六話
アンヘルの死から二年余りが過ぎようとしていた。
晴れた日差しの中、街の大通りをカリムは一人で歩いている。
あいかわらず、通りの周囲は騒がしい。店員は大きな声を張り上げていたし、人通りの多さも変わらない。変化らしい変化といえば、このところ店子の入れ替わりが頻繁に行われていることくらいだろうか。
「あら、カリム! こんな昼間に、仕事はもう終わったのかい?」
「どうも。いや、今日は久しぶりに外回りに回されて」
顔見知りの肉屋の店員に親しげに声をかけられ、カリムは足を止めてその声に応える。
いつも通り、店先に立って声を出していたのは、店の女将さんだった。人より少しふくよかな体型をした彼女は、どうも初めてカリムと会話した時に彼の体格、線の細さがひどく気になったようで、それから彼が店の前を通る度になにこれと声をかけていた。
「暑いのに大変だね、ご苦労様。ああそう、あんた今日の夕飯はもう決めてあるの? もし決まっていないようだったら、今日明日くらいが食べごろの良いお肉があるんだけどね」
「あー、じゃあ帰りに寄るんでそれまで取っておいてもらってもいいですか?」
「はいよ、ありがと。助かるよ。量はいつも通りでいいかい?」
「はい、いつも通りに――いや、今日はやっぱりちょっと多めで」
「うん、そうだよ。あんたは若いし、今日は身体使ってるんだからたくさん食べなきゃダメさ。じゃあ美味しいところを用意しておくから、仕事早く終わらせてきな」
「ええ、ありがとうございます」
小さく頭を下げ、カリムは人混みの中をまた歩いて行く。なんともあの肉屋の奥さんの口車に乗せられたような感覚はあるが、実際受け取る肉の質は良いものであるはずだった。
それに向こうがこちらのことを本当に気遣って言ってくれているのがわかるので、カリムに不快さが生じるはずもない。
今日は早く仕事を終わらせないとな。そう思い、カリムは道を進む足を早めた。彼が今目指しているのは、この通りの奥にある自警団の詰め所である。そこが今の彼が働く仕事場であった。
二年前、カリムは屋敷を辞めていた。
そして彼が次の職場に選んだのは、街の自警団である。
もちろんその仕事を選んだのは、彼にも考えがあっての事だった。
「おう、戻ってきたか」
先輩の一人が詰め所に帰ってきたカリムの顔を見て、片手を上げた。
「しかしなあ、戻ってくんのちょっと早えんじゃねえか? 本当にきちんと見回りしてきたのかよ」
「大丈夫ですよ」
「本当か~? 適当に見まわってきたんじゃねえだろうな」
「本当に大丈夫ですって」
面倒な先輩の口の聞き方にカリムは後輩らしく答える。すると、詰め所の奥の方にいた一人がその会話に割り込んだ。
「おいこら、そこ。むやみやたらに先輩面してんじゃねえぞ、こら」
会話に割り込んできたのは、今詰め所にいる中ではもっとも古株の団員。
「あっ、すいません」
「そんなに外が気になるなら、今日からずっとお前が外回りでもいいんだぞ。事務仕事なんか、お前よりカリムに任せたほうがはええんだからな。ってか、お前は早く今やってる仕事を終わらせろ。いつまで時間掛ける気だ?」
「……わかりました、はい」
そうしておとなしくなった部下を尻目に、古株の男は今度はカリムの方に顔を向けて言う。
「カリムもそいつの相手なんかしてないで早く報告書書け。それ書いたら今日は終わりだから早く家に帰って休め。明日は朝からだからな」
「はい。ありがとうございます」
そうしてカリムは自らの席に移動すると瞬く間に報告書を仕上げ、そのまま家路についた。
自警団での仕事にさほど手順が難しいものはなかった。何より周囲に対しての気遣いがさほど必要なくなったので、カリムとしては精神的には楽である。総じて従者時代とだいぶ異なる仕事環境だったが、それなりに楽しいことも多かった。
