「寸法どおりに削れば同じ」と言われ枡の焼印を返しました。夏に漏ります
いろはは板の木口へ指を置いた。指の腹へ返ってくる筋を追いかけているあいだに、背中では自分の十一年がずいぶん手軽な寸法へ削られていた。
「寸法どおりなら同じだろう、頼母。内法も、側板の厚みも、柱へ貼り出しておけ」
匡の声は若い衆によく届いた。作業台へ向かっているいろはには、もっとよく届いた。
「へえ。これで俺らでも合わせられますね」
若い衆がいろはの手控えをめくった。十一年分の手垢がついた紙には、春、梅雨前、梅雨明け、冬、それぞれの板を乾かした年数と、木裏木表の別まで細い字で詰まっている。
「姐さん、この季節の欄、要りますか。寸法が決まったなら邪魔でしょう」
「若旦那が要らないとおっしゃるなら、消しておくれ」
「いろは、お前が消せ。どこまでが寸法で、どこからが余分か、若いのには分からん」
誰でもできる仕事の、余分を選り分ける役だけはいろはだった。たいそう便利である。便利代を取れるなら、一行十二文として、十一年で——いけない、手控え一冊で店が傾く勘定になる。
「ええ。承知いたしました」
いろはは墨を磨り、季節の欄へ定規を当てた。乾かした年数が一本の黒い線に沈み、木裏木表が次の一本に沈む。板が夏にどう動くかより、柱に貼れる紙一枚のほうが見栄えはよい。柱は反らない。なるほど、立派な親方だ。
匡は新しい紙を若い衆へ渡した。内法と削り寸法だけが、大きな字で並んでいる。
「このとおり揃えろ。いろはの勘に頼る仕事は、今月で終わりだ」
「勘で十一年もお給金が出たんですか。姐さん、得しましたねえ」
女中まで箒を抱えて笑った。
「これで誰でもできるなら、納めも増えますよ。若旦那のお考えは早いわあ」
いろはは店の焼印を炭火から上げた。十一年、合わせ終えた枡の底へ押してきた印である。柄には油と汗が染み込み、握ればいつもの位置へ指が収まった。
最後のひとつへ印を押す。焦げた匂いが立ち、店の名だけがくっきり残った。作った者の名など、もとよりどこにもない。
「姐さん、次はこの束を削ります。手控えはもう閉じていいですよ」
「ええ」
いろはは閉じた手控えを若い衆へ渡した。軽い。季節も年数も消してしまえば、十一年は片手で持てる。
昼には、台所の隅で冷や飯を立ったまま食べた。座れば手が止まる、汁を温めれば炭が要る。炭ひと欠けも十二文の内だと思えば、冷えた飯はたいそう健気な味がした。
仕事を上がる前、いろはは出入りの小僧を三度呼んだ。材木商三軒へ、同じ言伝を持たせるためだった。
「梅雨明けに縮む板は、ほかと混ぜずに分けておいてくださいまし。それだけでございます」
「どなたのお使いと申しましょう」
いろはは木口から指を離した。
「十一年、板を見てきた者から、と」
* * *
翌朝、いろはは一番よい外出着で店へ入った。裾を汚さぬよう作業場を横切り、勘定場の前へ風呂敷包みを置く。若い衆の鉋が、ひとつ、ふたつと止まった。
「なんだ、その格好は」
「若旦那へ、お返しするものがございます」
包みから、まず鉋を出した。刃を研ぎ、屑を払い、台へ薄く油を引いてある。次に板置き場の鍵を置き、最後に白い布で包んだ焼印を取り出した。
焼印は昨夜、柄の溝まで拭いた。十一年分の手の跡を落とすには布が三枚要った。布三枚で十二文には届かない。安い十一年である。
いろはは焼印をもう一度布で撫でた。黒い鉄の角に拭き残しがないことを確かめ、両手で匡の手へ載せる。
匡の指が、思ったより深く沈んだ。
「ずいぶん急だな。合わせから外しただけで、店を辞めろとは言っていない」
