チチノチ
私には、父の記憶がない。二歳のとき、よそに女をつくった父は、私たち母子を置いて家をでていった。以来、中学二年生となった今日まで、私は母とふたり、つつましやかに暮らしてきた。
母は父について、多くを語ろうとしない。私も、母に詳しくたずねることはしないようにしている。写真は母がすべて処分していたから、父がどんな顔だったのかも知らない。我が家では、父の話題は禁忌のようなものだった。
父のことなど、知りたくもない。どこでなにをしていようと、私にはいっさい関係がない。父はもう、私のなかで死んだ人間なのだ。
父について知っているのは、プロ野球選手だったということぐらいだ。どんな選手だったのか、ポジションはどこだったのかはもちろん、所属していた球団さえも知らない。興味もない。どんなに輝かしい実績を残したとしても、私たち母子を裏切ったという実績の前ではすべてが霞む。
野球に罪はないけれど、私は野球を嫌悪している。父が職業としていたスポーツということだけで、充分嫌悪するに値する。甲子園の高校球児がテレビに映るたびに鳥肌がたち、すぐにチャンネルを変えた。野球のユニフォームを着た人が出演するCMが流れたら、とっさに目と耳をふさいだ。
私の野球嫌いは、中学生になったころからさらに増幅したように思える。登校時、野球部員のごま塩頭を見かけただけで、胸がむかついた。金属バットと軟式球のぶつかる音を聞いただけで、寒気がした。野球部員独特の、野太いかけ声を耳にしただけで、虫酸がはしった。
困ったことに、同じクラスに野球部員が五人もいた。しかも、休み時間になると他のクラスからも野球部員が集まってきた。私のクラスは、野球部員のたまり場のようになっていた。無数のごま塩頭が揺れる様を見ていると、めまいがしてくる。チャイムが鳴るのと同時に、私は教室の外へでていく。いきたくもないのにトイレに駆けこむこともある。昼休みも給食を済ませると、さっさと隣の教室に移動した。
隣の教室には、香織がいるのでほっとできる。幼馴染みの彼女だけは、私の過去を知っている。私が教室に入ってくると、いつも笑顔で迎えてくれる。
「明美って、いつもこっちくるけど、向こうでなんかあったの」
テニス部の聡子がたずねる。彼女とは、中学に入ってから仲よくなった。
「向こうはうるさいから、落ち着かないんだよ」
私の代わりに、香織が答えてくれた。
「ああ、たしかに野球部軍団うるさいよね」
聡子はうなずいた。校庭では、男子たちがサッカーに興じている。
しばらく他愛もないおしゃべりをしていたら、聡子が急に顔を近づけてきた。
「明美ってさあ、なんか男子のこと避けてるよね」
「え、なんで」
「だって、廊下で男子とすれちがうと、嫌そうな顔するから」
「そんなことないよ」
「男性恐怖症とかじゃないよね」
私が首を横に振ると、頬を紅潮させた聡子は目を輝かせた。
「やっぱ中二にもなったらさ、恋のひとつやふたつしないと」
「聡子は、恋してるの」
あきれた様子で香織がたずねる。
「してるよ」
「誰」
「内緒」
すぐそばのふたりの会話が、ぶ厚い壁越しに聞こえてくるようだった。否定はしてみたものの、聡子の言うとおり、私は男子が苦手だ。異性に恋心を抱いたことなど、これまでいちどもない。男は、平気で女を裏切るもの。物心がついたときから強固にはめこまれたパズルのピースは、簡単にははずせない。
それもこれも、ぜんぶ父のせいだ。
もうすぐ、四時限目がはじまる。重い足どりで自分の教室にもどった。野球部軍団は解散していて、みんな、自分の席に着こうとしていた。私も素早く自分の席にもどった。
机のなかをのぞいて教科書をとりだしていると、近づく人の気配を感じた。顔をあげると、野球部の藤瀬君が目の前に立っていた。いままで話したこともなければ、あいさつをかわしたこともない。にきびで埋めつくされた彼の頬は、ごつごつした岩石のようだった。
「宇野原の親父って、プロ野球の選手だったんだろ」
心臓が、破裂しそうなほどの大きな音をたてた。血の気が、さっと引いていく。
私のうろたえぶりを見た藤瀬君は、にやりと笑った。
「やっぱり。でも、どうして名字がちがうんだ。たしかさと」
