嘘つきな狼と親切な赤ずきん
題名とジャンルを変更しました。
森には、『におい』がある。
ある朝、宿り木の森と呼ばれる古い大森林の小径を、一人の少年が歩いていた。
朝露を含んだ若葉の香り。土の奥から滲み出す湿った腐葉土のにおい。風が運んでくる、遠くの花畑の甘い香気。それらすべてが混ざり合った、命のにおいを、少年は肺いっぱいに満たす。
赤いフードを目深にかぶり、白いシャツの上から赤いケープマントを羽織っている。黒いキュロットの裾から伸びる脚は子鹿のように細く、しかし足取りは軽やかで、まるで地面を踏んでいることが楽しくてたまらないとでもいうように、時おり小さく跳ねた。革靴の底が苔をふわりと押し潰し、また離れる。その繰り返しが、彼の機嫌の良さを物語っていた。
ルーイ。それが少年の名だった。
ルーイは、森中の動物たち、小鳥たち、そして妖精たちの間で「親切な妖精さん」として知られ、「赤ずきん」というあだ名で呼ばれていた。
彼の細い腕には、藤づるで編まれた籠がかけられ、その中には、布にくるまれた琥珀色の蜂蜜酒、そしてこれまた蜂蜜をたっぷり練り込んだ焼き菓子がぎっしりと詰まっている。
籠から立ちのぼる甘いにおいは、歩くたびに森の空気と混じり合って、ふんわりと尾を引いた。
「ばぁば、よろこんでくれるかなあ」
ルーイは独り言を零しながら、ふふ、と笑った。青い目が朝の光を受けてきらきらと輝いている。黒い短髪が、木洩れ日の中でつやつやと光った。
ばぁば。それはルーイと同じ妖精、薔薇の古妖精だ。森の奥にひとりで暮らしているが、ここ数日、少し具合が悪いという便りが小鳥伝手に届いたのだ。それを聞いたルーイは居ても立ってもいられず、ばぁばの好きなものをあれこれ用意してきた。
「お見舞い、お見舞い」
歌うように呟きながら、ルーイは小径を進む。
森はまだ朝の静けさの中にあった。梢の高いところで小鳥がさえずり、どこか遠くで小川がさらさらと流れている。そのほかには、自分の足音と、籠の中で菓子が揺れる小さな音だけ。
そのとき、がさり、と、小径の脇の茂みが揺れた。
ルーイは足をとめ、首をかしげる。
「だぁれ?」
茂みの間から、ゆっくりと姿を現したのは、一人の獣人の少年だった。
年のころはルーイよりいくつか上、十六歳くらいだろうか。黒いハイネックに茶色の長ズボン、革のショートブーツを履いている。ブルーグレーのロングジャケットを羽織った姿は、すらりと背が高く、銀色の髪はくせがあって、あちこちに跳ねていた。
短く切られたその髪のあいだから、ぴょこんと突き出ているのは、狼の耳だった。ふさふさとした銀色の毛におおわれ、内側はうっすらと桜色をしている。腰のうしろでは、同じ銀色のふさふさとした尻尾が、ゆらりとゆれていた。
そしてなにより目を引くのは、その瞳だった。金色。溶けた黄金のように深く、どこか月のような光をたたえた瞳が、まっすぐにルーイを見ていた。
少年は、にこりと笑う。人当たりのよい、柔らかな笑顔だった。
「やあ、こんな朝早くから一人で。どこへ行くんだい?」
声まで、なんだか甘くやさしい。
ルーイの顔が、ぱっと明るくなった。
「ロア!」
彼はその少年――ロアのことを知っていた。最近、この森にやってきた狼獣人の少年だ。何度か森の小径で出会い、言葉を交わすうちに、すっかり仲良くなっていた。少なくとも、ルーイはそう思っていた。
「おはよう、ロア! こんなところで会えるなんて、うれしいな!」
ルーイは籠を抱えたまま、ぴょんとロアに駆け寄った。
ロアはわずかに身を引きながらも、表情は崩さない。
「おはよう、ルーイ。それで、その籠はなあに? ずいぶんいい匂いがするねぇ」
「えへへ、わかる? 今ね、ばぁばのお見舞いにいくところなんだ」
「ばぁば?」
「うん。ばぁばは、森の奥に住んでる薔薇の古妖精だよ。最近、具合が悪いんだって。だからね、お見舞いに、蜂蜜酒とお菓子をいっぱい用意してきたの」
ルーイは籠をかかげてみせた。布の隙間から、蜂蜜酒の瓶の口がのぞいている。
その瞬間、ロアの金色の瞳が、ほんのわずかに、きらりと光った。
(……古妖精)
ロアは内心で呟いた。
(こいつ、妖精の見舞いに行くのか。しかも森の奥に住む薔薇の古妖精、だって?)
