言の葉の音 (冒頭三行・アリミエさんより拝借)
その男は「言葉の足音が聞こえる」と言った。不思議なことだが、彼が言うと不思議でもなんでもないように聞こえる。どんな音なのかと「私」が訊くと、彼は「やはりそなたも聞こえないのか」と、薄い笑いを返すだけだった。
青い着流し姿の「男」「彼」東寺清宗は、懐から長刀を取り出すと、ゆったりと振りかざす。時代は江戸末期。城下町を南へと大きく下った、清流の流れる川の辺で、清宗と「私」明石秀成は出逢った。
私は、風景を筆で描きあらわすのを生業としており、清流の絵を描きに川へと出向いたところ、清宗と出逢ったのである。清宗は一人、川の流れを見つめており、悲しげに長刀の手入れをしていた。私が「何をしているのか」と尋ねると、冒頭の言葉を彼は返し、名を名乗ったのである。
清宗は、独特の沈黙と静寂を携えた男で、その風貌、身なり、言葉遣いには彼特有の気品があった。彼の出自は明らかでないが、高貴な身分であるのが窺えた。
清宗は静かに「鎮魂」の言葉を連ねている。私が不思議そうにその光景を見つめていると清宗は、私にこう問う。
「そなたには、この悲しみに満ちた『言の葉の音』、『言葉の音』が聞こえはしないか?」
私が「何も聞こえはしない。ただ川のせせらぐ音が聞こえるだけだ」と答えると、清宗は少し寂しげに顔を伏せる。だが彼には自分と同じ思い、同じ感情を共にする相手がいなくてもやむなしとする、孤高の雰囲気さえ漂っている。
私と清宗がしばらくの間、話をしていると、私の愛弟子の一人、近藤宗介が私に駆け寄ってきた。宗介は趣味で古文、古典を嗜む男でその種の雑学には大いに秀でていた。
宗介は、私と清宗を見つけると小さく「ひぃいい」と悲鳴をあげる。何事かと私が問うと、聞けば清宗は斬首刑執行の任をも果たした、剣の手練れだという。宗介はひたすら清宗に頭を垂れて懇願する。
「き、清宗殿。貴殿は執行人の任を退いたあと、江戸から離れるよう命が降りたはず。ここはどうか穏便に……」
すると清宗は踵を返すと、涼しげな笑みを浮かべる。彼には自分の役目を果たした達成感さえあった。
「何、この清流から私を呼ぶ声がしたのでな。最後の江戸の足跡にと、立ち寄ったまで」
「そ、それならそれでよろしかろうと」
そう返す宗介は、なぜか口を普段より大きくはっきりと開けて話をしている。私が「宗介。何をそんなに大袈裟に喋っておる」と訊くと、宗介は事の次第を明かす。
「いえ。ここだけの話。清宗殿は聾唖の身でございましてね。耳が聴こえぬのです」
「何と。ではどうして私や、お主の話が聴き取れたのだ」
「それはその……」
そう宗介が言い淀むと、清宗ははっきりとした口調でこう私達に告げた。
「『読唇術』だよ。唇の動きから何を喋っているのか察するという」
「読唇術」
私が言葉を失うと、宗介は「さ、左様で」と申し訳なさそうに頭を垂れ、今一度江戸から離れるよう、清宗に頼み込む。
「では、清宗殿。ここは一先ず……」
その頼み、勧めに応じて清宗は、清流から離れて行く。やがて彼は江戸からも離れるだろうことが、その後ろ姿から垣間見えた。「読唇術」「聾唖」。私は二つの不思議な鍵言葉に思いを巡らせて、何とはなしに清宗に「言葉の足音」が聴こえる理由が分かった気がした。聾唖の身ならば、不可思議な感覚で、あるいは特有の感性で、私達には聴こえぬ「何かが」聴こえるのも道理かもしれないと。
すると宗介が薄気味悪そうに、私に促す。
「それよりもお師匠様、こんなおっかない、厄介な場所でわざわざ、絵描きなんぞするもんざありませんぜ」
「と言うと? どういうことだ? 宗介」
私の問いに宗介は、身振りを交えて答える。
「いえ、この近辺は史実には残っていないものの、平家の残党の一部が斬首された場所として、ちっとは古典通に知られておりましてですね」
その時、全ての鍵言葉が、私の体に稲妻のように駆け巡り、一切の謎が繙けた気がした。「言の葉の音」「平家の残党」「斬首」「鎮魂」。清宗は、斬首された平家の残党の鎮魂でもしていたのだろうか? そして清宗には残党の、嘆き悲しむ声が聴こえでもしていたのだろうか?
私は、遠のいて今は一つの点、影となった清宗の後ろ姿を今一度見返し、彼の言葉をこう思い返していた。
「そなたには、この悲しみに満ちた『言の葉の音』、『言葉の音』が聞こえはしないか?」