さきほどの先輩も後輩のカリムをからかうようにするだけで、たまにご飯をおごってくれたりもするのだ。ただ少し場の空気を読もうとしない質であるのはどうかと思うけれど。
道中、肉屋の奥さんから頼んでいたものを受け取り、家に戻るとカリムは早速料理を始めた。今日は思いもよらず良い肉が手に入ったので、それをメインに何品か仕上げるつもりだ。
一人暮らしをするようになって始めた料理は、二年も経てばある程度のことはできるようになる。カリムはいつもよりだいぶ豪華に料理を仕上げた。
夕刻を過ぎて、カリムの住む部屋に客が二人、訪れた。
「久しぶりねカリム。半年ぶりくらいかしら」
「お嬢さま。このような狭い場所に申し訳ありません。しかし、私が屋敷を訪ねていくのもおかしな話なので」
「ええ。大丈夫よカリム。私もいい気晴らしになるから」
カリムの借りる部屋にやってきたのは、ヴァレリーだった。その後ろにはセリカが控えている。セリカはカリムに眼だけで挨拶し、カリムも同様に眼だけを小さく動かして応えた。
久しぶりに見るヴァレリーの表情は以前とさほど変わっていなかった。ただ肌の白さは以前よりも増している。それはいささか病的とも思われるほどだ。
それもそのはず、ヴァレリーは二年前から余程の事情がない限り、ほとんど屋敷の外に出ていなかった。病気がちだという噂を流して、婿入りを狙っていた貴族たちの要望もある時から全て断っている。
ただもちろん、いつまでもそのような状態でいられるはずもなかった。アンヘルの残した財産は目減りしている。まだ余裕があるうちに、ヴァレリーは自らの行く末を決めてしまわねばならない。
「まずは食事を。食べながら話しましょう。今、皿を出します」
カリムが言うと、その配膳を手伝うため控えていたセリカが動く。
「私も手伝うわ」
その様子を見て、ヴァレリーは言った。
「いえ、お嬢さまにそのようなことをさせては。旦那様にしかられます」
「いいのよ、もうそんなこと気にしなくても。屋敷でも私ができることは自分でするんだもの」
屋敷に使用人はもはや最低限の数しか残っていないはずだった。カリムは思い出す。それは少しでも余計な支出を抑えるためだ。内心後ろ暗い思いがよぎったが、「では、お願いします」とカリムは応えた。
「とても美味しいわ」
席につき、料理をひとくち食べたヴァレリーが言った。
「ありがとうございます」
「こういう味は久しぶり。屋敷では味の濃いものが、あまり出されないから」
「……はい」
その理由については言われなくとも分かった。屋敷に残っている者に年配の人間が多いからだった。また味の濃い料理はアンヘルの好みでなかったから、昔から屋敷では薄目の料理が好まれていたというのもある。
今思えば、かつて彼女が屋敷の外に遊びに出たがったのも、外ならば自分の好きな物が買い食いができるという理由があったのかもしれない。
そのような思いを抱きながら食事を取り終えると、カリムは器を横に除け、二人に向かって話し出した。
「本題です。旦那様のことについて」
「ええ」
カリムの言葉に、ヴァレリーは顔を引き締める。
「進展があったということだけど」
「はい。詰め所で事務仕事を任せられるようになって、ようやく調べることができました。これが街に物資が運び込まれた際の、警備記録の写しです」
そう言ってカリムはテーブルの上に一枚、紙を置いた。
「その記録の中に、荷駄の総数とその量について正確な記述が残っていました。警備に何人が必要か、自警団にも配置の都合があったはずですから」
「……それじゃあ」
カリムは頷く。
「旦那様が横領の罪に問われた、あの時の議会に証拠として提出された帳簿の中身とは、やはり数字が異なっています。当時からずっと自警団にいるという先輩方にも確認を取ったので、疑う余地はありません。やはりというか、地方からの物資は正しい量がこの街に届いていたようです。物資の横流しというのは、この街にそれが着いた後に行われたようでした。そして街についた後の物資の保管については、旦那様が担当していた仕事ではないのです」