そのあとのことは、あまりよく憶えていない。気がついたら立ちあがっていて、右の手のひらがしびれていた。左の頬を真っ赤にした藤瀬君は、目を見ひらいたまま硬直していた。騒々しかった教室が、森閑としていた。
授業開始を告げるチャイムが、静寂を突き破った。
放課後、私と藤瀬君は職員室に呼びだされた。叩いたのは私なのに、担任の先生は藤瀬君のことばかり責めていた。他人のプライベートな部分を茶化すんじゃないと。うな垂れている彼を見ていると、なんだかかわいそうに思えた。
職員室をでると、藤瀬君は私と目もあわさずに廊下を駆けていった。謝るタイミングを逃してしまった。自然とため息が漏れる。
正面玄関の下駄箱の前に、香織が立っているのが見えた。彼女の笑みを目にしたとたん、鼻の奥がつんとなった。
校門からの緩やかなくだり坂を、私たちは並んで歩いた。昨日の雨で、路面はしっとりと濡れている。雲のきれまからさしこむ西日が、あたりを赤く染めあげていく。
「天気予報じゃ、明日からまた雨だって。早く梅雨あけしてくれないかなあ」
香織は空を見あげた。
「はじめて人、叩いちゃった」
自分でもびっくりするほど、声がかすれている。
「遅い、遅い。私なんて、小一のときに殴ったことあるし」
「え、ほんと」
「うん。男の子をグーでね」
香織はこぶしを握った。たぶん、うそだ。お嬢様育ちでおしとやかな香織が、そんな野蛮なことをするわけがない。私のことを、励ましてくれているのだろう。その心づかいが、うれしかった。
父親がいないことを隠していても、どこからか嗅ぎつけてくる子はいままでもいた。彼らは容赦なく私をさげすみ、侮辱し、からかった。小学校低学年のときが、いちばんひどかった。父親がいない、というだけなのに。はじめのうちは必死にこらえていたが、徐々にこらえきれなくなり、ある日、ついに母に泣きついた。
「私はね、ひとりでふたりぶんの愛情を明美に注いでいるだよ。だから胸を張って、堂々としていなさい」
泣きじゃくる私の頭をなでながら、母はそう言ってくれた。それから、私はへこたれなくなった。打っても響かなくてつまらなくなったのか、次第に彼らはからかうのをやめた。母の言葉で、私は困難を克服することができた。
でもあのとき、私の理性は彼方へ飛んでいってしまった。父がプロ野球選手だったことをはじめて指摘されて、完璧に動揺してしまった。
どうして藤瀬君は、父の過去を知っていたのだろう。
考えながら歩くうちに、いつのまにか自宅近くまできていた。
「あんまり、気にすることないよ」
微笑んだ香織は、私の肩を軽く叩いた。
角を曲がって遠ざかる香織の靴音を聞いていたら、鼓動がふいにせわしなくなった。
空の朱色は、いつしか紺色に変わっていた。
できあがったクリームシチューの味見をしていると、玄関のドアがあいた。リビングに入ってきた母は、匂いをかぐと顔をほころばせた。よれ気味の黒のスーツが、仕事の苛酷さを物語っていた。時刻は、午後八時半をまわっている。
母は、生命保険会社で外交員をしている。夕食を済ませるなり、風呂にも入らずにうたた寝してしまうことがよくあった。私の前で弱音をはく人ではないが、きっと厳しいノルマや契約者との応対に忙殺されているにちがいない。
娘の私が言うのもなんだが、母は四十手前とは思えないほど若く見える。スタイルもいいし、顔も愛らしい。背も低く、胸もいっこうに大きくならず、顔もぱっとしない私は、母の遺伝子がちゃんと入っているのか疑いたくなってしまう。数多の男性が言い寄ってきても不思議ではないのに、母にはまったくといっていいほど男性の影がない。うまく隠しているのか、私に遠慮しているのか。母に面と向かってきいたことはないので、本当のところはわからない。
缶ビールを半分ほど飲んでから、母はシチューをスプーンですくい、口へ運んだ。にわかに緊張がはしるが、母の笑みを見て胸をなでおろした。
「濃厚でおいしい。なにか変えた」
「生クリームを多めに入れてみたんだけど」
「いいね」
母は、とても正直だ。おいしかったらおいしいと言うし、まずかったらまずいとはっきり言う。まずかったら容赦なく半分以上残すこともあるから、最初の一口はいつも緊張してしまう。母のおいしいという言葉がほしくて、料理の腕を磨いた。