ロアの胸の奥がぞくりと疼いた。ごくりと喉が鳴る。
それは、渇いた獣が水を目にした時のそれだった。
狼の少年ロアには、誰にも言えない秘密がある。
彼は、魔獣フェンリルの末裔だった。
太古、神々と戦い、月と太陽を喰らったと伝えられる伝説の大狼フェンリル。その血を引く一族は、この森より遥か遠くの森の奥深く、人の踏み入らない夜の谷に、集落をかまえて暮らしていた。その誰もが強大な魔力を持ち、炎を吐き、嵐を呼び、岩を砕いた。
ただ一人、ロアをのぞいては。
ロアは、生まれつき魔法が使えなかった。
何度試しても、彼の指先からは火花ひとつ散らなかった。呪文を唱えても、風はそよとも動かない。フェンリルの一族にとって、魔法が使えないということは、狼が牙を持たないのと同じくらい、ありえないことだった。
「役立たず」
「一族の恥さらし」
「お前など、フェンリルの血を引く資格はない」
幼いころから、ロアはそんな言葉を浴びせられて育った。同じ年ごろの子どもたちにいじめられ、大人たちには冷たい目で見られた。父も、母も、彼をかばってはくれなかった。
そして十二の歳、ロアはついに集落を追放された。
「二度と戻ってくるな。魔法も使えぬ出来そこないが」
吐き捨てられた言葉を背中に受けながら、ロアは夜の谷を出た。あれから四年。彼はずっと、たった一人で世界を彷徨ってきた。
外面だけは、よくなった。
誰に対しても愛想よく笑い、人当たりよく振る舞う術を、ロアは生きるために身につけた。けれどその笑顔の裏では、いつもひねくれた、ねじれた感情が渦巻いていた。世界を、人を、信じることなどできなかった。自分を捨てた一族を、見返してやりたかった。
……魔法を、手に入れたかった。
そんなロアが、ある日、古い書物の切れ端から知った方法が、ひとつあった。
――魔力の塊である妖精を喰らえば、その魔力を取り込み、自らのものにできる。
妖精は、魔力そのものの結晶のような存在だ。彼らを喰らえば、魔法の使えぬ自分でも、力を得られるかもしれない。フェンリルの血が、ようやく目覚めるかもしれない。
その日からロアは、妖精を探し求め出した。
そして、出会ったのだ。
「親切な妖精さん」と呼ばれる、赤ずきんのルーイに。
(ちょろいやつ)
ロアは、ルーイのことをそう思っていた。
少し優しく声をかけてやれば、ぱっと顔を輝かせて寄ってくる。困っている素振りを見せれば、すぐに助けようとする。疑うということを知らない、純粋で、お人よしで、底抜けに素直な少年。
(こんなに簡単に騙される妖精がいるなんてね)
ロアは、ルーイに「友達のフリ」をして近づいた。いつか隙を見て、喰らうために。
だが……。
(……)
ルーイの、まっすぐな青い瞳を見るたびに。
「ロア、ロア」と、心から嬉しそうに駆け寄ってくるその姿を見るたびに。
ロアの胸の奥で、ちくり、と何かが痛んだ。
それが何なのか、ロアは認めたくなかった。罪悪感などという、生ぬるい感情を。自分を捨てた世界に、優しさなどという甘いものを返してやる義理は無いはずだった。
(……騙しているだけさ。こいつは、ただの餌だ)
そう、自分に言い聞かせて。
そして今、目の前に、思いがけないチャンスが転がり込んできた。
(ばぁば……森の奥の薔薇の古妖精。長く生きた妖精なら、その魔力もさぞ大きいだろう)
ロアの頭の中で、計算が働いた。
(ルーイ一人を喰らうより……まず、先にその「ばぁば」とやらを喰らって力をつける。それから、改めてルーイを……)
考えれば考えるほど、それは妙案に思えた。年を経た薔薇の妖精。普通なら、厄介な相手だが、具合が悪いというなら、容易く喰えそうだ。
古妖精の魔力を取り込めば、自分はずっと強くなれる。そうすれば、たとえルーイが、万が一にも、抵抗しようとも、難なく押さえつけて喰らうことができるに違いない。
ロアの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
(……運が向いてきた)
胸の奥がじわりと熱くなる。久しく忘れていた高揚感だった。
「ロア? どうかしたの?」
ルーイの声に、ロアははっと我に返った。
ルーイが、青い瞳をぱちぱちとさせて、ロアの顔をのぞきこんでいる。
「……いや、なんでもないよ」
ロアは慌てて、いつもの愛想笑いを取りつくろった。それから、できるだけ自然に、優しく聞こえるように声を作る。
「ねえ、ルーイ。お見舞いに行くなら……お菓子とお酒だけじゃ、なんだか寂しくないかい?」
「えっ、そう?」
ルーイは、きょとんと首をかしげた。
ロアは、にっこり笑って続けた。
「お見舞いっていうのはね、花を摘んでいくものなんだよ。きれいなお花を持っていけば、ばぁばだって、きっと喜ぶと思うよ?」
「お花……?」
ルーイは籠を見おろして、それから森のほうへ目をやった。少し離れたところに、色とりどりの野の花が咲く花畑がひろがっている。白や黄色、薄紫の花びらが、朝の光を浴びてゆれていた。
「そうなの……?」
ルーイは、ちょっと考えこむように、唇をへの字にした。
「ばぁば、お花、喜ぶかなあ。でも、ばぁばのおうちのまわりには、いっぱい薔薇が咲いてるんだよ。だから、お花なら、もう……」
ロアは、内心ひやりとした。鋭いところを突かれた、と。だが、すぐに表情を取りつくろう。
「いやいや、ルーイ」
ロアは、わざとらしくない程度に、明るく言った。
「自分の家に咲いてる花と、誰かが自分のために摘んできてくれた花とは、ぜんぜん違うものだよ。だってそうだろう? 君のことを思って、君のために選んで、君のために摘んできてくれた花なんだ。そこには想いがこもっているでしょ」
「想い……」
「そう。花を貰って嬉しくない奴なんて、いないよ。きっと、ばぁばだって喜んでくれるさ」
ルーイの顔が、ぱっと明るくなった。
「そっか!そうだよね! 」
ルーイは、ぴょんと跳ねた。納得したらしい。
(……ほんとうに、ちょろいなぁ)
ロアは内心で呟きながらも、その純粋すぎる笑顔に、また胸の奥がちくりとするのを感じた。
「うん、ぼく、お花、摘んでいくよ! ばぁばのために、いっぱい!」
ルーイは籠を地面にそっと置くと、さっそく花畑のほうへ駆けていこうとした。
