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疑わしきは被告人の利益その2

「では第2の殺人事件である、東原ゆかり殺害に関する審理を行います」

 こうして被告、飯岡瞬にとって第2の殺人事件である、東原ゆかり殺害事件の審理が始まった。

 東原ゆかりは、第一の殺人事件の被害者である東原みどりの姉である。

 弁護人の佐々倉は、東原ゆかり殺害事件に関して簡単なメモを作ってきていた。

『第2の殺人事件:東原ゆかり殺害

 殺人に関して

 いつ   :平成22年11月12日午後4時ごろ、

 どこで  :××町××番地××の倉庫

 誰が   :被害者、東原ゆかり

 どうした :登山ナイフで首筋の大動脈を切られて、心臓に達する刺し傷を負い

 どうなった:出血多量により死亡

 死因   :大量の出血による失血死

 動機として考えられること:

       犯人が、東原みどりの殺害を姉であるゆかりに気付かれて殺害した。

 死体損壊に関して

       東原ゆかりの首が切り落とされ、眼球を刳り抜かれる

 死体遺棄に関して

       平成22年11月13日早朝

       曙中学校の校門に、東原ゆかりの頭部が置かれていた』

 この中で被告、飯岡瞬は、死体損壊および死体遺棄についてはその犯行を認めている。

 東原ゆかりの殺害とその死体損壊および死体遺棄を切り離して考えることが出来るのか。

 もし殺害が別の犯人だとすると、犯人は被害者を殺害後、死体をそのままにしてその場を立ち去ったことになる。

 その後、被告飯岡瞬がやって来て被害者の首を切り落としたり、眼球を刳り抜くなどの残虐行為に及んだことになるのだ。

 それは少し、考えづらい。

 しかし、この被告人ならば……

 東原ゆかりの死体を発見した時、死体損壊をやりかねない。

「それでは、証拠調べを行ないます。検察官お願いします」

「多田茂吉を証人として申請いたします。

 多田茂吉証人は被害者、東原ゆかりが殺害現場となる倉庫に入るところを目撃しており、それを証言していただきます」

「弁護人はいかがでしょうか」

「しかるべく」

「それでは、検察側の証人尋問を行ないます。多田茂吉さんは証言席へ」

 廷吏が仕切りを開け、傍聴人席から多田茂吉が入場してくる。茶色の作業用ジャケットを着た中年の男だ。

 髭の濃さが目立つ。

 裁判長の里倉が声を掛ける。

「名前は何とおっしゃいますか?」

「多田茂吉です」

「職業は?」

「金属加工工場の工員です」

「それでは、これからあなたを証人として尋問しますが、その前に嘘をつかないという宣誓をしていただきます。

 傍聴人も全員起立をしてください。その紙に書いてある文字を声に出して読んでください」

「宣誓。良心にしたがって真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います」

「はい。検察官、始めてください」

「はい、では」

 検察官の高峰は、証言台の多田茂吉に近づく。

「あなたは昨年の11月12日の午後3時50分ごろ、どこにいましたか」

「小笠原飼料の倉庫前の道路です。

 その日は夜勤でしたので、5時からの勤務に向かっている途中でした」

「倉庫前から勤務先までは遠いのですか」

「いえ、そこから15分くらいです」

「ならば4時過ぎには着くことになりますね。5時からの勤務なのにそんなに早く出勤するのですか?」

「自分は、機械の主任技師をしておりまして機械を廻すのが5時からなのでそれまでに機械を整備しておかなければならないのです」

 多田茂吉の話し方は詳しいのだが、文節が切られていないので少しわかりにくい。

「なるほど、大変な御仕事ですね。それでですね。その倉庫の前で誰かに会いませんでしたか」

「東原ゆかりという女の子とすれ違いました」

「本件の被害者ですね。知り合いなのですか?」

「殺されたのが東原ゆかりさんだということは、後で知りました」

「何故、東原ゆかりだとわかったのですか?」

「はい、同じ小学校校区の運動会でたまたま同じ競技に出場したもので2人3脚なんですけど、それのすぐ後のことでしたので良く憶えておりました。

 すれ違うとき、彼女の方から軽くあいさつしてくれましたので、私の方からもあいさつを返しました。

 それが、翌日のテレビのニュースで殺されたことを知りましてもうびっくりしました」

「ところで、東原ゆかりが倉庫の中に入るところは見ましたか?」

「はい、振り返ったときに彼女は倉庫に入る場所を探している様子でした。

 ご承知のように小笠原飼料の倉庫は、5年ほど前から空き倉庫になっておりまして、誰も管理していません。

 そんな所に女の子1人だけで入っていくことに不安を感じました」

「危ないということを注意しなかったのですか」

「注意しましたよ。危ないって。

 でも、これからこの倉庫で肝試し(きもだめし)があるから行かなきゃならないと言っていました」

「肝試しですか」

「ええ、倉庫は廃屋になっているので、若い者が面白がって幽霊屋敷に仕立てて肝試しなんかをやっているようです。

 そう言われたんで、なんだそうだったのかって感じでした。

 仕事の時間もありましたので、そのまま別れて、出勤しました」

「なるほど、よくわかりました。ありがとうございました。終わります」

 殺害現場となる倉庫に被害者が入るところを目撃した証人か。

「弁護人は、反対尋問をしますか?」

 里倉裁判長が尋ねる。

 被害者、東原ゆかりの殺害時間は午後4時だとすると、この倉庫に入ったのは3時50分頃だろう。

 入るところを確認した目撃者。これは、問題ないだろう。幽霊屋敷になっているところが若干気になるが……

「弁護人よりの反対尋問はありません」

「はい。それでは証人は、ご苦労様でした。お戻り下さい」

 多田茂吉は、傍聴席へ戻って行く。慣れない証言席での証言が終わり、ほっとした様子だった。

「検察官は次の証人をお願いします」

「はい。検察側の次の証人は、殺害現場となった倉庫の管理会社である井手口不動産株式会社の井手口いでぐち わたるです。

 井手口証人には、どういう経緯で小笠原倉庫が現在のような状態になったのかを証言していただきます」

 井手口 渡が入廷する。井手口は紺のスーツを着た営業マンであった。

 再び型通りの宣誓の儀式が行われた後里倉裁判長が人定質問をする。

「御名前をお願いします」

「井手口 渡です」

「職業は?」

「福山駅前で、井手口不動産株式会社を経営しております」

「それでは、検察官は尋問をお願いします」

 高峰はその場に立ち上がった。しかし、証言席には近づかない。

 それほど重要な証言だとは考えていないのだろう。

「証人の会社は、東原ゆかりが殺害されてしまった現場の倉庫の管理会社となっていますね」

「はい、その通りです」

「その問題の倉庫の建物は、現在は廃屋のようになってしまっているようですが。

 どのような経緯であなたの会社に管理権が移ったのでしょうか?」

「あの建物は土地も含めて、5年前までは株式会社小笠原飼料という、家畜の飼料の会社の建物でした。

 この不況で会社が傾き、土地建物含めた権利書を弊社へいしゃが受け継ぎました。

 当初はすぐに処分できると思っていたのですが、長引く不況と倉庫としては少し立地条件が悪いのが災いして、5年経った現在でも買い手がつかない状態です」

「買い手が付かないので、今でもあなたの会社が管理されているわけですね」

「ええ、そうです」

「先程の多田茂吉証人によれば、幽霊屋敷のようになっているとのことでしたが?」

「ええ、その噂は弊社も聞き及んでおります。

 金網のフェンスを補強したりもしたのですが、そんなことをするたびに金網を破られてしまい、イタチごっこの状態になってしまいます。

 やはり経費が掛かってしまいますので、そのうち止めてしまいました」

「幽霊屋敷の噂というのは?」

「これは、単なるデマです。

 髪の長い若い女性が、あの倉庫跡で首を吊って自殺をしたという噂が立ちました。

 その女性の幽霊が夜な夜な、歩き廻っているという噂です。でもあそこで首を吊った女性などはいません。

 悪質なデマです。

 そのおかげでますます、あの物件が売れなくなってしまいました」

「若者たちが、あの倉庫跡で肝試しをしていると聞いたことがありますか?」

「はい。そんな噂がたったので若者たちが面白がって肝試しや、稀に悪魔を呼び出す儀式などオカルト的なことをしているようです」

「オカルトですか……それに対して対策はしなかったのですか?」

「夜間に人を置くわけにも参りませんので、結局放置してしまっているというのが現状です。

 それで、また今回女の子が首を切り落とされて殺されていたので、もうあの物件は諦めざるを得ないと思っているところです」

「なるほど、それはお気の毒に思います。

 殺害現場がどのような経緯で幽霊屋敷と呼ばれるようになったか大変良くわかりました。

 どうもありがとうございました。検察としては以上で終わります」

 今度は、殺害現場が幽霊屋敷のようになった経緯を説明する証人か。

 検察側は何を証明しようとしているのだ。まあ、ともかくこのあたりは問題無いだろう。

「弁護人は反対尋問を行いますか?」

 里倉裁判長の声が掛かる。

「いいえ、弁護人よりの反対尋問はありません」

「はい。それでは証人は、ご苦労様でした。お戻り下さい」

 井手口 渡は、傍聴席へ戻って行く。


「検察官は次の証人は誰ですか?」

稲田いなだ 十四朗じゅうしろう氏を召喚いたしました。

 稲田証人は、被告である飯岡瞬が殺害現場である倉庫に入るところは目撃した証人であり、それを証言していただきます」

 何! 被告人が殺害現場にいた事を証明する証人。

 まずいかもしれない。

「それでは、稲田証人は入廷して下さい」

 傍聴人席から稲田 十四朗が現れた。随分歳を召しているように見える。

 証人資料を見ると67歳だった。

「それでは、検察側の証人尋問を行ないます。稲田 十四朗さんは証言席へ」

「改めてお伺いします。お名前は?」

「稲田 十四朗と申します」

「職業は?」

「現在は無職です。年金で暮らしております」

「はい、わかりました」

 再び型通りの宣誓の儀式が行われた。

「それでは、検察官は証人質問を始めて下さい」

「はい、それではまず」

 検察官の高峰は、立ち上がって証言席の側まで寄っていく。

 この証人は重要性が高いようだ。

「あなたは、通称小笠原倉庫に入っていく被告人の飯岡瞬を見たのですね」

「はい、見ました」

「それは、11月12日のことですか?」

「はい、そうです」

「何時頃のことかわかりますか?」

「あれは……

 3時10分でした」

「随分正確ですね」

「私は、毎日午後3時に散歩に出るのを日課にしています。

 コースは毎回違いますが、まあ芦田川の川岸まで出て川を眺めて帰ってくるようにしています。

 その川に出るにはコースをどう取ろうとも、小笠原倉庫の前の道を通ることになります。

 そこに至るまで、家から約10分です。

 そこで、倉庫に入ろうとしている被告人を見ました」

「じゃあ、約3時10分ということですか?」

「いえ、その時腕時計でも確認しました。3時10分でした」

「じゃあ、被告人が倉庫に入ったのが3時10分ということで良いですね?」

「はい」

 佐々倉はまずいと思った。これでは、飯岡瞬が殺害現場に来たのが3時10分とされてしまう。

「異議あり。証人が見たのが被告人飯岡瞬であると証明されてはいません」

 里倉裁判長は、少し考える。

「意義を認めます。証人は何故、それが被告人だと思ったのですか?

