閑話休題&補足
今まで長々と超テキトーな中国語講座をやってきた。どれだけの人が読んでくれているのか分からないが、ここまで読んでいただいた読者の皆さんには感謝したい。ありがとうございます。
実際半分ぐらいは辞書と教科書の書き写しで、自分自身もこれを書いたことでかなり勉強になっている。筆者は相原茂の信者であり、彼の教材をかなり参考にしている。
さて、筆者が中国語に関わり出してからもう七、八年という長い年月が経った。
以前は中国人が日本語を勉強するだけだったが、最近は日本人で中国語を学習する人もかなり増えてきている。
中国語は日本の近隣諸国の言語の中で最も強力な言語のひとつであり、習得すると色々と好いことがある。ちょっと紹介してみよう。
①中国人女性にモテる。
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> わりとどうでもいい <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
ヘ(^o^)ヘ
|∧
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②中国語は中国以外でも通じる。
中国語は第二言語としてもっとも人気のある言語のひとつである。韓国、ベトナム、タイでは第二言語として中国語を選択する人も多く、インドネシア、マレーシア、シンガポールでは華僑がたくさんいることもあって中国語ができれば現地語ができなくてもコミュニケーションがとれる。中国語にはこうした地域共通語としての側面があって、英語の次に有力な言語のひとつでもあるのだ。
そもそも世界中に華僑はいるし中国語はワールドワイドに学ばれている。英語ではなく、中国語を使って様々な国の人と話すこともできるだろう。
③日本語の漢字に対する理解が深まる。
日本では漢字が苦手な方も多いかもしれない。しかし現代中国語を勉強するだけでも漢字の知識の量が増えるので、日本語で文章を書くときに「あれ、これの漢字でどう書くんだっけ?」ということが減る。
例えば日本語で「タイショウ」というと「対称」「対照」「対象」と色々漢字があるが、中国語では声調や発音が違うので言い間違えることはない。この場合は中国語でdui4chen4だから、「対称」だ、みたいな覚え方ができる。
他にも、夏目漱石のこころを読んでいた時に「鹹」という漢字が出てきたのだが、この字は簡体字で「咸 xian2 塩辛い」と書き普通に使う字なので「ああ、これは塩辛いとかそういう意味だな」と見当がついた。(実際「鹹い」は「からい」と読む)
④中国語の発音をマスターすると他の外国語の発音が楽に感じる。
これは筆者の個人的な意見だが、中国語はおっそろしく発音が難しいので、中国語ができるようになると他の外国語を勉強したときに発音部分だけ多少楽に感じる。
しかし東アジア最強難易度の北京語も、実際二重子音がなかったり母音の数自体でいうとそんなにたくさんないので、声調と一部の子音を除き音節構造はそこまで複雑でもないとも言える。日本語と違い北京語には長母音・短母音の区別はなく、中国国内のほとんどの方言にも母音の長短の区別はない。
同じ声調言語でも広東語だと末子音が六種類あったり、タイ語には二重子音もある上母音が単母音の時点で九つもある(しかも長短も区別する)ので一概にはいえないが。
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さて、以前紹介した記事の中でちょっと気になったポイントをいくつかピックアップして補足してみようと思う。
Ⅰ 方向補語の「到」
「到」は方向補語の中でも日本人には掴みづらい。というのも、その動作がどの程度まで及ぶか、という極めてあいまいな意味を付け足すだけなので、日本人からすると「別につけなくていいじゃん」と思ってしまうのだ。
例えば「只能在日本买到的产品」と言うと「日本でしか買えない製品」という意味になるのだが、正直この「到」には特に意味があるように思えない。
小学館の中日辞典によれば、
・動詞+到+名詞の形で、動作の結果や目的が達成されることを表す。
他今天收到了一封信。 彼は今日手紙を一通受け取った。
・動詞+到+名詞の形で、その場所への到達を表す。
他终于走到了自己的家。 彼はやっと自分の家に辿り着いた。
・動詞+到+名詞(時間)の形で、動作がその時間まで続くことを表す。
大雨下到半夜才止。 大雨は夜中まで降り続いた。
・動詞+到+名詞の形で、動作または性質・状態がどの程度まで達するかを表す。
那儿夏天热到40度。 そこは夏には40度にもなる。
ということらしい。たとえば「学到这样的程度」というと、「この程度(に至る)まで勉強する」という「まで」というニュアンスが出るのである。
そういえば以前中国人と話しているとき「没有用汉语的机会 中国語を使う機会がない」と言ったら「没有用到汉语的机会」といった方が良い言われたことがあるが、この場合「使うに及ぶ」という意味になるわけだ。
ちなみに「到」には介詞(前置詞)としての意味で、「~へ・~まで」という意味もあるし、「~につく」という動詞の意味もある。
Ⅱ 雑記。習慣の問題について
以前紹介したように、滑雪・(スケートする)とか坐热气球(気球に乗る)とか言うとき、中国語は助詞を省いて動詞+名詞/形容詞という短い形に落とし込むと紹介した。
しかしながら日本でも冷静に考えるとおかしい単語は結構あって、たとえば「消防車」とかは「消火・防災」だから「消防」なんだと思うが「消防」だけみると何をする車なのか意味不明である。
しかし例えば英語で「tree house」といったら「木でできている家」なのか、「木の上にある家」なのかは非母語話者には判別がつかない。(ちなみに木でできている家はwooden houseになる)合成語ではこういう「ねじれ」が起きうるので、別に中国語の動詞も似たようなものととらえればいいのかもしれない。
たとえば日本語では「~と戦う」とか「~と似る」という時「と」という助詞を使うが、英語で「fight」「resemble」と言えば直接目的語をとることができるのでfight Aとかresemble Aと言うことができる。しかし中国語で「和A斗」「像A」で前者は「和」を使うのに対し、後者は要らない。「海を行く」とか「空を飛ぶ」とか言うときに目的語じゃないのにどうして「を」なんだとか怒ってもしょうがないようなものだ。
そういえば中国語で「我有问题(私という人間に問題がある)」と「我有个问题(質問がある)」では意味がかなり違う。
結局のところその言語の習慣の問題である。