四話
その日、主人のアンヘルは夕方前には帰ってくるとの予定になっていた。そしてアンヘルが朝に言った予定を変更するということはめったにない。彼は可能な限り夕食を娘と話しながら摂ることにしていたし、それが親の役割なのだと固く信じているところがあった。
だから突発的な出来事で予定より家に戻ってくる時間が遅れるとき、アンヘルは必ず人を遣って屋敷に連絡をつけた。屋敷で働く人間はそのことを知っていたので、その日、アンヘルから何の連絡もなかったことから、いつもの量の食事を用意して主人の帰りを待っていた。
そんな屋敷の皆がようやく「なにか変だ」と違和感を覚え始めたのは、アンヘルの帰る時刻を二時間も過ぎた後である。
「ねえ、何かあったの?」
一向に夕食に呼ばれないことを不思議に思ったヴァレリーは、カリムを呼び出して尋ねた。
「いえ、まだアンヘル様がご帰宅されていないのです」
「え、何も連絡ないの?」
「珍しいことですが、はい。お料理の用意はすでにできているのですが……」
カリムは首を傾げる。こんなことは彼も今まで一度として経験がない。
「そうなの? 誰かお父様を探しには行った?」
「確認のため、すでに一人が城に向かっています。今日はそれほど遅くならないと聞いていたのですが、何か急ぎの用ができたのかもしれません」
ヴァレリーは「ふーん」と息を吐いた。
「どうせだったらものすごく夜遅くに帰ってきたらいいんだけど」
「またそのようなことを、お嬢様」
「だって、お父様が帰ってきたらまた怒られるじゃない。捨てようとした本のこと、お父様に告げ口するんでしょ?」
どこかいじけたように睨みつけてくるヴァレリーにカリムは下を向いて視線を外した。
(告げ口って)
「セリカが言ってたもの。『本当にカリムはお嬢様に厳しいですよね』って」
カリムは内心で狼狽した。なんと知らないうちに、セリカに生贄として差し出されていたらしい。そしてこういう時、カリムは反論するだけ無駄なことを知っている。そしてヴァレリーもカリムがそうやってサンドバックになることを分かって言っているはずだった。
(あなたのせいで私も怒られるんですよ、と言えたら……)
とはいえ、まさかそんなことは出来るはずもない。ということで、この代償をセリカにどう払ってもらうべきか。
カリムがそんなことを考えているとはつゆ知らず、ヴァレリーは何かを諦めるような表情でカリムに対して言った。
「いいわ。もうご飯食べちゃいましょう。皆も食べないで待っているんでしょ? 後で何か言ってきたって、全部お父様が悪いんだもの」
カリムはすぐに頷いた。
「すぐにご用意しますのでお嬢様はダイニングの方にどうぞ」
「わかったわ」
頷くヴァレリーにカリムは頭を下げ、背中を向けた。
「ねえ」
「はい?」
そしてその場を去ろうとしたカリムにセリカが声をかける。
「なんか今日、一人で食べるの嫌なんだけど」
それは予想もしないセリカの言葉だった。振り向いたカリムは一瞬考えて、それから彼女の言っている意味を理解した。
「ええと、セリカさんでよろしいでしょうか。それとも誰か他の女中を――」
「……うん。セリカで、よろしくね」
カリムはわかりましたと言って、また彼女に背中を向けた。
結局その日のうちにアンヘルが屋敷に戻ってくることはなかった。
そして城に向かった人間も何故かまだ戻ってきていない。屋敷の人間は程度の差こそあれ、どういうことなのかと皆それぞれ慌てていた。
『何かよほどのことが起こっているはずだ』
誰もそれを想像していたが、しかし屋敷の中は全体的には落ち着きを保っている。アンヘルの日頃の教育もあり、彼らは自らを律することを知っていた。
ただし唯一、ヴァレリーの様子だけは他の誰とも違った。
いや、彼女も見た目だけは落ち着いて見えるのだ。しかし、彼女のいつもを知っている人間であれば、普段とは少し態度が違うことに気づくだろう。
「もう時間も遅いですから。お嬢様はお休みください」
何度となく、カリムはヴァレリーに告げている。しかし「眠くない」と言って、ヴァレリーの部屋のランプはずっと付いたままになっていた。
「まだお父様は帰ってきていないの」
「そのようです」
「人を探しに向かわせたんじゃないの?」
「はい。ですが、そちらの方もまだ帰ってきていないのです。よほど人手が必要な事態が城で起こっているのかもしれません。あるいはさらに人手が必要になるかもと皆が起きて待機しています」
カリムの予想にヴァレリーは何かを考えたようだ。
「王様が亡くなったとか?」
その発言にはさすがにカリムも訂正を求めた。
「あまりそういう不敬なことを言うのはやめておいた方がいいかと。誰が聞いているかわかりませんし」
「別にここはパーティーの会場ではないでしょう。私は自分の部屋の中でも好きなことを言っちゃいけないの?」
カリムは首を振った。
「決してそんなことは。ただ、一度口に出す癖を付けるとあまりよろしくないというだけで」
ちょうど彼がそういった時、カリムの背中側にある部屋の扉がノックされた。そうして部屋の中に入ってきたのは女中のセリカである。
「お嬢様、少しよろしいですか」
「なに、セリカも私を叱りに来たの?」
「そうではなく、カリムをお借りしてもいいかお訊きしたくて」
するとそれを聞いたヴァレリーの表情が変わった。
「もしかして、お父様?」
「すみません。そうではなく、屋敷の中のことでちょっと」
「……そう。いいわ」
ヴァレリーは苦い顔をした。
「カリムがうるさいから辟易していたところなの。連れて行ってちょうだい」
そう言われたカリムはそこで初めてセリカと視線を合わせた。
(ん?)