ロアは、すかさず声をかけた。
「ルーイ。君が花をつんでる間に、僕、先にばぁばのおうちへ行って、君が少し遅れて来るって伝えておいてあげるよ」
「えっ、いいの?」
ルーイは、ぱあっと顔を輝かせた。
「うん、もちろん。心配しなくていいよ。君はゆっくり、いい花を選んでおいで」
「ありがとう、ロア! ロアって、ほんとうに優しいね!」
その言葉は、真っ直ぐに、ロアの胸に刺さった。
優しい。やさしい、と。
(……やさしくなんか、ないよ)
ロアは、笑顔の裏で、そっと唇を噛んだ。
「ばぁばのおうちは、この道をまっすぐ行って、大きなの栗の木のところを右に曲がって、それから……」
ルーイが道順を説明しはじめる。ロアは、それを注意深く頭に刻みこんだ。
「……薔薇のいっぱい咲いてる、赤い屋根のおうちだよ。すぐにわかると思う」
「わかった。ありがとう、ルーイ。それじゃ、お先に」
ロアは軽く手を振ると、小径を歩きはじめた。
「うん! またあとでね、ロア!」
背後で、ルーイの明るい声が弾んでいる。
ロアは、振り返らなかった。
数歩進んだところで、彼の口元に、冷たい笑みが広がった。
(……ようやくだ)
森の小径を、ロアは早足に進んだ。やがてルーイの姿が見えなくなると、彼はほとんど駆けるように走りだした。銀色の尻尾が、興奮で大きくゆれている。
(まず、ばぁばを喰らう。それから、戻ってきたルーイも喰らう。一気に、妖精を二人……くく、まさに一石二鳥って奴だ)
胸の奥で、飢えと欲望が渦を巻いていた。
(これで、僕は強くなれる。フェンリルの血だって目覚めるはず。そうすれば……あいつらを、見返してやれる)
そう思いながらも、ロアの脳裏には、ちらりと、ルーイのあの無邪気な笑顔がよぎった。
(……)
「またあとでね、ロア!」
その声が、まだ耳に残っていて。
ロアは、頭を強く振った。
(関係ない。あいつは、ただの妖精。ただの……餌だ)
足を止めることなく、ロアは森の奥へと走り続けた。
どれほど走っただろうか。
森の小径は、しだいに細くなり、両側から木々が深く覆いかぶさってきた。木洩れ日が斑模様になって地面に落ち、空気はひんやりと湿気をおびていた。
やがて、ロアの鼻先に、ふわりと、甘い香りが漂ってきた。
薔薇の香りだった。
濃厚で、官能的で、それでいてどこか懐かしい。香りに導かれるように木立を抜けると、一気に、開けた場所に出た。
ロアは、思わず足を止める。
一面の薔薇、バラ、ばら。
赤、白、ピンク、黄、そして深い紫。ありとあらゆる色の薔薇が、咲き乱れる。
蔓薔薇が低い石垣を覆い、木立のあいだを縫って這いのぼり、あちこちにアーチを作っている。
空気そのものが薔薇色に染まっているかのようだった。
その薔薇の海原の真ん中に、ぽつんと、小さな一軒の家が建っていた。
赤い屋根。蔦の絡まる白壁。煙突からは、うっすらと煙がのぼっている。窓には花柄のカーテンがかかり、まるで絵本の挿絵の中から抜け出してきたような、愛らしい家だった。
(ここか)
ロアは、薔薇の間を縫って、家へと近づいていった。
近づくにつれ、彼の胸はどきどきと高鳴る。緊張と、興奮と、そして、かすかな後ろめたさが、混ざりあって。
(……いや。今更だ)
ロアは、自分に言い聞かせた。
家の扉の前に立つと、彼は深く息を吸いこんだ。それから、いつもの愛想のいい笑顔を顔に貼りつけて、扉をこんこんと叩いた。
「ごめんください」
ロアは、できるだけ明るく、人懐っこい声で呼びかけた。
「赤ずきんの……ルーイの友達です。ルーイからの伝言を伝えに来ました」
家の中から、ことり、と物音がした。
それから、ゆっくりと足音が近づいてくる。
ロアは、左指にはめた指輪を、そっと撫でた。
それは、彼がたった一つ持っている、魔法の道具だった。集落を追放されるとき、ロアの祖母、一族の中で唯一、彼に優しかった人が、こっそり彼の手に握らせてくれたものだ。
「お前は魔法が使えない。でも、これがあれば、少しは身を守れるだろう」
そう言って、祖母は涙ぐんでいた。
銀の台座に、青く透きとおった石がはめこまれた指輪。それは、対象を「縮める」魔法を込めた、貴重な品だった。一度きりしか使えないだろうと、祖母は言っていた。だがロアは、それをずっと、肌身離さず大切にしてきた。
(……これを使うのは、今だ)
扉が、ぎい、と開いた。
姿を現したのは、小さな、女の子だった。
いや、女の子のように見えた。
幼い、五、六歳ほどの少女の姿。けれど、その瞳の奥には、長い長い年月を生きてきた者だけが持つ、深い知性の光が宿っていた。腰まである緩く波うつ髪は、薔薇の蕾のような淡い紅色。身にまとう薄手のドレスも、薔薇の花びらのように幾重にも重なっていた。
薔薇の古妖精。
ルーイの、ばぁば。
「ほっほっほっ」
ばぁばは、ロアを見上げて、にっこりと笑った。
「ルーイの、お友達かい? それは、それは。よく来てくれたのよ」
その声は、子どもの姿に似合わず、どこか深く、まろやかだった。
ロアの胸が、ぎゅっと締めつけられた。あまりにも穏やかで、あまりにも温かいその笑顔に、祖母の顔が重なる。
だが。
(……今だ!)
ロアは、右手をさっと突き出した。指輪の青い石を、ばぁばに向ける。
「縮め!」
その言葉とともに、青い光が、ばちん、と弾けた。
光は、またたく間にばぁばを包みこんだ。
「はて……?」
ばぁばが、目を丸くする。
次の瞬間。その小さな体が、みるみるうちに、さらに小さくなっていった。
手のひらに乗るほどに。指先につまめるほどに。みるみると、縮んでいく。
「こ、こいつは……!」
ばぁばの声が、だんだん小さく、細くなっていく。
ロアは、地面に転がり落ちそうになった、親指ほどの大きさのばぁばを、すばやく手でつまみ上げる。
縮んだばぁばは、ロアにつままれたまま、じたばたともがいていた。
ロアの心臓が、激しく脈打つ。手の中で暴れる、小さな小さな妖精の感触。温かく、柔らかく、生きているいのちを目の当たりにして、ロアに迷いが生じる。
その迷いを振り払うように、ロアは、奥歯をぎりり…っと噛みしめた。
(喰らえ!強くなるために……っ!!)
