朝の日常
一言で言えば、最悪の目覚めだ。
なんせ姉が――
「起きろ」
とか言いながら頭を殴ってきたら、一部の例外を除いて皆不快な気分になるだろう。
今日は新学年となる朝。
因幡透は殴られた頭をなでながら、姉に恨みがこもった視線を向ける。
「……何すんだよ、弥生姉」
「起こしてやっただけだ」
透の視線に動じず、姉――因幡弥生はたんたんと答える。
腰まで伸びた長い黒髪を揺らしながら、鋭く冷たい双眸が透を捉えている。
「早く朝食を作れ。私はお腹が減った」
「……はい?」
思わず首をかしげる。
「はい? じゃない。いいから早く朝食を作れ」
完璧な命令口調。とても人に物を頼む態度に見えない。
「いや、弥生姉が自分で作ればいいだろ」
「私は料理ができない。そんなのはお前が一番分かっているだろう?」
当然のことのように言う。
こういう場合、普通は母親が作るべきなんだろうが、生憎二人の両親は数日前から出張で家を空けている。
以前から両親はちょくちょく家を空け、その度に透が食事を作っていた。だから、食事当番は自動的に透になるのだが……。
「……弥生姉、今年で何歳になるっけ?」
唐突な話題転換。
「二十歳だが……どうした、いきなり年齢を聞くなんて」
「弥生姉も今年で成人だよな? ならそろそろ料理ができなくちゃ、一生独身だぞ?」
「…………」
弥生は無言で拳を高く上げる。何故か、その拳からは殺意のような物が感じられる。
「ど、どうしたんだよ、弥生姉!?」
透は気付かない。自身が犯した過ちに。
「……歯を食いしばれ」
ドスの利いた声が部屋に響く。
「ひいっ! なんか分からないけど、すいま――ぐべらっ!」
拳が透の顔に叩き込まれた。見事としか言い様のない素晴らしい一撃だ。
「いいか、さっさと着替えて朝食を作れ!」
弥生は怒鳴りながら部屋を出た。
「うぐ……」
しばらく、ベットの上で悶え苦しんでから、ムクリと起き上がる。
「……ったく」
息を吐きながら、弥生が出ていったドアを見る。視線を時計に移すと、時刻は六時前だと分かった。
「……まだ六時前じゃねえか。こんな時間じゃ年寄りくらいしか起きてないだろ」
思わず呆れてしまう。まあ、弥生が横暴なのは今に始まったことではないので、自然と怒りは湧いてこない。
「仕方ないな、弥生姉は」
そんなことを呟きながら、透は弥生に言われた通り着替えてから部屋をあとにする。
リビングに向かう途中で壁に掛けられた鏡が目に入る。
一応殴られた箇所を確認してみたが、痣一つできていない。どうやら手加減してくれたようだ。
「よかった……」
そう洩らし、階段を下りてリビングに入る。
「……あっ」
声を出す。視線の先には、イスに座りながら新聞紙を広げた弥生がいた。
「…………」
ジロリと目だけを動かして透を睨む。まだ怒りは収まっていないようだ。
しかし、そんなことは構わず透は弥生の元まで歩く。
「なあ、弥生姉」
「……なんだ」
「えっと……さっきのことは悪かったよ、朝食は弥生姉の好きな物を作るから許してくれ」
両手を合わせて謝る。透にできることは、これぐらいしかない。
「……パンケーキだ」
「えっ?」
耳を弥生の方に近づける。
「パンケーキを作れ」
視線を新聞紙に戻しながら呟く。すでに先程の怒りは感じられない。一応許されたということだろうか。
「……了解」
再び機嫌を損ねないよう、慎重に答えた。
「そういえば、お前は今日から新学年だったな」
弥生がナイフとフォークを動かす手を止め、透の制服を見ながら言う。
時刻は七時過ぎ。テーブルには透の作ったパンケーキが並んでいる。
「それがどうしたんだよ?」
透も食事の手を止める。
「いや、その……なんだ。お前に進級祝いにプレゼントでもやろうと思ってな」
少し照れた素振りを見せながら、声を出す。
「……えっ!?」
透はこれ以上ないくらい驚く。驚きのあまり、イスから転げ落ちそうになった。
「ど、どうして……」
「うるさい、ただの気まぐれだ。ほら……受けとれ」
弥生は、いつの間にか手に持っていた物を透に手渡す。
「あ、ありがとう……」
対して、透は戸惑いながらもそれを受け取る。
受け取った物は一辺の長さが八センチメートル程の白い箱だった。
「開けてみろ」
「お、おう」
恐る恐るといった手つきで慎重に箱を開ける。その中は――
「……何これ」
思わず呟く。箱の中に入っていたのは、片手に収まるサイズの透明なビン。中には無色の液体がある。
「それは私の会社で作った薬の試作品だ」
「試作品?」
「ああ、モニターが見つからなくてな。せっかくだから、お前が飲め」
「……つまり、俺は実験台ってことかよ」
透は、少し呆れの混じった声を出す。
「まあ心配するな。別に変な物は入っていない。ちょっとした栄養ドリンクだとでも思ってくれ」
「そうかよ。じゃああとで飲ませて――」
「今この場で飲め」
弥生のセリフが透のセリフを途中で遮る。
「できれば、今日中にその薬のレポートを作りたいんだ」
「……分かったよ」
言って、透はビンの蓋を軽くひねる。開けたビンの中に顔を近づけてみると、ほんのり甘い香りがした。
「それじゃあ……いただきます」
グイッと手に持ったビンをかたむけ、中身を口に流し込む。なんとも言えない不思議な味がした。
「どうだ? 何か変化はあるか?」
「……いや、特に」
「そうか……悪いな、私の実験に付き合わせて」
「いや、いいよ」
空になったビンをテーブルに置きながら答える。
「そういえば透、今日の昼はヒマか?」
「ヒマだけど……それがどうした?」
いきなりの話題転換に透は少々戸惑う。
「いや、せっかくだから久しぶりに二人で外食でもどうかと思ってな……」
少し照れたような表情で言う。
「もちろん行くよ。場所は?」
透は嬉しそうな表情で答える。
「十二時に三丁目のファミレスでいいか?」
「ああ、分かった」
うなずきながら窓の外を見る。何かいいことがありそうなくらい、空はさわやかに晴れていた。