おそらく帳簿を弄った者らも議会にある分に手を入れただけで、自警団の記録についてまでは頭が回らなかったのでしょう。
カリムの言葉を聞いて、ヴァレリーは大きく目を見開くようにした。
「やっぱりお父様は無実だったってことよね? それなら、早くこの記録を公にしてしまえば!」
「……はい。確かに、この記録は旦那様の汚名をそそぐ証拠の一つになります。ですが……」
首を振ってカリムは言った。
「私たちには議会にこの証拠を提出する伝手がありません。また誰が書類の改ざんを行って旦那様に罪を着せたのかもわからないのです。下手にこの証拠について漏らせば、思わぬところから邪魔が入ることもありえます。ですからやはり、そこまできちんと調べてから公表しなければならないでしょう」
「誰が改ざんをしたか調べるって……。何か良い方法があるの?」
「それについて、お嬢さまの判断を仰ぎたいことがあります」
ヴァレリーの言葉に対してカリムは一度言葉を切り、それからまたゆっくりと話しだした。
「……実は先日、自警団のつながりで私は、騎士様たちとの交流会に参加することが出来ました。そしてその場所で私は、リオット様にお会いしました」
その名前にヴァレリーは聞き覚えがあったようだ。
「リオット様って、何度か屋敷に来たことがあるお方よね? 私も挨拶したことがあるわ」
「はい。子爵の地位にいらっしゃる方ですが、ちょうどその集まりにも顔を出されていたようで。その際に向こうから声をかけていただいたのです。どうやら私の顔に見覚えがおありだったようで。そこで私が今は自警団に属していることを言うと、怪訝な顔をしたリオット様はそのまま私を別室に連れていかれました」
「なぜ?」
「それは……私を叱るためだったようです」
ヴァレリーはカリムの言った言葉の意味がわからなかったようだ。
「『お前は本当は、あの屋敷の従者ではなかったのか』。リオット様は部屋に入ると、私に向かってこうおっしゃいました。『かつてアンヘル様に世話を受けた者が一体何をやっているのだ』と。『あの方がいなくなってしまったからこそ、お前は屋敷のために尽力するべきではないのか』と」
すると、ヴァレリーは途端に怒った表情を浮かべて言った。
「そんな、あの方はカリムが自分のことだけを考えて屋敷を辞めたって言ったの? 本当はあなたが、お父様のことをどれだけ慕って今も動いてくれているかも知らないで」
「……いえ、お嬢さま。リオット様もいい加減な気持ちで私を怒ったわけではないようでした」
そうなだめるようにして言うと、ヴァレリーは疑問げにカリムと視線を合わせた。
「リオット様は旦那様と雑談する中で、私のことが話題になったことがあるのだとおっしゃっていました。そこで旦那様は言っておられたそうです。『このカリムという従者ほどこの家に尽くしてくれる者はいないと。屋敷の事を考えてくれる者はいない』と。『この先、家にどんなことが起ころうとこの者は家を支えてくれるだろう』と。……本当に、恐れ多いことです」
一度下を向いて、カリムは言う。その表情は悲しげだった。
「そこまで自分を高く買っていてくれたアンヘル様に対して、お前は思うところがあって当然ではないのかとリオット様には諭されました。それは本心からそう言っているように私には思えました」
そしてカリムはつらそうな顔を浮かべたまま言った。
「――それで、お嬢さま。申し訳ありません。私は自分の判断で、リオット様にある程度の事情を話しました」
「……! それで、リオット様は?」
「事情を聞くと深く頷かれ、悪いことを言ってしまったと私に頭を下げられました。そしてやはりもう一度、旦那様の件について調べていただけると。二年前ならともかく、今であれば自分の権限も増えているからと」