「…、……!、………!!」
ばぁばの声が、必死に何かを訴えていた。
だが、ロアの耳には、もう届かない。
彼は、目を瞑る。
そして、かぱりと大きく口を開け、ばぁばを、口の中へと、放り込み。
ごくり。
一息に飲み込んだ。
その瞬間だった。
ロアの体の奥底から、かつて感じたことのない、灼けつくような力が噴きあがってきた。
「う……うあ……っ!」
ロアは、思わず両手で胸を押さえて、よろめいた。
魔力だ。
膨大な、めくるめくような魔力が、彼の血の中を駆け巡っていた。指先から、つま先から、髪の一本一本にいたるまで、力がみなぎっていく。
それは、彼が生まれてからずっと、喉から手が出るほどに、焦がれてきたものだった。
「これ……これが、魔法の力……!」
ロアの体が、変わりはじめた。
銀色の髪が、ぶわりと逆立つ。それが、全身へとひろがっていく。みるみるうちに、彼の体は銀色の毛に覆われていった。
手足が伸び、太くなる。指先からは、鋭い鉤爪がのびた。背骨がしなり、体が膨れあがる。狼の耳は更に大きく、尻尾はいっそうふさふさと、立派になった。
着ていた服が悲鳴を上げるように裂け破ける。
ロアの体は、見るみるうちに巨大化していった。
家の天井に届くほどに大きな、二足の足で立つ銀狼。
それは、まさに伝説の魔獣フェンリルの末裔に相応しい、堂々たる姿だった。金色の双眸は太陽のように輝き、銀の毛皮は魔力を帯びて、眩く煌めいていた。
「は……ははっ……ははははっ!」
ロアは、天を仰いで吠えた。
その声は、もはや少年のものではなかった。腹の底から響く、低く重い、獣の咆哮だった。森中の木々が震え、小鳥たちが一斉に飛び立つ。
「ついに……! ついに手に入れたぞ……!」
万能感が、全身を満たしていた。
世界のすべてを、自分の足もとに従えられるような。空を裂き、大地を割り、海を干上がらせることさえできるような。そんな、めくるめく全能の感覚。
(僕は、ようやく、魔力を手に入れたんだ!)
ロアの胸は、歓喜に震えた。
(これで、あいつらを見返してやれる。役立たずと罵ったあいつらを。僕を捨てた、一族のやつらを……!)
巨大な銀狼は、溢れる力に酔いしれていた。
そのとき。
「ロアー!ばぁばー!きたよー!」
玄関の扉が開くと同時に、明るい声が聞こえてきた。
ロアは、はっと我に返り、声のした方へと振り返る。
そこには赤いフードの少年が、扉を開けた姿で立っていた。
ルーイだ。
その腕には、たくさんの花束が抱えられていた。深い赤色の、小さな花びらをいくつもつけた、野ばらの束に、色とりどりのさまざまな野に咲く花を束ねたブーケ。それを大事そうに抱えて、ルーイは薔薇の家へとやってきた。
そして。
家の中で佇む、巨大な銀狼を見上げて。
ルーイは、きょとんと、首をかしげた。
その青い瞳には、恐れも、警戒も、まったく浮かんでいなかった。ただ、不思議そうに、まんまるに見開かれているだけだった。
ルーイは、巨大な銀狼を、ぽかんと見上げていた。
花束を抱えたまま、ぱちぱちと、何度もまばたきをする。
ロアは、いや、巨大な銀狼となったロアは、ルーイを見おろした。
(……来たか)
胸の奥で、飢えが再び疼いた。
(もう一人の妖精。ルーイ。こいつも喰らえば、僕は更に強くなれる)
だが、なぜだろう。
ルーイのその、あまりにも無防備な、信じきった瞳を見ていると、胸の奥が、ちりちりと痛んだ。
ルーイは、こてん、と首をかしげて、口を開いた。
「狼さん」
その声は、いつもと変わらず、穏やかで、柔らかかった。
「どうして、そんなにお耳が大きいの?」
ロアは、一瞬、言葉につまった。
それから、低い、獣の声で答えた。
「……君の声を、よく聞くためさ」
ルーイは、「ふうん」と、うなずいた。それから、また首をかしげた。
「狼さん、どうして、そんなにお目めが大きいの?」
ロアの金色の瞳が、わずかに揺れた。
「……君を、よく見るためさ」
「ふうん」
ルーイは、また、頷いた。なんだか、面白がっているようにも見えた。
「狼さん、どうして、そんなにおててが大きいの?」
ロアは、ごくりと喉を鳴らした。
その問いに答えるのは、なぜか、ひどく胸が苦しかった。
「……君を、抱きしめるためさ」
言ってしまってから、ロアは自分の言葉に、内心ぎくりとした。
(……何を言ってるんだ、僕は)
抱きしめる、だなんて。そんな、優しいことを言うつもりは。
ルーイは、その言葉に、ほんのり頬を赤らめた。そして、にこっと笑った。
それから、最後に、首をかしげて、こう尋ねた。
「狼さん、どうして……そんなに、お口が大きいの?」
ロアは、ルーイを見下ろした。
その柔らかそうな体。まろい頬。甘い飴玉のような青い瞳。
胸の奥で、飢えと、罪悪感と、そしてよくわからない別の何かが、激しくせめぎ合った。
ロアは、巨大な口を、ゆっくりと開く。ずらりと並んだ鋭い牙の間から、湿った熱い吐息が零れる。
そして、低く、唸るように、言った。
「……君を……」
ルーイは、じぃっと、ロアを見上げている。
「……食べる、ためさ……っ!」
その言葉とともに、ロアは、ルーイめがけて、巨大な口を、あんぐり開いた。
凶悪な牙が、ルーイに迫る。
巨大な顎が、赤い小さな体を、まるごと飲みこもうとし……。
だが。
その刹那。
ルーイの姿が、消えた。
ロアの牙は、空を喰み。
がちん!と。
虚しい音だけが、虚空に響く。
「……っ!?」
ロアは、なにが起こったのか分からぬまま、目を見開いた。
ルーイは、とっさにロアの牙の届かぬ、すぐ脇へと、ひらりと跳んでいた。
その身のこなしは、ただの妖精のものではなかった。風のように軽やかで、それでいて、隙がなかった。まるで、最初から、襲われることを予期していたかのように。
そして。
ロアは、気づく。
ルーイの右手に、いつの間にか、一挺の斧が、握られていることを。
それは、ばぁばの家の暖炉のわきに立てかけてあった、薪割り用の斧だった。だが、その刃は、朝の光を浴びて、ぞっとするほど鋭く、青白く光っていた。
「狼さん、……ロア」
不意にルーイが、口を開く。
その声は、もう、いつもの、あの無邪気な少年のものではなかった。
低く、静かで、研ぎすまされた、別人のような声だった。
「ぼくはルーイ」
青い瞳が、すっと細められる。そこには、もはや純粋な無邪気さの代わりに、冷たく、すんだ戦士の光が宿っていた。
「ルーイ=レッドキャップ」
ロアの全身が、ぞくりと粟立つ。
「妖精レッドキャップ族の、一人」
――レッドキャップ。
その名を聞いた瞬間、ロアの記憶の奥底から、昔読んだ妖精の記述が甦った。
(レッドキャップ……、まさかっ)
ロアは、追放されるまえ、一族の古文書で読んだことがあった。
レッドキャップ。それは、妖精の中でも、もっとも好戦的で、もっとも危険な一族の名だった。
赤い帽子をかぶった、小さな妖精。だが、その小さな体には、信じがたいほどの戦闘力が秘められている。彼らは斧や鎌をたくみにあやつり、その帽子は、敵の返り血で赤く染められているのだという。一説には、彼らの帽子が常に赤いのは、定期的に血を浴びなければ命を保てないからだとも。
そう、レッドキャップ族は、屈強な魔獣ですら、決して手を出さない相手だった。
(あの……赤いフードは……まさか、レッドキャップの……!)
