旅立ちの日
アゼル・ヴァインは、山の民として生きるギガンテスの集落で育った。
同じ巨人族ではあるが、人食い鬼として名をはせる一般のオーガなど違い、人を寄せ付けぬ峻厳な山岳地帯に生きる狩猟採集民族社会は競争を重んじる。
環境に負ければ生存すら覚束ない山の気候がそれをさせるのだろうか。子供達は幼い頃からお互いに競い合い、狩猟や戦いの技を磨きあう。長じて部族の一員と認められた後はその技を持って部族全体の為に貢献するのだ。
そして身体の効かなくなった老ギガンテスはひっそりと集落を去り、山の懐に抱かれて死を待つ。
ギガンテス達は皆、自らの老いを悟ると当然の様にそうする。誇り高い彼らは足手まといになるよりも、挑戦とその結果としての死を選ぶのだ。そんなギガンテス達の集落で、たった二人の人間がアゼルと義父だった。
アゼルの育ての親であった元冒険者サイアス・ヴァインも、自らに差した陰り気がついた時里を去る決意をした。山で生きる技と心構えの全てをアゼルに教えてくれただけでなく、何度も命を救ってくれた義父であった。
足を滑らせて崖の下に転落し、遭難した幼いアゼルを救い上げてくれたのも。
傷が元で発熱し生死の境を彷徨う彼女を救う為に、切り立った頂上にしか咲かぬ薬草を取ってきてくれたのも。オーガの狩猟隊に捕らわれた彼女を、単身救い出してくれたのも義父サイアスだった。
そして集落に襲来した強大なるシャドウドラゴンの親子と戦い、逃げ遅れたアゼルを庇って影の呪いを受けたのも。
「私もついて行きます」
怒った様な口調でそう言い、挑む様な目つきで睨み付けるアゼルを見たサイアスは止めようともせず
「好きにすればいい」
と言っただけだった。この娘の気性を知り尽くした義父は、アゼルに何を言っても付いて来る事を知っていたのかもしれない。
半年の間、アゼルとサイアスは二人だけで、未だ人の足が踏み入れられた事のない高峰を旅して回った。
サイアスは授ける事の出来る教えを全てアゼルに伝え、彼女はその精緻さと野蛮さを持つ力と技を受け継いだ。影の呪いはその間も義父を侵食し、やがて呪いはサイアスの全身を真っ黒に覆い隠して行った。
世界が輝き時を止めたかのような白夜、その夜明けのことだった。
最も高い峰の頂上から下界を見下ろしつつ、サイアスはアゼルに告げた。
「私はお前に冒険者として旅立たせたくはなかったが、お前の眼には運命の刻印が輝いている」
戸惑うアゼルに向かってサイアスは、初めて彼女の両親について語った。
「アゼル。お前は父はかつて地図上に存在した、風と湖の王国の王だった」
だが、その王国は滅びた。故に、アゼルが負う宿命は既にないのだと。
「アゼル。お前を縛る宿命は私が連れて行こう。お前は自由なんだ……見るがいい」
そういってサイアスは東の地平から昇りつつある朝日を指した。
アゼルの運命を告げる矢の様に、その光は真っ直ぐにアゼルに向かって射し、その目を眩ませた。
力強い羽ばたきが響いた。
振り仰ぐと、見事な翼を持つ大鷲が一羽、朝日に向かって真っ直ぐ飛んでいくのが見えた。
その雄大さ、美しさにしばし見惚れたアゼルが我に返り、サイアスの方を振り向くと、既に義父の姿は無かった。
影の呪いにより、新たなモンスターとして世界の何処かに消えて行ったのだ。ただ、霊峰の光を映し出すサイアスが持っていた長剣だけがその場に在った。
アゼルは即座に義父の残した長剣を拾い、義父が冒険者時代に使用していた大剣を背負うと大鷲が飛び去った方角へ向かって山を降りた。義父が言った私が負うべき宿命とは何か、義父が言ったアゼルの宿命を背負うという意味は何か。彼女には何も分からない。分からないがやりたい事は一つだけだった。
それは義父を探す事だ。
こうして蛮族の王国、その最後の王女アゼルは冒険者となって旅立ったのだった。