 証人は以前から被告人のことを見知っていたのですか?」

「いいえ、知りませんでした。

 ええ、ご説明申し上げます。

 後日、この倉庫で起こった殺人事件のことを調べていた、徳山署の大久保という刑事さんが聞き込みっていうんですかね。私の家を訪ねてこられまして。

 それで、当日、怪しい者を見なかったかと聞かれますものですからそのことを話したわけでございます。

 そうしますと、その刑事さんは私に写真を見せまして、この男では無かったかと聞かれたわけでございます」

「それが、被告人の写真だったわけですね」

「そうです」

「それは、間違いありませんか?」

「はい、間違いありません」

「そうですか、ちなみにその時被告人はどのような服装をしていましたか?」

「ええと……

 随分と軽装だったように見えました。

 確か、緑と白のブルゾンを着ていたように思います」

 正直、佐々倉は少し安心していた。この程度ならば、反対尋問で突き崩せる。

 検察側にとってはこれで、殺人の被害者と、殺人を実行したという加害者が同じ時間帯に同じ建物の中にいたという証明をしたかったのだろう。

 しかし、それは甘かったと言わざるを得ないだろう。

 この犯行に関しては、その瞬間を直接目撃したものはいない。

 あくまでも状況証拠である。

 たぶん検察側は、状況証拠の積み重ねで犯行を証明しようとしているのだ。

 直接的な目撃情報がない限り、そのような方法を取らざるを得ない。

 昨日の拘置所の面談室において、飯岡瞬はこの倉庫に行ったことは認めた。

 彼は、東原ゆかりの遺体損壊と死体遺棄に関しては認めているのだ。

 だから、彼も幽霊屋敷と言われるこの倉庫の中に入ったことは認めた。

 東原ゆかりの殺害を否認し、遺体損壊以下を行うとすれば、殺害された死体を最初に飯岡瞬が発見したことになる。

 したがって彼が現場の倉庫に入ったのは殺害が実行された午後4時より先の時間帯という事になる。

 実際彼が、殺害現場の倉庫に入ったのは、夜の8時過ぎだったと佐々倉に告白していた。

「検察官からは以上です。

 この稲田証人の目撃証言により、被告人である飯岡瞬と被害者である東原ゆかりが犯行時間と思われる午後4時に同じ建物の中にいた事は明白になりました」

 高峰検事は、裁判員たちに言い聞かせるように声を大きく話している。

「終わります」

 検察側は証人質問の終了を宣言した。

「では、弁護人は反対尋問をしますか?」

 当然だ。この証言に関しては穴がたくさんある。実際、証人が目撃したのは飯岡瞬ではないのだ。

「はい、お願いします」

「では、どうぞ」

 佐々倉も、証言台の方に近づく。

「失礼ですが、稲田証人は、視力はどれ位ですか?」

「メガネを掛けると1.2くらいです」

「1.2ですね。そのお歳にしては視力は良いほうですね。では、当日、散歩に出た時メガネは掛けておられましたか?」

「いいえ、その時はたまたまメガネを忘れてしまいました」

「そうすると、裸眼だったわけですね。裸眼だと視力はどのくらいですか?」

「裸眼でもそんなに落ちません。0.8くらいです」

「0.8ですね。そんなに落ちないといっても随分不自由なのではないですか?」

「いえ、散歩する分には歩き慣れた道なので、そんなに不自由はしませんよ」

「11月12日の午後3時頃というと、夏より随分照度が落ちて暗くなりかける時間ではありませんか?」

「いえ、11月とはいえまだまだ明るい時間ですよ。わたしゃ、なるべく明るい時に散歩しようと心がけておりますんで」

 稲田証人は少し腹を立てているようだった。口調が荒れてきている。

「その、メガネをかけていない状態で被告人が倉庫に入るところを見ているわけですけれども、それは本当に被告人である飯岡瞬だったのですか?」

「はい、それはもう間違いありません。刑事さんから見せられた写真にそっくりでしたから」

「証人! 写真の姿は動きません。対して目撃された男は動いていて色々な表情をしていたはずです。

 その中の一つの顔が写真の顔にたまたま似ていたとは考えませんでしたか?」

「いえ、間違いなく被告人でした。間違いありません」

 稲田十四朗は意固地いこじになってしまったようだ。譲らない。顧みようともしていない。

 困った。強く言い過ぎたか。

 それにしても、この証人の頑固さには困惑する。どう言おうか。

「証人は、倉庫に入っていく男の服装が緑と白のブルゾンと言われましたが、これに関しても間違いありませんか?」

「はい、間違いありません」

「それは、おかしいですね。先ほど検察側で証言するとき

 『随分と軽装だったように見えました。確か、緑と白のブルゾンを着ていたように思います』と自信なさそうに答えたように見えましたが」

「今、思い返してみて緑と白のブルゾンを着ていたと確信しています」

「ほう、今思い返してみたわけですね」

「はい」

 まあ、これで良いかもしれない。この状態では、この証人の意固地さ、頑固さを印象づけるだけしか出来ないだろう。

 しかし、これだけは強調しておかなければならない。

「証人は、その男が軽装だったと答えていますが、それは少しおかしい。

 この犯人は、東原ゆかりをナイフで殺害した後のこぎりで首を切断し更に錐で眼球を刳り抜いたりしています。

 つまり、随分と用意周到に道具を用意していなければなりません。ブルゾンを着ただけの軽装では無かったはずです」

「意義あり。稲田証人は飯岡瞬の目撃証言を行なっているのであって、軽装だったか否かは証言の範囲内ではありません」

 検事の高峰が意義を出してきた。しかし、随分とおかしな意義の唱え方だ。

 まあ良い。弁護側としての反証は出来たと思われる。

「終わります」

 と一方的に打ち切った。

「証人は、ご苦労様でした。もう結構です。お戻り下さい」

 と言われて、稲田証人は証言台を後にしたが、憤懣ふんまんやるかたない様子を表していた。

 しかしこんな証人はまずいのだ。裁判では、個人的な感覚で証言してもらっては困る。

 事実のみを淡々と話す証人が望ましい。

 検察側では、この重要な証言をこの証人で良いと思ったのだろうか。そうだとしたら随分甘い話だ。

 しかしながら、現実は先ほどのようにその証言を突き崩すのに随分苦労する……

 この証人は自分のプライドを優先してその結果を鑑みていない。

 一見凶暴さは無いように感じるが、非常に危険な存在だ。

 この証言の信憑性で、被告人が被害者を殺害したという事実となってしまうかもしれないのだ。

 人を一人、自分の証言で処刑台へ送ってしまうかもしれないのにその結果を全く考慮していない様子だ。

 この証人にとって大切なのは、自分に対する信用性であり自分のプライドだった。

 おかしな事だが、裁判証言においてはこのような証人は結構現れる。

「検察官は次の証人をお願いします」

「はい、では続きまして三船みふね 橋蔵はしぞう氏に証言していただきます。

 三船証人は、11月13日の午前4時30分に被告人である飯岡瞬を目撃し、その直後に曙中学の校門の上に飾られた東原ゆかりの首を発見いたしました。

 その様子を証言していただきます」

「わかりました。それでは、三船証人は入廷して下さい」

 三船 橋蔵が入廷してくる。

 飯岡瞬は、東原ゆかりの首を切り落として中学校の校門の上に置いたことは認めている。

 その時の目撃者が、この三船証人なのだろう。

 証人資料をみると、年齢は46歳、職業は新聞配達員となっている。

 新聞配達員ならば、そんな早朝に動いていても不自然は無い。

「それでは、検察側の証人質問を行ないます。三船 橋蔵さんは証言席へ」

「お名前は?」

「三船 橋蔵です」

「職業は?」

「新聞配達をしています」

 宣誓の後、すぐに高峰から質問が始まった。

「証人は、11月13日の午前4時30分に被告人である飯岡瞬を目撃したそうですが、それは間違いなく被告人でしたか?」

「はい、まちがいありません」

「何故そう言い切れるのですか。11月半ばの朝4時半といえばまだ辺りは暗いのではありませんか?」

「はい、言われる通り辺りはまだ真っ暗です。しかし、この人を見たのは間違いありません」

 三船証人は、被告人席に座る飯岡瞬を指差す。

「私は、配達するときに自転車を使うのですがその自転車に横からこの人がぶつかってきました。

 それで私もろとも自転車が横倒しになってしまい、その時に被告人の顔をはっきりと見ました」

「何故はっきりと? 辺りはまだ暗いですよね」

「夜道の灯り取りに、私はヘッドランプ、つまり頭に回した懐中電灯を使っているんですよ。

 そのほうが両手を使うことができますので。

 そのランプの明かりの輪の中に被告の顔がはっきりと入っていました」

「なるほど。それからどうなりました?」

「被告は、顔や首の周りが真っ赤に濡れているようでした。たぶん血だと思いました。

 そしたら、急に恐怖が襲ってきました。

 私にぶつかった被告は、立ち上がると猛ダッシュで逃げていきました。

 その場に残されてしまった私は、彼がぶつかってきた方を見ました。そこは曙中学の校門前だったのです。

 被告が残した血の跡をたどって鉄の門扉である校門の前まで歩いてきました。

 そして、門扉の上を見上げると……

 そこに眼玉を刳り貫かれた女の首がヘッドランプの光の輪の中に入ってきました。

 最初はこれは一体何だろうと思いました。少し思考が麻痺してしまったようです。

 しばらくそれを見つめていました。

 それが、人間の首とわかるまでいろいろなものを想像してしまいました。

 そして、それが人間の首だとわかると腰が抜けてしまい、その場に座り込みました」

「そうでしょうね。その場にいたわけではありませんが、その恐怖はわかるような気がしますよ。

 それで、そのあとどうしました?」

「ポケットの中に携帯電話があるのを思い出して110番通報しました。

 しどろもどろだったので、警察の係りの方を困らせてしまったようでした」

「なるほど、大変よくわかりました。死体発見時には思考停止の状態になる方は多いです。

 どうもありがとうございました。終わります」

 高峰がいうように、東原ゆかりの頭部が発見された状況が具体的に良くわかった。

 確かに三船証人の恐怖は察して余りある。彼は一生この光景を忘れないであろう

 しかし、飯岡瞬はこの死体遺棄も認めている。

 なので、これはこの通りの状況だったのであろう。

「弁護人は反対尋問を行いますか?」

「いいえ、特にありません」

 法廷内で「えっ」という声が聞こえたが、これはこの通りの状況だと思われるので反対尋問の内容がない。

 被告人である飯岡瞬も認めているのである。認めざるを得なかった。

「三船証人は、ご苦労様でした。お戻り下さい」

 三船橋蔵は、傍聴人席へ戻っていく。


「検察官は次の証人をお願いします」

 里倉裁判長の口調がだんだん事務的になってきていた。里倉も疲れているのだろう。

 今日の法廷はその外野部分も含めていろんなことが有り過ぎる。裁判官といえども疲れて当然だ。

「はい、では続きまして烏丸からすま あきらに証言していただきます。

 烏丸証人は、犯行があった翌日に小笠原倉庫で首を切り落とされた東原ゆかりを発見しました。

 その顛末を証言していただきます」

 今度は、胴体部分の発見の状況だ。確かに頭部だけでは死体と言えない。胴体も含めて一人の人間の死体なのだ。

 烏丸明が証人席に立った。

 まだ若い。証人資料を見ると年齢は21歳だった。

 里倉が証人認定を行う。

「お名前は?」

烏丸明からすま あきらです」

「年齢は?」

「21歳です」

「職業は?」

「大学生です」

「はい、では検察官は質問を始めてください」

「あなたは、11月13日の夜に通称小笠原倉庫で、首のない東原ゆかりの死体を発見されましたね。

 間違いありませんか?」

「はい。間違いありません」

「その時のことを詳しく話してください」

「はい。僕たちは」

「んっ、僕たち? あなた一人だけでは無いのですか?」

「はい。僕は、大学で探検倶楽部に所属しています。

 小笠原倉庫の幽霊の話が広まっていますので、その真相を探ろうとカメラ一式を持って、探検倶楽部の部員3人で出かけました。

 正直、僕はビビリなんです。独りではとてもそんなところには行けません」

「そうすると、死体を発見したのはあなたと他に二人いるわけですね」

「はい。甲斐かい すぐる君と篠塚 さくら(しのずか さくら)さんです」

「その人たちは、探検倶楽部のメンバーなのですね?」

「はい、それで僕が一番年齢が上なので、証人として証言することになりました」

「カメラを持って入ったんですね。そうすると、東原ゆかりの首なし死体も撮影されましたか?」

 烏丸 明は、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「はい、撮影しました」

「その映像は、後ほど検察側の証拠物件として法廷で公開させていただきますが……

 死体を発見した時の、状況を詳しく話してください」

「僕たちがカメラを持っていったのは、もしかしたら心霊現象が撮れるかも知れないと思ったからです。

 カメラは僕が持ち、さくらちゃんが照明器具を持って入りました。

 甲斐君は、格闘技をやっているので用心棒でした。

 入ってすぐに感じたのは、嫌な匂いが漂っていることでした。

 腐ったような匂いでしたが、それ以外に金屑のような匂いも混ざっていました。

 匂いの元を探っていくと、2階からのようでしたので階段を上っていきました。

 2階に着くと、暗いのでさくらちゃんに前方を照らしてくれるように頼みました。

 撮影用の照明ですので結構強力な光です。

 そして、光の中に浮かび上がったのは……

 首が無い、血だらけの死体でした。

 僕たちは大声を上げて叫び、全員その場にへたり込んでしまいました。

 今までで、あんなに怖い思いをしたのは初めてです」

「はい。ご苦労さまでした。終わります」

「弁護人は反対質問をしますか?」

 胴体の発見状況。異常な状況に成らざるを得ないだろうが、こんな風になるだろう。

 反論する内容も特に無い。

「いえ、反対質問はありません」

「はい。では烏丸証人は、ご苦労様でした。お戻り下さい」

 烏丸 明は、傍聴人席へ戻っていった。


 弁護人の佐々倉は、検察側の立証内容を考えていた。

 第2の殺人、つまり東原ゆかりの殺害に関しては第1の殺人事件、東原みどりの殺害のときの高遠沙織のように明白に事件そのものを目撃した者がいない。

 小笠原倉庫という密室内で行われた犯行である。

 したがって、これを立証しようとする場合、今回の検察側のように、犯行は被告人にしか実行出来ないという状況証拠を積み上げていくしかない。

 しかし、これは非常に危険な行為だ。

 東原ゆかりを飯岡瞬が殺したところを見たという、直接的な証言も証拠もない。

 東原ゆかりが殺された時間は、はっきりしている。

 11月12日午後4時ごろ。

 検察のやったことはまず、被害者である東原ゆかりが午後4時には、現場の倉庫にいたという事実を多田茂吉の証言により確かめた。

 次に、現場の小笠原倉庫が何故、今のように荒れて幽霊屋敷と呼ばれているのかを、不動産管理会社に説明させた。

 何故、これが必要なのか、立証意図が今ひとつわからないが……

 次が問題なのだが……

 被告人である飯岡瞬が、午後3時10分に小笠原倉庫に入っていったということを、付近を毎日散歩するという稲田十四朗証人で証言させた。

 これにより、殺害時刻である午後4時には、被害者である東原ゆかりと被告人である飯岡瞬が、殺人が行われた同じ建物の中にいた事を立証しようとした。

 次に、殺害後に切断された首と胴体の所在をはっきりさせた。

 東原ゆかりの首がおかれた曙中学の校門には、新聞配達員の三船 橋蔵証人の証言により、

 また、胴体の発見は大学生の探検倶楽部、烏丸 明証人の証言により明白化した。

 飯岡瞬は、東原ゆかりの遺体損壊と死体遺棄については犯行を認めているので、曙中学の校門に置かれた生首と小笠原倉庫に残された胴体に関しては、争う余地がない。

 この2つは、明白な事実だ。

 問題は、やはり稲田十四朗の、小笠原倉庫に入る、飯岡瞬を目撃したという証言だ。

 これの信憑性しんぴょうせいにより飯岡瞬が午後4時に被害者と一緒にいたかどうかということが決まってしまう。

 反対尋問で、稲田証人の目撃情報の信頼性を突き崩したつもりではあるが……

 どうだろうか? 100%突き崩したと言えるだろうか?

 稲田証人の意固地いこじさ、頑迷さを前面に出してその証言の信頼性を問うたつもりではあるが……

 人間は、客観的評価を加えるとき、対象となる人間の社会的ポジションを優先するかもしれない。

 ひきこもり・ニート状態に陥っている被告人の飯岡瞬と、仕事を勤めあげ年金生活に入っている稲田証人。

 この比較をするのではないか?

 それをされると、非常に拙い(まずい)。

 次の、被告人質問でなんとかこのあたりの手立てを考えなくてはならない。


 証言席には、被告人飯岡瞬が立っている。

 裁判官の里倉が告げる。

「それではこれより、第2の殺人事件である東原ゆかり殺害に関する、被告人質問を行います。弁護人は、始めてください」

 弁護人の佐々倉は、立ち上がって証言席の近くに寄る。

「君は11月12日の午後3時10分から4時過ぎまでどこにいましたか?」

 まず、これを明確にしなければならない。被害者の殺害時刻に被告人は現場にいなかった。

 アリバイの証明である。

「自分の部屋です」

「何をしていたのでしょう?」

「コンピュータのプログラムを組んでいました」

「それを証明できますか?」

 飯岡瞬は、考え込む。

 そうなのだ。こんな場合の証明方法がない。

 被告人、飯岡瞬は自分の部屋で自分の作業をしている。

 誰も、被告人がそこにいたと言える者がいない。

 もし、母親なり父親なりが部屋にいる飯岡瞬を確認していたとしても家族の証言は信憑性に疑問があることになっている。

 この証明は難しい。

 それほど、この稲田十四朗の午後3時10分に飯岡瞬を見たという証言は重いのだ。

 意地になって、自分の正当性を主張する稲田証言であるが、取るに足らないと切り捨てるには重すぎる証言なのだ。

 どうする? ここを何とかしないと、飯岡瞬が東原ゆかりを殺害することが可能な状況を作ってしまう。

「インターネットにコンピュータを接続していたので、ブロバイダーに接続記録が残っているはずです」

 考えた末の様子で、飯岡瞬が答える。

 何! ブロバイダー?

「ブロバイダーですか?

 弁護人は、コンピュータのことについてはほとんど無知なのですが。

 その、ブロバイダーというのは一体なんですか?」

「インターネットの接続業者のことです。

 普通、自分のコンピュータをインターネットにつなぐ場合、ブロバイダーのインターネット接続サービスを利用することになります。

 ブロバイダーは、こちらの端末の接続状態を絶えず監視しているので僕のパソコンがその時インターネットに繋がっていたかどうかは接続記録を見れば、わかると思いますよ」

「その記録は、誰でも見れるのですか?」

「普通は駄目ですけど、裁判所から頼めば見せてくれると思います」

 いいぞ。積極的な証拠ではないが、逆にかえって客観性が増すかもしれない。

「わかりました。

 裁判長。その接続記録を裁判所から申請して、ブロバイダーから提出させていただきたい。

 それを、弁護側の証拠品とします。」

「わかりました。しかるべく措置を取ります」

 里倉裁判長は、承認した。

 これで良いのだろうか? 午後3時10分には飯岡瞬は自分の部屋でコンピュータの作業をしていたことが証明されるだろうか?

 まあ良い。検察側に対する対抗措置が出来ただけでも良しとしなければならないだろう。

 次だ。

「証人は、11月12日に小笠原倉庫に行きましたか?」

「はい。行きました」

「それは、何時頃ですか?」

「午後8時過ぎです」

「午後8時ですね。何のために小笠原倉庫に行ったのでしょう?」

「それは、幽霊騒動です」

「幽霊騒動?」

「ええ。

 あの倉庫は、首を吊った女の人の幽霊が出るということで評判になっていました。

 僕もその幽霊を見たかったので、夜になってから行くことにしたのです。

 たぶん中は暗いだろうと思って懐中電灯を持って行きました」

「それで、どうなりました?」

「中に入ると、血の匂いが充満していました」

「血の匂い? すぐに血だとわかったのですか?」

「はい。うさぎや猫を殺した時に嗅ぐ匂いと同じだったからです。

 金屑のような匂いです。

 匂いの元はどこだろうと探しました。

 そして、2階の広間で首筋を切り裂かれて、胸の周りを血で真っ赤に染めたゆかりちゃんを懐中電灯の光の中で見つけました」

「すぐに、東原ゆかりだとわかったのですか」

「いえ、女性の死体だとは思いましたが、ゆかりちゃんとは思いませんでした」

「何故ですか?」

「最初の目的が、首を吊った女の人の幽霊に出会えるかということだったので、それかと思ったのです。

 ゆかりちゃんの死体だとはまったく考えませんでした」

「しかし、最終的に東原ゆかりの死体だと認識したのですね」

「はい。懐中電灯の光の輪の中でしばらく死体を観察しました。

 そして、ゆかりちゃんの死体だと認識しました」

「それから、君はどうしたのですか?」

「まず……何故ここにゆかりちゃんの死体があるのだろう?

 と考えました。

 もちろん状況として、自殺したとは考えられないので誰かに殺されたんだと思いました。

 そして、誰に殺されたんだろうという風に考えていきました」

「誰に殺されたんだと思いますか?」

「みどりちゃんを殺した犯人と同じ人間です!」

「つまり……10月12日に東原みどりと一緒にサッカーをした中学生の中の一人だということですか?」

「そうです」

「君は、その中学生を特定出来ますか?」

「いえ、出来ません。

 ですから、ゆかりちゃんの死体から首を切り離して中学校の校門の上に置くことを思いついたのです」

「えっ!」

 被告人の言っていることがわからなかった。

 飯岡瞬は何を言っているのだ。

 犯人が中学生の一人だとして何故その犯人が通う中学校の校門に東原ゆかりの首を置かなければならないのだ。

「つまり、犯人にしてみれば誰にも知れずにゆかりちゃんを殺すことが出来たわけです。

 それで少しは安心していると思います。けど校門に首を晒すことによって、ゆかりちゃんを殺した犯人はおまえだと示すことが出来ると思ったのです」

 突飛だ。非常にユニークな考え方だ。

 しかし、犯人がその中学生の一人だと考えると、確かに大きな精神的プレッシャーになるかもしれない。

 しかし、普通の考え方ではない。

 この被告人だからこそ考えつくのかもしれない。

「それで、君は東原ゆかりの首をのこぎりで切り離す作業にかかったんだね」

「はい。死体の解体作業は猫やうさぎで慣れていましたので出来るとは思っていました。

 でも、人間の解体は初めてなので、一旦家に帰って必要な道具を取って来ました」

「解体作業は順調にいったのかね?」

 佐々倉は、こんな質問をする自分に自己嫌悪を感じた。

 他の裁判では、絶対にしないような質問だ。

 それだけこの審理の異様さを物語っている。

「いえ、やはり人間は猫やうさぎと一緒というわけにはいきませんでした。

 首の骨が硬くてなかなかノコが引けません。

 結局、随分時間が掛かってしまい、もう翌日の朝になっていました」

「東原ゆかりの目を刳り貫いたのは何故だね」

「目は、モノを見る器官ですから、『私は見ていたぞ』という示唆を与えようと思いました」

 やはり、ユニークな考え方だ。彼でなければ思いつかない。

 彼の行った作業を思い起こすと、非常に背筋が寒くなる。

 夜中に女の子の死体から、のこぎりで首を切り離している作業。

 眼球を錐で刳り貫いている作業。

 普通の人間ならば、腰が引けて、その作業自体に恐怖を感じるだろう。とても出来るものじゃない。

 でも、飯岡瞬は冷静にこれをこなす。

 やはりアスペルガー障害のなせるワザか……

 佐々倉は、心底、戦慄を感じていた。

「作業が終わったのは、午前4時を過ぎていました。

 僕は、ゆかりちゃんの首だけを持って、曙中学の校門に行きました。

 ゆかりちゃんの首は、校門の上に置いた時に倒れたりしないようにと、首を切り離すとき計算していましたので、バッチリ綺麗に収まってくれました。

 この時は嬉しかった。自分の計算が正しかったことが証明できたわけですから」

 不気味だ。飯岡瞬は首を切り離す時、それが倒れこまないように計算して切り口を考えている。

 やはり、そこに彼の特異な猟奇趣味が入っているのだ。そんな風に考えざるを得ない。

「そして、戻ろうとしたら、新聞配達の人の自転車にぶつかったんです」

「三船 橋蔵証人ですね」

「はい。その時のことは、新聞配達員さんが言った通りです」

 なるほど、すべて辻褄は合う。

 飯岡瞬は、東原ゆかりの遺体損壊と死体遺棄を行ったことは認めているのだ。

 たぶん、このような成り行きだったのだろう。

「ところで……

 わからないことがあるのだが」

「何ですか?」

「東原ゆかりは、何故小笠原倉庫に行ったのだろう?

 君はどう考えている?」

「ゆかりちゃんが何故、倉庫に行ったのかについては僕に直接関係がありません。

 しかし、想像はつきます」

「どのように?」

「ゆかりちゃんは、みどりちゃんを殺した犯人がわかったのだと思います。

 僕が書いたことになっている員面調書によれば

 ゆかりちゃんは、『妹のみどり殺害の犯人が被告人で僕であるという確信を強く持っていた』

 とのことでしたが、そうではなくてみどりちゃんを殺した犯人が中学生であることと、その中学生の一人を特定できたのだと思います。

 それで、その中学生に連絡をとった。

 ともかくどこかで会って話そうということになり、犯人の中学生は小笠原倉庫を指定してきました。

 ゆかりちゃんとしては、もっと人の目のあるところを望んだんでしょうが、犯人がどうしてもというので強気のゆかりちゃんは、それを承諾した。

 まさか、そこで殺されることになるとは思ってもいなかった。

 このようなことではなかったかと想像できます」

「そうか、あくまでも東原みどりと一緒にサッカーをした中学生の中の一人が、東原みどりと東原ゆかりを殺害したんだということなんだね」

「はい、そうです」

 どうしようか。すべて辻褄は合っているように見えるが、終わろうか?

 しかし、何か不安感が残る。

 何だろう?

 犯行時間の不在証明。これはコンピュータブロバイダーの接続記録で何とかなりそうだ。

 遺体損壊と死体遺棄は認めている。その時の環境と方法は別にして……

 この不安感は何だろう。本人自身に聞いてみよう。

「何か君の方から言いたいことがありますか?」

 飯岡瞬も同じように考えているのか、一瞬不安そうな顔をのぞかせた。しかし、

「いえ、特にありません」

 と答える。

 次は、検察側からの反対尋問だ。どんな隠し球があるかわからない。

 それが、不安を煽る原因なのか。

 しかし、不安感だけで引き延ばすわけにもいかない。佐々倉は、弁護人質問を終わる決心をした。

「終わります」


「検察官は反対尋問を行いますか?」

「はい」

 検事の高峰は、既に立ち上がって準備万端という感じだ。

 気合が入っている。佐々倉は、そう感じた。

「それではまず……

 3時10分頃、小笠原倉庫に入る被告人を見たという人がいるのですが。そのことについてはどう思われますか?」

 なんだ!? いきなりそこからか。

 検察側は、稲田十四朗の証言をそんなに重要視しているのか。

 しかし、稲田十四朗の目撃証言は、佐々倉の反対質問により随分信憑性が落ちたはずだ。検察側は何故この証言に固執するのだ。

 何かあるのか?

「僕は、3時10分には小笠原倉庫に入ってません。その頃は自分の部屋でコンピュータを触っていました」

「君はそう主張しているね。その証拠としてプロバイダの接続記録を持ちだして来てる。

 明日には、そのブロバイダーから結果が出てくるだろう。

 たぶん、君の言う通りなのだろう」

 何だ、何が言いたいのだ。

「だが、頭の良い君のことだ。そこに何かトリックがあるかもしれないね」

「異議あり」

 佐々倉はすかさず異議を入れる。

「いや、まだ何も質問してませんよ。意義があるなら撤回します」

 くそっ。言葉の効果だけを残した。

 もったいぶった言い回しで、引っ張ってきてトリックを匂わせる。うまいやり方だ。

 疑惑を提供して、何も証明しない。高峰検事は法廷戦術に長けている。

「現場から喪失しているものが2つあります」

 高峰は、法廷内の隅々に届くように話し始める。

「殺害の凶器と思われる、登山ナイフ。

 警察の鑑識の報告によれば、これは刃渡り約8センチのものだそうです。

 それが、見つかりません。犯人が持ち帰ったものと考えられます。

 もう一つは、被害者が持っていたと思われる携帯電話。

 これには、犯人と現場で待ち合わせをするために連絡を取り合った通話記録かメールが記憶されていたと思われます。

 これも、見つかりません。

 これも、犯人が持ち去ったものと考えられます」

 高峰は、裁判員たちが座る席を見ていた。裁判員たちに聞かせたいらしい。

「君は被害者、東原ゆかりの首を切り落として、その首を曙中学の校門に晒したことは認めるんだね」

「はい」

「それだって十分重い罪だが、そうまでして自分の猟奇的趣味を満足させようとするのに、被害者を殺さなかったとはとても考えづらい」

 なるほど、そう繋げるのか。

 凶器と携帯電話。

 これらを飯岡瞬が持ち去ったように匂わせておいて、被害者の死体にのみ残虐行為を働くのはおかしい。

 そう、繋げたいのだ。

「猟奇的趣味の意味がわかりませんね。

 先ほど言ったように、ゆかりちゃんの首を曙中学の校門に置いたのは、本当の犯人に警告するためです。

 決して、自分の趣味を満足させるためじゃない。

 検事さんの員面調書の中の作文のように、

 『自分の猟奇趣味を更に拡大しようと意図し、中学校の校門に人間の首だけがあれば皆が驚くだろうと考え、切り落としたゆかりの首のみを持って曙中学の校門まで出向き、そこに置いた』

 という文章はまったく的はずれです」

 飯岡瞬は動じなかった。堂々と反論する。

 常識的には少しおかしいが、論理的な破綻はない。

 しかし飯岡瞬の記憶力には驚く。本当に員面調書を一字一句正確に暗唱することが出来るようだ。

 それにしても、検察側は強引だ。散りばめられた状況証拠のパーツを無理やり自分たちの有利なものに当てはめているような印象がある。

 当初は、こんなことになるとは夢にも思っていなかっただろう。状況証拠の積み重ねだけで十分立証できると考えていたのだ。

 こうなったのは、被告人の飯岡瞬が思わぬ伏兵だったからだ。

 考え方が、突飛なだけにそれについていけないもどかしさみたいなものがある。

「それに……

 もし僕が犯人だとすると、あんな不様ぶざまな殺し方はしません」

「不様な殺し方?」

「まず、凶器が刃渡り8センチのナイフだということですが僕ならばこんなものは使いません。

 中途半端だからです。

 心臓を狙うとして、刃渡り8センチならば届かない可能性があります。

 また、僕ならば心臓は狙いません。硬い肋骨などがあって確実に心臓を狙えないからです」

「ほう、じゃあ君ならばそんな短いナイフは殺すときの道具として使わないということだね。

 しかしまあ、この場合は刃渡り8センチのナイフしか持ってなかったとしよう。そうすると君は

 どこを狙うんだね」

「僕ならば……

 殺す場合はまず相手の抵抗を排除しなければなりません。

 そのために、首筋を狙います。

 ナイフを相手の首筋に差し込む。そのまま切っ先で頚動脈を探して切り裂くのです。

 最初の一撃が頸動脈に当たらなくても、そのまま頸動脈を探して切り裂けば確実です。

 大量に血が放出されることになりますが、相手の生命は確実に奪えます」

 法廷内に、ぞくっとした戦慄が走る。

 飯岡瞬が冷静に話しているだけに、彼の殺し方に関する講義は際立っていた。

 まずくないか。犯人しか知りえない事実を喋っているという印象にならないかと佐々倉は気を揉んだ。

 検察側は、それを引き出したかったのか?