ロアの背筋を、冷たいものが走り抜ける。
(僕は……とんでもない相手を……餌だと、思いこんでいたのか……!?)
「ねえ、狼さん」
ルーイ――ルーイ=レッドキャップは、斧を握り直しながら、静かに言った。
「ばぁばを、どこにやったの?」
その問いに、ロアは答えられなかった。
だって、ばぁばは、もう、ロアのお腹の中だ。
「コレには答えないんだね」
ルーイの青い瞳が、すうっと、氷のように冷たくなった。
「いいよ。分かってるから」
次の瞬間。
ルーイの体が、ぐっと沈みこんだ。革靴の底が、ぐっと床を踏みしめる。
そして、跳んだ。
ルーイの体が、ふわりと宙に舞った。
それは、跳躍などという言葉では足りなかった。まるで翼でも生えたかのように、ルーイは巨大な銀狼の頭上近くへと、一気に飛び上がった。
赤いフードが、風をはらんでひるがえる。
そのまま片手で握った斧を、頭上高くに振りかぶり。
ロアめがけて、まっすぐに、振りおろした。
「ぐっ……!」
ロアは、とっさに、左の前足をあげて、頭をかばう。
ルーイの斧は、ロアの左前足、その甲にあたる部分目がけて、いや、正確には、そこにはめられている指輪目がけて、まともに当たった。
縮みの魔法を込めた、ロアのただ一つの魔法の道具。祖母がくれた、青い石の指輪。
斧の刃は、その青い石を。
ぱきいいんっ!
無情にも打ち砕く。
土台の指輪も割れ外れ、青い石が、無数のかけらとなって、きらきらと宙に飛び散った。それは、朝の光を浴びて、まるで青い粉雪のように、ロアに、ルーイに降りそそいだ。
「……っ!」
ロアは、息を呑む。
(指輪が……!)
ロアのその一瞬の隙を、ルーイは見逃さなかった。
斧を振りおろした勢いのまま、ルーイは、すとんと地面に着地する。そしてその反動を利用して、再び、ぐっと身を沈めた。
「おしまい」
ルーイは、低く、呟いた。
床を蹴る。
ロアのふところ。巨大な銀狼の、無防備な腹のすぐ前へと、ルーイは飛びこんだ。
(しまっ……!)
ロアが反応するよりも、早く。
ルーイは、斧の柄を、両手でぐっと握りしめた。そして、その腹に、斧の背を、力いっぱい、叩きつけた。
どすうううんっ!
鈍く、重い衝撃が、ロアの腹の奥深くへと、突き抜ける。
「ぐ、……がぁっ!?」
ロアの巨体が、びくんと跳ねる。腹の底から、丸飲みしていたものが込み上げてきた。
ロアは、たまらず、口を大きく開く。
「ごぼっ……!」
腹の中から、何かが、飛び出してきた。
それは、小さな、薔薇の妖精だった。
縮んだままのばぁばが、ロアの口から、ころんと吐き出される。
「ばぁば!」
ルーイが、すかさず駆け寄り、両手でばぁばを受けとめた。
「ありがとさんだのよ、赤ずきん」
ばぁばは、思いのほか元気そうにしつつ、あっけらかんと言ってのけた。
「ばぁば」
ルーイは、ほっと息を吐き、少し呆れながら、ばぁばを抱きかかえる。
と 同時に、ロアの巨体が、急速にしぼみはじめた。
ばぁばを吐きだした瞬間から、ロアの体を満たしていた魔力が、潮が引くように、抜けていくのが分かった。みなぎっていた力が、みるみると失われていく。
銀色の毛が抜け、巨体が縮み、手足が細くなっていく。
そして。
ロアは、再び、元の姿へと戻っていた。
銀髪の、狼の耳と尻尾を持つ、十六歳の少年に。
「……あ……」
ロアは、冷たい木の床に、力なく、膝をつく。
魔力が、完全に、空っぽになっていた。
否、それだけではない。妖精の魔力を無理矢理取り込み、そしてそれを無理矢理失った反動で、ロア自身の生命力まで、剥がれ落ちていくようだった。
(……からだに……力が……入らない……)
視界が、ぐらりと、歪む。
視界がにじんで、ぼやけていく。
「ロア……!」
ルーイの声が、とおい。
薄れゆく意識の中、ロアは不意に温かく柔らかいものに抱きしめられた。
(……え……?)
