五話
一週間が経つと、アンヘルが捕まったという話は街中に広がっていた。
その原因についてはまだ確かなことは分かっていなかったが、捕まったという事実そのものが影響したのだろう。屋敷の者が街に出ると、じろじろと不躾な視線を向けられるようになった。
いや、ただそうして視線を向けられるだけならば、まだいい。
視線を向けてくる者のうちでさらに度胸のある者は、屋敷の人間を見つけるとわざわざ近寄ってきてこう尋ねるのだ。「いったいお前のところの主人は、何をしでかしたんだ」と。
そういう者に限って皆、抑えきれない嫌な笑みを浮かべている。それはまるで、弱った生き物に忍び寄る悪菌のような振る舞いだった。
ならば、どうしてそのような者がまともに扱われるはずがあるだろう。
屋敷の使用人同士の話し合いで、彼らのような者に何を聞かれても口は堅く閉じておくことが決まっていた。それは彼らがアンヘルを信じているという証であったし、また直近の面倒を避ける意味合いでもある。
カリムもまた道端でそのような目に合うことがあったが、彼は何ら気にすることなく、アンヘルが無事帰ってくると信じていた。アンヘルと接する機会も多かったカリムは、自分の主人が不正を行うような人物ではないとはっきり理解していたのだ。
屋敷に勤めた期間の短いカリムですらそう思っているのだから、まして他の使用人たちはなおさらである。使用人たちは皆、アンヘルのいち早い帰還を待っていた。
しかし、それら使用人の態度とは相反するように、娘のヴァレリーは父の捕縛にかなりショックを受けていたようだ。
わけもわからないうちに、自分の肉親が捕えられたのだから、無理もないことではある。
そこに加えて、また折り悪く「帰ってこなければいい」とその日彼女が言っていたこともタイミングが悪かった。彼女は自分を責める理由を見つけてしまったのだ。
セリカやカリムがどうにかして慰めようとしたものの、ほとんど効果はなかった。
彼女は今までのようにこっそり街に出たいと言い出すこともなく、部屋に閉じこもっているようになった。
そしてそのことがまた街の噂になってしまう。
一度秤が傾くと、物事は悪い方、悪い方に進んでいくようだった。
そこから、さらに一週間が経った。
屋敷の人間の願いは届かなかった。
事態はさらに悪化したのだ。
その日の朝、アンヘルが獄死したという知らせが屋敷に届いた。
当初、たちの悪い嫌がらせであろうと使用人の誰もその知らせを信じなかったが、さらに数日が経って屋敷に遺体が帰ってくると、使用人達は絶句してそれを迎えた。
見間違えようがなかったからだ。
屋敷に帰ってきた遺体は、間違いなくアンヘル本人のものであった。
カリムもセリカも、ほかの使用人たちも呆然として目の前の現実を受け止めた。
中には、その場で膝から崩れ落ちて泣き始める者もいた。
二週間、どうにか屋敷を維持して、耐えてきて、その結末がこれなのだ。
心が折れても、仕方のないことではあった。
大の大人であっても心のうちから湧いて出る悲しみを抑えることができなかった。
彼らが心を落ち着かせたのは、それから一時間も二時間も経った後のことだ。
アンヘルの遺体が土やほこりで汚れていることにようやく気付いた彼らは、その体を清めるため、震える手で彼の着ていた衣服を脱がせた。
すると、アンヘルの体には、二週間牢で過ごした苦労の跡がありありと残っていた。
服こそかつてこの屋敷を出て行った時とは違う、粗末なものに着替えさせられていたのだ。
その生活は過酷なものだっただろう。
食事も充分に与えられなかったのか、少し躰は痩せたようであったし、また石敷きの床の上に何も敷かずに寝ていたようだ。肘や膝が地面と擦れて白く変色しており、ところどころ赤くなった箇所がある。