「はい。伺っておりません」
「板の仕分けも、若いのの手直しもある。今までどおり来ればいいだろう」
合わせは誰でもよく、仕分けと手直しにはいろはが要るらしい。役目が減っても給金が同じなら得ではないか、と昨日の女中なら笑うだろう。得にもいろいろある。食べ残しを二膳もらっても、夕餉が二度になるわけではない。
「手控えの季節欄は消しました。鍵も鉋も、こちらへ揃えてございます」
「だから、辞める理由にはならん」
いろはは匡の手にある焼印を見た。店の名は、押される側にだけ残る。押してきた手には何も残らない仕組みだった。
「枡は、寸法どおりに削れば同じでございます」
匡は焼印を持ったまま、頼母を見た。頼母は控え帳へ目を落とし、何も足さなかった。
「若旦那。十一年、お世話になりました」
「待て、いろは。今日の板だけでも——」
「どなたでも合わせられます」
いろはは頭を下げた。外出着の袖が作業台へ触れないよう身を引き、店を出る。背中から追ってきたのは呼び止める声ではなく、若い衆が落とした鉋の音だった。
通りへ出ると、朝の汁売りが湯気を上げていた。十二文。高い。高いが、今日は冷や飯を口へ押し込む仕事もない。
いろはは三歩行き、二歩戻った。
「汁をひとつくださいまし」
「椀はここで返しておくれよ」
「はい。座っていただきます」
言ってから、自分で少し驚いた。座るだけなら銭はいらない。ずいぶん贅沢を覚えた朝だった。
* * *
空いた昼は、板置き場より扱いに困った。板なら積める。昼は積めないし、壁へ立てかけても夕方には倒れてくる。
二度、独立して合わせをやらないかと声をかけられたことがあった。そのたび、店の納めがある、若い衆がまだ板を見られない、若旦那が跡を継いだばかりだからと断った。三度目の誘いが来なかったのは、世間が薄情だからではない。二度断る女は、三度目も断ると誰でも学ぶ。
いろはは昼どきになると、用もないのに通りを歩いた。汁売りの前を一往復し、値札を見て二往復目をしかけたところで、講の女衆に両脇を捕まえられた。
「はい、座る」
「わたくし、何も頼んでおりませんが」
「頼んでから食べてたら汁が冷めるよ。ほら、手を出す」
出した両手へ、熱い椀が押しつけられた。いろはは取り落とさぬよう包み込み、じわじわ染みてくる熱へ指を丸める。
「熱うございます」
「熱い汁なんだから当たり前だよ」
「当たり前に熱いとは、たいそうなご馳走でございますね」
「この人、前の店で何を食べさせられてたんだい」
女衆の一人が向かいへ座り、いろはの膝へ箸まで載せた。ほかの者は漬物を寄せ、飯を寄せ、逃げ道へ膳を置く。親切というものは、ずいぶん手際のよい包囲である。
「お代は」
「講の賄いから出てるよ」
「月においくらでしょう」
「食べながら銭を数えるんじゃない」
一杯十二文として月に三十杯、ただし講のある日だけなら——いろはは椀を傾けた。刻んだ葱と油揚げが口へ入り、勘定が途中でほどけた。油揚げには勝てない。十一年も働いておきながら、なんと安い敗北か。
食べ終えて椀を返そうとすると、いろはの指は上がり框の木口へ伸びた。年輪の詰まった端を、つい撫でる。
「また木を触ってるよ」
「よい板でございます。踏まれるには惜しいくらいで」
「木は逃げない。椀を持ちな」
空になった両手へ、今度はお代わりの汁椀が収まった。逃げない木より、冷める汁。世の中には正しい順番というものがあったらしい。
その午後、材木商の一軒から使いが来た。翌日には二軒目、その次の日には三軒目が来る。
「言われたとおり、梅雨明け用は別に積んである。ついでに見てくれないか」