なにが起きたのか理解できぬまま、抱きしめてきたそれから、確かに魔力が伝わってくる。
次いで、その温かく柔らかいものは、ロアの口を塞いだ。
「んぅ」
ぬるりと湿った温かく柔らかいものが、歯列を割って入り込み、ロアの舌に絡まる。
どこか甘いソレから、更に魔力が注ぎ込まれ、ロアの意識が戻ってくると、その正体に気づいた。
(ルーイ……?)
焦点が合わないほど、鼻が触れるほど近くに、ルーイの顔がある。
違う、すでに触れていて、唇が重なっていた。
自分の舌に絡まり、口内を弄るものが、ルーイの舌だと認識した瞬間、ぶわりとロアの全身を甘美な痺れがおそった。
「…ルぅ……んむっ……」
(ルーイ!?)
急速に酔いが回ったかのように、フワフワと雲のようにちっていく意識を必死にかき集めて、ロアは混乱しながらルーイを呼ぶと、名残惜しさを孕みつつ、熱い吐息と共に唇が解かれる。
「ロアは、ぼくを食べたいんでしょう?」
告げる息が唇にかかる近さのまま、いつも通りの純粋無垢な青い瞳が、とろけるように緩んだ。
そのまま、ルーイの花が綻ぶような笑顔が、ロアの視界を埋め尽くし。
「いいよ。ぼくでお腹いっぱいにしてあげる」
再びその口が塞がれた。
そうして、ルーイにたっぷりと時間をかけて甘美に魔力を注がれたロアは。
「もう、お腹いっぱい……っ」
ルーイでお腹を一杯に満たされ、幸せな辛さに耽溺しながら、微睡むように意識を沈めていった。
……
…………
……………………
フワリ、と。
甘い香りが、鼻先をくすぐる。
薔薇の香りだ。
濃厚で、温かく、どこか懐かしい、薔薇の香り。
ロアは、ゆっくりと、瞼を持ちあげた。
最初に見えたのは、木組みの天井だった。古い梁に、ドライフラワーになった薔薇の束が、いくつも吊るされている。
(……ここは……)
ロアは、まばたきをした。頭が、ぼんやりとして働かない。
ただ彼は、自分が、ふかふかのベッドに寝かされていることに気づいた。心地よい肌触りの布団が、胸までかけられている。
(僕は……)
体を起こそうとして、腰から腹に走る鈍痛に、一気に記憶が甦った。
「う……そ、……!?」
「ロア、目が覚めたの!?」
間髪入れず、すぐそばで聞き覚えのある、今は恥ずかし過ぎて聞きたくない声が響く。
ぎくりとしつつ、ロアは、声のほうへ、ぎぎぎぎ……と、錆びた人形のように顔を向けた。
そこには、ベッドの脇のイスに座る、ルーイの姿があった。
その顔は、心配と、安堵と、そして喜びとで、くしゃくしゃになっていた。青い瞳が、うるうると潤んでいる。
「よかった……! 本当に、よかった……! ずっと、目が覚めなかったから、ぼく……ぼく、心配で……」
ルーイは、ぽろぽろと、涙をこぼした。
ロアは、その姿を、信じられない思いで見つめた。
「……どうして……」
ロアの声は、かすれていた。
「どうして……僕なんかを、助けてくれたの……?」
思い出せば出すほど、羞恥に悶えそうになるが、方法はどうあれ、魔力と生命力が欠乏して死ぬはずだったロアを、ルーイは助けてくれた。
魔力を得るために、ばぁばを食べ、ルーイをも食べようとしたにも関わらずだ。
意味が分からなかった。
ルーイは、涙をぬぐいながら、きょとんとする。
「だって、ロアは、だいじな友達だもの。放っておけるわけ、ないよ」
「……っ、僕、は……」
ロアは、唇を、噛んだ。
「僕は、君を、騙していたんだよ。君を、食べようとして近づいた。おまけに、ばぁばを……、君のばぁばまで、僕は……っ。それなのに……どうして……」
声が、震えた。
ずっと胸の奥に押しこめていた罪悪感が、堰を切ったように、あふれ出す。
「僕は、君の優しさにつけこんで……ずっと、騙していたんだ。友達のフリをして、君のことを、ちょろいやつだと……ただの餌だと、そう思って……」
ルーイは、じっと、ロアの言葉を聞いていた。
そして、しばらくして、ぽつりと、言った。
「……知ってたよ」
ロアは、はっと、顔をあげた。
「……え?」
「ロアが、ぼくのこと、食べようとしてたこと」
ルーイは、静かに、ほほ笑んだ。
「ぼく、レッドキャップだもん。悪意とか殺意とか分かっちゃうんだ。だから、どうしてだろうって思って、ロアのこと知っていくうちに、ロアが魔法を使えないフェンリルの子で、妖精を食べて力をつけようとしてるんだって気づいたんだ」
ロアは、信じられない思いで、言葉を絞り出す。
「ずっと……知って、いて……?」
「うん」
ルーイは、こくり、と頷いた。
「気づいて、ぼく、思ったの。ロアは、きっと、寂しいんだろうなって」
言い当てられて、ロアの胸が、ぎゅっと、締めつけられた。
「ロアは、いつも、にこにこ笑ってたけど。その笑顔、なんだか、すごく……寂しそうだったから。本当のロアは、笑ってなんかなかった。だから、ぼく、ほっとけなかったんだ」
ルーイは、まっすぐに、ロアを見つめた。その青い瞳には、偽りのない、温かな光が宿っていた。
「だから、ぼく、本当に、ロアと、友達になりたかったんだ。ロアは、フリだったかもしれないけど。ぼくは、ずっと、本気だったよ」
ロアの目から、ひとすじ、涙が零れた。
ものごころついてはじめて、ロアは、泣いた。
「僕……ぼく、は……」
言葉に、ならなかった。
これまでの十六年。役立たずと罵られ、追放され、世界のすべてを呪い、誰のことも信じられずに生きてきた。優しさなど、信じなかった。信じることが、怖かった。
それなのに、この親切な妖精は。
真実を知りながら、騙されているふりをして、それでも、自分を信じてくれていた。本気で、友達になろうとしてくれていた。
「ごめん……っ、ごめんよ、ルーイ……!」
ロアは、両手で顔を覆って、しゃくりあげた。
「僕は……僕は、ずっと……君のことを……っ」