「君は、殺すことに慣れているんだね」

「猫やうさぎを殺すことを人間に適応させて話をしています。

 『僕がやるとすれば』という仮定の上での話ですよ」

「前提として、それはわかるが、えらくリアリティがある」

 やはりそうか。検察側は、飯岡瞬の口から直接このような話をさせたかったのだ。

 それによって、飯岡瞬が殺したという印象を深めるということが目的のようだ。

「しかし、この犯人は手際が悪い。

 まず、首筋を狙って切り裂いた。ここまでは良いです。しかし後がいけない。

 首筋の頸動脈を裂くという作業を中途半端に終わらせてしまった。

 そして、人間の首にナイフを突き立ててしまったという事実に慌ててしまった犯人は、

 『仰向けに倒れた血まみれの被害者に対して、心臓を狙い突き刺した。

 更に心臓付近を中心に合わせて12箇所の傷を負わせて出血多量で死に至らせた』

 と、員面調書にあるように心臓を狙ってむちゃくちゃにナイフを振るったのです。

 結局、ゆかりちゃんの死因は出血多量です。

 心臓に狙いを変えたことにより却って、ゆかりちゃんを苦しめています。

 初めての殺人に慌てふためいた中学生の犯人が見えるようです。

 だから、不様な殺し方だと思います」

 飯岡瞬は、自分ならばこのような不様な殺害方法ではなく、もっとスマートにまた、確実に殺害する。

 だから東原ゆかりを殺害したのは自分ではないと主張しているのだが……

 感覚が一般的な常識からずれているだけに、却って逆効果になってしまうかもしれない。


 その時、警察の小松原警部が傍聴人席に入ってきた。そして、被告人質問をしている高峰検事に合図を送る。

 高峰は怪訝そうな顔を作り、傍聴人席に近づいた。小松原も法廷側の高峰に近づいて行く。

 法廷内には入れないので、傍聴人席との仕切り扉で密談することになる。

 小松原が、小声で報告する。

「えっ!」

 高峰は驚いた顔で小松原を見返す。

 被告人質問の途中である。

「後で詳しく報告してくれ」

 と、小松原に告げた。

「裁判長、休廷を求めます」

 検察側で何かが起こったことは、様子から見て里倉裁判長もわかった。

「検察官と弁護人は来て下さい」

 と、自分の席に招き寄せる。

「何が起こったのですか?」

 高峰は困った顔をしている。検事になって、こんなことは初めてだ。

 報告する高峰の顔は苦渋に満ちている。

 里倉裁判長も驚きの顔を隠さなかった。

「ともかく審理を止めましょう。そのあとすぐに二人とも別室へ来て下さい」

 高峰と佐々倉はとりあえず自分の席へ戻った。

「被告人は、被告人席へ戻って下さい」

 飯岡瞬は、被告人質問の途中だったのでまだ証言席にいたのだ。

 被告人席に彼が戻り、全員が、所定位置にいることを確認して里倉裁判長が宣言する。

「本日の法廷は、閉廷します。

 明日は、午前10時より開廷いたします」

 被告人質問の途中であったにもかかわらず、突然の閉廷宣言だ。

 何かが起こったと、裁判員の酌田かずみは感じた。

 審理を止めてしまうような重大なことなのだ。


 裁判員たちは裁判所からほったらかしにされた格好で、裁判所の評議室に集まっていた。

 里倉裁判長以下、判事補もまだ現れない。

 この裁判において重大な何かが起こったらしいのだが、裁判員たちにその情報がもたらされなかった。

 評議をして良いものなのかもわからい。

 とりあえず交替した新しい裁判員だ。酌田かずみは、新しい裁判員の自己紹介から始めようと思った。

「鴨志田さんって言われましたっけ?」

「はい。鴨志田 京一郎です」

「昨日、この評議を始める前に全員自己紹介し合ったんですよ。

 鴨志田さんもお願い出来ますか?」

「はい。そうですね。裁判員同士の互いを知ることは必要ですよね。

 わかりました。

 私は、鴨志田 京一郎 42歳 商社に勤務しています」

「商社マンの方なんですね。お忙しいでしょ?」

「ええ、まあそれなりに。

 今度は私の方からのお願いですが、皆さんがたのことが知りたいです。

 私に、自己紹介していただけませんか?」

「そうですね、これは片手落ちでした。

 それではまず私から」

 昨日と同じ順番で自己紹介が行われていく。

 酌田かずみ。(35)出版社勤務

 水原百合子。(22)家事手伝い

 竹中博之。 (37)IT会社勤務会社員。

 泉谷順。  (24)フリーター

 水谷吾郎。 (57)工務店経営

 鴨志田はそれを手早くビジネス手帳にメモしていく。

 なかなかやり手のようだ。

 自己紹介が一通り終了すると、酌田かずみが口火を切る。

「どうも、この裁判で何か重大なことが起こったようですね。我々は、放ったらかしにされているようです。今、何をすれば良いでしょうか?」

「まあ、何が起こったにせよ。私たちが、なおざりされることはないと思いますよ。いずれ教えてもらえると思います。

 それよりも、ここは今日の法廷の評議をしておきましょう。たぶん無駄にはならないと思いますよ」

 鴨志田は自分の考えを述べる。

「そうですね。せっかく時間があるんだし。無駄にはなりませんよね。それで良いですか?」

 他の誰も答えなかったが、積極的な反対も無いようだ。

 酌田かずみと鴨志田は、良いコンビになりそうだった。

「それでは、本日の法廷の評議を始めます。

 まず、今日の一番最初は……

 竹中さんの質問に捜査員が答えるというものでしたっけ?」

「そうです。そうです。

 第1の事件である河川敷で、被告人である飯岡瞬は東原みどりと出会ったすぐ後に血相を変えてどこかへ走り去って行きました。

 目撃者である、高遠沙織さんによれば被告人はそのあと5分くらいして戻ってきて、凶器の金槌を被害者の頭に振り下ろしたと供述しています。

 私が、問いたかったのは被告人はその河川敷の周りを走り回っているのですが、その被告人の目撃情報の最後の時間はいつですかと、捜査した捜査員の方に尋ねたかったのです。

 というのは、もしそれが3時5分より先の時間帯ならば、被告は3時5分に犯行を行えないことになり高遠沙織証人が見たのは、被告人ではない別の誰かという事になります」

「えーっ、竹中さんの質問ってそんな意味があったんですね。全然知らなかった」

 水原百合子だった。

「水原さん。わからないんだったら発言しないでもらえるかな」

 酌田かずみは、水原百合子に対して腹を立てている自分を感じていた。

 飯田裕子の件もある。彼女の裁判員としての適性の問題も大きいが、結局は人の人生を左右してしまうという裁判員の重さに耐え切れなかったのだ。

 水原百合子は何故それに耐えれるのだ。裁判員という仕事を深く考えていないとしか思えない。

 そんな人間が、裁判員をやっている腹立たしさだった。

「わぁ~、怖い」

 水原の声を無視して、酌田かずみが続ける。

「それで結局、その大久保という捜査員さんの答えはどうだったでしょう」

「その時、走り廻っている被告人を目撃したのは5人いました。しかし時間を認識していたのは1人だけで、その時間は、午後3時7分です。ちなみに、そこから殺害現場まで走れば1分掛からないということです」

「微妙ですね。1分かかったとして3時8分です。

 高遠証言の5分くらいしてというところに、誤差の範囲として入ってしまう」

 鴨志田は冷静に分析している。

「そうなんですよ。それに他の目撃者が目撃した時間を意識していないので、3時7分にすぐ河川敷に戻ったのか、それとも他の目撃者に目撃された後戻ったのかがわかりません」

「それでは、この証言は残念ながら役には立ちませんね」

 鴨志田が結論を下す。

「そうですね、そのあと弁護人がさかんに3時7分を軸に時系列を言い表していましたが、やはり、被告が河川敷に戻った時間はこの証言からはわかりませんね」

 酌田かずみも、鴨志田に同調した。

「ここまではよろしいですね。水谷さんは?」

「俺は、どうでも良いよ。どっちみちそんな細かいことは関係ないんだ」

「あなたは、まだそんなことを言っているのですね。

 昨日裁判長が言っていたことを忘れたのですか。

 判定は、法廷に提出された証拠のみによって判断されると。

 あなたの場合は、飯岡瞬が犯人だという勝手な思い込みが先にあって、証言証拠を無視しようとしている」

 酌田かずみは、本気で水谷吾郎に腹を立てた。

「それが、いけないのか?」

「いけません! あなたは、飯岡瞬が犯人だと合理的に説明できますか?」

「奴は、人の痛みや悲しみがわからない精神疾患で今回も小さな女の子を金槌で殴って殺してしまった。

 そういう事件なんだこれは!」

「それのどこが合理的な説明なんですか? どこに飯岡瞬が犯人だという根拠があるのですか?

 精神疾患だから、殺してしまったという偏見があるだけではないですか」

「根拠はあれよ。ほら、あれ。

 凶器の金槌には奴の指紋しか無かった。

 これだけで十分じゃないのか!」

 それを言われると弱い。何よりまして指紋の問題だ。

 これが動かない限り飯岡瞬の嫌疑をはらすことが出来ないのだ。

 水谷が言うように、細かい証言証拠はどうでも良いのかもしれない。

 逆に言えば、この指紋のことが解決すれば飯岡瞬の嫌疑は晴れる。

 水谷は、酌田かずみの沈黙を自分の勝利と受け取った。

「まあまあ水谷さん。

 言われることもわかりますし、たぶん正しいでしょう。

 しかし、ここは別の視点で可能性を考えてみませんか?」

 鴨志田が水谷をとりなした。

「わかるけどさ。この人があんまり強く言うもんだから……」

「まあ、評議をを続けましょう。

 ええと、東原みどり殺害に関しての今日の法廷でしたね。

 次は、スマートフォンの件だ」

「あれには、正直言うとびっくりした」

 泉谷順だ。彼は検察がこの証拠品の提出を拒むと思っていた。それが当然だと思った。

 自分たちに不利な証拠品だ。

 泉田が斜に構えているのは、社会が信じられないからだった。

 社会正義といっているものが特に信じられない。

 警察や検察は、特にそうだ。結局、こいつらのいう社会正義は自分たちの正義の押し付けだ。

 日本では刑事事件の裁判における有罪率は99.9%だ。

 つまり、起訴された被告のほとんどすべてが有罪となる。

 裁判官は、判決のほとんどすべてに有罪を言い渡すのだ。

 裁判員裁判となってもその実態は変わらない。

 しかしこれは、異常な事態である。ほとんど統制されていると言っても過言ではない。

 司法の独立というのは絵に描いた餅となっている。

 自分たちの正義に都合の悪いものは隠す。隠して当然だと思っていた。

 それを検察側は提出してきた。そしてそれを弁護側の証拠品とした。

 それだけではない。

 送致した事件の再捜査まで行なっている。それによって飯岡瞬が主張する中学生たちまで探しだしている。

 他の事件、他の裁判ではわからないが、この事件に関しては、あの高峰という検察官、そして警察の小松原という担当捜査官は、真摯な姿勢でこの裁判に臨んでいる。

 公正を貫こうとしているのだ。

 それは、評価出来ると感じていた。

 泉田順は自分が、うまく社会に溶け込むことが出来ていないと感じている。

 自分を取り巻いている社会を虚無的にしか眺めることが出来ないのはそれが原因だった。

 それが、検察側、言い換えれば権力に近い側がスマートフォンを出してきたことと、中学生たちを探しだしてきたことで、少し見方が変わった。

 取るに足らない小さなことかもしれない。

 2つとも、事件全体から考えると決定的なことでは無い。

 しかし、このことから検察をそして警察を再評価した。

 今回、彼らは社会正義を貫くために出来ることはやるつもりでいる。それがなぜだか嬉しく感じている。

 社会を信じられない自分を変えるかもしれないと感じていた。

「スマートフォンの写真は凄絶でしたね」

 竹中が言った。

 東原みどりの殺害直後に撮られた写真。脳を取り巻いている骨のほとんどすべてが破壊されてバラバラになっていた。

 その壮絶さが、網膜に焼き付いている。

 飯田裕子もあの写真を見てしまって自分を見失ってしまったのだ。

 結果として裁判員を解任されてしまったのだ。

「写真も凄かったけど、問題は写真を撮った時間ですよ。午後3時20分となっていたわ。あの写真が3時20分に撮られたことは間違いない事実よ」

 酌田かずみが力説する。

「しかし、残念だけどそれは写真が撮られた時間ということだけっすよ。ただそれだけっすよ」

 泉谷だ。思いもかけず捜査側が出してきたスマートフォンであったが、それだけの意味しかないのだ。

「でも、犯行が行われた時間は3時5分過ぎよ。犯人が飯岡瞬だとすると、彼は15分近くも自分が殺した死体の側にいてそれから写真を撮ったことになるわ。

 それってすごく不自然だと思わない?」

「だが、あいつはアスペーなんとかって病気なんだろ。普通の人間に不自然なことでも奴では不思議では無いのさ」

 水谷だった。あくまでも飯岡瞬に対する偏見を捨てない。

「水谷さん。あなたは相変わらず飯岡瞬の精神疾患へ偏見を捨てませんね。

 でしたら、あなたが飯岡瞬の悪あがきで作り話だと言っていた、東原みどりが飯岡瞬に出会う前に遊んでいたという中学生たちを警察が探しだしてきたことをどう思いますか?」

「そうです。そうでした、中学生たちの存在は確認されました。架空の存在ではなかったのです」

 竹中は、酌田かずみをフォローする。

「どう思うかって……それは、いたんだろ。遊んでいた中学生は」

「でも、やっぱりそれはそれだけのことっしょ。

 残念だけど、東原みどりは飯岡瞬に出会う前に中学生たちと遊んでいた。

 ただそれだけのことが証明されたに過ぎないっしょ」

 今日の泉田は、少し変わったと酌田かずみは感じていた。

 斜に構えていた態度が軟化している。虚無的な態度から一歩進んだ積極性を感じていた。

 しかし、意見としては冷静な客観性の姿勢を崩していない。

 虚無的な物言いが変わっただけなのか

「そうだ。それだけのことだ」

 水谷は、思わず味方についた泉田を見ながら言う。

「そうかもしれません。

 しかし、彼が東原みどりに出会った時に聞いたという中学生たちは存在しました。

 つまり、彼は本当のことを言っているのです。

 決して悪あがきの作り話ではありませんでした。

 このことから、これに続く彼の話も事実である可能性を含んでいます」

「おい、本気で言ってるのか。

 続く話ってのは、その中学生たちが東原みどりを強姦しようとした。

 それを聞いて飯岡瞬は辺りを探しまわった。

 戻ってくると、東原みどりが頭を割られて死んでいた

 ってことだろう。

 中学生たちがいたことは認めよう。東原みどりも河川敷でずっと独り遊びしちゃいないだろうからな。

 だけど、それ以降はとても信じられないな」

「何故ですか?」

「飯岡瞬にとって、都合が良すぎる話になってる。そこが気になりますね」

 水谷にかわって、鴨志田が答えた。

「都合が良い。どういうふうに?」

「続く話の中で、東原みどりと出会った後、辺りを探しまわったというのは本当の話でしょう。

 目撃者を探した大久保さんという捜査官の証言からもそれは明らかです。

 ここで視点を変えて、飯岡瞬が犯人だとしてみましょう。

 動機は検察側が言うように、自分の猟奇趣味を満足させるためです。

 そのために彼は東原みどりを探して現場の河川敷までやって来た。

 そして東原みどりに出会った。すぐにでも彼女を殺して満足を得たいと彼は考えたことでしょう。

 しかし、同時に彼は、川向うの公園でベンチにいる高遠沙織も発見したのです。

 このまま、東原みどりを殺したのでは彼女に目撃されてしまう。

 東原みどりは、遊んでいた中学生たちに強姦されそうになったと飯岡瞬に告白しました。

 そこで頭が良い彼は、その中学生たちの中の1人を犯人とするストーリーを考えついたのです。

 それがつまり、彼にとって都合が良い話です。

 高遠沙織に目撃されても、自分では無いと言い切れるようなストーリーです。

 彼は、河川敷の周りを走り回りました。

 これは別に中学生たちを探すという目的ではなく、河川敷の周りに他の目撃者となり得る人間がいるかどうかを調べるためでした。

 そして、高遠沙織以外は目撃者となり得る人間はいないという結論に達しました。

 飯岡瞬は河川敷に戻ってきて、高遠沙織にはわざと後ろ姿だけを見せて、東原みどりを金槌で殺害しました。

 どうでしょう?

 この可能性もあり得るのでは無いでしょうか?」

 確かにそうだ。その可能性はあり得る。

 鴨志田も頭が良い。矛盾のない可能性を取りまとめた。と酌田かずみは、思った。

「どうですか、泉田君」

「どうですかってその話を俺に振られてもなぁ。

 そんだったら、飯岡瞬が河川敷の周りを探し回っているうちに中学生の1人が戻ってきて、東原みどりを金槌で殴って殺してしまったという可能性も有効の範囲内っしょ」

「そうですね。どちらも話としては成り立ちますので有効ですね」

「しかし……鴨志田さんの話だと、

 高遠沙織に目撃されても良いという前提で殺害したことになりますね。それはおかしいのではないでしょうか。

 もうひとつあります。飯岡瞬は東原みどりを殺害した後、15分間もその場に立っていたことになります。

 この2つは説明できません」

 酌田かずみは、反論した。やはり鴨志田が今言った話はおかしい。矛盾がある。

「そうですね。その点は私も説明できません。

 しかし、この話の前提は彼にとって都合が良いと言う事です。

 つまり、彼の中では都合が良いと解釈されているのでしょう。

 だから一般の神経では推し量れないような矛盾を含んでいることになります」

 そうだ、かれはアスペルガー障害なのだ。

 一般人の我々が感じているものと感じ方が少しだけ違うのだ。

「なんでそんなに難しく考えるかな。

 凶器の金槌には奴の指紋しかなかったんだよ。

 それだったら、女の子を殺したのは奴しかいないじゃないか」

 水谷がまた掻き回そうとする。

 しかし、鴨志田はすんなりとそれを受ける。

「そう、今の2つのストーリーを比較する時、金槌を振るったのは誰か? というところに行き着きます。

 そうなると、金槌に残された指紋が飯岡瞬のものしか発見されていないということは決定打になります」

「そうだな。残念ながら、そうなってしまうっしょ」

 泉田もそう言わざるを得ない。

 酌田かずみは黙っていた。それに反論する材料が何もない。

 しかし、竹中は違った。この反論を試みる。

「もし、犯人が凶器についた自分の指紋を拭きとってしまったらどうでしょう。凶器には犯人の指紋は残りません」

「残念ながら、それも無理です。

 見た目では指紋がどこに付いているかはわかりません。したがって別の犯人がいるとすれば彼は、凶器全体を丹念に拭かなければなりません。

 でもそうすることによって、当然あるべきの飯岡瞬の指紋も拭き取られてしまうことになります。

 また、凶器には被害者東原みどりの血痕も付着していました。それも拭き取られていなければなりません」

 そうか。確かにその通りだ。

 凶器に飯岡瞬の指紋しか残っていない。それは決定的なことなのだ。

 竹中は複雑な心境だった。

 彼は、心情的には飯岡瞬をかばいたかった。しかし状況的に無理だとも感じていた。


「次に行きましょう。第2の殺人。東原ゆかりの殺害の事件です」

 鴨志田が議事を進めていく。

 酌田かずみは、そんな鴨志田に頼もしさを感じていた。

 昨日は、自分が議事を進めなければならなかった。拙い(つたない)議事進行係だ。

 正直に言うと自信がない。そんな経験が無いからだ。

 雑誌の編集とはいえ、その雑誌は田のたのかみを中心とする民間信仰を紹介する編集員わずか4人の小さな所帯だった。

 目的がはっきりしているので意見が激しく割れたりすることも無い。

 こんな意識もばらばらで寄せ集めと言わざるを得ない裁判員という集団の意見調整をする自信はとてもない。

 その点、商社マンである鴨志田は適役と言える。

 たぶんこういった仕事に慣れているのだ。商社マンはユーザーとメーカーの調整役だ。

 意見調整をすることが仕事なのだ。同じことをこの裁判員という集団の中で行なっている。

「その前にいいですか?」

 酌田かずみが手を挙げる。

「はい、どうぞ」

「第1の殺人と第2の殺人の犯人は同一人物と考えますか?

 皆さんの意見を聞いておきたいのですが?」

「そうですね。それは大事な点だ。

 しかし、第2の事件はさらに2つにわかれていることを考えなくてはいけませんね。

 1つは、東原ゆかりの殺害です。

 もう1つは東原ゆかりの遺体損壊と死体遺棄です。

 この2つ目は、犯人が明白です。自分がやったと飯岡瞬は告白しているからです。

 問題は1つ目の東原ゆかりの殺害が、第1の事件である東原みどりの殺人の犯人と同じ人間かどうか?

 どう思われますか水谷さん?」

「そ、そうだな。俺はやっぱり奴だと思う。飯岡瞬だ」

「理由はありますか」

「そんなもん、あんた……」

水谷の発言を遮って、鴨志田が続ける。

「今回は、東原みどりの時と違い、わざわざ小笠原倉庫という人がめったに近寄らないような場所に呼び出して殺害しています。

 東原みどりの犯人が飯岡瞬であるという時その殺害動機は、猟奇趣味を満足させるための快楽殺人ということになりますが、東原ゆかりの殺害動機も同じでしょうか?」

「いや、そりぁ違うっしょ。東原みどりの殺害を姉であるゆかりに気付かれたからっしょ。だから、東原みどりの殺人の犯人が、東原ゆかりの犯人ということになるっす」

 今度は、水谷の発言を遮って泉谷が発言する。

「じゃあ、ここで決を取っておきましょうか。

 第一の殺人の犯人が、第2の殺人の犯人だと思う人」

 真っ先に水谷が手を上げた。

 泉谷もゆっくり手を上げる。

 水原百合子も手を上げた。

「保留はありですか?」

 酌田かずみが聞く。

「そうですね。まだ具体的検証もしてませんし、ありにしましょう」

「でしたら、今はまだ保留にします」

「わかりました。酌田さんは保留です。竹中さんはどうでしょう?」

「私は……第1の殺人の犯人が第2の殺人の犯人かという疑問だけに限定するならば……」

 と言って手を上げた。

「犯人が飯岡瞬だというところに意義があるわけですね。

 はい。それもわかりました。

 そして私自身は、手を上げます」

 鴨志田は、そう言って自分の手を上げる。

 鴨志田は結論を急ぎすぎる。

 そして、無難なところへ着陸させようとする常識派だと酌田かずみは思った。

 これは、商社マンのさがなのか。

「水原さんが手を上げた、理由を教えて欲しいわ」

「え~っ、わたしわからないです」

「だったら、何故手を上げたの?」

「何となくそうかな~と思って」

「だから、これはクイズ番組の回答なんかじゃないのよ。

 証拠と証言に基づいて判断すべきことなのよ。

 何となくは駄目なの!

 水原さんの回答は、無効にして下さい」

 酌田かずみは、水原百合子に対してヒステリックになっている。

 それは、自分でも感じていた。

 水原百合子はあまりにも何も考えていない。発言が無責任すぎる。

 その腹立たしさだった。

「う~ん、それはどうかな。

 あなたの回答が保留だったように、具体的な検証の前に印象を聞いたにすぎませんので……

 しかし、水原さんはご自分の犯人像に対する回答も持っていらっしゃらない様子ですね。

 ここは、水原さんはあなたと同じく保留ということにしませんか?」

 そうだ。少し感情的になり過ぎている。保留も無効も回答を出さないことは変わりは無いのだ。

「わかりました。それで結構ですわ」

「そうすると、2つの事件の犯人が同じだという人は4人、保留が2人ということになります」

 鴨志田は手早くビジネス手帳に書き込みながら言う。

「それでは、2つの事件の犯人が同じだと考えている方は、それが飯岡瞬だと考えていますか?

 水谷さん?」

「そうだ、今度の事件のすべての犯人はあいつだ。あいつ以外にはいない」

「はい。それでは、泉谷君?」

「俺は違うっす。東原みどりを殺した犯人が、東原ゆかりも殺したということは言えると思うっす。

 でも、それが飯岡瞬だとは言い切れないっす」

「おまえはまだそんなことを言っているのか!

