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6 むかしの想いは

あるいは、過去の追憶。

千崎視点です。


はじめは、さらさらのストレートの黒髪がいいなと思っただけだった。

高校一年生の夏になりかけの、学校にもようやく慣れてきていたあの時。衣替えで黒から白に変化した制服はやけに眩しかった。

梅雨の明けきらないじめじめとした空気がわずらわしく、ついでに本降りになった雨を恨めし気に俺は生徒用玄関で睨みつけていた。持ってこなかった傘、置き傘なんてあるはずもなく、濡れて帰るしかないかと20分ほど立ち止まって決意したときに。


「傘、ないの?」

「え、…うん」


黒髪ストレートの女の子が隣に立っていた。

確か隣のクラス。体育の授業は2クラス合同で、D組の俺とC組の彼女はたまに一緒になっていた気がする。話したことはない。顔は、可愛い方。面倒見がいい方でよく友達に囲まれているのを見たことがあった。

そんな彼女は、俺をまっすぐに見て、ビニール傘を差しだした。


「濡れて帰ったら、風邪ひくでしょ。私折り畳み持ってるから使っていいよ。ビニール傘、貰い物だからあげる」

「…ありがと」

「どういたしまして」


にっこりと笑った顔がいいなと思った。

俺が傘を受け取ったのを見ると彼女はストライプの傘をさしてそのまま歩いてった。

それを後ろから見送りながら、じめじめとしたうっとうしさが消えている気がして、俺も傘を開いた。

――そんな、簡単な出来事で。俺は彼女を好きになったのだ。

そして、あの時の傘は結局使えずにずっと俺の家にある。


何度も思い出した記憶は鮮明だ。彼女との記憶はいつだって詳細に思い出せる。

笹原郁――、一目ぼれして一年後の高校二年生の夏に少しだけ彼女と恋人という関係になった。俺は、彼女の気持ちを知りながらそれでもいいからと押し切った。嘘をついてまで、自分の気持ちを偽った。

好きな男がいるというのは知っていたし、そいつに彼女がいることも知っていた。だから俺にも好きな子はいるから、と囁いた。

いつも真直ぐに前を見据えて周りから慕われている彼女が揺らぐ姿を初めて見たのは、その時。

泣きそうに顔を歪めて、けれど涙は流さなかった彼女は最初は俺の提案を断った。それは、俺を神崎雪人としてみることへの罪悪感からだろう。

そして、二回目。

忘れもしない放課後。土砂降りの雨をにらみつけている俺と、そこに帰るために下駄箱までやってきたストライプの折り畳み傘を持った彼女。


「…千崎、傘ないの」

「天気予報は晴れだっただろー、持ってくるわけない」

「一応梅雨なんだから、持っててしかるべき、だと思う」


呆れたような口調、けれど覇気はなかった。

土砂降りの雨みたいに全部吐き出してしまえばいいのにと思う。想い人の――神崎の彼女との話を何もないふりで聞いて、傷付いた心を持て余す笹原は、途方に暮れているように見えて。


「俺には好きな子がいて、お前も神崎が好き。それでいいじゃん、少しだけでもそのこと忘れる場所がほしくない?」

「……」

「無条件で肩貸すから、傘に入れてよ」

「…いいよ、千崎。いれたげる」


少しだけ笑った彼女は、泣きそうだった。傘を広げた彼女が下駄箱から一歩出る。傘で飴を受け止めながら、俺を振り向いた。


「生産性がない関係?」

「――どうだろうね」


少なくとも、俺にとっては。生産性がない、ということはない。

それを口にする前に彼女の傘を奪い取って、土砂降りの雨の中で唇を奪った。

雨で冷えていく体温を逃すまいときつく抱きしめる。笹原の手は、俺の背中ではなくワイシャツの首元を握っていた。



懐かしい記憶をさかのぼって、ちりちりとした痛みに眉根を寄せた。

燃え上がるような嬉しさは彼女と一度体を重ねてから、切ない痛みに変わった。神崎、と呼ばれなかっただけよかったと苦笑する。

それでも二人で出かけた記憶も、他愛ない会話をした楽しさもまだ残っている。きっと、俺の笹原への気持ちと、笹原への神崎の気持ちがどんな状態であれ解決したときに友人になれるのだろう。

決定的なものがない限り、できないのだが。その決定的なものはきっと、神崎が笹原への答えを出した時だと思っている。


大学を卒業して、就職を機に始めた一人暮らしは快適だ。

ベッドで寝転がりながら思い返した記憶に目を伏せる。こんな思いをするのは、思い出したからだろうか、あったからだろうか。

学校まで行ったのは気になったからだ。彼女がちゃんと生きているのか、あれからどうなったのか知りたくて。そして笹原はあの時と変わっていなかった。

ずっと神崎のことを支えて関わって、けれど神崎からは返ってこない想いを静かに受け止めている、日々を。どんな思いで過ごしていくのかと。

神崎は笹原のことを特別の枠に入れていた。高校生の時から、友人としての特別は彼女だった。だが、それが分かるたびに俺は泣きたくなったのだ。笹原の好きは、友情なんて望んでいないのにと彼女の気持ちに勝手に感情移入した。


寝起きの頭はやけにクリアに考え事をしている。

休みの日はちゃんと家事をやる時と昼過ぎまで寝てしまうときが半々。食事はそれなりに、掃除は適度に。そんなものだ。

時計を見て時間をチェックすれば、着信が一件。名前は、思い出していた彼女のそれが浮かんでいて、まどろんでいたベッドから跳ね起きた。

すぐに電話をかけなおせば笹原の声が聞こえて自然に口元が緩んだ。


「ごめん、寝てた」

『ううん、私もいきなり電話かけたから』

「どうした?」

『どうって、休みの日に付き合えって言ったのはアンタでしょうが』


呆れたような言葉に、一瞬呼吸を忘れた。

今、何を言ったのか、わからなくて。そして、次の休みはいつだったかと頭の中がものすごい勢いでめぐっていく。


『兄が婚約するっていうから、お祝いのプレゼントを選ぶの手伝ってほしいんだけど』


もうなんでもいい。そんな誘いすら嬉しいっていうのはもしかしたら末期かもしれないと思いながら、俺は冷静を装っていいよと返事をしていた。

ありがとう、と電話を切った彼女の声がまだ耳に残っているようで耳にあてたスマフォから手を離せなかった。


「ほんと、どうしたもんかね…」


多分、末期。

急加速を始めたこの想いはいつ静かになるんだろうか、と考えながら俺はもう一度ベッドに寝転ぶ。

忘れられるはずがないのだ。決定的なことがない限り、俺も笹原も諦めることなどできない。

二人ともたぶん似た性分をしているからだろうか。彼女よりはましなはずだ。

最初、俺はさすがに、中学生から数えて10年以上の年月を振り向いてくれない相手に向け続けるほどの熱を持ち合わせていない。と思っていた。けれど気付けば俺も笹原に片想いをして片手で数えられる年月をこえてしまった。

どうして簡単にいってくれないのだろうか、感情ってのは複雑だ。


彼女に言った通り、そして彼女もしている通り。

好きになった相手には幸せになってほしい。だからそのためならきっと、傷付くだろう道も通ってしまう。相手が傷付くよりも、自分が見えないところで血を流した方がはるかにマシだ。

――それが決して、自分たちが幸せになる道ではないとしても。






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