しかし、中でも一番ひどいことになっていた部分。
それはアンヘルの背中一面である。
そこには明らかに故意に痛めつけられた跡が残っていた。どう見ても火傷の跡としか思えないものまで残っていたのである。
いったいどうして牢の中で火傷をすることがあるだろう。
使用人達は自分たちの細い伝手を通じて訴えかけたが、なんらきちんとした回答は返ってこなかった。適当に、牢の中で自傷したのだろうとうそぶかれても彼らが納得できるはずがない。
さらに使用人たちは、生前アンヘルと付き合いのあった貴族にこのことを訴えかえたが、逆にその貴族からはこのように言われたのである。
「お前たちはいったいこれから誰に仕えるつもりなのかと」
当然、屋敷の者たちはアンヘルの娘であるヴァレリーに仕えるつもりでいた。しかしその判断は甘いものであった。
その貴族が言うところによると、どうもアンヘルが拘束を受けた理由というのは、春と秋に二度、都に届けられる直轄地からの税を横領していた、という疑いかららしい。
以前より、実際に税として送られてくる量と帳簿上の数字が合わず、問題になっていたというのだ。そして調査の結果、直轄地からの輸送に関わっていたアンヘルが帳簿の数字を弄っていたという結論になったのだという。
もちろん使用人たちはそんなことがあるはずがないと、その貴族に反論した。
しかし、彼らも実際のアンヘルの仕事について理解していたわけではなく、その人となりからの反論しかできないので、根拠はないも同然だった。
そうして結局、きちんとした証拠もないままに、アンヘルは拘束された。
彼の口を開かせるのが最も手っ取り早い方法だと考えられたのだそうだ。
しかし、最後までアンヘルは自分の無実を訴えたまま、命を落とした。
実際のところ、本当にアンヘルが横領していたのかどうかも分からなくなった。
「だから、アンヘルの財産などが取り上げられることにはならないだろう」
その貴族は言った。
ただ、財産こそ受け継いだとしても、まだ若年のヴァレリーに収入を得る術はない。
しばらくは今ある財産を食いつぶして生活できるだろう。
しかし、その後は?
噂によると、あまり褒められた人となりをしているわけではなさそうだ。
屋敷の運営をうまくやることができるのか。
今のうちに、別の仕事を探しておいたほうがいいんじゃないか。
そのように貴族の一人から説明を受けた使用人は、屋敷に帰ってきた後も不快な表情を隠そうともしなかった。自らの忠誠心を馬鹿にされたような気がしたからだ。
アンヘルの葬式が終わると、その日を境に山ほどの見合いの話がヴァレリーに持ち込まれるようになった。それらのほとんどがアンヘルの残した財産目当てであるのは、どこの誰が見てもわかった。
中にはヴァレリーの境遇を憐れんだ人間もいただろうが、しかしその違いを区別できるはずもない。
いや、ただでさえ、ヴァレリーは父親を失った日から、半分死んでいるような表情と態度で毎日を過ごしているのだ。彼女はアンヘルの死をもって初めて、自分がよほど父親に甘えていたことに気付いたようだった。
ヴァレリーは日がな一日、自らの部屋にこもって過ごし、時折、父親の影を求めて、アンヘルが生前使っていた部屋を訪れる。
部屋は使用人たちの変わらぬ働きによって、きれいに整頓されていた。
アンヘルが拘束された次の日に何人もの男たちが来て、辺り一切荒らしていった跡はもう残っていない。
彼女は父親が使っていた机を撫で、小さく表情をゆがめた。
父親を失った悲しみは今も変わらないが、もう涙は出尽くしてしまったようだった。
ヴァレリーがその部屋でしばらく過ごしていると、カリムが部屋の前を通りがかった。
彼は部屋の扉が開いているのに気付いて、中を覗く。
