三話
思えば、カリムがこの屋敷で世話になり始めてからもう二年余りが過ぎようとしている。
毎日を忙しくしていると、時の流れはずいぶん早かった。季節はいつの間にか二度目の夏を通り過ぎて、秋に変わる時期。この頃は外に出ると肌寒さを感じるほどだ。
その日の夕方、生ごみの入った袋を持って外に出たカリムは冷たい風に顔を打たれながら、ようやくごみ捨て場まで歩いて行った。
「あっ、カリム。悪いけど、こっちもお願いしていい?」
彼が屋敷に戻ってくると、ちょうど女中のセリカが勝手口の扉を開けた所に立っていた。彼女はまるでカリムを待っていたかのように声をかけてくる。
「寒くて外に出たくないからって人を使わないでくださいよ、セリカさん」
気安くカリムは彼女に応じた。
対してセリカの方からも「もう、違うって」と柔らかい笑顔が返ってくる。
セリカは使用人としてカリムより三年先輩の女中で、彼がこの屋敷にやってきた時から何くれと面倒を見てくれた人だった。実際には初めて出来た後輩にセリカが張り切っただけのようではあったが、それはそれとして新参者のカリムには頼れる先輩に違いない。
「そうじゃなくて、袋の中身が重たいの」
カリムが視線を下げると、確かに彼女の足元には両手で抱えるほどに膨れた布袋が置いてある。「いいから持ってみて」と告げられ、彼女のそばに近寄ったカリムは何気なくその袋を持ち上げてみた。
「ん」
すると予想以上にずっしりとした重量感がある。たった一袋でさっき運んだ生ごみ二袋分よりも重い。持ちあげられないほどではないが、確かにセリカ一人でごみ捨て場まで運んでいくには辛いものがあるだろう。
「ずいぶん重いですけど何が入ってるんですか、この袋」
「知らないけど?」
え? とカリムはさらに尋ねる。
「だから、分からないの。さっきそこの廊下でお嬢様に頼まれたんだけど」
意外な答えにカリムはひどく驚いて言った。
「こんな重いものを、お嬢様がですか」
「そうなのよ」
顎の下に指を当てながらセリカが続ける。
「その廊下までは自力で運んできたようなんだけど、限界だったみたい。通りがかった私に『任せる』って言い残して、すぐにいなくなっちゃった。そのまま放置も出来なかったからここまでは持ってきたんだけど、もう私も疲れちゃって」
持ち上げた腕をぶらぶらとさせるセリカに、カリムはふむと頷いてみせる。おそらくヴァレリーは自室からこの大きな布袋を運んできたはずだった。わざわざそんなことをして、なぜ彼女は自室に使用人を呼んで運んでもらうよう言いつけなかったのだろう。
「……この袋って中を覗いてみてもいいと思います?」
「んー、もしかしたら男の人が見ると不味いものかも」
「でも古くなった下着とかではないですよね。服にしてはずいぶん重いし、袋越しの感触が固いですし」
「うーん」
唸るセリカにカリムは続ける。
「それにセリカさんも同じことをしたじゃないですか。ちょっと前、あの買い物の時の袋を――」
そう聞いて、すぐに思い出した様子のセリカは慌ててカリムに言い繕いをした。
「あれは、買ってきた服の中に針とか危ないものが紛れてないか皆で調べただけだよ。別に中身が気になったからじゃなくて」
「それと同じことですよ」
笑って答えつつ、カリムはやはり袋を開けてみることを決めた。
「うん。責任は取るので、やっぱり開けてみます。一応、セリカさんもそこで見ててもらえますか」
そう言ってカリムはしゃがみこむと、袋の口を縛っている紐を手早く解いた。
そして袋の中身を覗きこんだ彼は、大きく目を見開いて驚く。
「あ! これ全部、お嬢様の教科書じゃないですか!」
袋の中には見覚えのある分厚い本が何冊も入っていた。その中の一冊取り出してみると、表紙に「王国の歴史・下」と書いてある。気付いたカリムは頭を抱えた。
(なんでこう新たに面倒を……)
また感触でばれないようにするためなのか、本の全体がおざなりに布で巻かれている。そこには暗にヴァレリーの性格が出ているようだった。
「え、嘘?」
疑うセリカにカリムは袋の口を向けてみせる。
同じく中身を覗いたセリカは気まずそうに顔半分を手で覆い隠した。
「……本も何冊も集まると重いのよね。えーと、どうしようか」
「いや、どうするってこれ、多分旦那様のご友人から送られてきた本も入ってますよ。ほかはともかく、あの本捨てたりしたら絶対後で面倒事になりますって」
『あの本』というだけで上手く通じたらしい。
セリカは苦い表情を浮かべながらカリムに同意した。