 東原みどりを殺したのは、凶器の金槌に付いた指紋からハッキリしたろう」

 水谷が声を荒げる。

 しかし、今日の泉谷はそれに反応しなかった。感情的な側面を見せない。

「逆っす。第2の殺人、東原ゆかりの殺人の犯人が別の人間だとしたら第1の殺人、東原みどりの殺人の犯人も様相が変わって来るっす」

 鴨志田は、ビジネス手帳から目を離した。

「そうか、そういう見方もできますか……竹中さんはどうでしょう?」

「私は……酌田さんには怒られそうだけど、主に心情的なことです。

 彼が犯人ではないと思いたい」

「う~ん。心情的にですね。それだと保留にしてくれた方が良かったんですけど。

 まあ、その思いが強いということで有効にしますか。

 では、私の意見です。

 今回の一連の事件の犯人は飯岡瞬です」

 鴨志田は自分の結論を出していた。

 「理由は、今回の一連の事件は3つのパーツに分かれています。

 1つ目は、東原みどりの殺人事件。

 2つ目は、東原ゆかりの殺人

 3つ目は、東原ゆかりの遺体損壊と死体遺棄です。

 この内、3つ目の東原ゆかりの遺体損壊と死体遺棄は飯岡瞬が自分がやったことだと認めていますので犯人ははっきりしています。

 ここまでは良いですか?」

 鴨志田は他の裁判員を眺め回した。

 それぞれが、うなづいている。疑義は無い。

「次に、凶器の指紋のことから東原みどりの殺人も飯岡瞬の犯行を強く裏付けます。

 別の犯人がいるとしてもそのトリックの痕跡を見つけることが出来ません。

 そして、ここが大切なのですが、

 第2の殺害現場である小笠原倉庫に飯岡瞬は何故行ったのかというところです」

「それは、小笠原倉庫の幽霊騒ぎで自分も心霊現象を見たかったのだと被告人質問で供述していました」

 これに関しては竹中が反論してきた。

「ええ。自分ではそう言っています。

 偶然にその日、つまり11月12日の夜に出かけたと主張しているのです。

 しかし、小笠原倉庫の幽霊騒ぎは噂は随分前からあるようですね。

 これは、現場の倉庫を管理している井手口不動産の社長の証言から明らかです。

 だから、彼がその探索に行くにしてももっと前でも良かったはずです。

 まるで、そこに死体があることを知っていたようなタイミングで11月12日の夜に行っています。

 幽霊騒ぎに関する彼の興味に関しても疑問があります。

 通常、幽霊騒ぎの興味というのは、恐怖を体験したいという願望から発生するものです。

 しかし彼の場合は、アスペルガー障害のため怖いという感情がわからないのじゃないでしょうか?

 それから、心霊現象を見たいという興味も不合理だと計算されて興味がわかないのじゃないでしょうか?

 そう考えると、彼がその夜、幽霊見物のため小笠原倉庫に行くこと自体が不自然となります」

 酌田かずみも竹中博之も、絶句した。

 盲点だった。まったく考慮に入れていなかった。

 偶然にしては不自然すぎる。鴨志田の指摘通りだ。

「次は殺害の方法についてです。

 彼は、自分が殺すならもっとスマートであんな無様な殺し方はしないと言い、だから東原ゆかりを殺したのは自分ではないことの根拠にしていました。

 しかし、彼が刃物を使って殺してきたのは小動物、うさぎや猫たちです。

 彼は刃渡り8センチならば人間の心臓に達しない可能性があると言い、周りに硬い肋骨などがあって確実に心臓を狙えないとも言いました。

 しかし、小動物ならば確実に心臓に達し、骨も柔らかいので邪魔にならなかったのでしょう。

 彼がスマートに殺せると言ったのは、この次に『人間』を殺すとしたらこうやろうと考えた時の想像を言っていたのではないかと思われます」

 これも、盲点だった。指摘通りかもしれない。そうでなければあのように微に入り細をうがつような供述は出来ないかもしれない。


「じゃあ、第2の殺人の証拠証明の検証を行いましょう。

 今までのは、第1の殺人と第2の殺人の関連性からの推測であって、飯岡瞬の犯行の可能性です。

 まだ、第2の殺人の詳細を検討したわけではありません」

「そうですね……しかし、先程の鴨志田さんの説明で飯岡瞬の犯行が動かないような気がしますが……」

「あれは、あれで意味があります。

 しかし、第2の殺人の詳細を見ていくと、飯岡瞬の犯行を補強する材料が見えてくるかもしれませんし、逆に別の犯人がいたことが見えてくるかもしれません

 ともかく、すべての証拠を当たって見ることが我々の仕事だと思います」

 鴨志田は商社の仕事でも、このように丹念に仕事をこなして来たのだろう。

 すべての可能性を拾い上げるつもりのようだ。

 酌田かずみは、先程の鴨志田への評価、結論を急ぎすぎる。無難なところへ着陸させようとする常識派。

 という評価は考え直さなくてはならないと感じた。

「第2の事件、東原ゆかりの事件は、第1の事件の高遠証人のように犯行を直接見た者がいません。

 したがって、検察は犯行を裏付ける状況的な証拠を積み上げることにより、飯岡瞬が犯人であるとの立証を行おうとしています。

 ここは、頭に入れておいて下さい」

 鴨志田は、裁判員を眺め回した。

 水谷は、面倒そうな顔をしたが先ほどの鴨志田の実績を見なおしたのか何も言わなかった。

 酌田かずみと竹中、泉田は納得したように頷いている。

 水原百合子は、意味が分かったのか分からないかはっきりしない。が、妙に熱意を込めた目で鴨志田を見つめている。

「それでは、最初の証人からいきましょうか」

 鴨志田は、ビジネス手帳を捲る。

「被害者である東原ゆかりが、小笠原倉庫に入るところを目撃したという多田茂吉証人ですね。

 彼は、東原ゆかりが倉庫に入るのを11月12日の午後3時50分に見たと証言しました。

 ちなみに東原ゆかりの殺害時刻は午後4時です。

 この証人と、このあとの稲田十四郎証人の飯岡瞬が現場に入るのを見たと言う証言と合わせて、

 検察側の証明意図しょうめいいとは、被害者と被告人が犯行時間に同じ場所にいたという証明をするというものです」

「多田茂吉証人の証言は、信用性があると思います。

 彼は、東原ゆかりを見知っていました。見知った場所が町内運動会という日常の場所でしかも同じ競技……

 2人3脚でしたっけ、それに一緒に参加しているし、小笠原倉庫前で挨拶も交わしています。

 ですので、東原ゆかりを他人と見間違ったという可能性はないと思われます」

 酌田かずみは、多田茂吉証人の信頼性は高いと述べる。

「そうですね。では比較のために稲田十四郎証人の証言を考えてみましょうか。

 彼は、午後3時10分に小笠原倉庫に入る飯岡瞬を目撃したというものです。

 彼は被告人である飯岡瞬を直接知りません。

 知ったのは、後日訪ねてきた警察の捜査員により提示された写真により、当日自分が見たのは飯岡瞬だったと証言しています」

「稲田十四郎証人の証言の信頼性には疑問があります。

彼は、メガネをかければ視力が1.2ですが裸眼では0.8です。この日はメガネを忘れて裸眼の状態で小笠原倉庫の前を通りかかっています。

その時に、倉庫に入ろうとする怪しい男を目撃するわけですが、この男を飯岡瞬だと言い張っています」

 竹中が、稲田十四郎証人の視力の問題点を指摘する。

「そうですわ。それに彼は飯岡瞬を直接知りません。後日訪ねてきた大久保刑事によって提示された写真により自分が見たのはこの男だったと指摘しています。

 弁護人が言うように一瞬を切り取った写真からでは、実際目撃した時の印象がかなり違うと思われますわ。

 彼は、自分の直感のみで彼を、飯岡瞬を特定しています」

 酌田かずみが、竹中をフォローする。

「しかしだよ。

 その証人と飯岡瞬のどちらを信用するよ。

 ひきこもりの被告人の飯岡瞬と、仕事を勤めあげ年金生活に入っているまともな人間だぞ。

 嘘をついてまで飯岡瞬を追い詰める必要もないだろう」

 水谷吾郎は、弁護人の佐々倉が心配していたような被告人と証人の比較をした。

「そうですね、確かに嘘をついてまで被告人を追い詰める証言をする必要はありませんね。

 しかし、証人は意固地になっているようでした。

 最初は、散歩の時に倉庫の前で怪しい男を見たよ。くらいの証言をするつもりだったのでしょう。

 しかし、大久保捜査官に写真を見せられた時、似ているという印象を喋ってしまった。それがだんだん自分の中で、この男だったという確信に変わっていった。

 たぶんこの証人の性格でしょうが、自分が確信を持っているものに対して他人から指摘されることに大きな抵抗を感じるのでしょうね。

 だから、間違いを修正することが出来ない。却って、意地を張ってしまう。

 怪しい男の服装を検事に尋ねられた時、、『確か』、緑と白のブルゾンを『着ていたように思います』と自信無く言っていたのに、弁護人に指摘されると『確かに緑と白のブルゾンを着ていた』と変わっています。

 こんなところにこの証人の意地の強さを見ることが出来ると思います」

 鴨志田は、皆の意見をまとめ、さらに自分の意見も付け加えた。

「でも、こんな証人は困るっすよ。それって結局自分の見解の強制っすよ。

 本当は何の確信も無いのに。

 この証言で、被告と被害者が殺害時刻に同じ場所にいたことになってしまうっしょ」

 泉田が憤慨している。

「そうだね、確かにその通りだ。本当は彼は強い確信は持っていない。しかし今更引っ込められないというジレンマに陥ってしまったと考えるのが妥当だろう。

 ここで決を取っておきましょう。稲田証人の証言には信用性が無いと思われる方は?」

 酌田かずみ、竹中、泉田、そして水原百合子が手を挙げる。

「水原さん、意味わかってる?」

 酌田かずみは疑わしそうな視線を水原に向ける。

「わかってますよ。私も近所の同じくらいのおっさんに勝手な想像であらぬ噂を立てられて大変な事になったんですから」

「いや、だからあなたのことじゃなくて……」

「まあまあ、ここは少し意味が違うかもしれませんが、証人の性格的なところに関連性があるということで有効にしましょう」

 鴨志田にそう言われれば仕方がない。

 それに水原百合子の中で自分が近所の嫌なおばさんに成り下がっていることに気づいて情けない気持ちになった。

「反対は、水谷さんですね」

「うん、まあ稲田さんの性格はともかくとしてだ。彼が小笠原倉庫の前で誰か怪しい男を見たことは間違いないだろう。

 それが、飯岡瞬だったかもしれんじゃないか」

「そうですね。その意見に私も賛成です」

 皆が一斉に驚きの顔で鴨志田を見る。あれだけ稲田証人の証言の信用性が疑問だと言っていた鴨志田である。

「稲田証人の視力の問題。思い込みが深い性格の問題から、小笠原倉庫の前ではっきり飯岡瞬を見たということは信用できません。

 しかし、水谷さんが言われるように3時10分に誰か怪しい男が倉庫に侵入するのを目撃したことは間違いないように思われます。

 その男が、午後4時に東原ゆかりを殺害したのです。

 そう考える時、その男が飯岡瞬ではなかったと言い切れません」

 そうか、稲田証人のはっきり飯岡瞬を見た。という証言の信用性にばかり目を向けていた。

 3時10分に怪しい男を見たことは間違いないし、その男が東原ゆかりを殺害したのだ。

 そのことを考えていなかった。

 稲田証人の証言の信頼性が薄いことからは、その怪しい男が飯岡瞬では無いとは言い切れないのだ。

「しかし、その頃飯岡瞬は、家でパソコンを触っていました。

 それは、明日にはプロバイダーの接続記録からはっきりすると思います」

 酌田かずみが反論する。

「それなんですが、酌田さん」

 竹中だ。

「公判中に言おうとしたのですが、何だか慌ただしくなって急に閉廷してしまって言えなかったのですが……」

「竹中さんは、ITの技術者でしたよね。専門家から見てトリックの可能性があったのですか。

 検察官はそのようなことをほのめかしていましたが?」

 鴨志田は鋭い、トリックの可能性を嗅ぎ当てた。

「ええ、そうなんです。プロバイダーの接続記録は、そのパソコンがインターネットに接続されていたという事を証明します。

 だから、接続した状態でパソコンの前から離れても記録上はインターネットに繋がっていることになっています」

「それって……インターネットに接続したまま、パソコンの前から離れてもわからないってこと?」

 酌田かずみが、不思議そうな顔をする。

「ええ、そうなんです。最近はつなぎ放題いくらって契約ですから、パソコンの電源を入れたら自動的にインターネットに接続するようになっていると思います」

「つまり、飯岡瞬はパソコンの電源を入れて自分の部屋を出て行っても、プロバイダーの接続記録には接続されていたという記録になっているわけですね」

 鴨志田は竹中に確認する。

「はい。そうなります」

「なんてことだ。そうなると、プロバイダーの接続記録は証拠として成り立たない事になる……」

 そうすると、飯岡瞬の3時10分のアリバイ証明は崩れる。

 怪しい男が、飯岡瞬かもしれないということを補強してしまった……

「いや、プロバイダーの接続記録には、まだ可能性があります」

 竹中は食い下がる。彼はまだ、飯岡瞬に対して同情的なようだ。

「というと」

「もし、飯岡瞬が掲示板などに書き込みを入れていたり、検索などでデータを引き出してたりしていたらその記録も残ります」

「ああ、そういうことですね。本当にパソコンを使っていたという証拠も記録されているわけですね?」

「はい。だから、プロバイダーの接続記録をはっきり確認するまで、まだわかりません」

「なるほど、今の時点ではまだわからないわけだ」

「はい、その通りです。」

「う~ん、この時点で被告人、飯岡瞬と被害者、東原ゆかりが同じ倉庫の中にいたかという多数決を取ろうと思ったのですが……

 これは、保留にしましょう。

 最も大切な被告人のアリバイに関する証拠がまだ提示されていないということで。

 みなさん、それで良いですか?」

 意見を取りまとめてしまいたかった鴨志田は残念そうに言った。

 その点に関しては、誰からも疑義は出なかった。

「それでは、次の証人の検証を行いましょう。

 ええと、次は……」

 鴨志田はまた、ビジネス手帳を繰る。

「これだ。

 三船橋蔵証人。曙中学の校門で切り落とされた東原ゆかりの首を最初に発見した新聞配達員ですね。

 次の証人は小笠原倉庫で東原ゆかりの胴体を発見した、大学の探検部の部員たち。証人代表で、烏丸明からすま あきら証人。

 この2組の証拠証人は、被告人である飯岡瞬が殺害された東原ゆかりの死体から首を切断し、目を刳り貫いてその首を中学校の校門に放置したことを裏付けています。

 三船橋蔵証人に関しては、新聞の配達用の自転車に飯岡瞬がぶつかって、三船証人にはっきりと顔を確認されていますので、疑いのない事実です。

 また、この東原ゆかりの遺体損壊と死体遺棄に関しては、その犯行を飯岡瞬がはっきりと認めていますので2つの目撃情報はその補強になっています」

「そうですね。弁護側もこの2つに関しては反対尋問も行いませんでしたね。

 被告人が認めているので争っても仕方がないと思ったのでしょう」

 酌田かずみだ。彼女に限らず他の裁判員も東原ゆかりの遺体損壊と死体遺棄は、こんな様子だっただろうと思っていた。

「それにしても、この2組の証人には同情するよ。

 考えても見ろよ。目が刳り貫かれた首だけが、まだ暗い学校の校門の上にあって自分を見つめているようにしてるんだぜ。

 また、血だらけの部屋で女の子の首のない胴体だけを見るんだぜ。

 腰も抜けようってもんだ。一生消えない記憶になっちまったに違いない。

 みんな、奴が飯岡瞬がやったことだろう。

 奴は、やっぱり頭がおかしい。普通の神経では考えつかない」

 水谷吾郎は、非常に憤慨した様子でまくし立てた。

「その点は、彼独特の世界観が背景にあって……」

 竹中は、話し始めたがやめた。話が続かない。

「その彼独特の世界観と言うところですが、飯岡瞬が中学の校門に東原ゆかりの首だけを置こうとした動機に関して彼は弁護人の被告人質問の時にこのように答えています。

 『校門に首を晒すことによって、ゆかりちゃんを殺した犯人はおまえだと示すことが出来ると思ったのです』と……

 確かにユニークな世界観ですね。

 これは道徳観とも呼べるものです。

 彼は、他人のことに関しては無関心なはずです。だから、死体となった東原ゆかりはモノとして扱えるのです。

 そんな彼に被害者の無念を晴らすという心情が発生するでしょうか?

 事実、妹の東原みどりの時は、死体を放置して立ち去っています。

 だいたい、道徳観とかは不合理なものを嫌う彼の性向の中で発生するとは思えません。

 やはりここは、検察官の員面調書がいうように、

 『中学校の校門に人間の首だけがあれば皆が驚くだろうと考え、切り落としたゆかりの首のみを持って曙中学の校門まで出向き、そこに置いた』

 と考えるほうが自然ではないでしょうか」

 と鴨志田は自分の意見を述べた。

 それに対して、誰も答えない。

 その通りだと一様に思っていた。


「どういうことなのですか? 詳しく説明して下さい」

 別室。里倉裁判長にあてがわれた部屋。

 そこには里倉裁判長、高峰検察官、弁護人の佐々倉。そして、警察の小松原警部がいた。

 本来、司法警察官の同席は異例だ。警察と裁判所が同席することはあってはならない。

 権力と司法の癒着と取られるからだ。

 しかし、今回は小松原が事後捜査の報告に来ている。

 本来は、容疑者起訴後の警察の事後捜査もあまり例がない。

 本当に異例ずくめになってしまっている。

 里倉の質問に小松原警部が答える形になる。

「10月12日に東原みどりとサッカーをしたとされる中学生たちですが……」

「うん」

「その後、さらにいろいろ問立てたのですが……

 サッカーに飽きたので、東原みどりを取り囲んで淫らな行為におよぼうとしていたことを認めました」

「それはつまり、本件の被害者、東原みどりを強姦しようとしたということですか?」

 弁護人の佐々倉が、問いただす。

「本人たちがはっきりと強姦を意識していたかどうかまでは、まだわかりません。

 事実、東原みどりに強姦された痕跡は認められませんでした。

 ただ、東原みどりを他から見えないように取り囲んで、自分たちの男性性器を取り出して強制的に見せたという事実はあるようです」

「それだって、小学生の東原みどりにすれば大変な恐怖だ」

「その中学生の取り調べはまだ続いているのかね」

「はい。河川敷でサッカーをしていた中学生は全部で10人です。その一人ひとりを警察に呼んで現在事情を聞いているところです」

「その10人の中学生の中に真犯人がいる可能性があります」

 佐々倉は主張する。

 飯岡瞬の主張は間違っていない。正しいのだ。彼はこの法廷で正しい事実を言っている。

「その中学生たちが、当日はビニール手袋を持っていたというのはどういうことかね」

 いままで黙っていた、高峰検事がはじめて口を開いた。

「それはですね。中学生たちの当日の理科の授業で、酸素を発生させる実験をしたそうです。

 実験の内容は…… これは言わなくて良いですかね」

「いや、教えてくれ」

「そうですか。私は理科系が苦手なもんで……

 ともかく、酸素を発生させる実験です。

 過酸化水素水に二酸化マンガンを触媒として反応させると水と酸素に分解されるそうです。

 この酸素を発生させる実験だそうですが、過酸化水素が危険物第6類に分類されるため、授業の前に透明のビニール手袋を配って扱いに十分に注意するようにうながしたそうです」

「そうすると、その中学生たちは全員その理科の実験に使った、ビニール手袋を持っていたと言うことかね」

「そうなります」

 なんてことだ。高峰検事は思っていた。

 東原みどりの殺害における指紋の問題。

 凶器の金槌に被告人である飯岡瞬の指紋しか無い。

 したがって、東原みどりを金槌を使って殺害できるのは被告人のみである。

 と、いう検察側のほぼ唯一と言って良い根拠が崩れてしまう。

 ビニール手袋ををつけて金槌を振るえばもちろん本人の指紋は残らない。

 東原みどりに金槌を振るった可能性のある者は、飯岡瞬を含めてその中学生たち10人に及ぶのだ。

 これでは、飯岡瞬のみに犯行が可能だったとは、とてもいえない。

 このままでは、起訴そのものが妥当であったかどうか疑問となってくる。

 既に起訴して裁判まで開廷しているのだ。

 これは、検察の失態と言わざるを得ない。

 高峰は、気持ちが沈んでくる自分を感じた。

 一方、里倉はこの裁判の行方を模索していた。

 第1の殺人である東原みどりの事件は、雲行きが怪しくなった。

 第2の殺人事件である東原ゆかりの事件は第1の事件に連なっている。

 東原みどりの事件が揺らげば、全体の構図としてこの一連の事件は成り立たなくなってくる。

 そう考えてくると、この裁判そのものの有効性も問われることになる。

「小松原捜査官」

 里倉は、警察の小松原に声をかけた。

「その、中学生たちの取り調べで、彼らが犯行を自白すると思うかね?」

 問われた、小松原も頭を抱える。

「この先は、まったく予測できません。

 正直、今日から捜査を始めたというのに等しい状態です。

 彼ら一人ひとりの生活環境、情動などを把握した上で当日の彼らの行動を正確に押さえなければなりません。

 まだ、中学生になったばかりですから、年齢は13歳~14歳です。弱い性格の子ならばもしかしたら怖くなって自白するかもしれません。

 しかし、今はまだまったく予断を許さない状態です」

「そうだろうな……」

 里倉は、机に置いた自分の手の平に額を載せた。

 この裁判の結審までにはとても間に合わないだろう。

 それに被疑者たちは13歳~14歳。少年法に守られる。

 この裁判とリンクさせるということも出来ないだろう。

 里倉の判事歴は長い。その長い判事歴の中でこんな裁判は初めてだ。

 異例なことが起こり過ぎる。正直、里倉の手に余っている。

 今回のことは確かに検察の不手際だ。

 起訴すべきでは無かったのだ。

 今更どうこういっても仕方が無いが、裁判所として次の手を打たなければならない。

 どうすれば良いのだ。

 はっきり言ってしまうと、進行中の法廷審理を裁判所として止める手段がない。

 公訴棄却こうそききゃくという手があることはある。刑事訴訟法第338条及び339条に定められたものである。

 しかし、これは、

 公訴提起の手続がその規定に違反したため無効であるとき。

 起訴状の不送達により公訴の提起が効力を失ったとき。

 起訴状に記載された事実が真実であつても、何らの罪となるべき事実を包含していないとき。

 公訴が取り消されたとき。

 被告人が死亡したとき。

 など、

 主に公訴手続きが正規に行われなかった状態の時、裁判所の権限で公訴を棄却するというものだ。

 今回のケースにはまったく当てはまらない。

 そう考えていくと、裁判所として打つ手が無くなってくるのである。

 あとは、検察に期待するしか無い。

「高峰検察官……」

「はい」

「ここは、『公訴取消』しかないと思うが……」

「『公訴取消』ですか!」

「進行中の法廷審理を止めるには、検察官から『公訴取消』を申請してもらうしかない」

 刑事訴訟法第257条の規定では、検察官はいったん起訴した事件でも一審判決が出されるまでに起訴を取り消すことができるとなっている。

 起訴後に真犯人が判明するなど被告人にとっては、犯罪事実の無いことが明らかになった場合などに適用される。

 高峰検察官の顔が暗く曇っている。『公訴取消』は重い決断なのだ。

「しかし、まだ飯岡瞬が無罪だと確定したわけではありません。

 十分、被告人としての疑いが残っています」

「東原みどり殺害の決定的な証拠証明が消えてしまったんだよ。

 『疑わしきは罰せず』、『疑わしきは被告人の利益に』の原則がある!」

 刑事訴訟法第336条では、被告人が罪を犯したとすることについて合理的な疑いが残る場合には、有罪の判断をしてはならない。

 有罪の判断をするためには合理的な疑いを超える証明が必要という原則がある。

 今回は、凶器の金槌から被告人である飯岡瞬の指紋しか採取出来なかったので合理的に被告しか犯行は行えないということになっていた。

 しかし、中学生たち10人がビニール手袋を持っておりそれをはめて金槌を振るえば指紋は残らない。

 つまり、金槌は被告人が振るったかもしれないが、10人の中学生たちの誰かかもしれないという合理的な疑いが残ってしまったのである。

 したがって、被告である飯岡瞬に対して『疑わしきは被告人の利益に』の原則が適用されなければならない。

「少し考えさせて下さい。

 『公訴取消』は、被告の無罪が確実だと判断されるときしか決済されません。

 336条の原則は、推定無罪を引き出すに過ぎません。

 『疑わしきは罰せず』だけでは、被告人が犯人では無いという積極的証拠になり得ません。

 そうなると私一人の判断では手に余るケースです」

 そうなのだ。

 『公訴取消』は、検察組織の最高権威である検事総長の決裁が必要なのだ。

 これが決済されるということは、検察側は全面的に負けを自ら認めることになる。

 それほど大きな重い判定だ。

 『疑わしきは罰せず』だけの根拠では出したくない。

 耳目を集めている事件であるので、検察の体面もあった。

 また、その手続に要する時間も考慮しなければならない。

「いつまで考えることになるかな?