ルーイは、そっと、ロアの頭を撫でる。
「いいよ。もう、いいんだよ、ロア」
そして、にっこりと、笑った。
「だって、ぼくたち、もう、本当の友達でしょ?」
「話は済んだのさ」
見計らったかのように、薬湯をおぼんにのせたばぁばが、扉を開けて入ってきた。
魔法で元の大きさに戻ったばぁばは、すっかり元通り。
幼子の姿で、薔薇色の髪をそよ風に靡かせ、いたずらっぽい笑みを浮かべている。
「ばぁば!」
ルーイが、ぱっと反応し、どこか咎めるような声を上げた。
ロアは、申し訳なさそうに、眉を下げる。
「あ、あの……、僕」
「ああ、謝罪は不要だのさ。おまえさんの腹の中は、思いのほか、悪くなかったのよ」
ばぁばは、ロアのほうを見やって、にやりとした。
すると、ルーイが珍しく怒ったように、ぷくーと頬をふくらませる。
「ばぁば!白々しい!どうせ今回のことも、きみがしくんだことだろう?」
「ほーっほっほっ」
ルーイのセリフに、ロアが目を見開き、ばぁばは、おかしそうに笑った。
「仮病でぼくを誘い出して、弱った妖精がいるとロアを油断させ、行動を起こさせたうえで、態と食べられた。違う?」
「え……、ルーイ、ばぁばって、君のお婆さんでは……」
話の展開についていけず狼狽えるロアに、ルーイは首を横にした。
「違うよ。ばぁばは、あだ名。ばぁばの名はバーバラ。ぼくの厄介な昔馴染の妖精。薔薇の古妖精バーバラ」
「バー、バラ……?……ッえぇー!?あの悪名轟く悪戯妖精バーバラ!?ばぁばが!?」
その名は、ロアが妖精をさがして世界を彷徨う中、この妖精にはぜったいに関わらないでおこうと思った悪戯妖精の、ソレだった。
「おっほっほっ、仮病とはとんだ言いがかりだのさ。具合が悪かったのは本当だのよ。最近、退屈で退屈で、枯れた薔薇みたいに、しおしおしてたもの!」
ばぁばは、悪びれもせず、飄々と言ってのけ、ベッド横のテーブルにおぼんを置いた。
「しおしお暇してたら、古い顔馴染みの妖精が、獣人の子と仲良くしたいと、珍しく悩んでるときたもんだのさ。ここでひとはだ脱ぐのが、妖精ってもんだのよ」
「ふぅん……。で、ばぁば。その心は?」
「退屈しのぎに、魔法が使え無いフェンリル族という貴重なケースを腹の中からじっくり分析するついでに、顔馴染み妖精をひっかき回して遊びたかったのさぁ!」
「ばかバカばぁば!魔法馬鹿の悪戯妖精!」
ぷんすこ怒るルーイも、どこ吹く風。ばぁばは、にんまりと笑う。
「仲良し、できただろう?」
図星を突かれたのか、ルーイは頬を真っ赤に染めて、ぐぅとおし黙った。
ルーイを言い負かしたばぁばは、二人の会話に着いていけず、ぽかんとしたロアに告げる。
「そうそう。さっき言った通り、おまえさんのお腹の中で、魔力を分析させて貰ったけどさ。おまえさん、魔法が使え無いどころか、魔法を絶えず使ってる状態だのよ」
「へ?」
「先祖返りって奴さぁ。生まれもったフェンリルとしての力が大き過ぎて、自分を傷つけ無いよう、封印の魔法を使い続けているんだのよ」
「は、え……?だ、だとしたら、ぼ、僕が、死にかけたのって……」
「ばぁばの魔力でフェンリルの力が全開になったせい?」
信じられない思いで続きに詰まるロアのセリフを、ルーイが引き継いだ。
まさか、ずっと欲しかった魔法を、はじめから自分は有しており、しかも諸刃の剣だったとは。
あまりにもあんまりな真実に、ロアは起き上がりかけたからだを、脱力するまま、ぼふんとシーツに沈めた。
ルーイが痛ましそうな目で、ばぁばはご愁傷さまと言わんばかりの目で、ロアを見る。
「赤ずきんの魔力のおかげで回復はしてるけど、まだ無理は駄目だのよ。責任とって赤ずきんは、看病するのさ」
そう言うと、ばぁばは、手をひらひら振りつつ、薔薇の世話があるのさぁ、と言って、とっとと出ていってしまった。
気不味い沈黙が下りる。
「ロア、薬湯飲もうか」
「……うん」
重く鈍痛が残る背中を、ルーイに支えて貰いながら、ロアはベッドの上でからだを起こした。
ばぁばが用意してくれた薬湯をルーイから受け取り、一気に飲み干す。
ふぅ、とロアが一息ついたところで、ルーイが、もじもじと落ち着か無いようすをして、おずおずと口を開いた。
「あのね、目が覚めたら、コレ、ロアに渡そうと思ってて……」
そうルーイが、足元の籠から出して、差しだしたもの。
それは、野ばらの花束だった。
ルビーのような赤色の、小さな花びらをいくつもつけた、野ばらの花。それが、十二本、丁寧に束ねられていた。
「これ……」
ロアは、目をまるくした。
それは、あの朝、ロアにそそのかされて、ルーイが摘んだ、あの野ばらだった。
「花を貰って、うれしくない人は、いないんでしょ?」
ルーイは、にっこりと笑って、言った。
ロアの言葉を、そっくりそのまま、返したのだ。
「だから、ぼく、ロアに、お花、あげる」
ロアは、その花束を見つめ。
気づいた。
十二本。
きっかり、十二本の、赤い野ばら。
(……ダズンローズ……)
ロアは、知っていた。
十二本の薔薇を贈ることには、古い言い伝えで、特別な意味があることを。
ダズンローズ。一ダース、十二本の薔薇。
その一本一本には、それぞれ、贈る相手への想いが込められている。
「感謝」「誠実」「幸福」「信頼」「希望」「愛情」
「情熱」「真実」「尊敬」「栄光」「努力」「永遠」
そのすべてを束ねて、贈る意味は。
「生涯を共にしたい」
つまり、プロポーズだ。
ロアの顔が、みるみるうちに、真っ赤になった。耳の先まで、尻尾の先まで、かあっと、熱くなる。
「な……っ、き、君……っ、これの意味……!?」
ルーイは、きょとんと、首をかしげた。至っていつもの雰囲気だ。
(……っ、まさか、知らずにやってるの……!?)
