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八話

 アンヘルの死から、十数年もの月日が流れようとしていた。


 仕立ての良い、従者の格好をしたカリムは幼い子どもを連れ、ある墓の前に立っている。肌寒い風の吹く季節、今日が墓の主の命日であった。


 カリムは膝を落とすと、その墓の前で黙祷を捧げた。


 すると、横にいる小さな少女も彼と同じようにして目をつむり、ささやくような声でブツブツと何かをつぶやき始める。


 その声にカリムは、目をつぶったまま耳を傾けた。


「――お母様、私はもう五歳になりました。お父様たちの言いつけを守り、一人でできることは、自分でするようにして、毎日暮らしています。だから、お母様はあまり心配しないで、安らかに休んでいてください」


 それはカリムが屋敷を出る際に、彼女に教えた台詞だった。

 若干たどたどしいところはあるが、きちんと言えている。


 先生がいいからだろう。カリムはそう思って、小さく笑った。そういうところが母親の気質に似なくてよかったと、彼は心のなかでつぶやく。


 大病を患ったヴァレリーが亡くなってから、すでに三年近く経っていた。そしてカリムの横にいる小さな少女は彼女の忘れ形見、その名をアブリーヌといった。



 アンヘルの無念がはらされた後、ヴァレリーはリオット伯と結婚した。リオットは全てを解決した後に強く彼女を求め、それをヴァレリーが受け入れた形だ。


 婚姻の儀が執り行われたのは、それから間もなくのことである。


 アンヘルの屋敷で開かれた披露宴への参列客は多かった。


 そこにはアンヘルの遺した繋がりももちろんあっただろうが、多くは新たな実力者となったリオットとの繋がりを求めているようにカリムには見えた。


 彼もまた、かつてヴァレリーに付いた従者として披露宴に参列し、二人の結婚を祝福した。祝福する以外に彼がするべきことはなかった。ヴァレリーの花嫁姿は、ただただ美しくカリムの目に映った。


 そうして一連の催しが行われた後の、その次の日。


 ヴァレリーだけのものでなくなった屋敷に呼び出されたカリムは、リオットから自警団を辞めて、屋敷に従者として戻ってこないかと打診を受けた。


「アンヘル様に忠誠を誓ったように、どうか私に仕えてくれないか」


 その言葉はまったくリオットの本心であるようで、ことさら裏があるとは思えなかった。


 だが、カリムは悩んだ末、その頼みを断った。彼はアンヘル以外に仕える自分の姿を、どうにも思い描くことができなかった。


 カリムの意志が固いと知ると、リオットはため息を一つ吐いた。


「本当に、残念だ。アンヘル様への忠誠を最後まで誓い続けたお前のような者が、私に仕えてくれるならば」


「そのお言葉だけで身に余る思いです。自分はそのような大層な者では」


 リオットは首を振った。


「人品の価値に値を付けるのは、当人がすることではない。だが、もしお前の忠誠に価値が無いとされるなら、それは周囲の者が愚かなのだ」


 そう言って、リオットは懐から何かを取り出した。その際に、じゃりじゃりと重なった金属の音が鳴る。その音でカリムにはその中身が分かった。


 おそらくその袋には、言わば礼金と呼ぶべきものが入っているはずだ。

 その膨らみからするにかなりの額のようである。


「……そのようなものは」


 もちろんカリムは金銭など受け取れないと断ろうとした。

 が、リオットは頑としてそれを認める気はないようだった。


「お前には受け取るだけの理由がある。それにお前は、私を愚か者にしたいのか?」


 その言葉に上手く返答することがカリムにはできなかった。立場の違い。何より今や、リオットがカリムに礼金を渡すだけの立場にいることを改めて彼は思い知った。


 三度断った後、カリムが頭を下げて礼金を受け取ると、ちょうど屋敷の者が用事を持ってやって来たようだ。ヴァレリーにも挨拶をしていけと言って、リオットはカリムの前から去っていった。


 そうして従者の仕事を断ったカリムは、所属していた自警団にそのまま居付き、十年近くをそこで過ごした。


 またその間に結婚もし、子供も二人できている。息子と娘が一人ずつ。


 家庭にそこまで大きな問題もなく、カリムは自分の人生に大きな不満を持つ理由がないように思えた。


 しかし三年前。カリムの家を突然訪ねてきた者がいた。


 リオットである。しかも彼は一人、従者も連れずにやってきていた。


 驚いたカリムが彼を家の中に招き入れようとすると、リオットはそれを断り、逆にカリムを外に連れだした。そして人気のないところで初めて口を開き、「私の屋敷に仕えてくれないか」とカリムに言った。