 明日の午前10時には、3日目の公判を開かなければならないが……」

「明日の朝9時までに善処します。しかし、約束できません」

「わかった。朝9時にこの部屋で待っている」

 高峰はがっくりと肩を落とし、小松原と一緒に出ていった。


 黒い法衣の3人の裁判官が話し合っている。

 里倉裁判長にあてがわれた部屋。

 最後まで残っていた、佐々倉弁護士も拘置所の飯岡瞬を接見するため出ていった。

 そして、里倉裁判長は自分の同僚たちを呼び出したのだった。

 話し合っているのは、今回の法廷の裁判長里倉洋介。

 判事補の大森太郎。

 同じく、判事補の柳田小夜子

 里倉裁判長は、同僚たちの意見が聞きたかった。

 この異常な事態を、裁判所としてはどう対処すれば良いだろうか。

 最終的には、自分が判断しなければならないことだろう。しかし、同じ職責をもつ者として彼らの判断も聞いておきたかった。

「つまりその集団レイプに加わった10人の中学生たちが全員透明ビニールの手袋を持っていたということですね」

 大森裁判官が、里倉から聞いた話をまとめている。

「そういうことです」

「したがって、凶器に残っていた指紋の問題。つまり、被告人の飯岡瞬しか指紋が残っていなかったことが、このことにより不自然ではなくなった。

 その中学生の一人が犯人だとしても透明手袋をして凶器を振り回しても凶器に指紋が付かないわけだから金槌の本来の持ち主である飯岡瞬の指紋だけしか残っていなくても不自然ではなくなりますね」

「そうです。そうなると、検察側のほとんど唯一といって良い物的証拠が消えてしまったことになる」

「なるほど、東原みどりの事件では、凶器の指紋が決定打になっていましたからね。

 それが消えてしまったのでは、飯岡瞬の嫌疑は随分薄れることになりますね。

 疑う根拠が非常に小さくなる。

 東原みどりを殺害した犯人は、飯岡瞬かもしれないが、その10人の中学生の中の1人かもしれない。

 犯人は、まったく確定できない状態になってしまったわけですね」

「そうです。飯岡瞬は疑いが残るが犯人であるという積極的な証拠がない。

 これでは、東原みどり殺害に関しては被告人を有罪に出来ない」

「その、根拠は刑事訴訟法336条ですね。

 いわゆる、『疑わしきは被告人の利益に』の原則」

「そうです。我々裁判所としては、有罪の判決は出せない」

 里倉は、有罪が出せないことを2度に渡って口に出して強調した。

「しかし……」

 大森裁判官は手を前で組んだ。

 その手に十字架か数珠があれば、聖職者のように見える。黒い法衣がそれによく似合う。

 同じ裁判官でもある柳田小夜子は心の中で微笑んだ。場の雰囲気を読んで顔には出さないが……

 実際、大森裁判官は、自分の職責を聖職者だと思っていた。社会の秩序を保つための法の番人。

 それが、自分の仕事だと信じている。

「しかし、法秩序上どうなんでしょう。被告人をは員面調書において間違いなく自白したことになっています」

「それは、形式論です」

 柳田裁判官が、発言した。

「被告人本人がいうように、彼はその書類つまり員面調書が持っている意味合いを知りませんでした。

 検察官に言われるまま、署名捺印したに過ぎません」

「すると、柳田裁判官は、員面調書が自白としての効力がないと言われるのですか」

「ええ、そうです」

「しかし、検察官は書類がどういう性格のものであり、署名捺印をすることは何を意味するのかを、誠意を持って説明しているはずです。

 決して手を押さえつけて強制したものじゃない」

「それを、被告人が理解したかどうかはわかりません。実際彼は面倒臭くなって署名捺印したと言っています」

「そうすると、君は319条第1項を適用するべきだと?」

「そうです。今回の被告人に関しては特に扱いに注意すべきでした。

 彼は、精神疾患であり、その理解度に問題があります」

 刑事訴訟法319条第1項は、自白法則といわれるもので、任意性に疑いのある自白は証拠とすることができないとする原則である。

「う~ん、そこは大いに議論の余地がある。

 我々裁判所としては、検察から上がってくる調書を基に裁判を開廷するわけだからこれが疑われると何も出来なくなる」

「員面調書も疑いのある証拠として扱えば良いだけの話ではないでしょうか」

「しかし、慣例的に検察から上がってくる調書は採用する事になっている」

「そこが問題なのです。何の慣例でしょうか? 我々裁判所と検察の馴れ合いの慣例に過ぎません」

「それは言葉が過ぎる」

「いいえ、そうは思いません。日本の刑事事件における有罪率は99.9%です。

 これは、諸外国に比べて大きくかけ離れた数値です。

 裁判を開廷すれば、起訴された被告のほとんどすべてが有罪となるのです。

 検察は、確実に有罪に出来るものしか裁判所に上げません。検察から送致されることで実質的に裁判が終わっているのです。

 これは、異常な事態です。

 検察から上がってくる事件に、判事は黙々と有罪の判決文を書くことになります。

 それが検察との暗黙の了解事項になっているのです。

 これで、司法の独立性は保てるのでしょうか」

「君の言うこともわからないでもない。しかし、それでは法による秩序が保てなくなると思う」

「厳罰主義で臨んで、恐怖を喚起させる法による秩序ですか?」

「待ちたまえ二人とも。話が飛躍している」

 里倉は、大森と柳田の議論を止めた。

「現在の裁判における問題点がいろいろ顕在していることはわかる。

 しかし今の問題は『この裁判』の公判維持をどうするかということだよ。

 それを、君たちに相談しているんだ」

「だから私は、このまま公判を維持しましょうと言っているのです」

 大森が答える。

「『疑わしきは被告人の利益に』を無視してだね」

「……確かに、由々しき問題です。しかしそれをおしてでも法秩序維持のために……」

「私は反対です。最近の判決は『疑わしきは被告人の利益に』をないがしろにしている傾向があります。

 被告人は、『疑わしきは被告人の利益に』の原則の基に権利を保証されるべきです」

 柳田はそれに反論する。

 裁判官の中でも意見が割れてしまった……

 里倉は自分の肩にのしかかる重圧を感じていた。


 拘置所の面会室。

 佐々倉はガラス越しに、飯岡瞬を見つめている。

「そうですか。中学生たちは、ビニール手袋をもっていたわけですね」

「そうだ」

「僕はどうなります?」

「刑事訴訟法を勉強しているんだろ」

「そうですね。凶器に付いていた指紋が僕の指紋だけだったという証拠が意味を持たなくなってきます。

 中学生の1人が犯人だった時凶器に指紋を残さないようにビニール手袋をはめて犯行を行なっただろうから逆に犯人の指紋が付かないのは当たり前となります。

 そうすると、指紋が残っていたので僕が犯行を犯したという根拠がなくなってしまいます。

 なので、刑事訴訟法第336条の原則に従って僕に有罪を出すことが出来なくなります」

「そう、正解だ。

 『疑わしきは被告人の利益に』の原則に守られる」

「裁判はまだ続けるのですか?」

「それは、わからない。検察の判断次第だと思う。

 そして、それを里倉裁判長がどう判断するかによると思う」

「検察はどう出てくると思いますか?」

「難しいな。君の嫌疑が100%晴れたわけじゃないからな。

 公訴の取り消しは検事総長の決裁が必要だからね。

 検察も体面があるだろうから、おいそれとは出せないよ」

「でも、裁判所としてはみどりちゃん殺害犯としての、僕に有罪判決は出せない。

 『疑わしきは被告人の利益に』のために……

 確かに、微妙ですね。

 検察としては、他に選択肢があるのですか?」

「もう一つだけある」

「『無罪論告』ですか?」

「……驚いたな。そこまで勉強してるんだ。そうだ『無罪論告』だ」

 検察は、審理の最後に裁判官に被告人の罪の重さを論告求刑する。

 被告人の罪は、死刑または懲役何年に相当すると請求する主張だが、そこで今回の被告人は犯罪を犯してないので無罪の判決を出して欲しいと要求することを無罪論告という。

 つまり、被告人は罪を犯してないので無罪にして下さいと検察が自ら裁判所に願い出ることになる。

 そうすると、裁判所としては無罪判決を出して結審することになる。

「それって、検察が僕を無罪であると認定しなければならないのでしょ。僕の嫌疑が完全に晴れないとそれも、少し難しいですね」

「そうだね。しかし君は、犯罪を構成する決定的な証拠が無くなってしまっている。だから、有罪とするわけにはいかない。

 検察も裁判所も、今非常に扱いに困っているだろう」

「君は、非常に頭が良い。法律の捉え方も的確だと思う。それも勉強し始めて何ヶ月も経っていない。

 どうだい、司法試験の勉強をして弁護士をやってみる気はないかい」

「興味が、ありませんね」

 飯岡瞬は即答した。

「社会正義というものが信用できません。

 法律は穴だらけです。これで、裁判を行おうとするなんて……

 僕から見ると、狂気の沙汰です。

 何故これが、正義と言えるのでしょうか?

 それが不思議でたまりません」

「そうか……君からはそんな風に見えるのか。

 だから、それに苦しむ人間も大勢いるのだが……」

「ともかく、今回の件に関して僕としては……」

「何だ?」

「ちゃんと判決を貰いたいですね」

「そうか。ちゃんと犯人ではないという証明が欲しいということかね」

 飯岡瞬は、うつむいて床を見ている。

「検察が上告しないで、無罪の判決を貰いたいですね」

 俯いたままの飯岡瞬の肩のあたりを見つめていると、その肩が震えだしていた。

 飯岡瞬の表情が読めない。何を考えているのだ。

「上告しないで? ……

 『無罪論告』を検察が行う時は、上告は無いよ。結審して終わりになる」

「可能性が低いでしょう。検察としては僕を無罪にしたくない」

「それでも、君を有罪に出来ないのだから無駄な争いはしたくないはずだ」

 飯岡瞬が顔を上げた。

 涙が……出ているわけではない。

 笑っていた後が見える。笑っていた? 何に?

「君は何を考えている?」

 飯岡瞬のユニークな考え方にはいつも驚かされるが、今回は何を考えているのだ。

 まったく想像がつかない。

「『無罪論告』が一番良いのですが、検察が出さないでしょう。

 そうなると、僕の無罪が完全に証明されれば、無罪を勝ち取れる」

「いや、そうはならないよ。

 今回の裁判は、3つの事件。

 東原みどりの殺人事件。

 東原ゆかりの殺人。

 東原ゆかりの遺体損壊と死体遺棄。

 の複合裁判だ。

 この内、東原ゆかりの死体損壊と死体遺棄に関しては君は認めているので、少なくともこの件に関しては有罪判決となるはずだ」

「そうですね。それがあった」

 忘れていたのか? 死体遺棄を……

 彼の頭の中では、死体遺棄は犯罪の中には入らないのか?

 佐々倉はだんだん飯岡瞬に対して、不気味さを感じていく。

 彼は、何者だ。

 何を考えている?

 何か思惑があるのだ。佐々倉の思いもかけない思惑があるのだ。

「死体損壊と死体遺棄はどのくらいの罪になるのですか?」

 罪を恐れているのか? 彼が……

 あれほど、スマートに受け答えていたのに。

 その彼が、自分で認めている罪を恐れているのか?

 わからない。彼の神経が。彼の心の中が?

「いろいろな、判例があるからどう捉えられるかわからないが……

 通常の場合、自分が殺害した人間の死体に対して死体遺棄と死体損壊が行われるものだから、その複合刑となる場合が多い。

 単独の場合だとすると……

 刑法第190条の規定によれば、3年以下の懲役という事になっている。

 今回は、裁判員裁判なので、裁判員と裁判官の合議で決められる事になるが彼らがどう考えるかによることになると思うよ。

 君の主張。

 つまり、東原ゆかりを殺害した中学生に示唆を与えるためその死体から首を切断し中学校の校門に置いた。

 ということが、認められれば罪は問われないかもしれない。

 しかし、いままでそのような判例はないからね。

 今回はどうなるかわからない」

「つまり……みどりちゃんとゆかりちゃんの殺害はしていないことは認められたとしても、最大3年間は刑務所に収監されるという可能性も考えられるわけですね」

「最悪を考えると、そういうことになるかな」

「そうか…… そこは考えなかった」

 やはり考えなかったのか。

 死体を切り刻むという人間の最後の尊厳を損なうという行為を、彼は考慮していなかった。

 他者の思惑はまったく考慮せずに、自分の目的のみを優先したのだ。

「君は、何を狙っているんだ」

 飯岡瞬は、佐々倉の顔をガラス越しに覗き、光るようにニカッと笑った。

「検察が上告しない条件のもとの、『一事不再理いちじふさいり』です」

「何! 一事不再理!」

 思いがけない言葉だった。

 その時に、いろいろなことが佐々倉の頭の中を駆け巡った。

 最初から今までのことすべてを思い返した。

 そして、結論が出た。

 彼は……

 彼は、完全を計算したのだ。すべてを計算したのだ。

 そのための『演技』を続けているのだ。

 彼は『怪物』だ。

 そんなことが出来るのは、『怪物』だけだ。

 計算違いが発生したのは、死体遺棄と死体損壊に対してだけなのだ。

 それ以外の事柄は、彼はすべて計算していた。

 だから一事不再理などと考えるのだ。

 なんて奴だ。

 一事不再理いちじふさいりとは、ある刑事事件の裁判について、確定した判決がある場合には、その事件について再度、実体審理をすることは許さないとする刑事訴訟法上の原則である。

 つまり、殺人の疑いに対してその疑いが晴れたならば、再度同じ罪で裁判を起こすことは出来ない。

 2度目の疑いは無効にするということだ。

 ガラス越しに穴が開くほど飯岡瞬の顔を見つめた。

 そして、反吐を吐きたいほど気分が悪くなった。

『一事不再理だと……ふざけるな』

 佐々倉は、心の中で叫んだ。

 本来正義の判定であるべき、法律をもてあそんでいる。

 佐々倉の正義に関する思惑が根底から壊れていくことを感じていた。

 自然に足が立ち上がり、彼に何も言葉を掛けずに面会室から出て行く。

「弁護士さん。あなたは僕の弁護人ですからね」

 ドアを開ける時に飯岡瞬の脅迫めいた言葉が追いかけて来たが、今の佐々倉には聞こえなかった。

 『怪物』の弁護は出来ない。

 彼の弁護人は降りたい……


 裁判員たちの評議室に里倉裁判長が入ってきた。

 判事補の大森太郎と柳田小夜子も同行している。

 里倉裁判長の部屋から直行してきたらしい。

「皆さん、遅れまして申し訳ありませんでした。

 想定外の事態が発生しまして、どう対処すれば良いかを話し合っていたのです」

「何が起こったのですか?」

 酌田かずみが、興味深い目で尋ねる。何かがあったのだ。この裁判に影響を与える重大な何かだ。

 心底知りたいと、ここにいる誰もが思っているはずだ。

「ええ、そのことなんですが……

 その前に、皆様だけで評議されていたと思いますが、どのようになったのでしょう。

 結果を教えていただけないでしょうか?」

 里倉は、想定外の事態の事をはぐらかした。

 裁判員たちは戸惑う。自分たちの裁判でもあるのだ。それを評議するために裁判所に招集された。

 すべてを提示して貰わなければならないはずであった。

「まだ、本当の意味では結論は出ていないのですが」

 里倉が、自分たちの最も知りたいことを教えてくれないので、しかたなく鴨志田京一郎が、ビジネス手帳を取り出した。

 それを捲って、先程の評議の内容を詳しく里倉裁判長に説明する。

 里倉裁判長と大森、柳田の判事補は真剣にまた興味深げに、その内容を聞いている。

 やがて、鴨志田の説明が終わった。

「皆さんの評議内容を整理すると、

 河川敷の東原みどり殺害は、被告人の可能性が高い。

 倉庫内の東原ゆかり殺害も、被告人の可能性が高い。

 東原ゆかりの死体損壊と死体遺棄は、被告人である。

 という結果なのですね?」

 珍しく判事補の大森太郎が発言する。

「2件の殺人に関しては、まだ意見の別れるところもあります。

 しかし、概ね(おおむね)被告人の犯行であるという方向性で意見がまとまりつつありました。

 死体遺棄と死体損壊に関しては、動機はともかくとして被告人が行なったことは間違いないと結論します」

 鴨志田が、答える。

「なるほど。皆さんそれぞれ深い洞察をされているようですね」

 今度は、柳田小夜子が口を出す。

 酌田かずみは、微妙な空気の変化を感じていた。いままでこの2人の判事補は、審理中も裁判員との評議中も一言も発言が無かった。

 それが、今になってこの審理に積極的になったように思える。

 やはり、この裁判で何か衝撃的な事が起こったのだろう。それは何だろう?

 審理の流れを変えるほど重大なことなのだろうか?

「東原みどりの殺人事件においては、凶器の金槌に被告人の『指紋』しか無いことが強く彼の犯行を裏付ける。

 それに伴って姉である東原ゆかりの殺人に関しても、みどり殺害の関連性から被告人の犯行が深く推察される。

 という事ですね」

 柳田判事補が言葉を続ける。

「そうですね。東原みどりの河川敷の事件ですが……

 これについては、凶器に残っているのが被告人の指紋だけという動かしがたい事実があります。

 これがある限り被告人の犯行であることは動きません。

 犯行を犯す動機を考慮しても、彼の特異な性癖を考えた時、十分説得性を満たすものです。

 結論を保留された裁判員もいらっしゃいますが、大勢たいせいは被告である飯岡瞬の犯行を是認します」

 鴨志田は、評議の結果を伝えている。

 酌田かずみもこれについては黙らざるを得なかった。

「なるほど、やはり凶器の指紋が決定的な証拠だということですね。ならば」

「柳田君!」

 里倉裁判長は柳田判事補の言葉を続けさせなかった。

 彼女が次に言おうとしていることはわかった。

 先ほど小松原らの捜査陣が突き止めた、凶器の指紋に関する事実を裁判員たちに知らせようとしたのだ。

 しかし、里倉はまだそれを知らせたくなかった。

 裁判員たちは、その事実を知らないままに評議してきていた。

 そして、それは非常に公正な見方で成り立っているように思える。

 この裁判員たちは信頼がおける。それを前提にもう少し、彼らの評議内容を聞いておきたい。

 指紋に関する新しい事実の公開は、その後で話そうと思う。

「裁判員の評議内容を、もう少し聞いてみようじゃないか。

 彼らは、これまでの証拠でこの審理を深く追求しているようだから」

 柳田判事補も、里倉の企図に気づいた。

「そうですね。被告人の犯行の疑いの深さを知っておきたいですね。

 我々は、法曹界に身を置く人間としての感覚で考えてしまいますが、

 裁判員の皆さんの生活感覚でどのように感じられるのか。興味深いところです」

「鴨志田さん」

 大森判事補だ。

「東原みどりの殺害はともかくとして、東原ゆかりの事件を単独で考えた時、どのような結論になるのでしょうか」

「東原ゆかりの事件を単独で考えるのですか……」

 大森も裁判員たちの評議の結果に興味を持っている。

 東原みどりの事件は、指紋の問題から被告人の犯行が薄れてきている。

 では、第2の事件である東原ゆかりの殺害事件はどうなのだ。

 これが、強く疑われるようならば、法廷の審理はまだわからない状況になる。

 鴨志田は、またビジネス手帳を捲る。

「東原ゆかりの事件は、裁判員各自の考え方で分かれています。

 つまり、被告人の不在証明のことです。

 まず、被告人と被害者が殺害時刻に殺害場所にいたかと問題です。

 これを、証人として証言しているのは、多田茂吉証人と稲田十四朗証人です。

 多田茂吉証人は、被害者が殺害現場に入るところの目撃証人。

 稲田十四朗証人は、被告人が殺害現場に入るところの目撃証人。

 この2組の証人によって、検察側は2人が殺害時刻に同じ場所にいたことを証明しようとしていました。

 このうち、稲田十四朗証人に関してはその証言に信憑性がないと結論しました」

「信憑性がない……」

「そうです」

「稲田証人の証言は、被告人が殺害現場に入るのを見たというものでしたよね。そうすると、被告人は現場に行かなかったという結論になるのですか?」

 大森が追求してくる。

「いえ、そうはなりません。確かに稲田証人の証言の信憑性はありません。

 しかし、その時間に誰かを目撃したことは間違いないと思われます。

 それが、被告人でないとは言い切れないということです。

 重要なのは、この時間帯に被告人が主張しているように自分の部屋でパソコンを使っていたというアリバイが成立するかどうかということです」

「なるほど……被告人はインターネットプロバイダにパソコンが接続されていた記録が残っているはずなので、それを取り寄せてもらうことでアリバイが成立すると主張していますね」

「それなんですが。プロバイダに接続されているだけでは不在証明アリバイになりません」

「どういうことですか?」

「パソコンの電源を入れるだけで、プロバイダに接続されていることになってしまいます。パソコンの電源を入れて、どこかへ出かけても接続されているという記録となります」

「それでは、プロバイダの接続記録は証拠として成り立たないということですか?」

「それがそうとも言い切れません。

 もし、被告人がパソコン上で、何らかの操作をしていたのならその記録も残ります。

 その点を考慮すると、やはり、プロバイダの接続記録を待たなければ結論を出せません」

「そうですか。すぐには結論が出せないということなのですね。

 もしですね。そのプロバイダの接続記録の中で被告人がパソコンを操作していることが証明されればどうなりますか?」

 大森が唇を舐めながら尋ねた。

「その場合は、被告人の不在証明アリバイが成立します。

 したがって東原ゆかり殺害に関しては、被告人は無罪です!」

 鴨志田は、他の裁判員の顔を眺め回した。

 誰からも疑義は出ていない。その確認だった。

 頑強に飯岡瞬の犯行を主張している水谷吾郎も、それは認めざるを得ないと思っている。

 大森判事補はショックを受けているようだった。

 不在証明が成立する。被害者が殺害された時間に、被告人は自宅のパソコンで作業をしていた。

 したがって、被害者を殺害することは不可能となる。

「そうなると……第1の殺人である東原みどりの殺害に関しても犯行が薄れることになりますか?」

 裁判員たちは、顔を見合わせた。

 そこまで深く考察していなかったのだ。

 プロバイダの接続記録が届くまで結論を保留する、ということになったのでそれ以上の追求がされていない。

 飯岡瞬が、第1の事件である東原みどりの殺害の犯人であるならば、第2の事件の東原ゆかりの殺害の犯人として強く疑われる。

 逆に、東原ゆかりの殺害の犯人では無いと証明されれば、第1の事件の犯人という疑いは減るだろうか?