そしてヴァレリーを見つけた彼は、一瞬迷った後、部屋の中に入った。
「お嬢様」
ヴァレリーが振り向く。
「カリム」
そう一言だけ口にすると、彼女は下を向いた。
カリムの表情を見て、彼が何を言い出すか分かったのだろう。
「ご報告したいことが」
「新しいお見合いの話? それとも、また誰か屋敷の仕事を辞めたいって話?」
その力のこもっていない声に、カリムはやるせない思いを抱きながらうなずく。
「その両方です。まず、ヴァレリー様とぜひお会いして話したいという方がお二人。一人はお嬢様が先日、お会いになられた方です。そちらの方は、お嬢様のことをよほど気に入ったとのことで」
「……そう」
それきりヴァレリーは何も言わなかった。
以前であれば、ふざけるなと言って見合いの話など一切合切断りそうなものだったが、今の彼女にそんな元気はないようだった。
「それと、屋敷の料理を担当していたモリスが今月で屋敷を離れたいとのことでした。地元に戻って店を開くそうです」
モリスは長年この屋敷に仕えた使用人の一人だった。
ヴァレリーも幼い頃から、彼の料理に舌鼓を打っていたはずだ。
彼女も引き留めたい気持ちはあるはずだった。
しかし彼女はまたうなずくだけで、口を開かなかった。
今月、これで屋敷の使用人が辞めるのは二人目である。
「……寂しくなります」
「……そうね」
それきりカリムも言うことがなくなってしまった。
どうすればヴァレリーは立ち直ってくれるのだろうと、一時期セリカと一緒になって悩んだりもした。
だが何をやっても思うような効果は上がらず、むしろヴァレリーの負担を大きくするだけのようであったので、今はもう何もできなくなっていた。
もはや頼れるものは時間だけなのか。
カリムはヴァレリーの顔をちらりと見ながら思った。
そして彼は、彼女の顔をじっと見つめながら、小さく胸を騒がせる。
少し痩せて細身になったヴァレリーは、以前とはまるで違う憂いに満ちた表情を常に浮かべていた。そこには少しつつくだけで壊れてしまうような儚さがある。脆さがある。
それは一種の、男の欲をかき立てる表情でもあった。
あるいは、屋敷をまた訪れたいと言ってきたあの貴族。
カリムが見る限り、割と本気でヴァレリーのことを想っているらしい彼も、おそらくヴァレリーのそこを気に入ったのではないだろうか。
彼女を救うことがでれきれば、間違いなく男の何かが満たされる。
それを庇護欲と呼ぶべきか、支配欲と呼ぶべきか。
ある面からすれば、それはまさしく不純な動機だった。
しかし同時に、まったく男らしいと評すべきかもしれない動機でもある。
それでは、ヴァレリーについて悩んでいる自分はそのどちらであろうのだろう。
カリムが黙って考えていると、ヴァレリーが不意に顔を上げた。
彼女はカリムがすぐに去らず、その場で立ち尽くしていた理由を思いついたらしい。
「カリムも……屋敷を辞めたかったらいつでも辞めていいのよ。私に遠慮しなくたっていいから」
彼女は悲しい顔のままで笑みを浮かべる。
「私のことを心配してくれるのはありがとう。でも、あなたにこれ以上迷惑をかけていたくないの。今まで、本当にごめんなさい」
そう言って、ヴァレリーはカリムに向かって頭を下げた。
彼女がカリムに頭を下げることなど今まで一度もないことだった。
すぐに彼は彼女の体を起こそうとして――その次の瞬間、カリムのどこにそのような思いがあったのだろう。雷に打たれるように突発的な考えが彼の頭に浮かんだ。
そのまま彼は頭に思い浮かんだ言葉を口にする。
「……お嬢様」
カリムの声の調子に違和感を覚えたのだろう。
ヴァレリーが頭を上げる。
「アンヘル様の無念は、必ずや私が晴らしてみせます」
カリムの言葉に、ヴァレリーは大きく目を見開いて彼の顔を見つめた。