二話
「ずいぶん帰ってくるのが遅かったじゃないか」
その日の夕方、主人のアンヘルに呼ばれたカリムは屋敷の一室で、ただただ頭を下げていた。
高価な調度品に囲まれたその部屋の中にはアンヘルとカリムの二人だけしか居ない。さらに部屋の付近では人払いも命じられているようで、ずいぶん念が入っていた。これで二人の会話がよそに漏れることはない。アンヘルは座椅子にどっしりと腰を降ろしてカリムの謝罪を受け止めるつもりのようだった。
「申し訳ありません」
「申し訳ありません、か」
アンヘルが口を開くと、白いものの混じったあご髭がかすかに揺れる。
確かアンヘルはもう五十路を越そうかという年齢のはずだが、しかし彼の老いを感じさせる場所は唯一そこしか見つからなかった。
あら探しのつもりで顔中見回しても、肌には十分な脂気があったし、髪の毛にもまだかなりのボリュームが残っていた。彼の深く刻まれた額の皺が目についたとしても、それはもはやアンヘル自身の渋みを増す手伝いをしているに過ぎない。
そしてそれらのパーツが合わされた結果、彼の顔つきにはどこか無意識のうちに人にものを訴えかけるような力があった。あるいは、彼こそ都に住む貴族の模範的な存在だと周囲に信じさせる迫力があった。
「君の謝罪を聞くのは今月これで何度目だろう、カリム」
「この部屋に呼ばれたのは三度目です」
特に表情を浮かべることもなく尋ねるアンヘルに、カリムは即座に答える。
「ただ場所を構わないのであれば『すみません』、『申し訳ありません』と謝罪したのはおそらく八度目だと思います、旦那様」
「……そうだったか。今月はちょっと、多いな」
それだけ言って言葉に詰まったのだろう。カリムの言葉を聞いたアンヘルは自らのあご髭に手を伸ばしてゆっくりと撫ではじめた。それは何か問題に直面した彼が気分を落ち着かせたり、何かを考えようとするときのいつもの癖で、カリムはこの部屋に来るたびにアンヘルがそうするのを見ている。
この屋敷の主人アンヘルにはその身に起こる全ての問題に対して即座に決断を下す度胸があったが、唯一娘のことに関してだけは彼は驚くほどに慎重になった。そして今、彼の頭を悩ませているのは、ひとまず今月が始まってからまだ一週間しか時が経っていないという事実なのだろう。
(……ちょっと、か)
カリムは再度頭を下げる。いや、百歩譲って今はまだちょっとだとしても、今月このまま行くとあと十回はこの部屋に呼び出されそうなのだが。
「もう少し、なんとかならないものなのか」
そんなアンヘルの言葉に全く同意しながら、カリムは答えた。
「なるならないというより――失礼を承知で申し上げますが、旦那様」
「ん?」
「お嬢様に対して、私は未熟であまりに無力です。……そもそも生まれた順番もお嬢様の方が一年早いわけで、その、お嬢様は私の言うことをまったく聞いてくれません」
それだけ聞いてカリムの言いたいことがわかったらしい。
アンヘルは髭をなでていた手を動かして自分の口もとを覆い隠した。
「ですから――。何度も申し上げるようで恐縮ですが、叶うことならお嬢様のお目付け役は私以外の人間がやるべきだと」
「それは駄目だ。認められない。私はお前の働きに期待しているんだぞ」
そう割って入ったアンヘルの声はかすかに震えている。
そのことには気づきつつ、あくまでカリムは真剣にお願いする口調を崩さなかった。
「ですが、ヴァレリーお嬢様は私の父と家族の恩人たる旦那様のご血縁であられます。であれば、敬意を抱いて接することこそあれ、どうして私がお嬢様に強い態度で出られるでしょう」
「いや、まさしくその恩人がそう振るまうように言っているんじゃないか。何を戸惑うことがある」
「まさにその通りではあります。ただ同時に私は、旦那様とお嬢様に常に“等しく”従順であるよう父からきつく申し付けられているので、それに反することも出来ないのです。私は父を尊敬しておりますし、そのことに関しては旦那様も理想的なことだと日頃から理解を示されていたはずで」
「……物は言いようだが、カリム。主人への忠実さを示す方法というのは決してひとつではないんだ。場合によっては、刃向かってこそ示せる忠誠というのもあるだろう」
「それこそ私には難しい話です、旦那様。何事も至らない人間が主人に背いて示せる忠誠など本当にこの世に存在するのでしょうか」
カリムがそう答えると、アンヘルはついに我慢ができなくなったようだった。彼は今度は両手で顔を覆い隠すようにして小さく小刻みに体を震わせ始める。