 評議の中で泉谷が言っていたような気がする。

 しかし、泉谷以外は、このことはまだ真剣に考えていなかった。

「そのことは、まだ評議の対象になっていませんでした」

 鴨志田が、正直に告げた。


 里倉裁判長が、法衣の襟を引き締める。

「ここで、皆さんにある事実を告げなければなりません」

 評議室の空気が変わった。

 今から、里倉が告げようとしていることがこの法廷における想定外の出来事なのだ。

 それは、裁判の流れを変えてしまうような大きなもののはずだった。

 酌田かずみが、ごくりと唾を飲み込んだ。

 誰もが固唾を飲んでいる。

「第1の殺人事件である、東原みどりの事件です。

 東原みどりの午後3時前の行動が問題になっていたのですが。

 小松原捜査官が報告したように、中学生たちの存在は確認されています」

 里倉は一同を見回す。

 誰もが里倉の次の言葉を待っている。

「この中学生たちが、東原みどりを強姦しようとしたことが判明しました」

「強姦!」

「強姦の事実はまだ確認されてはいません。

 重要な事は、彼らはその日透明のビニール手袋を所持していたということです」

「ビニール手袋ですか? 何故そんなものを?」

「当日の理科の授業で使ったものだそうですわ」

 柳田判事補が説明する。

「東原みどりを強姦しようとした中学生は何人ですか?」

「全部で10人です」

「10人!」

 酌田かずみが絶句する。

「そうすると……」

 鴨志田京一郎だ。

「凶器の金槌には、被告人である飯岡瞬の指紋しか残ってないが……

 透明のビニール手袋で犯行を成したとすれば金槌にその指紋が残ってないことになる。

 つまり…」

「つまり、東原みどりを殺害した容疑者は、

 飯岡瞬も考えられるが、その10人の中学生も考えられる。

 ということですか?」

 酌田かずみが、鴨志田の言葉を続けた。

「その通りです」

 大森判事補が眉間に皺を寄せる。

 これでは裁判の行方がわからなくなる。

 裁判員たちの評議も前提が壊れる。

 東原みどりの事件では、飯岡瞬の犯行の背景に様々な疑義があるが、凶器の指紋という決定的な証拠があるため彼の犯行は動かないと考えられていた。

 裁判員の評議でも、そのように結論が出かかっていた。

 それが、ひっくり返る。

 確かに裁判の行方を揺るがす想定外の事実の提示だ。

 飯岡瞬が100%犯人ということは絶対に出来ない。

 疑わしさはまだ残るが、それも容疑者の増大により相当薄められる。

 第2の事件は、第1の事件からの連関関係から構成されると考えるとき東原ゆかりの殺害事件の被告人の関与が随分薄れることになる。

「さて皆さん。中学生たちが透明ビニール手袋を持っていたという新事実を踏まえて、もう一度東原みどりの事件の再度、評議を行なっていただきたいのです」

 里倉裁判長が、裁判員たちの評議を聞きたがっていた。

 裁判員たちは一様に話の流れに驚いていた。

 前提が違いすぎる。

 被告人、飯岡瞬が主張するように東原みどりを強姦しようとした中学生のうちの一人が東原みどりを殺害したのだとすると、凶器の金槌には指紋が残らない。

 飯岡瞬の指紋だけがあったのは必然なのだ。

 当然、飯岡瞬だけを疑う事が出来ない。むしろ彼ではない可能性が高くなる。

「皆さん、いかがでしょうか?」

 鴨志田が促している。しかしその彼も少し疲れているようだ。

 鴨志田の東原みどりの事件の解説は、納得させるものが大いにあった。

 しかしそれは、究極的には金槌に飯岡瞬の指紋しかないという証拠に依存している部分が大きい。

 その前提が壊れてしまったのでは、彼が解説したすべてのことは崩壊してしまう。

 まったくの白紙状態に戻ってしまったのだ。

 他の裁判員も同様だった。

 鴨志田に促されても誰も発言が出来なかった。

 誰も発言しない長い時間が過ぎていく。


 瀬戸内海医科大学のカフェテラスだった。

 佐々倉良成は、精神科の浜田誠司准教授を訪ねていた。

 自動販売機で買った紙コップに入ったコーヒーはとても苦く、不味い。しかもぬるかった。

 浜田准教授は随分、彼を待たせていた。

一事不再理いちじふさいりか」

 彼は、思わず呟いた。

 一事不再理いちじふさいり……

 とんでも無いことを考える。

 自分が再度疑われたとしても、2度と裁判にかけられない方法を考えていた。

 そのために彼は、他の人間がどう考えるかを類推して、様々な計算を行い、最終的に自分を不可能犯にしようとしている。

 その悪魔のように賢い頭脳で……

 そんなことが、人間に可能なのか。

 佐々倉は、拘置所の面会室を出てからずっと悪寒に襲われていた。

 不可能だと思いたい。そんなことが可能な人間はいないと思いたい。

 しかし、彼ならば…… 飯岡瞬ならばそれが可能のような気がする。

 やっと、浜田准教授が現れた。

「すみません。随分お待たせしてしまったようですね」

 今日の浜田は白衣姿だった。この方がやはりさまになる。

「早速ですが……」

 佐々倉は切り出した……

「彼が…… 飯岡瞬が嘘をつく事が可能かということですか?」

 意外な質問だったらしい。浜田准教授は黙り込んだ。

 考えこむのが癖らしいことはわかっている。浜田が口を開くのを待っていた。

 長い時間、考え込んだ後、浜田は答えた。

「通常のアスペルガー障害の患者ならば、嘘はつけません。嘘をつく能力がない」

「アスペルガー障害の患者は嘘をつけないのですか?」

「そうです。アスペルガー障害の症状として本当の事しか言うことが出来ません。嘘をつくというのも、人間が獲得した能力なのです。

 アスペルガー障害の患者は、その能力に極端に欠けている。

 しかし、彼ならば……飯岡瞬ならば、それは、わからない」

「浜田先生は裁判の時に、彼の天才的な記憶力や、論理性の高さなどから対人障害であるにも係らず障害を克服したように『演技』することが出来ると証言されています。

 その『演技』と嘘をつくことが出来ないということは矛盾しないのですか?」

「そうです。明らかに矛盾します。彼の『演技』がどこまでなのか。それが判然としません。

 はざまで迷う部分が出てくるかもしれませんが、彼の場合は本当の事を敢えて喋らないということでかわしているのかもしれませんね」

「しかし、彼は冒頭陳述で二人の女の子の殺人を否認しました。これは、彼の内部心理として嘘なのでしょうか、それとも彼自身は本当にそう思っているのでしょうか?」

「わかりませんね。彼の中でそれが真理となってしまったのかもしれませんからね。そうなると、彼は自分では嘘を言っていないことになる……

 ところで、佐々倉さんは、飯岡瞬の弁護人ではなかったのですか?」

「彼は……」

 思い詰めた顔をしているのだろう。浜田は佐々倉の様子を心配し始めていた。

「彼は、『怪物』です」

「『怪物』? ですか」

「彼の、今の趣味は『刑事訴訟法』です。彼の天才的な頭脳は、それを突き詰めて自分に無罪判決が下るように画策しています」

「趣味が刑事訴訟法ですか? 彼らしい趣味かもしれないな。

 しかし、いくら頭脳明晰とはいえ、まだ幼い。彼の力でも無理なものは無理でしょう。彼は、法律の専門家では無いのですから」

「それでも、裁判は彼の思惑通りに進んでいるのです。このままでは、彼は無罪判決を勝ち取るでしょう」

 紙コップのコーヒーは、冷め切っていた。


 酌田かずみが重い沈黙を破った。

「ずっと何かに引っかかってました。

 それは、鴨志田さんが、被告人を犯人と仮定した時の話です。

 あのとき鴨志田さんは、被告人の動機を自分の猟奇趣味を満足させるためと仮定し、

 河川敷の周りを走り廻ったのは、高遠沙織証人以外に目撃者となるべき人間がいるかを確認したと言いました。

 しかし、やはりこのストーリーには矛盾があります。

 ひとつは、やはり高遠証人には目撃されてしまうのです。

 それが、明白なのに犯行に及ぶとは考えられません。

 もうひとつは、東原みどりを殺害した後、その場に15分間も留まっていたことです。

 これは、彼の特異的な考え方からすると、非常に、なんて言いますか……

 非論理的です。

 この2点から類推するならば、彼は罪を犯していません。

 被告人のいう理屈で考えるならば、犯行を犯せば疑われるのはまっ先に自分になるはずだからすぐに立ち去ろうとするはずです。

 また、写真を撮ったならばその時刻は午後3時5分過ぎになるはずです。

 鴨志田さんは、この点を、彼にとって都合が良い状況を作ったと説明されましたが、

 そう考えたとしても、彼の論理性とは合わない点が出てきます。

 金槌の指紋が決定打でなくなったことと考え合わせると、

 私は、被告人は東原みどり殺害の犯人では無いと考えます」

 大森は、深刻な顔を作った。やはり検察の起訴に無理があったと考えざるを得ないのか。

 これは、法秩序のほころびなのかもしれない。

 起訴するには早すぎたのかもしれない。

 単に執行手続の拙さから発生したことだと思いたい。

 頑強に飯岡瞬の犯行を訴えていた裁判員の水谷吾郎は、酌田の意見を否定したかった。

 そんなはずはない。奴が犯人だ。それ以外には考えられない。

 そう考えたかった。

 だが、彼が唯一頼りにしていた、凶器の指紋の件が崩れてしまった。

 それ以外に反論の糸口を持たない彼としては、沈黙を守らざるを得なかった。

「猫のことはどうなるんですか?」

 と、水原百合子がポツリと言った。

「猫のこと? 何のことですか?」

「水原さん、あなたまた」

 酌田かずみは、水原百合子がまた見当はずれなことを言い出したのかと思った。

「いや、待って!」

 鴨志田が、その酌田が小言を言おうとしている言葉をさえぎる。

「水原さん、続けて下さい」

「あの、ほら、高遠沙織さんが殺人を目撃したあとショックで気を失って」

 高遠証人の証言。誰もが遠い記憶のような気がしていた。

「気がついたあと現場を見ると、誰もいなくって。おかしいなと思って、現場に探しに行った」

 そう言えば、そのような証言だった。

「そして、東原みどりちゃんの死体ではなくて、お腹を切り裂かれた猫の死体を発見した」

「それは、高遠証人の勘違いで東原みどりの死体は下流側に置かれてあった。

 高遠証人は、上流側にあった猫の死体を勘違いしたということになりましたね」

 竹中が記憶をたどりながら、解説する。

「だけど、現実に上流側に猫の死体があったわけですよね……その猫は誰かに殺されたのですよね」

「あっ!」

 そうだ。実際に猫の死体があったのだ。だったら、猫は誰かに殺されたのだ。

 誰に? そう被告人だ。

「水原さん、あなた……」

 水原百合子は、また酌田かずみに叱られるかと思った。

「鋭いわ。その通りよ。猫は飯岡瞬にお腹を切り裂かれたんだわ」

「そうっす。辛抱できなくなった飯岡瞬は、やっと見つけた猫を捕まえて腹を引き裂いたっす。

 自分の猟奇趣味を満足させるために……

 これだったら、飯岡瞬が現場に15分も留まっていたことが説明できるっす」

 泉谷だ。

「いや、待ってください。それでも中学生の一人だったという可能性は残ると思います」

 鴨志田が食い下がる。彼は自分が立てた推理のほとんどが崩壊していることを自覚していた。

 だから、発言に自信がない。単に食い下がっただけだ。

「今度の場合は、それはありません。中学生の一人が猫の腹を切り裂いたのだとすれば時間的に考えるとそれは被告人に見られてしまうはずです。

 それにより、被告人は犯人を特定できることになる。それはあり得ません。

 被告人は今にいたるも、中学生の犯人を特定できていないのです。特定出来ているのであればそれを公表するはずです。

 猫の腹を切り裂いたのは、飯岡瞬です」

 酌田かずみが結論する。そうだ。この場合、猫の死体を作ったのは飯岡瞬だ。彼以外には考えられない。

「酌田さん。そうすると、東原みどりを殺害したのは?」

「被告人である飯岡瞬である可能性が高いです」

 酌田かずみは、きっぱりと言い放った。先ほどの被告人擁護説から一変している。

 しかし、こちらが真実だ。水原百合子の何気ない一言から、ここまでを類推した。

 何気ないことだった。なんでもない綻び(ほころび)だったはずだ。

 しかし……

 これは、墓穴とまではいかない。物的証拠がない。それにこれが証明されたからといって東原みどり殺害の直接的な根拠とするわけにもいかない。


 再び、沈黙が支配を始めようとしていた時、里倉裁判長が口を開いた。

「皆さん。裁判所として結論を出さなきゃいけない時が来たようです。

 第1の事件である東原みどりの殺害事件の評決を取りたいと思います。

 被告人である飯岡瞬が、東原みどりを殺害したか?

 評議としての議論は出尽くしていると思います。

 評決を出すに当たっては、すべて証拠証言に依らなければなりません。個人的な感情は排除し、犯行が合理的に行われたことを確認した上で結論を導いて下さい。

 彼は、『有罪』か『無罪』か。

 これを評決しなければなりません」

 裁判員たちは覚悟した。いよいよ結論を出さなければならない。

 自分たちの判断により、被告人の運命を変えてしまうかもしれない。

 その自覚は、裁判員おのおのの心の中に絶えずあった。だかたこそ、評議に関しては各自、真摯に臨んできたという自負もあった。難しい事件という感慨がある。

「ただし、裁判所としては、第1の事件である東原みどり殺害に関しては被告人を無罪とせざるを得ません」

「里倉裁判長!」

 大森判事補が、険しい顔で異を唱えようとした。

「大森君の意見も尊重はする。しかし、裁判所としての原理原則から逸脱するわけにはいかないと考える。

 たとえ、検察と対立することになっても……」

「しかしそれでは、法秩序の崩壊を招きます」

「里倉裁判長を支持します」

 柳田判事補である。

「裁判長」

「東原みどり殺害に関しては被告人を無罪とせざるを得ないつーことは、

 この事件の唯一の物的証拠である凶器が、被告人だけでなく、10人の中学生たちに使うことが出来たからっすか?

 つまり、疑わしさは残るけれどもそれだけでは決定できない。

 『疑わしきは罰せず』を適用するってことっすね」

 以外にも、泉谷だった。彼も、被告人の犯罪の立証に彼なりに揺れ動いた。

 そうすることで、彼はこの社会に対する認識を少しづつ改めてきたのである。

「そうです。

 刑事訴訟法第336条では、被告人が罪を犯したとすることについて合理的な疑いが残る場合には、有罪の判断をしてはならない。とあります。

 有罪の判断をするためには合理的な疑いを超える証明が必要です。

 はっきり申しまして、合理的な疑いを超える証明というところを裁判員の皆さんに期待しました。

 残念ですが、皆さんの飯岡瞬に対する疑わしさは合理的かもしれないが、物証が無い。

 状況証拠にしかなりません。彼だけにしか犯行が可能だったというところまで行きつかないのです。

 そうすると、第336条にしたがって、被告人を有罪とすることが出来ないのです」

「つまり、東原みどりの殺人事件は既に評決が出ているわけっすね」

「いえ、そうではありませんが、刑事訴訟法第336条の『疑わしきは被告人の利益へ』を考慮して評決して欲しいのです。

 裁判員裁判はあくまでも裁判官と裁判員の合議によって決められなければなりません。

 しかしまた、法に拠らなければならないのです」

 ここで、里倉は言葉を切った。法に依らなければならない。

 その言葉に、虚しさを感じる。

 確かに、飯岡瞬は疑わしい。本来はそれを突き詰めなければならないのだ。

 それが、裁判所の機能のはずだった。しかし……今はそれが出来ない。

 裁判所は正義の決定機関のはずだが、正義は裁かれるのか。

「それでは、被告人である飯岡瞬は『無罪』とされる方は手を挙げて下さい」

 裁判員たちにも。里倉の気持ちは伝わっている。しかし、評決は出さなければならない。

 法にそむけないとしたら、手を挙げるしか無い!