 当然、カリムはいぶかしがった。

 年月が経ち、すでにあらゆることが過去になろうとしていたからだ。


 しかし、リオットが次に発した言葉で、カリムは過去が現在に迫ってきたのを知った。


「妻が先日、亡くなった」


 その瞬間、カリムは目を見開き、身体に衝撃が奔ったのに気付いた。最後にヴァレリーの消息を聞いたのは、彼女が一人子供を産んだという話までだった。


 その後聞かされたリオットの話によると、産後の肥立ちが悪かったらしく、それからヴァレリーは体調を崩しがちになったという。


 そしてまだ娘が三歳にもならない頃、彼女は大病を患った。

 多くの医者にかかったが、最後には診察に耐える体力すら、もはや彼女に残っていなかったそうだ。


「周囲との兼ね合いもあるが、私はおそらく再婚をすることになる。家の存続に、男子が必要になるからだ」


 時間がない所、こっそり抜け出してきたというリオットは早口で言った。


「そうなった時、娘のことを考えてくれる人間が必要だ。それでお前のことを思い出した」


 彼の言いたいことはその短い言葉でカリムにもよく分かった。もはやあの屋敷に、アンヘルの時代からの従者など、ほんの少ししか残っていないはずだからだ。


 リオットが帰っていった後、カリムは妻であるセリカに今の話を伝えた。

 彼女は黙ってその話を聞き、すぐに答えを出した。


 その数日後には、カリムは真新しい従者の衣服に着替えて、屋敷へ向かっていた。


 彼がリオットに出した条件は、家族を養うだけの給料ともうひとつ、住み込みではなく通いの従者になることだった。


 そして一年後、喪が明けたと皆が感じた頃、リオットはとある貴族の娘と再婚した。まもなく子供ができ、それはめでたく男子であった。



「お母様ってどんな人だったの?」


 霊園から出ると、せがんでカリムと手をつないで歩いていたアドリーヌは、彼に尋ねた。


「とても可愛らしいお方でした。お嬢さまと同じ時分は、特にそうだったでしょう」

「そうなのね。私は、お母様に似てるかな?」

「ええ、とても似ていますよ」


 カリムが答えると、アドリーヌは笑みを浮かべた。玉のような笑顔だった。


 それを見たカリムも笑う。それゆえ、内心で彼は今から屋敷に戻らねばならないのがひどく嫌なことに思えた。


 アドリーヌは今屋敷に居る母親が本当の母親でないことを知っていた。


 それは誰が教えたわけでもなく、彼女自身がヴァレリーの事をかすかに覚えていたのだ。いやだからこそ、アドリーヌと今の母親との間には距離ができてしまったのかもしれない。


 アドリーヌが口に出して母と呼ぶ相手は、今もヴァレリーだけであった。そしてリオットの今の妻は、決して愚かと呼ばれるべき女性ではなかったが、当然そうした義理の娘の態度を快くは思わなかった。


 現状、家に待望の男子が生まれてからというもの、その距離は一層離れたようになっている。


 またそうした雰囲気は、屋敷内の人間関係にも影響をおよぼすものだった。今はそこをリオットやカリムが上手く立ちまわることで、なんとか両派のバランスを保っている状況だ。三年前の、リオットの行動はまさに正しかった。


 ふと、アドリーヌが空いている方の左手で何かを弄んでいることにカリムは気付いた。


「お嬢さま、その手に持っているのは?」


 何か変なものでも拾ったのかと、カリムは尋ねた。

 するとアドリーヌは、いたずらな目をして答える。


「見たい?」

「ええ、見たいです」

「……絶対見たい?」

「絶対見たいです」


 そうしたやりとりの後、アドリーヌは手に持っていたものをやけに大げさにカリムに差し出した。それを受け取り、目にしたカリムはぴたりと歩く足を止めた。


「……これは」

「綺麗でしょ? あのね、この前お母様の部屋で遊んでいたら、化粧箱の中に入ってたの、見つけたの」


 アドリーヌが言うそれは、小さな女物の耳飾り(イヤリング)であった。対のうちの片方だけ。中央には翡翠があしらわれている。その色は緑ではなく、黄色。どこか見覚えのある、黄色い翡翠の耳飾りである。


 ヴァレリーの部屋はその主がいなくなった後も当時のままに保たれていて、そこに入るのは掃除をする女中とアドリーヌだけであった。


「それでお父様に見せたら、『それじゃあお前が大切に持っていなさい』って私に渡してくれたの。たぶん、お母様が大切にしていたものだろうからって。だから一個だけもらって、もう一個はお母様のところに残して」


 次の瞬間、カリムは胸の奥から蘇るものに、ぎゅっと心臓を掴まれた気分になった。喉は詰まったようになり、表情を堪えることが難しくなった。


「どうしたの、具合が悪いの?」


 そんなカリムの様子に気付いたアドリーヌが、ひどく心配そうな顔を浮かべる。


「なんでもありません、お嬢さま」


 そう言って、心を落ち着かせたカリムはそっと耳飾りをアドリーヌに渡した。


「大切になさってください」


 頷いてまた笑顔を浮かべ、アドリーヌはその耳飾りを見つめる。

 その表情には確かに、かつてのヴァレリーの面影があった。


 おそらく、これからアドリーヌは成長するに従い、屋敷の様々な事情に気づくことだろう。


 カリムは思う。アンヘルやヴァレリーの血を継いでいるのは、もはや彼女しかいなかった。あるいはそれがもとで、将来のお家騒動すら起こることがあるかもしれない。


 それは単なる予測に過ぎなかったが、それでも万が一そうなった時、少なくとも自分は目の前のアドリーヌを出来る限り支えよう。


 彼の歩く道は、目の前にこんなにもわかりやすい形で存在していた。

 一度振り向いて、墓の方を見つめたカリムは心のなかでそう決めた。

強引ながら完結。後半四話はちょっとずつ修正していきます。

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