セリカはカリムが呼ばれた理由を知っているのか、どこか暗い表情をしている。いったい何があったというのだろう。カリムはヴァレリーに頭を下げると、セリカと連れ立って部屋から出ることにした。
「何か旦那様のことでわかったんですか」
ヴァレリーの部屋とは少し距離を置いたところまで来ると、カリムはセリカに急くようにして尋ねた。嫌な予感がしたからだった。
「そうなの。さっき、私も見覚えのない男の人が屋敷を訪ねてきて」
「こんな夜遅くにですか?」
カリムが言うと、セリカは自らを落ち着かせるようにゆっくりと頷く。
「その人は旦那様が寄越した人じゃないみたいなんだけど、旦那様のことを知っているって言ってて。なんか、旦那様と仲の良い貴族の人が寄越した人みたいで。それも本当なのかどうかもわからないんだけど」
「……はい」
焦れるようだったが、カリムは黙ってその続きが話されるのを待った。
「それにまだ、その人の言っていることが本当かどうかも分からないわ。でも……」
そこで一呼吸を置いたセリカは、しかし次の言葉をはっきりと口にした。
「旦那様がお城で拘束されてる、ってその人は言ってるの」
カリムはおもわず目を見開いた。どこかわけの分からない方向から、弓矢でも飛んできたような感覚があった。
カリムはセリカの目を見つめながら、いつの間にか開いていた口も閉じず、何も言うことができない。
「過去の報告の中に不正なものがあったって、旦那様は王様の前で糾弾されて。それで王様が信じたのかどうかは分からないけど、その場にいた人全員が城の中から出られなくなったみたいなの。それでその人が言うには明日の朝、屋敷を調べるための兵士たちが来るから、怪しい物があるなら全部今晩の内に捨てないと駄目だって」
そこまで聞いたところでようやく我を取り戻したカリムは、目の前のセリカの肩を掴んで言った。
「ちょっと待ってください。それだと、旦那様がまるで本当に不正をしたみたいな話になってるじゃないですか」
「私だってそんなこと信じてないわ。この話を聞いていた皆も全然信じていなかったみたいだもの。でも全然連絡が取れないのは、本当にお城で捕まってるからじゃないかって皆も」
カリムはさらにセリカの肩を強く握りしめた。
「その人はまだ屋敷に?」
「ううん。自分がここに来たことも知られると不味いからって。だから、その人を寄越した貴族の名前も教えてくれなかった」
どこまでその男のことを信じるべきだろう。カリムは思った。そもそもその人は本当に主人の友人が寄越した人間なのだろうか。
「不味い資料なんか屋敷にあるわけありません」
「私もそう思うし、信じてる。でも、皆このままじゃ不味いんじゃないかとも思ってるはずなの」
しかし、何が起こっているのかも不確かである以上、行動すること自体が事態をより悪化させることもある。
「とにかく落ち着いて旦那様の帰りを待ちましょう」
カリムが言うと、セリカは「そうするしかないよね」と言った。そして彼女は一瞬、痛そうな表情を浮かべる。
それでカリムは自分が思い切り力を込めてセリカの方を掴んでいたことに気付いた。慌てて手を離す。
「すみません」
セリカは首を横に振って、「大丈夫」と答えた。
「……でもこんなこと、お嬢様にはどう伝えたらいいのかな」
本当にセリカの相談したかったことはそれだったのだとようやくカリムは理解した。そして彼はしばらく頭を巡らせてから口を開く。
「それもきちんと正確な情報を掴んでからにしましょう。間違っているかもしれない噂を伝えても何の意味も無いですから」
カリムの考えはセリカと同じだったようだ。
「最悪今日一晩、私がお嬢様に付いておくから、カリムは他のみんなと話してみて。まだ下の部屋に集まってるはずだから」
セリカの言葉に甘えてカリムは頷き、急いでその場を離れた。
同僚たちの集まる部屋に向かう最中、カリムはずっと自分の嫌な予感を消し去ることができなかった。