これは、私が望んだことなのだ。女手ひとつで育ててくれた母に、ずっと恩返しがしたかった。小学五年のときにはじめて、夕飯は自分がつくると言ったら、母に一蹴された。背伸びしちゃだめ。子供は子供らしく、子供のうちにしかできないことをしなさいと。それでも、母の役にたちたい一心で、しつこく言い続けた。母が折れたのは、中学一年のときだった。やると決めたら、絶対途中で投げださないこと。母の言葉は、重みがあった。
夕飯を終え、キッチンで洗い物をしていると、母が近づいてきた。耳にかかる吐息は、ほのかにアルコールの匂いがした。
「学校で、なにかあった」
もっていた皿を、あやうく滑り落としそうになった。頬を赤く染めた母は、笑みをうかべていた。
「さっきから、全然目をあわせようとしないし」
母に隠し事をするのは、極めて難しい。昔から、私の微細な変化を見逃さない人だった。
水道の蛇口をひねって水をとめ、タオルで手を拭いた。
「うん、ちょっと」
「あとで話してごらん」
母はリビングにもどっていった。
話したくない。つばをのみこむと、のどが痛かった。
風呂からあがってリビングに入ると、パジャマ姿の母はソファに座って文庫本を読んでいた。いつもならさっさと横になってうとうとしているのに。寝ていたらやりすごせる、という私の期待はもろくも崩れ去った。
私がそばに座ると、母は文庫本を閉じて膝の上に置いた。ひっそりとしたリビングに、壁時計の秒針の音だけが流れている。
観念した私は、今日の出来事を包み隠さず話した。話し終わると、母は寂しそうな目をした。
「私は、暴力をふるうような娘を育てた覚えはないけど」
「ごめんなさい」
「どうして我慢できなかったの」
私は、うつむくことしかできなかった。パジャマの水玉模様が、にじんでいく。
母はひとつため息をついたあとで、ぽつりとつぶやいた。
「再婚したほうがいいのかな」
虚を突かれた私は顔をあげた。
「新しいお父さんがいれば、明美もいじめられなくて済むわけだし」
そんなの、絶対に嫌だ。私はあわてて首を横に振った。
「なんてね、うそ。もう結婚はこりごり」
苦笑いした母は、私の頭をそっとなでた。ほっとして、涙がこぼれそうになった。
「でもその子、よく明美があの人の子供だってこと知ってたね」
「うん」
母は、父のことを『あの人』と呼ぶ。
「ぱっとしない選手だったし。不思議だわ」
母は、首をかしげた。
父の過去。
知りたくもなかったはずなのに。知ったところで、なんの意味もないのに。
「お母さん」
「なあに」
「ううん、なんでもない」
変なの、と言って、母は笑った。
翌日の昼休み。給食を済ませ、隣の教室へいこうとしたとき、藤瀬君が私を呼びとめた。教室の空気が、ぴんと張りつめた。
校舎と体育館を繋ぐ通路の真ん中で、藤瀬君は足をとめた。通路の屋根に、雨粒の当たる音が響く。校庭は、雨で煙って見えにくくなっていた。
藤瀬君は、真相を明かした。彼のお父さんは千葉マリナーズの球団職員で、父が現役時代にお世話になった人だった。引退してからいまでもつきあいは続いていて、先日、一緒に飲みにいったときにお互いの子供の話になり、私のことを知った藤瀬君のお父さんがうっかり息子にしゃべってしまった、ということだった。
このときはじめて、父が千葉マリナーズの選手だったことを知った。
「親父、ほめてたぞ。現役期間は短かったけど、いいピッチャーだったって」
父がピッチャーだったことも、はじめて知った。皮肉にも、過去のほうから勝手に歩み寄ってくる。
「悪かったな。お前があんなに気にしてるなんて思わなかったから。もう誰にも言わねえよ」
渋い顔をした藤瀬君は、頭をかいた。
「もう、話は終わりでしょ」
ぽかんとする藤瀬君を置いて、校舎のほうへ駆けだした。こみあげてくるものを、抑えることができなかった。
息をきらせて教室に入ってきた私を見て、聡子は不思議そうな顔をした。
「靴下、濡れてるよ」
椅子に座ると、香織は自分のハンカチをさしだした。綺麗に折りたたまれた、鮮やかなブルーのハンカチだった。
ほんのすこしだけ、香織を疑ってしまった。香織が藤瀬君に、私の父のことをばらしたんじゃないかと。そんなこと、あるわけがないのに。目に見えないかたちで、私は親友の香織を裏切ってしまった。
頬を、一筋の涙が伝う。聡子はぎょっとしていたが、香織は穏やかな笑みを崩すことなく、なにも言わずにハンカチを私にそっと握らせた。