 竹中 博之が真っ先に手を挙げた。

 酌田かずみも挙げる。

 鴨志田 京一郎もゆっくりと手を挙げた。

 里倉は、泉谷を目で促す。

 赤い髪をかき分けて、泉谷 順が手を挙げた。

「私、保留します」

 水原百合子は、答えを保留した。とても決められない。

 彼女はこの裁判にいい加減な気持ちでたずさわって来たことを嫌というほど実感していた。

「この場での保留は許されません。はっきり決めて下さい」

 里倉裁判長が厳しく言う。

 評決なのだ、先送りは許されない。

 仕方ないという様子で、水原百合子が手を挙げた。

 残っているのは、水谷吾郎だけだった。

 彼は、額に脂汗を滲ませている。

「嫌だ、俺は嫌だ。犯人は奴だ。奴以外にはいない」

「では、水谷さんは被告人が犯人だという根拠を示して下さい」

 里倉は、恐ろしいほど冷静な態度で水谷を攻める。

「奴は、アスペルガー障害という心の病で人を殺してもその痛みがわからない。だから、平気で人を殺す」

「アスペルガー障害というのは、具体的な証拠となりません。彼が東原みどりを殺害したという明白な証拠を示して下さい」

「奴は、東原みどりを殺したあと、まだ飽き足らず猫を殺して河川敷に置いた。こんなことが出来るのは奴しかいない」

「残念ながら、状況証拠に過ぎません。もっと積極的な証拠が必要です」

「……」

 水谷は歯を噛み締めているようだった。歯の軋む音が周りにも聞こえる。

 そして、渋々という様子で手を挙げた。

 判事補たちはどうだろう。

 柳田判事補は既に手を挙げていた。

 大森判事補だけが残っている。

「疑わしきは被告人の利益に……」

 彼はつぶやいた。そして、仕方がないという様子で、ゆっくりと手を挙げる。

「私も、被告人は無罪とします。

 そうすると、全員一致で『被告人は無罪』を支持したことになります。皆さん、この結果でよろしいですね?」

 皆、それぞれ言葉に言い表せないような顔をしている。

 しかし、覆すだけのものがなかった。

「わかりました。これを判決文に起草することにします」

「ところで……」

 里倉裁判長は、皆の顔を睨め回す。

「ここから先は、裁判とは関係ありません。何も皆さんを拘束するものはありません。

 そう考えて下さい。皆さんの気持ちを聞きたいのです。

 その上で、薄い根拠でも状況証拠でも極端に言えば印象だけでも構いません。

 被告人、飯岡瞬は『有罪』であるとされる方は手を挙げて下さい。

 この結果はどこにも反映されません」

 真っ先に、水谷が手を挙げる。

「裁判の結果とは関係ないのですね」

「そうです。裁判に関係しません。あくまでも皆さんの個人的な飯岡瞬に対する疑いの深さが知りたいのです」

 ばらばらという感じで、酌田かずみと泉谷順、そして鴨志田が手を挙げた。

 水谷百合子も手を挙げる。

 竹中は? 竹中 博之も手を挙げた。

 里倉裁判長は、同僚の判事補を見る。

 2人とも手を挙げていた。

「なるほど、わかりました。こちらは全員一致で飯岡瞬は疑わしいということです」

「全員一致ということは、裁判長も疑わしいと考えているということですね」

「はい。私の一票も彼が疑わしいと思っていることに投じます」


「次に行きます。第2の事件、東原ゆかりの殺害事件です」

「東原ゆかりの事件に関しては、様々な要素を検証しましたが、結局当日被告人が殺害時刻にパソコンで作業をしていたかという不在証明に集約されます」

 鴨志田が要約を説明する。

「そうですね。すべてはそこに掛かっている。そのためにプロバイダの接続記録を取り寄せて検証するということでしたね。

 プロバイダの接続記録そのものは、パソコンの電源を入れてさえいれば接続されていると記録されるので、電源を入れっぱなしでパソコンを離れても犯行が可能ですね。

 しかし、接続記録には実際にその時間にインターネットを使って作業をしているのであれば、その記録も残るのでしたね」

「そうです。プロバイダからの返事を待たなければ、何も決めることが出来ません」

 ノックの音がする。

 裁判所事務官が顔を出した。

「里倉裁判長」

 プロバイダの名前が入った封筒を差し出した。

「プロバイダの接続記録が届いたようです」

「里倉裁判長! それは明日の法廷で開示されるべきです」

 大森判事補が、今から里倉が行おうとしていることを非難する。

「ええ、本来はそうあるべきです。しかし、第2の事件、東原ゆかりの殺害事件に関しては既に極まっています。

 このプロバイダの接続記録にすべてがかかっている状態です。

 私の責任で、この接続記録を裁判員及び判事補に開示します」

 里倉は、封筒の中から資料を取り出して竹中裁判員に渡す。

「竹中さん。この中ではあなたが一番適切だと思います。お願いします」

「わかりました」

 竹中は、資料を受け取ると書類を一枚一枚検証する。

「あっ!」

 思わず声が出てしまった。

「どうしました? 竹中さん」

 竹中はまたしばらく熱心に書類を読んでいる。皆はその書類と竹中の顔色を眺めていた。

「ええ、説明します。

 被告人飯岡瞬の使用するパソコンは、平成22年11月12日の午後1時10分にインターネットに接続されました」

 竹中は、書類で開始時刻を示す。

 そして、これが切断されたのは、午後7時20分です」

「それは、パソコンの電源が入れられてから、切られるまでの時間ということになりますね」

「そういうことになります」

「午後3時から4時の記録はどうなっているのですか?」

「彼は、午後3時30分から午後5時10分まで、チャットで誰かと会話しています」

「チャット? それは何ですか?」

「仲間同士が集まって、インターネット上で会話をすることです」

「会話をする? パソコンでですか?」

「会話するといっても、文章をキーボードから入力するのですが」

「内容はわかりますか?」

「はい。彼、つまり飯岡瞬のハンドルネームは『シュンシュン』です」

「ハンドルネームって何ですか? 『シュンシュン』とはまたふざけた名前だ」

「ハンドルネームは、チャット上の便宜的な名前です。呼び合うのに名前が必要なので……

 インターネット上なのでなんでもありです。

 会話の内容は、『ベジタ君』という人が『シュンシュン』にインターネット上のプログラムの作り方を教えて貰っています。

 『シュンシュン』はこれに対して、丁寧に教えてあげています」

「それは結構高度な事なんですか?」

「いいえ、『ベジタ君』の方がほとんど素人に近く、『シュンシュン』がそれに対して、懇切丁寧に他のページを参照させたりしながら教えてあげている構図ですね」

「間違いなく午後3時30分から午後5時10分までチャットが行われているのですね」

「この資料が正しければ、間違いありません」

「何かトリックの可能性は?」

 竹中は、自分で考え得る様々なパターンを考えた。そして、

「私が知るかぎりトリックはありません。プロバイダが故意に架空の記録を入れたとも思われません。

 それに、他への影響が大きいのでサーバーの時間の改ざんは不可能です。

 彼は、午後3時30分から午後5時10分までパソコンの前に間違いなくいました」

 ため息の切れる音が部屋のあちこちで聞こえる。

「それを見ることが出来ますか?」

 柳田判事補だった。

「ええ、ネットに繋がったパソコンがあれば可能ですが……」

「我々、裁判員は駄目なのでは?」

 裁判員は裁判期間中は外部との接触は禁じられていた。インターネットもそれに含まれる。

「皆さん、私の部屋へ参りましょう」

 柳田小夜子が立ち上がった。

「柳田君! それはマズイだろう」

 大森判事補が、柳田をとがめるが、

「今日、すべてをはっきりさせましょう」

 柳田は、大森の非難を無視して先に立って部屋を出ていった。

 他の者がぞろぞろとそれに続く。


 裁判官柳田小夜子の部屋。ノックもそこそこに柳田小夜子が入って来る。

 事務官が自分の席に座っている。席にはパソコンが載っていた。

「池永君。パソコン貸して頂戴」

 柳田は、返事も待たず、さっさと池永の席を占領した。

「竹中さん。お願いします」

 竹中は、パソコンの前に座る。

「ええと、チャットのアドレスはこれだから……」

 竹中は、インターネットブラウザにチャットのアドレスを入力する。

 チャット画面が起動した。

「これが、飯岡瞬が見ていたチャットです。

 それで……

 これが、『ベジタ君』と『シュンシュン』が行ったチャットの内容です。

 彼らのチャット内容が画面に表示されている。

 一つ一つの会話文のあとに、日付と時刻が入っていた。

 確かに午後3時30分から午後5時10分まで間断なくチャットの会話文が続いていた。

「『シュンシュン』というのは間違いなく飯岡瞬なのですか?」

「ええ。飯岡瞬のIPアドレスと、この『シュンシュン』が一致します。

 この『シュンシュン』は間違いなく飯岡瞬が使っているパソコンです」


 全員が評議室に戻ってきた。

「これでは、評決するまでもありませんね。被告人である飯岡瞬の東原ゆかり殺害時の不在証明が確定したことになります」

 里倉が続ける。

「被告人は無罪です」

 里倉の断定に誰も反論出来なかった。

 飯岡瞬は、東原ゆかり殺害時刻には自分の部屋でチャットを行なっている。

 それが、プロバイダの接続記録という物理的証拠で証明された。

 疑うべくもない事実だ。

「反対意見の方はいらっしゃいますか?」

 誰からも疑義は出ない。

 里倉は竹中に念を押すが……

「竹中さん、本当にトリックの可能性は無いのですね」

「私に念を押されても困りますが……私の知る限りトリックはありません。

 警察の方にサイバー犯罪専門の部署があると聞きます。あとはそちらの方で詳しく調べて下さい」

 確かに、竹中に責任を押し付けるわけにもいかない。

 ともかく飯岡瞬の不在証明は為された。東原ゆかり殺害は彼では無い。


「では次に……

 東原ゆかりの死体損壊と死体遺棄事件です」

「これは、犯行が明白です。死体損壊と死体遺棄ともに犯人は飯岡瞬です。彼自身が犯行を認めています」

「そうですね。誰がそして、どうやったかは明白です」

「何のためにっていうのはどうでしょうか?」

「真犯人である、中学生に示唆するため? または、自分の猟奇趣味を満足するため?」

「どうでしょうか? それによって量刑が変わってきます」

「東原ゆかりの殺害は、飯岡瞬ではないのだから、彼が主張していることはすべて正しいのではないでしょうか」

「つまり、真犯人に示唆を与えるためですね」

「そうです」

「しかし、鴨志田さんが言われてように、何故、飯岡瞬は小笠原倉庫に行ったのでしょうか? まるで死体がそこにあることを知っていたように……」

「それについては、偶然としか言いようがありません。

 彼は、東原ゆかりを殺してないのだから、殺害現場がどこなのかも知らないはずなのです」

「偶然の一致としてしまうわけですね」

「他に考えようがありません」

「皆さん、それで良いですね」

 あれほど深く考察した評議はどうなるのだ。

 結局、飯岡瞬は殺人を犯していない。死体を傷つけたのみだ。

 それも、彼なりの理屈により奇抜ではあるが立派な理由がある。

 彼は、東原ゆかりの死体を使って、真犯人をあぶり出そうとしたのだ。

 そう考えると、彼の行動は一般常識から逸脱しているが正当性があることになる。

「里倉裁判長、死体損壊と死体遺棄の量刑はどのくらいですか?」

「普通は、自分が殺害した人間の死体に対して死体遺棄と死体損壊が行われるものだから、その複合刑となる場合が多いのですが……

 今回のように、死体遺棄と死体損壊が単独で行われたというケースは珍しい。

 刑法第190条の規定によれば、3年以下の懲役という事になっています」

「里倉裁判長ならば、どのように量刑を判断しますか?」

「彼の主張する死体損壊の目的を正当とすると、減刑して1年の懲役。刑の執行を2年猶予する」

「1年の懲役、執行猶予2年ですね」

「そうです」

「皆さんどうでしょう?」

 誰も答えなかったが、疑義は無い。というか、東原ゆかりの殺害は飯岡瞬ではないのだから死体損壊と死体遺棄は単独で行われたと考えるしか無い。そうすると量刑に関しては経験豊かな里倉裁判長の意見を尊重するしかない。

 裁判官も裁判員も疲れ果てていた。

 これ以上の評議は無理だ。

「では、今日はここまでといたしましょう」

 裁判官と裁判員たちにとって長い一日がやっと終わった。


 翌朝の里倉裁判長の部屋。

 弁護人の佐々倉が、里倉裁判長と話しあっていた。

 里倉は、プロバイダの接続記録を佐々倉に提示した。

「この記録により、被告人は午後3時30分から午後5時10分まで、チャットとかいうもので誰かと会話していたことがわかっています。

 したがって、この記録は被告人は現場にいなかったことの不在証明となります。

 被告人が、被害者を殺害することは不可能。東原ゆかりの事件に関しては被告人は無罪です」

「この記録は間違いないのですか?」

「証明証拠としては十分有効だよ」

 何かがある。彼、飯岡瞬のことだ。絶対に何かがあるはずだ。絶対に何かのトリックを使っている。誰にも悟らせない様なトリックを……

 そして、それはうまくいった。

 東原みどりの殺害。東原ゆかりの殺害。この2件の殺人に関して、飯岡瞬は無罪になるはずだ。

 法的解釈と人間心理の動きを緻密に計算した結果だ。また、物理的な証拠証明も完璧に残されている。

 彼を犯人とする根拠はすべて失われている。

 なんて奴だ。佐々倉は戦慄を隠せなかった。やはり彼は『怪物』だ。

「そういえば、猫の件があったな」

 里倉が、ぽつりとつぶやくように言った。

「猫?」

 それは水原百合子が発見した、ちょっとした穴だった。

 高遠沙織が目撃した、腹が切り裂かれた猫の死体。

 この死体を作ったのは誰か?

「あっ!」

 佐々倉は、思わず口に出す。

 飯岡瞬だ。猫を殺して腹を引き裂きその死体を晒したのは、飯岡瞬だ。

 彼は、自分の猟奇趣味を辛抱出来なくなったのだ。

 その間が約15分。15分間の謎が今わかった……

 その後、東原みどりの死体写真を撮り、現場から立ち去った。

 こういう展開だっただろう。

「しかし、残念ながら積極的な証拠となり得ない」

 里倉は言う。

 確かに、状況証拠にはなるが……

 東原みどりを殺害したという直接的な証拠ではない。

 くそっ。

 詳しく見ていけば、この様なほころびを彼はたくさん残しているだろう。

 しかし、それらは全体から見ると小さく瑣末なことであり、それぞれが連携していない。

 直接的な証拠としては不十分である。

 飯岡瞬は、検察と警察が見込み捜査をしている事に気がついた。

 そして、刑事訴訟法の本が与えられた時、それを逆手に取って自分に掛かる嫌疑をひっくり返すことが出来ることに気がついた。さらに、論理的な計算をして自分を無罪にするように巧み(たくみ)に法廷を誘導したのだ。

 極めつけに、二度と自分を同じ罪で裁くことが出来ないように一事不再理いちじふさいりを貰おうとしている。

 彼は、完璧だ。

 こんなことは、普通の人間には出来ない。飯岡瞬という『怪物』だからこそ出来ることなのだ。

「裁判長、私は飯岡瞬の弁護人を……」

 降りたいと思います。と言おうとした。その時、

「里倉裁判長!」

 高峰検察官が急いだ様子で入って来た。

 二人の検察官を引き連れている。

 なだれ込んできたという感じだ。随分急いだらしい。乱れた息遣いがそれを示していた。

 時間は、午前9時ぴったりだった。高峰検事は律儀に里倉裁判長との約束の時間を守ったようだ。

 佐々倉は、弁護人の退任を里倉裁判長に言いそびれてしまった。

 高峰の顔に焦燥の色が出ている。検察庁で随分と討議を重ねたらしい。ひょっとすると徹夜の討議になったのかもしれなかった。

「検察庁の菅中すがなかです」

「牧田です」

 二人は名刺を里倉に差し出す。

「あなたは?」

「今回の弁護人の佐々倉です」

「弁護人! ですか……」

 菅中という検察官は、牧田を振り返った。

 どうしようかと聞いている目だ。

「申し訳ないが、少し席を外してもらえないだろうか。検察と裁判所で詰めておきたい事なので……」

 もちろん、佐々倉としては検察の出方に非常に興味がある。しかし、こう言われてしまえば席を外さないわけにはいかない。

「わかりました。では法廷で」

 佐々倉は部屋を出ようとした。

「いや、佐々倉弁護人にも聞いてもらいましょう。我々、検察の決意ですので」

 と、高峰検察官が乱れた息遣いで強く主張した。

「しかし君……」

「いいでしょう。弁護人も同席して下さい」

 牧田という検察官が、佐々倉の同席を認めた。


 牧田が話し始める。

「我々検察の本法廷への見解を申し上げます。

 まず、『公訴取消』を検察としては申請いたしません。

 また、『無罪論告』も行いません。

 検察としては、この公判をこのまま維持したい」

 『公訴取消』とは、検察側から起訴を取り下げて犯罪事実が無かったことを認めるということだ。検事総長の決済が必要なのは前にも述べた。

 『無罪論告』は、論告求刑で検察側から被告人は無罪ということを論告するというものである。

 どちらも、検察として被告人の無罪を認めるということになる。

 検察側としては、この2つのどちらも選択しないという。

 そして、このまま裁判を続けるというのだ。

「それは、つまり……」

 それは、つまり……裁判所にどうしろというのだ。

 考えたくは無いのだが、判決を捻じ曲げろというプレッシャーをかけているのか。被告の弁護人も同席しているというのに。

「いえ、誤解されては困ります。裁判所は裁判所として公正な判断をしていただきたい。

 それに対して検察から何も云うことはありません

 裁判所の判断を尊重します」

「336条のことはどうするのです?」

「『疑わしきは被告人の利益に』の原則ですね……

 もちろん、それを含めた上で判断は裁判所側に委ねます」

「そうなると、被告人を無罪にせざるを得ないが……」

「ええ、そうですね……」

 そう言って、牧田という検察官は黙りこむ。

「つまり、検察は、今回の事件に限り裁判所の独立性を容認するということですね。

 裁判所が独自にどんな判断を下そうと、それに従うということなのですね」

 里倉裁判長が念を押す。

 日本の裁判制度においては、検察と裁判所はそれぞれ独立した立場で被告人をあつかうことが建前だ。

 しかし、それはあくまでも建前であって、刑事裁判の99.9%が有罪となることでわかるように実質上は、検察と裁判所は1枚岩となってしまっている。

 検察と裁判所は連携しているのである。

 それを端的に表している例として判検交流はんけんこうりゅうがあった。

 判検交流とは、一定期間、裁判官が検察官になったり、検察官が裁判官になったりする人事交流制度である。

 これでは、検察と裁判所が一体だといわれても仕方がない。

 検察と裁判所の独立をうたう建前からは、どう考えても逸脱した制度だ。

 無罪を出す裁判官は変わり者とされ、地方へ飛ばされてしまう。そのような現状があるのだ。

 そのような現状であるにもかかわらず、今回の事件に限り検察は、裁判所が独自に判断する判決を尊重するという。

 結果を裁判所に委ねようというのだ。

「ええ。その通りです。

 裁判所の出した判決を尊重します。

 その代わり、我々検察からは、被告人を無罪とは認めません。

 あくまでも殺人の被告人として争います」

 里倉裁判長の問いかけに対しては、高峰が答える。

「裁判所としては『疑わしきは被告人の利益に』の原則にしたがって、被告人を無罪とせざるを得ない。

 また、東原ゆかりの殺害に関しても、この証拠により無罪を与えることになる」

 里倉は、プロバイダの接続記録を検察官たちに示した。

 検察官たちは、それを検証する。

「結果は明白だと思うが……」

 どういう茶番なのだ、これは。どう考えても、検察にとっては、圧倒的に不利だ。

 裁判は検察の敗訴となる。

 それでも良いと検察は考えているようだ。

 検察でも裁判所でもない、傍観者としての佐々倉は考えていた。

 そうか。検察の体面だ。

 『公訴取消』や『無罪論告』は、検察自らその失敗を認めることになる。

 それは出来ない。

 そうすると、たとえ不利でも最後まで争うという選択肢しか残らないことになる。

 それでも、最後まで争ったという事実が残るのだ。

 検察としての姿勢を残しておきたかったのだ。

 検察の体面の問題なのだ。

 やはり、茶番劇だ。結果が見えている。

 検察も裁判所もそして弁護人としての自分も、飯岡瞬にいいように踊らされている。

 たぶん、これは彼の描いた筋書き通りの結果なのだ。

「わかりました。予定通り今日の法廷を開廷します。

 最後の証拠調べを行なった後、検察側の論告求刑。弁護側の最終弁論を行います」

 里倉は、検察の思惑も考慮した上で公判を維持する事を決心した。


 公判3日目。

 証人として、小松原捜査官が証言台に立つ。

 彼は、東原みどりが10人の中学生たちに強姦されかかったこと。

 また、当日は理科の実験で使用した透明のビニール手袋を全員が所持していたことを証言した。

 傍聴人席では驚きの声が上がっていた。

 新事実の提示となる。

 これにより、東原みどりを殺害することが出来るのは、凶器に指紋がある飯岡瞬だけではなく、ビニール手袋を使って凶器に指紋を残さず殺したかもしれない中学生たちも容疑者に加わることになった。

 傍聴人席から、また人が走り出ていった。

 マスコミ関係者だろう。

 傍聴人の中に戸惑っている人間たちがいる。傍聴人席に座る者たちは一様に戸惑ってはいるのだが、その中でも自分たちの去就として受け止めている者。

 被害者の東原みどり、ゆかりの両親と被告人の飯岡瞬の両親だ。

 東原の両親はこれまで、飯岡瞬が犯人だと信じ彼を憎むことで神経を持たせてきた。

 飯岡瞬が犯人であることは、明白な事実であると捉えていたのである。

 ここに来てそれがひっくり返りそうだ。

 気持ちをどこに持っていけば良いのだろう。

 飯岡瞬の両親もそれに関しては同じかもしれない。

 今まで、息子のしでかした罪に恐れおののいていた。大それた犯行だ。

 とても償うことは出来ない。そう思って来た。

 ここに来て、息子が犯人では無い可能性が出てきた。

 親としては、息子の犯行では無いと思いたい。

 そして、それは真実なのかもしれないのだ。

 次の証人は、被告人である飯岡瞬が加入するインターネットのプロバイダサービス会社の担当者だ。

 証拠物件として、飯岡瞬のパソコンの接続記録が提示された。

 彼は、飯岡瞬のパソコンが午後1時10分から午後7時20分まで接続されていたことを証言し、その中で

午後3時30分から午後5時10分まで、ハンドルネーム『ベジタ君』という者と会話形式でチャットと呼ばれるものをしていたことを証言した。

 ここで佐々倉は、少しだけ抵抗を試みた。トリックの可能性である。

「そのチャットというものなのですが、それはどういうものなのですか?」

「わたくしどものプロバイダでは、サービスの一環として様々な趣味の同好の方が集まれる部屋をネット上に開設しておりまして、チャットもその部屋に付属している機能です」

「被告人が所属している部屋はどのような種類のものでしょうか?」

「コンピュータのプログラムを作成する方々が集まる部屋です。

 この部屋では、飯岡瞬様は常連のお客様でございまして、コンピュータのプログラミングに関してはとても詳しく、部屋の中ではリーダーシップをとっていただいているような存在です」

「なるほど、常連だったわけですね」

「はい」

「会話の内容に不自然なところはありませんか?」

「お客様同士の会話となりますので当方としては極力干渉しないようにしておりますが……

 この『ベジタ君』という方は、プログラムを作成するということに関してはほとんど素人の方のようでして、それに対して飯岡瞬様は我慢強く、また噛んで含めるように説明されているように思われます」

 我慢強く、噛んで含めるように……

 これは、飯岡瞬が最も嫌うことではないのか?

 それを敢えてしているということは、アリバイ工作の匂いがする。

「被告人がチャットを行うには、自分の部屋のパソコンを使うしか方法は無いのですか?」

「いえ、持ち運び可能なノート型パソコンでも無線端末としての機能があれば書き込みは可能です。しかし……」

「しかし、何ですか?」

「このチャット記録に関しては、飯岡瞬様は自宅のパソコンを使用されています」

「何故そう言い切れるのですか?」

「IPアドレスです。わたくしどもに登録いただいた時の固定回線のIPアドレスと一致します。

 飯岡瞬様はこの時は自宅のパソコンを使用していたことは確実です」

「何かトリックの可能性はありませんか?」

「そう言われるかもしれないと思いまして、サーバーマシンの異常を確認しましたが特に異常はありませんでした。

 トリックの可能性としては、ハッキング。つまりサーバーマシンに侵入してチャットの記録を書き換えるということが一番に考えられますが、そのような事実はありませんでした。

 次に考えられるのがサーバーマシンの時間の改ざんですが、これはわたくしどもに繋がっているすべての端末に影響します。やはりそのような事実はありませんでした。

 弊社のセキュリティは非常に堅固に出来ておりまして、今まで破られたことはございません」

 担当者は、自信を持って答えている。

 やはり、駄目か。飯岡瞬がこんなところに穴を作るわけがない。ましてや自分の最も得意な分野である。

 裁判官と裁判員、そして検察官は、弁護人の様子がおかしい事に気がついた。

 被告人のアリバイの裏付を取ろうとはしていない。

 むしろ逆にアリバイを崩そうとしているように感じられる。

 これは、どういうことだ。法廷戦術の一環なのか?


「検察官は、論告求刑を行なって下さい」

 すべての証拠調べは終了した。後は検察側の論告求刑と弁護側の最終弁論が残っているだけだ。

 論告求刑とは、検察官が被告人が犯した犯罪に適用される法律についての意見を述べ、その犯罪に相当と考える刑罰の適用を、裁判所に求めることである。

 検察官の高峰が立ち上がる。

「平成22年10月12日。小学6年生の女の子が、金槌で頭を割られて殺害されました。

 その犯人は、その後も何度も金槌を振り下ろし続け後頭部の骨をバラバラにするという残虐な方法を取っています。とても無惨な死体を残しました。

 何故ここまでやらなければならなかったのでしょう。

 単に殺すだけでは満足できなかったのでしょうか」

 高峰は、法廷の中央まで歩み出る。

「また、その1か月後の11月12日。

 その姉である16歳の女の子が、心臓付近をメッタ刺しに刺され出血多量で死亡しました。

 そしてその死体から首と胴体をのこぎりで切り離すという、死者に対する最後の尊厳まで奪い取る行為を行い、さらにその頭部を中学校の校門に置いて、それを観る者に恐怖を与えました」

 高峰は、被告人席の飯岡瞬を振り返る。

「それらすべての犯行は、被告人である飯岡瞬が行なったものであります。

 まさに戦慄すべき犯罪です。

 被告人は、一度はその罪を認めています。

 そしてそれこそが、真実なのです。

 二人の女の子の命を奪った罪は非常に重い。

 よって、その罪は自分の命をもってあがなわなければならないと考えます。

 検察官は被告人を『死刑』が相当であると考えます」

 『死刑』を求刑してきた。

 未成年の女の子2人を残虐な方法で殺害し、死体の尊厳を傷つけたとするならば、その代償としては妥当な求刑であろう。

 それが、事実ならば……


「弁護人は最終弁論を行なって下さい」

 佐々倉は立ち上がった。どうする? この被告人の弁護は放棄したい。

 先ほど、里倉裁判長の部屋で弁護人を降りたいという申し出を言いそびれてしまった。

 したがって、自分はまだ被告人である飯岡瞬の弁護人であった。

 弁護人は被告の弁護をしなければならない。

 自明の理だ。それに、たとえ自分が放棄して弁護人が交替したとしても、この裁判の結果は変わらないだろう。

 ここまで持ってきたのは弁護人としての自分なのだ。

 弁護人としてここまでよくやってきたと思う。

 それが……正義ならば。

 正義が行われるならば……

「この法廷の審理に於いて、そのほとんどは『藪の中』です。

 被告人は、その犯罪を犯したかもしれないし犯さなかったかもしれない。

 しかし、真実はその『藪の中』にこそ求められるべきかもしれません。

 弁護人は、その答えを持っていません。

 法廷では正義が裁かれなければなりません。

 東原みどりを殺害したのは被告人なのか?