「見るだけでよろしいので?」
「見たあとは、四枚そろえてくれるとなおいい」
「それは、見るだけとは申しません」
「では、銭を払う仕事だ」
三軒とも、言い方は短かった。三軒とも、言い方は短かった。
いろはは積まれた板の木口を順に撫でた。これは梅雨明けまで寝かせる、これは秋、これは今削っても暴れない。そう分けるうち、小さな合わせ仕事がひとつ、次にふたつと置かれていった。
「昼は講で食べるんだよ」
「仕事場から往復すれば、半刻ほど損をいたします」
「その半刻は誰のものだい」
いろはは答えず、汁の具を箸で拾った。油揚げが二切れ入っている。今日は十二文より景気がよい。
* * *
あれは、店を辞めた翌日のことだった。いろはは材木商へ向かう途中で、古い勤め先の前を通った。店先では若い衆が削りたての枡を並べ、一個ずつ水を張っている。
「見てくださいよ、若旦那」
若い衆は水の入った枡を高く掲げた。底にも合わせ目にも雫はなく、女中が手を叩く。
「ほら、変わらない」
「当たり前だ。寸法を揃えたんだからな」
匡は柱の貼り紙を指で叩いた。内法、側板の厚み、削り寸法。紙は昨日と同じく、たいそう真っ直ぐ貼られている。
(枡なんぞ、寸法どおりに削れば同じだ——)
いろはは足を止めなかった。水は張ったばかりだったし、汁売りの鍋は待ってくれない。十二文を払って冷めた汁を飲むほど、いろはは裕福ではないのだ。
ひと月後も、古い店から納めが戻ったという話はなかった。材木商の者が「若いのでもできたそうだ」と板を運びながら言ったので、いろはは木口を見て「左様でございますか」とだけ返した。
空いた小屋の隅を借り、板を三列に寝かせた。一列で月十二文、三列なら三十六文。天井の隙間から雨が吹き込まないぶんまで足せば、四十八文でも安い。何より、誰かに鍵を返せと言われない置き場だった。
「板ばっかり座らせて、自分は立って食べる気かい」
講の女衆が古い腰掛けを運び込んだ。続いて膳、椀、しまいには小さな火鉢まで置かれる。
「こちらは板置き場でございます」
「板は汁を飲まないだろ」
「火鉢は炭代がかかります」
「稼いだ銭は温めても減らないよ。冷や飯にして残すほうがどうかしてる」
いろはは反論の代わりに火鉢の位置を直した。板から遠く、椀へは近い場所。これは仕事上の配置であって、決して汁へ執着したわけではない。たぶん。
梅雨に入っても、古い店の枡は戻らなかった。雨が屋根を三日叩き、止んで二日するとまた降る。そのたび板は空気を吸い、いろはの小屋では積んだ列ごとに重しを替えた。
古い店の若い衆は、通りで会うと前より声が大きくなった。
「姐さん、うち、納めが増えましたよ。貼り紙さまさまです」
「ようございましたね」
「季節なんて、やっぱり関係なかったんだなあ」
いろはは返事の代わりに、抱えた板の端を布で覆った。雨粒一つにも値がある。世間話へ濡らしてやるほど安い板ではない。
半年のあいだ、何も起きなかった。古い店では寸法どおりの枡が増え、いろはの小屋では寝かせた板が増え、講の昼餉では椀が一つ増えた。
何も起きない月日には、いつも正しい顔をする者がいる。匡の顔には余裕が戻り、いろはの前には熱い汁が置かれた。どちらが値打ちものかは、油揚げ二切れぶんほど考える余地があった。
* * *
梅雨が明けた朝、最初の一滴が落ちた。
いろはは材木商へ板を見に行く途中で、古い店の前に止まった荷車を見た。若い衆が店先で枡へ水を張り、底を日に透かしている。合わせ目に細い銀色の筋が生まれ、角へ集まり、土の上へ落ちた。
「おい。押さえろ」