「そう……」
ヴァレリーは下を向き、何かを考えるようにする。
「それで、お嬢さま。私がお嬢さまに判断を仰ぎたいとは、そのことです。リオット様には旦那様の罪を晴らすため動いていることは伝えましたが、まだこの自警団の記録については教えていません」
それを聞いたヴァレリーは戸惑ったような表情を見せた。
「これを教えるかどうかは、一度お嬢さまに話した後でなければと思ったからです」
「それはつまり、リオット様が信用できるかどうか私に判断しろということね」
「申し訳ありませんが、はい。一度、お会いいただけるのであればお願いしたいと。リオット様が本当に我らの手助けをしてくれるのであれば、これほど心強いことはありませんので。が、しかしもともと味方でなかった場合も考えると……」
「あなたは、リオット様についてどう感じたの?」
ヴァレリーは尋ねた。
「私は……。少なくとも、あの方の言葉に嘘の響きは感じられませんでした。旦那様に対しての思いも、正直な所を話されたようにしか思えません。それだけでも賭ける価値はあると私は思います」
するとその言葉にヴァレリーは即座に頷いてみせる。
「ええ、カリム。それなら私は、あなたの直感を信じましょう。私が会うまでもないわ。リオット様にその証拠を渡しなさい。そしてその手伝いをしてお父様の無念を晴らしてあげて」
そうはっきりと言われ、カリムは少し遅れて深く頷いた。
「数日中に、リオット様には資料をお渡しできると思います」
「そう……。ありがとう、カリム」
ヴァレリーはそう言うと、少し疲れたような表情を浮かべる。
「あなたがこんなに働いてくれているのに、私は駄目ね。本当は、私こそ何か動かなくちゃいけないのに」
「そんな、何をおっしゃっているのですか。お嬢さまが今も耐えていらっしゃるからこそ、あの屋敷は今も存続しているのですよ」
もちろんカリムはヴァレリーを励ました。が、彼女にあまり受け入れた様子はない。
「あのね、カリム。私、もうね、いいかなって思う時があるの」
ヴァレリーはあまるでひとり言を言うかのように言った。
「お父様がいなくなったことは本当に悲しいわ。あの、屋敷に戻ってきた時の姿を思い出す度に、私は今でも胸が張り裂けそうになるの。お父様があんな風になってしまったのは私が、きちんとした娘じゃなかったからじゃないかって。今になったら分かるの」
「いえ、お嬢さまはそんな」
「いいえ。私のわがままでお父様は迷惑していたはずよ。だって、お母様がいなくなって、お父様には多くの縁談がもちこまれたはずだもの。でも、お父様は私の母は一人だといって再婚をする気がなくて。だけどもし再婚をしていたら、あの時も味方がちゃんといてくれて、こんなことにもならなかったのかもって」
そんなことはない。カリムは言ったが、ヴァレリーは横に首を振るだけだった。
「ねえカリム。私、あのお屋敷をもう売ってしまってどこか違うところに行こうって考えたりもするの。そうしたら、私は――」
「お嬢さま!」
強い声で遮るように、カリムは言った。
「お嬢さま。申し訳ありません。その言葉には、私は賛同できません」
「……そう、よね。ごめんなさい、何を言っているのかしら、私は。カリムや他にも多くの人が、お父様のために頑張ってくれているのに。弱気になっちゃ駄目よね」
「……」
そうして二人の会話は止まってしまう。
そうした空気を感じ取ったのだろう。
今までずっと黙って横で控えていたセリカが椅子から立ち上がった。
「飲み物を入れます。お嬢さまは紅茶でよろしいですか?」
「……ええ、いただくわ。ありがとう」
それから三人で口数少なに紅茶を介して言葉を交わすと、ヴァレリーたちは遅くならないうちにと屋敷へ帰っていった。