 東原ゆかりを殺害したのは被告人なのか?

 真実はどこにあるのか。

 それは、今でも『藪の中』にいる被告人にしかわかりません。

 ここは、被告人自身の弁明を聞いてみたいと思います」

 里倉は、仰天していた。これは弁護人としての最終弁論ではない。

 弁護人としての役割を放棄して、自分を第三者の立場で話している。

 どうすれば良いのか。手続き上これが許されるか。

「弁護人は来て下さい」

 佐々倉は、裁判長席に向かう。

「もっと早く気付くべきでした。今日のあなたは朝からすこしおかしな態度だった。

 どうしたのですか?」

「私は、彼の弁護人を降りたいと言うつもりだったのですが、言いそびれてしまいました」

「弁護人を降りたい! 裁判の最終段階に入ってからですか?。理由は何ですか?」

「被告人との信頼関係が壊れたからです。私自身に疑念が生まれました。

 彼は、この事件の犯人かもしれないと……」

「……」

 そうかもしれない。佐々倉の気持ちもわかるような気がする。

 しかし、ここで弁護人を降りられては非常に困る。

「ええ、わかります。

 今、ここで私が弁護人を降りて他の弁護人に代わったとしても裁判の結果は変わらないでしょう。

 弁護人交代の手続きをする分の時間的なロスが発生します。

 だから、最後まで、被告人の弁護人としての職責は果たすつもりです。

 しかし、最終弁論は被告人自身の口から聞いてみたいと思います。

 いかがでしょうか?」

「わかりました。認めましょう。私も被告人自身から聞いてみたい」

 佐々倉は、弁護人席へ戻る。

「被告人は、証言席へ」

 飯岡瞬は、証言台に立つ。

「被告人は、自身の口で東原みどり、東原ゆかりを殺害していないことを弁明して下さい。何を話そうと被告人の自由です」

 飯岡瞬は戸惑っている『演技』をしていた。そしておもむろに話し始める。

「僕は、みどりちゃんを殺していません。殺したのはみどりちゃんとサッカーをしていた中学生の誰かです。

 僕は、みどりちゃんを強姦しようとした中学生たちを探して河川敷の周りを走り回りました。

 しかし、結局見つからず、河川敷に戻ってみるとみどりちゃんの死体が、あったのです。

 本当です。これは信じて下さい。

 凶器の金槌に僕の指紋があったのは、それが僕のものだからです。だから僕の指紋があるのは当たり前です。

 当日は中学生たちは、ビニール手袋を持っていたということでした。

 だから、中学生はそれを嵌めて金槌を振るったのです。そうすると指紋が付かなかった理由がわかります。

 犯行が可能だったのは、僕かもしれません。でも中学生の一人なのかもしれないのです。

 そして僕は、みどりちゃんを殺していません。

 ゆかりちゃんのことは、僕には全くわかりません。

 その頃は、僕は自宅でパソコンを触っていました。そのことは、プロバイダの会社の人が証明してくれたと思います。

 その夜、僕は幽霊見たさに小笠原倉庫に行きました。

 そしたら、ゆかりちゃんの死体を発見したのです。その時、これはみどりちゃんを殺した中学生がゆかりちゃんも殺したんだと思いました。

 だけど僕には、その中学生が誰だかわかりません。

 それで、ゆかりちゃんの首を切り離して中学校の校門へ置き、犯人の中学生に、お前を知っているぞという暗示を与えようと思ったのです。

 本当です。信じて下さい。

 僕は、みどりちゃんもゆかりちゃんも殺していません。

 犯人は、中学生の誰かなのです。

 本当です。全部、本当の事なのです。

 どうか、信じて下さい」

「はい。わかりました。被告人は自分の席に戻って下さい」

 飯岡瞬は、最後まで『演技』を続けた。

 傍聴人席にいる飯岡瞬の両親の顔が明るくなったような気がする。

 息子の無罪を信じたようだった。

 東原の両親はますます複雑な顔をしている。いままで信じてきたものが壊れてしまった心境なのだろう。

「これで、すべての審理を終了します。

 判決公判は明日10:00より開廷いたします」


 4日目、判決公判。

 予定より早い判決公判となった。

 法廷に関わる全ての人間が所定の位置に付いている。

 裁判員たちの顔色は一様に暗かった。

 弁護人の佐々倉良成もそれは同様だった。

 気持ちが暗い。

 この裁判に関わった者たちすべてが暗い気持ちを味わっていた。

 いや、例外が一人いる。

 被告人の飯岡瞬だ。

 どこか微笑んでいるように見えてしまう。

 里倉裁判長が告げる。

「本日は、判決を言い渡します。被告人は前へ出て下さい」

 被告人の飯岡瞬は、証言台に立った。

「それでは判決を言い渡します」

 法廷内が静まり返る。誰かの唾を飲み込む音も聞こえる。

「主文。

 第1の殺害事件である東原みどりの殺人事件に関して。

 被告人は、無罪。

 第2の殺害事件である東原ゆかりの殺人事件に関して。

 被告人は、無罪。

 東原ゆかりの死体損壊及び死体遺棄事件に関して。

 被告人を懲役1年の刑に処する。ただしその執行を2年間猶予する。

 以上。

 次に、判決理由について述べます」

 予想通りの判決だ。

 傍聴席から走り去る者が大勢いた。マスコミ関係だろう。数が多い。

 今日の傍聴席は希望者多数で抽選になった。

 それだけ世間の耳目を集めていたのだ。

 里倉裁判長が、判決理由を朗読しているが佐々倉はあまり聞いていなかった。

 理由はわかっている。

 東原みどり殺害は、証拠不十分で被告人を疑うべき根拠が薄い。

 したがって、『疑わしきは被告人の利益へ』の原則が適用されて無罪。

 東原ゆかりの殺害は、殺害時刻の被告人の不在証明がなされて被告人の犯行は不可能。

 よって、被告人は無罪。

 東原ゆかりの死体損壊及び死体遺棄は、執行猶予付きの有罪だが、飯岡瞬が刑務所に収監されることはない。

 なんというか、虎を野に放つような気分だ。

 判決理由の朗読が終了する。

「検察官は、控訴こうそしますか?」

 検察官の高峰も気持ちが沈んでいる。

 こうなることは、わかっていたはずだ。

「検察官としましては、控訴期間14日間の間で検討して決めたいと思います」

 そうだろう。検察としても新たな証拠がなければ控訴しても高等裁判所で棄却されてしまう。

 控訴とは、判決に対して不服がある場合に、上級の裁判所に対してその判決の確定を遮断して新たな判決を求める不服申立てをいう。

 控訴期間は、判決の言渡し(いいわたし)を受けてから14日間である。

 14日間の間に、河川敷でサッカーをした中学生たちの捜査が進めば控訴も可能かもしれない。

 しかし、今すぐには何も決定できない。

 控訴するかどうかは、検察としても慎重になる。

 しかし、検察には控訴して欲しい。そうでなければ、飯岡瞬が狙う一事不再理いちじふさいりが成立してしまうのである。

 彼を二度と同じ罪では告発出来ないのだ。

 それが、飯岡瞬の最終的な目的なのだ。

 検察が控訴しないと、飯岡瞬は目的を果たすことになる。

「それでは、これで本法廷を終了します」

 里倉裁判長が裁判の終了を宣言した。

 その時、飯岡瞬が、驚くべき行動にでた。

 傍聴席に向かって深々と一礼したのだ。

 彼の精神疾患の症状からは考えられない行動だった。

 誰に対して礼をしたのか。その先には二組の夫婦がいた。

 東原の両親と飯岡瞬の両親だ。

 飯岡瞬の両親は、2人とも涙を流していた。

 自分たちの息子は無罪だったのだ。

 彼らは、息子の無罪を信じていなかったのだ。この子なら、女の子たちを殺したかもしれない。

 裁判になってもそう思っていたのだ。

 ところが、結果は無罪。息子は犯人では無かったのだ。

 なんで、自分の子供を信じることが出来なかったのだろう。

 ともかく、息子は東原の姉妹を殺してなかったのだ。

 その安堵が、この夫婦の目から涙を誘い出している。

 被害者である東原みどりとゆかりの両親は、揺れ動く感情の起伏を抑えきれない。

 自分たちの娘を残虐な方法で殺害した憎むべき犯人として認識していた飯岡瞬は、無罪となった。

 このことを、どのように考えたら良いのか。

 この、夫婦にはわからなかった。

 ともかく、飯岡瞬は犯人では無かったのだ。

 自分たちの憎むべき対象では無かったのだ。

 それは、認識しなければならない。

 今まで、憎しみの視線をあてていたこの青年に対しては謝らなければならないだろう。

 東原の父親は、飯岡瞬に対してゆっくり片手を上げた。

 それを確認したように、飯岡瞬は廷吏に引かれて法廷を出ていく。

 ともかく、この裁判は今終わった。

 弁護側の完全勝利だ。奇跡的な事だった。

 99.9%が有罪になる中、0.1%の勝利を拾ったことになる。

 だが、心が晴れない今の気持ちは何だ。

 裁判官と裁判員たちも法廷をあとにする。

 裁判員たちは本当は、今でも飯岡瞬を疑っているのだ。真相をとことん突き詰めたい。

 そんな気持ちで一杯だ。しかし、『疑わしきは被告人の利益に』の壁が大きく立ち塞がる。

 自分たちが関与できるのはここまでだ。自分たちの非力を感じていた。

 誰もが寡黙の顔だった。

 高峰検察官が紫色の風呂敷に黙々と書類を詰め込んでいた。

 その無念が伝わってきた。

 やがて風呂敷を結び終わり立ち上がる。自分を見ている佐々倉に気付いた。

 目配りで挨拶を送ってきた。

 佐々倉も軽く頭を下げる。

 高峰検察官は、早足に法廷を出て行った。

 自分もここを出よう。ここには居たくない。

 佐々倉も早足に法廷を出た。

 裁判所の出口でマスコミに包囲された。

「佐々倉弁護士、記者会見をお願いします」

 マイクが次々に向けられてくる。

 記者会見! とんでもない。なんでそんな気分になれる……

 足早に逃げようとする。

「佐々倉弁護士。今回の裁判に勝訴した気持ちを一言だけでもお願いします」

 裁判に勝訴した! 勝ったと言えるのか、この状態は?

 勝ったのは、飯岡瞬だ。私じゃない。

 しかし確かに、飯岡瞬は裁判に勝ったのだ。その気持を聞いてみたい気がする。

 だが……

 もう彼に関わるのは止そう。

 佐々倉は、群がるマスコミ陣を振りほどいて裁判所を後にした。


<<エピローグ>>

 佐々倉は自分の事務所にいた。

 持ち込まれる訴訟案件は多々ある。忙しさは相変わらずだった。

 飯岡瞬のことはなるべく考えないようにしている。

 判決から1ヶ月が経った。

 結局、検察は控訴しなかった。

 10名の中学生たちの取り調べは今も続いている。誰も東原みどりの殺害を認めないのだ。

 したがって、飯岡瞬の関与が無かったことも証明できないでいる。

 まだ、『疑わしきは被告人の利益に』の原則に飯岡瞬は守られていることになる。

 否、飯岡瞬を被告人とする裁判は終わっている。

 定められた14日間の間に検察が控訴しなかったので、飯岡瞬がこの件で2度と被告人となることはない。

 一事不再理いちじふさいりの原則が適用されるのだ。

 こうなってしまうと、もう差し戻し審もない。弁護側の完全勝利だ。

 飯岡瞬の弁護人としては喜ぶべきなのかもしれない。

 しかし、あの審理において正義は裁かれたのか?

 端的にいえば、彼は本当に無罪なのか?

 裁判の最後の段階で、自身の感情が入ってしまったのではないかと反省する部分もある。

 しかし、やはり飯岡瞬はある意味では『天才』でそして『怪物』だ。

 あのように論理を積み上げ、法律の隙間を突く。そんな芸当が出来るのは飯岡瞬だけだ。

 だが、もう考えるのは止そう。

 あんなことは、自分の弁護士人生でただ一回のみだろう。

 あんなことが2回も3回も起こってたまるものか。

 佐々倉も法の正義を信じているのだ。

 それだけに大きく自分が関与してしまった飯岡瞬の事件は自分の信じているものを壊してしまっている。

 早く忘れてしまおう。それが一番良い。

 ところが、そうはいかない事態が発生した。

 事務員が来客を告げる。飯岡瞬が訪ねてきたのだ。

 正直、会いたくない。しかしそうもいかないだろう。

 応接室に案内するように事務員に告げる。

 応接室に入ると、飯岡瞬が座っていた。

 驚いたことに、緑と白の配色のブルゾンを着ている。

「そ、その服装は!」

「稲田十四朗さんは、このような服を着た犯人を目撃したのでしょうね」

 飯岡瞬が言う。

 こいつは一体どういう気でいるのだ。

「ここのコーヒーは美味しいです」

 飯岡瞬は、事務員が出したコーヒーを美味そうにすすっていた。

「どういうつもりだ」

「それは、もちろん弁護士さんにお礼を言うためですよ」

「それは、結構だ。すべては君の思惑通りになった。君は2度と同じ罪に問われることはない」

「そうですね。でも弁護士さんがいなければそれも出来ないことだった」

「いや、そうじゃない。弁護人が僕でなくてもきっと君の思惑通りになったはずだ。

 君はすべてあの裁判の経過を見通していた。そしてどこを突けばどのような結果になるかをすべて計算したのだ。

 そのような考え方は我々の遙か高みを行っている。

 そんな事が出来る君は、恐ろしい人間だ」

「いやだなぁ。僕はそんな人間じゃないですよ。刑事訴訟法を勉強したのも被告人としての自分がどこまでの権利があるのかを確認したかっただけですよ」

「そこで、『疑わしきは被告人の利益に』の原則を発見した。いや、経過を考えるとその前からそのことを発見していたのかもしれない」

「そんな事ないですって。僕も僕なりに必死だったんですから。

 警察や検察で何を言っても信用されないのじゃ、この様な方法を採るしか無いと思ったんですよ」

 それは、そうかもしれなかった……

 ガラス張りになっていない密室での取り調べは、想像以上に厳しいのだ。

 犯人が飯岡瞬だと考えての取り調べでは、反論することごとくが否定されてしまう。

 被疑者としてはその状況をどうすることも出来ないのだ。

 だから、飯岡瞬は裁判所の法廷に賭けることにした。証拠物件としての調書は覚悟の上だ。

 そう考えると、飯岡瞬のとった戦術も理解出来る。

 しかし、その戦術は法の網の穴を突いた完璧なものだった。

 一事不再理いちじふさいりまで考慮に入れている。

 検察としては、油断があった。つまり、凶器の指紋である。

 これが、ある限り犯行は飯岡瞬にしか出来ないという決定的な証拠。

 これで、検察は自分たちが完全だと思い込んでしまった。

 そして、最終的にそれが覆り、敗訴してしまったのだ。

 佐々倉が欲しかったのは、勝訴ではない。真実だ。

 彼が……、飯岡瞬が東原みどりとゆかりを殺害したのか。

 佐々倉は、最終弁論で芥川龍之介の小説である『藪の中』を喩えに出した。それが喩えであることに何人が気づいたかはわからない。

 自分自身も藪の中にいるような気がしていた。

 結局、判決は被告人の無罪判決となった。

 これが真実のはずだと思いたい。しかし、最後まで真実は藪の中だった。

「わからない事が2つある」

「何ですか?」

「一つ目は、君は中学生たちが透明手袋を持っていたことを知っていた節がある。それはどうしてだろう?

 もう一つは、東原ゆかりの殺害時間のアリバイを証明したチャットのカラクリだ。何かがあると思われる」

「いやだな。何もありませんよ。でも……」

「でも? 何だ」

「今から話すことは、ひとつの可能性ですよ。実行は可能だと思いますけど、僕がやったわけでは無いですよ」

「やはりそうなのか。わかった。話してくれ」

「まず、透明手袋ですけど。

 最近は何でもインターネットで検索すれば大概の事はわかりますよ。

 中学校の情報も授業の一環として公開されているところがあります。曙中学の情報も公開されていますよ。

 誰でも閲覧することが出来る。1年生のクラスの情報もね。それから出身小学校の情報も。

 みどりちゃんの親しかった上級生の情報を犯人が知っていたとしたら、そのクラスが何組であるかもわかったでしょう。

 そのクラスの時間割も公開されています。

 そこで進行カリキュラムから理科の授業の実験で何が行われるかもわかったと思います」

「そうか! それでその日に酸素を発生させる実験が行われ過酸化水素を扱うために透明手袋が配られることがわかっていたんだな」

「あくまでも僕の想像ですけどね……」

 そうじゃない。これは彼の計算だ。当日小学校のグランドが混雑することを予測し東原みどりが河川敷に行くように仕向けたのだ。

 一度東原みどりは帰宅している。これは飯岡瞬が何かやったのではないか? 方法はいくらでもある。

 メールを使うことも出来る。それで中学生たちがサッカーをしているのでそれに混ぜて貰うように交渉しろとでもささやいたのだ。

 予想通り。河川敷では中学生たちがサッカーをしていた。

 強姦事件を予想していたかはわからない。これは突発的なことだったかもしれない。

 でもそれはどうでも良かったのだ。彼にとって重要なことは、当日一緒にサッカーをした中学生たちが透明手袋を持っているということだったのだ。

「チャットの件ですけど」

「うん。その件はなにかトリックがあるのか?」

「これも、あくまでも僕の想像ですから」

「それは、わかっているから。早く話してくれ」

「犯人は、プロバイダのサーバーマシンを注意深く観察していた。

 そのプロバイダは定期的にデータベースのメンテナンスが行われるようでした。

 そこで、犯人はデータベースの変化をメンテナンス前と後で詳細に比較してみた。

 そうすると、メンテナンス前にどこからも干渉されない数メガバイトの領域が存在することを発見した。

 後は簡単です。その領域に自分で作った架空のチャット記録を書き込み、当日の該当時間が来たらそれを時間軸に沿って書き込むようなプログラムをその領域に置くのです。

 そのプログラムは次のメンテナンスによって消されてしまいますので、証拠が何も残らなくなる。プロバイダの管理者でもわからない」

「そうすると君は……じゃないその犯人は、それによってアリバイを作った」

「そういうことになりますね。あくまでも僕の想像ですけど……

 犯人は当然そのことを隠さなければいけない。

 そこで海外のサーバー等を経由してプロバイダへ侵入してきたと思いますよ。

 これを串サーバーと言うんですけどね。これをやられると犯人がどこから来ているかもわからなくなる。

 犯人は当然プロバイダのサーバーマシンのパスワードなどは解析していたと思いますよ。

 時間さえあれば、結構解けるものですから……

 これは、あくまでも僕の想像ですよ」

 なんて奴だ。コンピュータの技術をここまで悪用するとは。

 正義は行われなかったのだ。

「教えてくれ。東原みどりとゆかりを殺害したのは君なのか?」

「いいえ、僕はみどりちゃんもゆかりちゃんも殺していません。犯人は『藪の中』からこの犯罪を行なったのです」

「君は……」

 藪の中の意味がわかっていたのか……

「弁護士さん、お願いがあります」

「なんだい」

「本格的に司法試験の勉強をしたいと思います。客観的に考えても僕が司法試験に受かる確率は高いと思います。弁護士さんも言ってくれたでは無いですか。弁護士をやってみる気はないかと……

 司法試験に受かったあかつきには、司法修習生として佐々倉弁護士につかせて貰えませんか?」

「それは、断る」

 佐々倉は即答する。こんな『怪物』を部下に出来ない。

 やはり、虎を野に放ってしまったのだ。その後悔が大きい。

 しかし、こうも考えられる。誰かが虎に鈴を付けなければならないのだ。

 紐を付けて抑えこまなければならない。その役目は自分が負うべきかもしれない。

 野に放ってしまったのだから……

「まあ、司法試験に受かってから相談に乗ろうか……」

「わかりました。司法試験に合格してきます」

 軽く言うもんだ。日本で何番目かに難しいとされる試験なのに一発で合格するつもりでいる。

 彼の能力から考えると、それも容易い(たやすい)ことなのかもしれないな。

 飯岡瞬は礼を言い、事務所を去っていった。

 それを見送りながら、佐々倉はこの事件を思い返し、ますます暗い気持ちになっていった……

(了)


あとがき

この物語は、もちろん推理ミステリーとしてのエンターテイメントであり、主義主張を発表するものではありません。

しかしながら、この裁判劇の中で私が作劇してきたことは、日本の司法制度としてあまりにも理想主義であるようです。

作劇上のご都合主義ということはわかっています。

裁判所の非中立、検察の強引さ、弁護側の非力という現実の法廷を無視して、司法制度が理想的に機能している世界観を作ってしまっています。

現実には、起訴された案件の99.9%が有罪になります。

それは、検察側が確実に有罪となるものをもって起訴しているからです。

この話は、調書により自白した被告人が冒頭陳述でそれを否認するというところから始まっているのですが、現実的には、裁判官によって調書主義が取られるため、被告人の否認を認めないでしょう。

自白という事実は非常に重大なことなのです。

昨今、取り調べの『可視化』が叫ばれていますが、自白の重大さに鑑みると当然のような気がします。

この物語の、裁判官、検察官は非常に物分かりがよく権力や権威に対して媚びるという姿勢を持っていません。

公正を貫こうとする理想的な裁判官と検察官です。

だからこそ、新たな事実が出てきた時に裁判の審理をどうするかという事に悩むことになるのですが……

そのような、理想的な司法の中で、被告人である飯岡瞬のキャラクターと彼のユニークなものの考え方がぶつかった時、どう展開するのか。

と、いう自分の興味で物語を造形しました。

短編として書き始めたのですが、不思議な事に筆が勝手に風呂敷を広げて行きました。

脚本的に物語が展開していくという批判は否めません。

被告人、裁判官、検察官、弁護人、6名の裁判員。それぞれの人間の掘り下げが出来ているかといえば、どうでしょうか?

しかし、それが必要かというと、それもどうでしょうか?

それぞれの立場や考え方は説明しているつもりです。

大切なのは、物語性だと考えます。そのスピード感のようなものを壊さないように進めたかった。

サイドストーリー的なものは極力、廃しています。裁判員の解任事件くらいです。

しかし、風呂敷を広げすぎた感はあります。

これを畳むことが出来るのかと何度も思いました。

作者としてラストに少しだけ不満がありますが、ともかく『了』とします。

完読していただき、ありがとうございました。


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― 新着の感想 ―
[良い点] ワクワクしながら読めました。 懐かしい地名が出てきて嬉しかったです。 怪物に魅力を感じる私は何かが欠如しているのかもしれません。 他な作品も読んでみたいと思いました。
[良い点] 本当は誰が犯人だったのか・・・を最後まで考えさせられながら読みました。勉強しなければわからないことも丁寧に説明されていて、すらすらと面白く読みました。 [気になる点] 視点がころころ変わる…
感想一覧
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