生しているのと似て、中国語の語順も文全体の語が依存し合って成り立っている。中国語の文法は語順で決まっているので「こうこうこういう句形でないとダメ」みたいなことが多い。
さて、アスペクトの話に戻ろう。
中国語には他にもアスペクトを表す副詞がいくつかある。
まず先日出てきた現在進行形の「在」、継続を表す「着」の二つ。これらの方が「了」よりも分かりやすい。「我在说」と言えば日本語の「言っている」と大差ない。
しかしこれにはバリエーションがいくつかあって、「在说呢」「说呢」でも「言っている」になりうるし、「正在 zheng4zai4」を使って「我正在上课」というと「ちょうど授業を受けている」という意味になる(上课 shang4ke4 授業を受ける)。
ちなみに日本語の「~している」が習慣・反復的動作を表すことができるのと似て、中国語の「在」も長い間持続する動作について言うことができる。必ずしも一対一で対応していないが、これは英語の「現在進行形」と違うところである。「经常在考虑」と言えば「いつも考えている」という意味になって、「時制」に関係なくただ「考虑 kao3lv4」という動作が継続していることを表している。英語では「私の父は会社で働いています」というのにmy father is workingよりmy father worksにして現在形にすることが多い。
そして「着」についても「在」と同じで、継続しているのが過去なのか未来なのかはどうでもいいのだ。「着」は動詞の後ろにつくと「~してある」「している」という状態を表すのだが、「在」とは違って動詞+着+動詞で「~しながら……する」と言った形で使うことが多い。
走着去
歩いて行く
この「着」は「走 zou3 歩く」と「去 qu4 行く」の時の前後関係を表しているだけである。「行く」というメインの動詞に対し「歩く」という要素が追加されている、或いは「歩くという状態が継続している中でどこかへ行っている」と捕えることもできる。だがまたしてもここに時制は関係ない。
他にも「着」は以下のような使い方もできる。
外面下着雨呢。 外面 wai4mian0 外
外は雨が降っている。
手上拿着一本汉语词典 拿 na2 つかむ、持つ
手に中国語辞典を持っている。
では、中国語で未来のことを表すのに使うのは何だろうか。
基本的には「将 jiang1」と「打算 da3suan0」の二つで、前者は文語的、後者は口語的な言い回しである。日本語でも「将来」なんて言ったりするが、実は中国語で「将来 jiang1lai2」といえば文字通りwill comeの意味で使うこともできる。
しかし口語では「打算」とか「就要jiu4yao4」という言い方をすることの方が多い。
你打算去哪儿?
あなたはどこへいくつもりですか?
アスペクトの話と多少つながっているのかもしれないが、「就 jiu4」や「才 cai2」と言った副詞も二つの動詞や文に挟まれることで時の前後関係を示す。
この二つは訳しづらいがとりあえず「就」は「すぐに」、「才」は「やっと」という意味だと考えていただきたい。
一听就知道 听 ting1(聴) 聞く
聞けばすぐに分かる
才吃饭,怎么又饿了? 吃饭 chi1fan4 ご飯を食べる 怎么 zen3me0 どうして 又 you4 また 饿 e4(餓) 空腹だ
さっきご飯食べたばかりなのに、どうしてまた腹が減ったんだ?
一+動詞+就+動詞は「~するとすぐ……」という意味で、「一看就明白 yi2kan4jiu4ming2bai0 見ればすぐ分かる (看 見る 明白 分かる、動詞)」という感じで使われる。時の前後関係というのは、「一」の後ろに来た動作をした結果「就」の後ろに来た動作が起こったということで、単純に前に来たものの方が時系列的に早く起きたということを示している。上の就要と言い、就は「これから~しようとする」という未来・未然的意味を帯びるときもある。
下の「才吃饭」に関してはさっき紹介したアスペクトを表す副詞は何もついていないが、「才」があることによって過去のことだということが分かる。
以前、中国人の友人にネット上でメールを送って、かなり経ってから返信が来た時こう言われた。
不好意思,才看到 不好意思 bu4hao3yi4si0 ごめんなさい、すみません
ごめんなさい、今見た
※「到 dao4」というのは補語の一種で、その動作がある程度に達することを意味する。説明が面倒なので省きますが、「時」とはあんまり関係ありません。
これだけでは別に「時制」はないのだが、いつなのかは分かる。この人は今ようやく私の書いたメッセージを読んだのだ。
こうしてみると、中国語には「時制」はないものの、時の前後関係を表す副詞が色々あるので時制がなくても十分に時を表現できるのである。
ちなみに、もし中国語に純粋な過去形を表すものがあるのだとしたら、さっき登場した「已经」を省略した「已」である。「已」は動詞の前につくと「已写 yi3xie3 すでに書いた」とか「已删除 すでに削除した yi3shan1chu2」という具合に過去のことを表せるが名詞を修飾する時とかメモ書きみたいな用法に限られるので普通の文で「我已吃饭! 食事済みです!」とか言うことはできない。
ところで、実は日本語や英語にもこういうアスペクト的な文法要素がある。
日本語の「た」は純粋な過去のみを表すのではなく、完了的意味合いを表すこともある。例えば「上海に行くときにバッグを買った」というのと「上海に行ったときバッグを買った」と言ったら、どんな意味の違いがあるだろう。
前者は「上海に行くとき」、つまり「上海に行く前にバッグを買った」ことになるのに対し、後者はバッグを上海滞在中に買ったことになる。
他にも「あぁ、疲れた」と言った時、現在のことを表しているのに「疲れた」と言うのは、自分が「疲れる」という状態に変化したということを主観的に言いたいから「た」を使っているのである。英語ならI'm tiredであきらかに現在形である。
しかし英語でも口語でよく、I got tiredという表現が用いられる。このgotは英語に本来存在する過去形ではなく、「~になる、~という状態に変化する」という意味合いで使われている。
補足程度にピンインと声調について。
1 高く平ら ā
2 上がる á
3 低く抑える ǎ
4 下がる à
0 軽声、短くさっと読む a
v=üです。
ここで引用している中国語の文の大半は小学館の中日辞典によっています。
追記
天快黑了,咱们走吧! と言った方が自然だ、という意見がありました。