目の前の主人の行動にカリムはふうと溜息をついた。それはアンヘルが体を震わせている理由が怒っているからではないと知っているからだ。
アンヘルは今、ただただ笑っている。
「笑い事ではありません、旦那様。私が言いたいのは」
「いや、すまんすまん。相変わらずよく口が回るものだと思ってな」
両手で顔を隠したままアンヘルは答える。
「本当にもう、お前も娘と同じで面倒な――いや、賢しい子供だ、カリム。子供というのは大人の言ったことに一も二もなく頷いて説得されるものなのだぞ」
そしてついにアンヘルは小さく吹き出すようにして笑い始めてしまった。
こうなってしまうとその間カリムはただただ下を向きながら、アンヘルの笑いが収まるのを待つことになる。
「もう私は子供と呼ばれる歳でもありません。この前、十五になりました」
「いや違う、けなしているわけではないのだ。わざわざお前の父親が自分の代わりにこの屋敷に寄越したことだけはあると褒めている」
ようやく落ち着いたのか、アンヘルは笑いすぎてこぼれ出た涙を拭いながら言った。
「そう言って頂けるとお仕えする甲斐があります」
半分馬鹿にされているような気分でカリムは愛想笑いも浮かべず答える。
それがまたアンヘルには面白く映ったようだった。体を楽にしていいとアンヘルはカリムに言った。
「しかし、今日の台詞はいつから考えていたんだ? 使用人の誰かに手伝ってもらったのか?」
「いえ、特には」
「そうか。ならカリム、お前にはやっぱり屁理屈の才能がある。私の前でとっさにそれだけ喋れるなら木っ端商人との交渉などお手のものだっただろう」
(木っ端商人?)
カリムは最初何のことを言われているか分からず、黙ってアンヘルの顔を見つめた。
「ずいぶん安くさせたと聞いているぞ。次から屋敷の買い物はお前に任せることにしようか」
そう冗談交じりに褒められて、やっと気付いたカリムはまた頭を下げた。
今回のは謝罪の意味ではなく、表情を見られたくなかったからだ。内心、彼はもうそこまで話が知られているのかと驚いている。
大通りでの話をどこまでアンヘルは知っているのだろう。カリム自身、屋敷に帰ってくるとすぐここに呼び出されたというのに。
そんなカリムの内心を推し量ったのか、アンヘルはこうも続けた。
「別に誰かに後を付けさせたわけではないぞ。こちらにも都合があったのだ。来客をすっぽかした娘を探しもしない訳にはいかないからな」
カリムは頭を上げた。
「来客ですか?」
「そうだ。お前には言う機会を逃したが、今日はリオット子爵が屋敷にやってくる予定でな。娘には伝えていたはずなのだが」
「……本当に申し訳ありません」
「ん? ああ、責めるつもりで言ったのではない。聞かされていなかったのだろう。そもそも、あの娘をうまく制御できる人間など亡くなった妻だけしか私は知らん」
それに私が甘やかしてしまったのも悪かったのだとアンヘルは小さく呟いた。
「男親だけで育てるのはそこがいかんというのに」
「いえ、そんなことは。それはそうと、子爵様はお嬢様に会いに来られたのですか?」
話を変えるため、カリムは尋ねた。リオット子爵はこれまでにも何度か屋敷に来たことがあって、挨拶もしたので顔は覚えている。屋敷を訪ねてくる貴族たちの中では子爵はひどく若い方だ。ただそれでも年齢はカリムより一回り以上離れているはず。
「いや、まあ……単なるご機嫌伺いというやつだ。向こうの地元で質の良い毛織物が作られているのだと言ってな。土産にその中でも最上のものを持ってきてくれたそうだぞ」
アンヘルはそう言って、にこやかに笑う。
(新しく交易をする話でもしたんだろうか)
とかく金のかかる貴族の間では、特産品の話は最後にはそこにつながる。そう考えれば何も不審なところはないはずなのだが、しかしなんとなくカリムはアンヘルが嘘を付いているように感じられた。
「毛織物ですか。それは高価なものを頂いてしまいましたね」
「まったくだ。向こうがそうも驕ったからには、こちらも礼儀知らずではいられん」
嘘をつかれていると考えたのは、ただの直感というわけでもない。まだ彼は貴族の世界を隅々まで知っているというわけでもないが、それでもこの屋敷で働いていれば何気ないうわさ話を聞く機会もあるのだ。
たとえば、どこどこの貴族の間で二十も年齢の離れた相手同士の結婚話が出た、だとか。
「まあ、ずいぶん量を持ってきてくれたから、裁縫の好きな者は喜んでいたな。そうだ、せっかくだからお前が着る服も新調してやろうか」