「それって論理学がどうとか、お嬢様が難しいって本当に放り投げた本だよね。それだけ何事もなかったように部屋に戻しておいても、後でおんなじことになるかな」
「棚に並んでる背表紙を見るのも嫌って言ってましたから、きっとそうだと思います」
「むー、そうなると旦那様の書庫にでも入れとこうか」
「というか、まず旦那様に報告しないと」
それを聞いたセリカははっとした表情でカリムの顔を見つめた。
「やっぱり報告しないとダメ?」
「……ダメというか」
それが役目ですから、と困った顔をしてカリムは答える。
「隠して後でバレた方が辛いですよ」
「でも私もちょっと中身見せてもらったけど、あの本何が言いたいのかぜんぜん分からなくなかった? 書いてある言葉がいちいちわかんないっていうか」
確かあなたも読まされてたよね、そう訊かれてカリムは小さく頷く。それは行き詰まったヴァレリーが内容を分かりやすく解釈してくれとカリムに無茶なことを言ったからだった。
「あの本を読むために別な違う本を読まないといけないのは辛かったです」
「ね。だからお嬢様の気持ちは分からなくもないかなーって。それにまだ勉強より遊びたい年頃なのに」
セリカはヴァレリーに同情的なようだった。というか、彼女は主人のアンヘルに対してよりもヴァレリーの方に忠実であろうとするところがある。
「でもこの前のあれみたいになったら。旦那様がせっかく頼んだ家庭教師の先生、お嬢様が激しく抵抗したから一日で来なくなったんですよ?」
カリムが言うと、セリカもその家庭教師が来た日のことを思い出してしまったらしい。
「ふふ、他人事だからだけど面白かったね。どうやってかお嬢様、家庭教師のおじさんを酔っ払わせるんだもの。もともと下戸の人で、お酒には弱かったみたいだけど」
言葉に出してみると耐え切れなくなったのか、可笑しそうにくすくすとセリカは笑った。しかしその時の騒動はカリムにしてみれば笑い事ではない。そのせいでカリムはまたアンヘルに呼び出されてしまったのだ。いつもよりヴァレリーも絞られていたはず。
「あれって結局ウヤムヤになりましたけど、こちらで出した飲み物にお酒が混ぜられてたみたいなんですよ。一度に混ぜる量が多くならないよう、何回かに分けて飲ませたんだと思います」
ああそうなの、と答えるセリカにカリムは尋ねる。
「……念の為に聞いておきますけど、まさかセリカさんは手伝ったわけじゃないですよね?」
突然カリムに疑われ、セリカは少し怒ったような表情を浮かべた。
「なんで私が?」
「いや、お嬢様一人じゃまずお酒なんか手に入れられないので、誰か使用人の助けがあったはずなんです。なので、もしかしたらお嬢様に一番歳が近くて仲の良いセリカさんが怪しいかなと」
そんな薄いカリムの根拠に、ふふとセリカが得意な顔になった。
「さあ、どうかしら。確かにお嬢様とは仲がいいつもりだけど、でもそれだけが理由だったらカリムだって怪しいじゃない。くっついて歩くことが多いんだし」
「いや、お嬢様に問題があれば直接関係がなくても怒鳴られるんですよ。なのになんでわざわざそんな余計なこと。あの日もまた旦那様に呼び出されてお叱りを受けましたし」
「お目付け役だものね」
セリカはからかうようにして言った。
「いいじゃない、そのおかげであなたも早くこの屋敷に馴染んだんだから」
「皆に同情されてばかりいるのも辛いんです。それに最近、なんとなく旦那様も機嫌が悪いですし」
苦い顔を浮かべるカリムにご愁傷さまとセリカは答えた。
「なんなら、セリカさんがお目付け役を変わってくれてもいいんですよ」
「それは嫌かな。っと、黙って黙って」
そう急に態度を変えたセリカに、カリムは怪訝な顔を擦る。何事かと彼女の視線を追いかけると、年配の女中がこちらの方向に向かって歩いてきていた。確かセリカが苦手としている女中の一人だ。この分だとそう時間もかからず、向こうもこちらに気づくことだろう。
「大事にならないよう、ひとまずこの袋の中身は書庫に持って行って。あとで中身を分別しましょ。不味いものだけお嬢様の部屋に戻すから」
「いや、だから」
「いいから。お願いね」
そう言ってセリカは袋の口をまた縛ると、カリムにそれを預けてさっさといなくなってしまった。そうして一人残されたカリムは仕方なく、言われたとおりに書庫に袋を持って行くことにする。
まったくアンヘルにどう説明したらいいものか。
カリムは重い荷物を背にひどく悩まねばならなかった。