放課後。香織と途中でわかれ、ひとりで図書館へ向かった。今日が返却期限の本がたまっていた。雨はすでにあがっていて、ひんやりとした空気が心地よく感じられた。
受付カウンターで本を返してから、館内をぶらぶらした。奥に並ぶ机は、制服姿の学生に占拠されていた。ペンのはしる音が、静かな館内に流れている。
本棚から本棚へ移動していると、ひとりの男子の姿が目に入った。机にへばりつくようにして、一心不乱にペンをはしらせている。机の右端には、ぶ厚い参考書が置かれていた。
彼には、見覚えがあった。同じクラスの真中君だ。でも、まだひと言も話したことがない。本棚の陰に隠れながら、彼の様子を観察した。
眼鏡をしているのにもかかわらず、ノートに顔をかなり近づけている。相当目が悪いのだろうか。前髪が顔にかかっていて、表情がなかなか読みとれない。
しばらく、真中君から目を離せなかった。どうしてなのか、そのときは自分でもよくわからなかった。
翌日。なんとなく早く目が覚めてしまったので、普段よりも早めに登校した。教室に入ると、すでに真中君は窓際の自分の席にいた。英単語帳をぱらぱらとめくっている。窓からさしこむ朝日が、彼の肌の白さを際立たせていた。
真中君の他に、教室には誰もいない。私は緊張しながら彼のそばを通った。両耳にiPodのイヤホンをしているので、私のことには気づいていないようだった。いったい、どんな音楽を聴いているんだろう。足音をたてないようにして、耳をこっそりそばだてた。
弾けるようなギターの音。聴き覚えのあるメロディライン。思わずにやけてしまった。
昼休み。給食を済ませても、隣の教室へいかなかった。斜め後ろに座る真中君との会話のチャンスをうかがった。彼は、頬杖をついて窓の外を眺めていた。
「スーパーカー、好きなんだ」
声は、恥ずかしいほどうわずっていた。ぎこちない笑顔をつくって目の前に立つ私を見て、真中君はきょとんとした。
「朝、ちょっと聴こえたから」
顔が、かっかと熱くなる。心臓が、耳もとで鳴っている。静まれ、静まれ、と自分に言い聞かせた。
真中君は、照れたように微笑んだ。
「音、大きかったかな」
「え」
「気づかないうちにボリュームを大きくする癖があるんだよね。気をつけないと」
真中君は小さくため息をついた。これじゃ、彼を注意しているみたいだ。私は首を横に振った。
「大きくないよ。他に誰もいなかったから聴こえちゃっただけ」
「そう。だったらいいんだけど」
「私もスーパーカー好き。ファーストアルバム、最高だよね」
好きって言葉。口にしただけで、身体の芯がしびれてくるような感じがした。
「うん。後期のやつも好きだけどね」
「他にはどんなの聴いてるの」
「えっと、凛として時雨とか、相対性理論とか」
「わあ、私も好き」
わあ、だって。こんなにはしゃいだ声をだすのは、ずいぶん久しぶりな気がする。
真中君が白い歯をこぼした瞬間、時間よとまれ、と本気で願った。
テニス部の練習が休みだったので、放課後は久々に聡子と香織の三人で帰った。顔をあわせるなり、聡子は昼休みにこなかったことをたずねた。
「あんまりそっちばっかりいってると、いまのクラスにますます馴染めなくなるし」
藤瀬君を叩いてから、私はクラスでさらにういた存在になっていた。親しい女友だちもまだできていないから、あながちうそではない。
「野球部軍団と和解したの」
「べつに対立してるわけじゃないよ」
「でも、藤瀬のこと叩いたんでしょ」
「それは」
私が口ごもっていると、香織が助け船をだしてくれた。
「明美なりに、クラスに溶けこもうと努力してるんだよ、ね」
香織を拝みたくなった。聡子はいまいち納得がいかない様子で首をかしげた。
「私はてっきり、クラスに好きな人でもできたんじゃないかって思った」
これが俗にいう、女の勘ってやつか。私の耳たぶは瞬時に熱くなった。悟られないように、表情だけは冷静をよそおった。
「そんなんじゃないよ」
「なんだ、つまんない」
口を尖らせた聡子は、どんよりとした空を見つめた。
頭のなかはもう、真中君のことでいっぱいだった。
その日の夜は調理に集中することが難しかったので、玉子と高菜でさっとチャーハンを作るだけにした。あまりにも手早くできてしまったため、母の帰りをしばらく待つことになった。