「いえ、滅相もないことです。お気持ちだけ、ありがたく。それに今は旦那様に怒られている最中ですし」
カリムに突っ込まれ、アンヘルは「そうだった」と子供のいたずらがバレたような表情になった。
「お前も重々分かっていると思うが、部屋を出た後は神妙にしているんだぞ。そうでないとヴァレリーが堪えないからな。お前には嘘をつかせるようですまないとは思うが」
「もちろん分かっています」
「ならばよろしい。お前は本当に聡い――」
そこまで言って、アンヘルはまたカリムに親しげな笑みを見せた。
そうしてまたなおざりに手を振ると、彼はカリムに自室に戻っていいと伝える。
「それでは、失礼します」
そう言い残して、すぐにカリムは部屋の外に出ていった。
そして部屋に一人残されたアンヘルは扉がきちんと閉められるのを待って、椅子の背もたれに寄りかかる。
「本当に、まったく」
そうつぶやいた後、アンヘルは目をつぶり、この後娘をどう説教しようか頭を切り替えた。
アンヘルと話していたのは短い時間のはずだったが、やはり疲れた。
考えてみればまだ外から帰ってきて着替えてもいないのだ。
そう思ってカリムは与えられた自室に一旦引っ込もうとしたのだが、すぐに彼はヴァレリーに見つかってしまった。
彼女はカリムが部屋から出てくるのを離れたところで待っていたらしい。そのまま彼は引っ張られるようにして誰もいない屋敷の一室に引きずり込まれてしまった。
すでにヴァレリーは外出用の服から屋敷で着る服に着替えている。長く美しいその金色の髪も動きやすいように縛ってひとつにまとめていた。
「お父様はなんて言ってた?」
開口一番、ヴァレリーはカリムに尋ねた。
「怒っていらっしゃいました。私に約束をすっぽかさせるとはどういうことだと。顔中を赤くされて、もうかんかんでした」
カリムは定められた通りの答えを返す。
「そんな約束なんて。もともと買い物に行く予定の方が先に入っていたのよ」
「予定も何も、お嬢様が買い物に行くと言い出したのは今日の朝ではありませんか。それに今日は子爵がお越しになるとお嬢様は前もってご存知だったのでは? どうして教えてくださらなかったのです」
カリムがそう言うと、ヴァレリーは表情をかすかに歪める。
「……そんなこと、しばらく前に今日は客が来るからなと言われただけよ。屋敷に居なさいと言われたわけじゃないもの」
「わざわざ伝えられたのですから、それはそういうことだと考えるのが」
「はっきり言わないお父様が悪いわ」
ヴァレリーは分かってそのように言っているようだった。
その態度にカリムはもはや彼女を諌める気にもならない。
というか、その役目はおそらくカリムの立場で任されるべき類のものではなかった。
「頭は叩かれた?」
気を取り直したようにまたヴァレリーが尋ねた。
「……いえ、怒鳴られただけです」
「じゃあそこまで怒っているわけじゃないのかしら」
「怒鳴る時点で十分怒っていると思います」
「それもそうね」
そう答えたかと思えば、突然、ヴァレリーはカリムの目の前まで自分の顔を近づけた。
肌の白い、整った顔が目の前に現れてカリムは内心動揺してしまう。
「どうしました、お嬢様」
本当に、いったいどうしたというのだ。
強い視線を向けてくるヴァレリーに声を抑えてカリムは尋ねた。
「……嘘でしょ」
「はい?」
「本当はお父様、全然怒ってないでしょ」
「いえ。旦那様はものすごく、怒ってらっしゃいましたよ」
嘘がバレていないことを信じつつ、カリムは努めて感情を表に出さないようにする。
「……ふーん。あっ、そう」
そう呟いたヴァレリーはカリムから体を離した。
「まあ、いいわ。カリムがそう言うなら、そういうことにしましょう。それでなんだけど、私の今日買った服っていったいどこに置いてあるのかしら」
「部屋に届けてくれるよう伝えて、紙袋ごとセリカさんに渡したはずですが」
「そうなの? でも私の部屋には誰も来なかったわよ」
「ああ、ではちょっと確認してみます。お嬢様は部屋でお待ちください。それと、しばらくしたら旦那様から呼び出しがあると思いますので」
「はいはい、分かってるわよ。だから服の方はなるべく早くにお願いね。実際着てみたらどんなふうになるか試してみたいの。カリムだって気になるでしょう?」
そんな冗談に曖昧に返答を濁すと、カリムはうやうやしく頭を下げて一足先に部屋から出た。そして伝えられた通り、彼は紙袋の中身を求めて屋敷のどこかにいるであろう女中たちを急いで探すことになったのだった。