ロアは、頭を抱えたくなった。
このお人よしで、純粋すぎる妖精は、ダズンローズの意味など、まったく知らないのだ。ただ純粋に、ロアにそう言われたから、ロアのために、きれいな花を摘んで、束ねて、贈ってくれただけなのだ。
「あー…っ、もう……っ」
ロアは、真っ赤な顔のまま、震える手で、その花束を受けとった。
「……ありがとう」
か細い声で、そう言うと。
ロアは、花束の中から、一本だけ、野ばらを引きぬいた。
そして。
その一輪を、ルーイのほうへと、差し出す。
「……これは、君に」
ルーイは、目をまんまるにした。
「えっ、ぼくに?」
「……うん」
ロアは、ぷいと顔をそむけたが、頬が、耳が、真っ赤だった。
花束から一輪だけ抜いて、返すことに込められた意味。それは……。
「プロポーズを受容れる」
(……知らないなら、それでいい。だけど、僕は……)
ロアの胸の中で、ずっと言えなかった想いが、その一輪に、託されていた。
(僕は、君と……これからも、一緒にいたい)
ルーイは、その一輪の野ばらを、両手で、そっと受けとり。
「えへへ」
ぱあっと、嬉しそうに、笑った。
太陽みたいな、眩しい笑顔だった。
「ありがとう! ぼく、お花、貰ったの、はじめて! 想いのこもったお花を貰うって、すっごく、嬉しいって、ほんとだね!」
ロアの胸が、また、きゅっとなる。
(……ほんとうに、君は……)
ロアは、そっぽを向きながらも、その口もとには、ほんの少し、ほんものの笑みが浮かんでいた。
それは、かつて誰にも見せたことのない、偽りのない、ロアの笑顔だった。
ルーイは、受けとった一輪の野ばらを、しばらく、嬉しそうにくるくると回して眺めていた。
それから、ふと、何かを思いついたようにして。
「あっ、そうだ!」
ぱっと、顔を上げた。
「ロア、ちょっと、待ってて!」
ルーイは、その場で野ばらの茎を、器用に、くるくると曲げはじめた。棘に気をつけながら、しなやかな茎を、輪っかの形にして、丁寧に編んでいく。
ロアは、不思議そうに、その様子を見守った。
「……何を、してるんだい?」
「えへへ、で〜きた!」
ルーイが、得意そうに顔を上げた。
その小さな手のうえに乗っていたのは。
野ばらで作った、小さな指輪だった。
赤い花びらがルビーのような、可憐な、花の指輪。
「これ、ロアの指輪、壊れちゃったでしょ? ぼくが、斧で割っちゃったから」
ルーイは、ちょっとだけ、申し訳なさそうに、眉を下げた。
「だから、代わりに、これ。ぼくが作ったの。へんてこかもしれないけど……」
ロアは、はっとした。
あの、青い石の指輪。祖母がくれた、たった一つの形見。それが、戦いの中で、砕けてしまったことを。
(……そうか。あの指輪は、もう……)
少しだけ、胸が痛んだ。だが……。
ルーイが差しだす、この小さな、野ばらの指輪を見ていると。
寂しさを塗り替えるように、心が、温かくなった。
「ロア、手、出して?」
ルーイが、言った。
ロアは、ためらいがちに、左手を差し出した。
ルーイは、その薬指。かつて、祖母の指輪がはまっていた、その指に。
野ばらの指輪を、そっと、はめてくれた。
ぴったりだった。
赤い花びらが、ロアの指のうえで、陽の光を浴びて、宝石のようにほんのりと煌いた気がした。
「うん、似合う! ロア、すごく、似合うよ!」
ルーイは、満面の笑みで言った。
ロアは、その指輪を、じっと見つめる。
祖母の指輪は、力を与えてくれるものだった。けれど、ロアは、それを失って、力を失った。
この野ばらの指輪には、なんの魔力もない。すぐに枯れて、しおれてしまうだろう。
でも。
ロアは、思った。
(……いや。これでいいんだ)
この指輪に込められているのは、力ではない。
ルーイの、真っ直ぐな、嘘偽りのない、温かな気持ちだ。
それは、どんな強大な魔力よりも。ロアが、ずっとずっと、欲しかったものだった。
「……ありがとう、ルーイ」
ロアは、今度こそ、心から、笑った。
ふにゃっと、表情を崩して。これまでずっと、誰にも見せられなかった、本当の笑顔で。
ルーイは、その笑顔を見て、ぱちぱちと、まばたきをした。
それから。
「わあ……!」
ぱあっと、顔を輝かせた。
「ロア、今の、すっごく、いい顔! ぼく、その笑顔のほうが、ずっとずっと、好き!」
「……うるさいよ」
ロアは、照れくさそうに、ぷいと顔をそむけた。けれど、その口もとは、やっぱり、笑っていた。
家の窓ごしに、庭で薔薇の世話をしながら、ばぁばが、そのようすを眺めていた。
「おっほっほっ」
ばぁばは、満足そうに、にんまり笑う。
「悪戯大成功だのさ。コレにて、めでたし、めでたし、だのよ」
謳うようなばぁばの声に応えるかのように、一面の薔薇が、森の空気を孕んだ風に誘われ、さわさわと踊った。
ロアとルーイ。
狼の少年と、赤ずきんの少年は、咲く花のように、笑い合っていた。
ひとりぼっちだった狼は、もう、ひとりではない。
役立たずと罵られ、捨てられた狼は、ようやく。自分を必要としてくれる、たったひとりを、見つけたのだ。
ロアの指には、野ばらの指輪が、ちいさく、赤く、光っていた。
それは、力の象徴ではなく、絆の証として。
これから先、いつまでも、二人を結びつける、約束の印として煌めき続ける。