ソファに座ってテレビをつけたが、お笑い芸人の金切り声が耳障りで、すぐに消した。真っ黒になったテレビ画面を見つめながら、真中君について考えた。
これって、恋なんだろうか。身長は私とそんなに変わらないし、失礼だけど顔も特徴がなくて平凡だし。だけど、彼と話ができてうかれている自分がわかる。もしかして、いままで男子とまともに話したことがなかったから、うかれているだけなのかもしれない。
ふと、香織の顔が思いうかんだ。そう、香織と真中君はよく似ている。容姿とかではなくて、もっている空気みたいなものが似ている。清潔で洗練されているというか。不純物がなくて透きとおっているというか。香織は学校一の美人だし、清楚で優しいし、私にとって憧れの存在でもあるけど、恋しているわけじゃない。だったら、真中君へのこの気持ちは、恋じゃなくて憧れなのかな。でも、憧れと恋って紙一重のような気がしないでもないな。などとむにゃむにゃ考えていたら、母が帰ってきた。
「だめだね」
チャーハンを一口食べた母は、レンゲを皿の上に静かに置いた。眉間にしわを寄せ、小さく息をはく。背筋が一気に寒くなった。
「このチャーハンには、明美の雑念が入ってる」
「雑念」
「ひょっとしてお主、恋してるな」
レンゲが手からこぼれ落ちそうになった。母は、私の心に盗聴器でもしかけているのか。
「やっぱり」
勝ち誇ったような笑みをうかべた母は、グラスワインをごくりと飲んだ。きっと母以上に、いまの私の顔は真っ赤だろう。
「明美も、そんな歳になったんだ。早いなあ」
目を細めてしみじみ言う母を見てたら、否定する気も失せた。
「なにも悪いことじゃない。恋せよ娘。恋は、心も身体も綺麗にしてくれるんだから」
「ほんと」
「私がその証拠」
母は自分を指さした。自分のことを臆面もなく綺麗だと言いきれるのは、一種の才能だと思う。ということは、母はいま、恋をしているということなのか。なんだか、胸のなかがもやもやしてくる。
結局母は、雑念だらけのチャーハンを平らげ、上機嫌にワインをおかわりした。最近飲みすぎのような気もするけど、母にだって仕事のストレスがあるんだから、大好きなお酒ぐらいは自由に飲ませてあげたい。
「どんな子なの。今度紹介してね」
「まだそんな段階じゃないって」
この瞬間、私は真中君に恋していることを正式に認めてしまったのである。
「ちゃんと避妊はしなさいよ」
米粒がのどに引っかかってしまった。せきこんで苦しむ娘の様子を見て、母は手を叩きながら爆笑した。ひどい。
洗い物を終えてリビングにもどると、母はソファに横になっていた。テレビを観てはいるものの、まぶたはかなり重たそうだ。
「お風呂入ってから寝たら」
「うん。そうする」
身体を起こした母は、両腕をあげて伸びをした。
「お母さん」
「はあい」
「お母さんは、お父さんのどこが好きだったの」
いままできけなかったことが、さらりと口をついてでてしまった。言ったあとで、たとえようのない後悔の波が押し寄せる。真顔になった母を見て、その波はさらに高くなり、のみこまれそうになる。ほんの数秒の沈黙が、痛くて耐えられなかった。
謝ろうと思った瞬間、母の表情がほろりと崩れた。
「かっこよかったんだよ、昔は」
すこし目を潤ませて微笑む母の顔は、お酒のせいで赤かったけど、もししらふだったとしても、きっと頬を赤く染めていたにちがいない。
そのときの母は、純真無垢な乙女のような顔をしていたから。
真中君との会話の機会は、日を追うごとに増えていった。話題の中心はやはり音楽のことで、真中君は洋楽にも詳しく、私の知らないアーティストをたくさん教えてくれた。CDも貸してもらい、自分の部屋でわくわくしながら聴いた。レディオヘッド、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、モグワイの美しいメロディを聴きながら、真中君の顔を思いうかべた。
真中君は、常に学年トップの成績をとっていた。将来は国立大の医学部に進んで医者になるのが夢だという。白衣姿の彼を想像したら、あまりにも似あいすぎておかしかった。
真中君にひかれていく一方の私だったが、肝心の真中君の気持ちがいまいちつかめなかった。どうも、私のことを恋愛対象としてみてはいないようだった。友だち関係のいまのままでも充分楽しいけれど、どこかすっきりしない。誰か他に、好きな人がいるのかな。そう思うだけで、なんだか息がつまりそうになる。