もう一人の若い衆が両手で枡を挟んだ。水の筋は指の脇を抜け、二滴目を落とす。二人は枡を挟んだまま見合わせたが、あれほどよく回った口はどちらも開かなかった。
いろはの指は袖の中にあった。いつもなら、木口を見た瞬間に勝手に伸びる指である。今日は動かなかった。
「これだけじゃないぞ!」
荷車の上から米屋の者が声を飛ばした。積まれていた枡が、縄を解かれて次々と店先へ戻される。
「升取りで筋が立たん。昨日納めた分も、こっちの分もだ。米粒を量るたび水で試すわけにはいかんぞ」
「乾かせば戻る。少し締め直せば——」
「納めたあとに客へ締めさせるのか」
匡の声が止まった。戻された荷の向こうで、次の納め口だけが四角く空いている。来るはずの荷車は来ず、控え帳の今日の欄には横線が引かれた。
最初の一個。戻された荷。空いた納め口。全件を並べるまでもなく、三つで足りた。寸法は変わらないまま、匡の顔だけがよく変わった。
「いろは」
呼ばれても、いろはは通りの端から動かなかった。匡は漏る枡を持ち上げ、声を一段落とす。
「この板だけ見てくれ。どこを削れば止まる」
誰でも合わせられる仕事は、失敗した途端、いろはの仕事へ戻るらしい。都合のよい季節である。
頼母が勘定場の奥から古い枡を持ってきた。縁の色が濃くなり、底の焼印も半ば薄れている。桶から柄杓で水を汲み、いっぱいまで注いだ。
水は揺れたが、合わせ目には出なかった。
「姐さん。あんたが合わせた枡だけ、十年経っても水が止まってた」
頼母はそれ以上言わず、古い枡を台へ置いた。若い衆は自分たちの濡れた指を見ている。女中は箒を持ったまま、今度は何も囃さなかった。
匡が柱を見た。貼り紙はまだ真っ直ぐだった。内法も削り寸法も、墨一筋ぶんさえ間違っていない。
「手控えを……」
声がかすれた。
「季節の欄を戻せ。乾かした年数もだ」
「消したのは姐さんです。俺たちには、何を書いてあったかまでは」
匡の口から「誰でも」が消えた。代わりの言葉はすぐには出てこなかった。
いろはは頼母へ頭を下げ、材木商へ向き直った。漏る枡へ指を伸ばさず、その前を通り過ぎる。背中で匡がもう一度名を呼んだが、板を待たせる理由にはならなかった。
* * *
三軒の材木商は、梅雨明け用に分けた板をいろはの前へ並べた。ほかの山より間を広く取り、風が抜けるよう積んである。
「見立てどおりだった。こっちはもう動かん」
「うちの板も、合わせまで頼みたい」
「こちらもだ。置き場が要るなら、奥のひと坪を使え」
三軒とも、互いの顔を見て頷いた。最初に口を開いた者が板を指し、次が小屋の鍵を出し、最後の一人が控え帳へいろはの名を書いた。
「月に十二文でどうだ」
「ひと坪で月十二文」
いろはは指を折った。十二文なら汁一杯。三軒から仕事が来れば、汁は——いや、汁を三杯飲めば腹の中で板が反る。
「高いか」
「いいえ。熱い汁を啜る席までつくなら、前の勤め先よりよほど羽振りがいいと思いまして」
「席なら、あたしたちがつけるよ」
待ち構えていた講の女衆が、小屋へ腰掛けを運び込んだ。一人が膳を抱え、一人が椀を鳴らし、一人が湯気の立つ鍋を火鉢へ載せる。板置き場の引き渡しに、なぜ昼餉一式が必要なのか。必要だからに決まっている。異論は汁が冷めてから聞く。
「姐さん、こっちを先に見ておくれ」
女衆は試しに合わせたいろはの枡を手から手へ回した。角を撫で、底を覗き、最後の一人が胸へ抱える。
「講で使う分を納めてほしい。よその板も、姐さんに合わせてもらいたいってさ」
「まだ焼印がございません」
「だから、こしらえた」
材木商が細長い包みを差し出した。布を解くと、新しい柄の焼印が現れる。店の名ではない。いろはの仕事を、いろはのものとして残す印だった。
いろはは柄へ手を添えた。まだ誰の汗も染みていない木は、少しよそよそしい。握り直すと、指が収まる場所だけは最初から決まっていた。
「それで、どうして十一年もあの店にいたんだい」
女衆の一人が、汁をよそいながら訊いた。いろはは焼印の値を考えかけ、やめた。ひと坪も、一杯も、十二文も、どこかへ退いた。
椀から上がる湯気が、頬へ触れた。いろはは両手で椀を包んだまま、長くその熱を受けた。
「わたくしは、当てにされたことしかございません」
誰も慰めを足さなかった。女衆は椀をいろはの前へ置き、材木商は新しい鍵を板置き場の柱へ掛けた。
「なら、今度は頼む。あんたに合わせてほしい」
三軒の声が重なった。いろはは焼印を膝へ置き、熱い汁を一口啜る。
「承りました」
油揚げは三切れ入っていた。新しい商いとして、たいへん幸先がよい。
* * *
匡が板置き場へ来たのは、それから三日後だった。若い衆も頼母も連れず、一人で戸口に立っている。
いろはは作業台で四枚の側板を合わせていた。木口へ指を当て、鉋をひと撫でだけ通し、また指を置く。柱には新しい鍵が掛かり、奥には三軒分の板が季節ごとに寝ていた。
「いろは」
「若旦那。こちらへ何か御用でございますか」
「戻ってくれ」
背中側で大きかった声が、今日は作業台を越えるのがやっとだった。
「納めが止まっている。若いのでは直せない。給金は前の倍にする」
いろはは板を光へ透かした。木裏を返し、隣の一枚と並べる。
「役もつける。合わせは全部お前に任せる。手控えも新しく作ればいい」
「左様でございますか」
「板を見るだけでもいい。毎日でなくていいから、店へ来てくれ」
匡の文末は、頼むたびに短くなった。柱の貼り紙を指していた手は、今日は帯の脇で固く握られている。
十一年ぶんの未払いが、ずいぶん小さな声になったものだ。
いろはは四枚目を置いた。板同士が合う音は小さく、それでも匡の息よりよく聞こえた。
「枡は、寸法どおりに削れば同じでございます」
「それは——」
「若旦那がお決めになったことでございましょう」
いろはは謝罪を求めなかった。理由も訊かなかった。匡へ返す鍵も、焼印も、鉋も、ここには一つもない。
火鉢では新しい焼印が熱を持っていた。いろはは匡を戸口へ残し、鉄の色を確かめてから柄を握る。
合わせ終えた枡の底へ、自分の焼印を押した。短く乾いた音がして、焦げた木の匂いが立つ。印は四角い底の真ん中へ、誰のものでもないいろはの仕事として残った。
「いろは、店が——」
「お帰りくださいまし。板に風が通りません」
匡は何か言いかけたが、板置き場の奥から女衆の声が飛んだ。
「姐さん、汁が冷めるよ!」
「今参ります」
いろはは桶から柄杓で水を汲み、新しい枡へ張った。縁まで満ちた水が、焼印の上で静かに揺れる。
一息。
二息。
合わせ目の下へ置いた白い布は、白いままだった。
「どうだい」
女衆が椀を手に覗き込む。いろはは答えず、枡を持ち上げた。木口へ当てた指の位置も、押した印も、板を見て過ごした十一年も、もう店へ置いてきたものではなかった。
匡の足音が戸口から遠ざかる。いろははそちらを見ず、女衆の待つ膳へ向かった。椀からはまだ湯気が立っている。
水は落ちなかった。合わせ目は一滴も湿らなかった。いろははようやく、椀ではなく枡のほうを両手で持って笑った。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