あ、そうか。これが片思いってやつなのか。
ある日の放課後、図書館に続く道を歩いていたら、前のほうに真中君の背中が見えた。小ばしりで追い着いたら、彼は静かに微笑んだ。
放課後に男子とふたりで歩くなんて、ちょっと前までは想像もしていなかった。心臓の音が、隣の真中君にも聞えそうなくらいに大きくなる。梅雨明けで威力を増した太陽が照りつけてくる。額の汗が、目に入りそうになる。
「今日も、勉強しにいくの」
「調べものしたいから」
「熱心だね」
「わからないのはその日に調べておかないと、気持ち悪くて眠れなくなるんだ」
同い年なのに、だいぶ年上の人と話しているみたいだった。
しばらくは、音楽の話をしながら歩いた。家で勉強するときは、好きな音楽を聴きながらやると集中できるのだそうだ。沈黙するのが怖くて、無理にでも話題をつくった。真中君は嫌な顔ひとつせずに、話をあわせてくれた。本当の恋人同士だったら、沈黙すらも愛おしくなるんだろうか。
「宇野原さんの将来の夢って、なに」
不意打ちのような質問に、思わず足をとめた。
「まだ、きいてなかったから」
将来の夢なんて、まだ全然考えられない。漠然と、大学にはいくんだろうなって思うだけだ。先のことは大学に入ってから決めればいいや、という甘っちょろい考えしかもちあわせていなかった。そもそも、真中君みたいに、いまのうちから将来設計がきちんとできている中学生のほうが、少数派なんじゃないだろうか。
私が答えに困っていると、真中君は頭をかいた。
「ごめん、悩ませちゃって。突然言われても、わかんないよね」
「正直、まだイメージがわかないの」
「やっぱりそうだよなあ。僕ってあせりすぎてるのかな」
真中君は小さく息をはいた。その目は、どことなく寂しげだった。
「僕の父さんね、挫折してるんだ」
「挫折」
「大学受験。国立の医学部を志望してたんだけど、二浪しても受からなくて、結局私立の理系に進んだ。敵討ちってわけじゃないけど、父さんの夢を叶えてあげたい。父さんの夢は、僕の夢。それが当り前だと、小さいときからずっと思ってた。だけどね、最近、それはちがうんじゃないかって思いはじめたんだ」
「どうして」
「僕と父さんは親子だけど、同じじゃない。父さんの夢が僕の夢だなんて、はっきりいって思いあがりなんじゃないか。父さんは、自分の好きな道を進めばいいって言ってくれるけど、僕が医学部に合格したら、父さんは素直に喜んでくれるだろうか。息子の進路を見えないかたちで押しつけてしまったって、後悔するんじゃないだろうか。あるいは、息子に負けたという劣等感が生まれちゃうんじゃないか」
真中君の語気は、段々と強くなっていった。
「それに、仮に国立に受かっても、医学部は学費が半端じゃないし、親に経済的負担をかけてしまう。うちはそんなに裕福なほうじゃないからね。なにも医学部にこだわらなくても、普通の学部に入って普通に就職したほうがいいんじゃないかって考えることもあった」
身につまされる思いがした。母は常々、大学ぐらいいかせてあげるよ、と言ってはくれているが、女手ひとつで四年間も学費を支払っていくのは相当苦しいにちがいない。母に苦労させてまでただ漫然と大学に通うのは、はっきりいって時間の無駄なんじゃないか。だったら、高校を卒業してさっさと就職したほうがまだましなんじゃないか。あの母のことだから、それは許さないと思うけど。
大学に進むんだったら、ちゃんと目的なり目標なりをしっかりもっていかなければ、せっかくの母の苦労が台なしになってしまう。甘い考えでいた自分が情けなくなってくる。
「僕は本当に医者になりたいのかって何度も自問したけど、いまの段階では結論はでていないんだ」
こわばっていた真中君の表情が、ほんのすこしだけ緩んだ。
「でも、こう考えることにした。いちど設定した夢をすぐに放棄するのは、かっこ悪いこと。とりあえずいけるところまでいってみようってね。なにが正しいのかなんていまの僕にはわからないけど、そのうちきっとわかる日がくると思うんだ。結果的に父さんが喜んでくれればいちばんだけどね」
優等生の真中君でも将来について真剣に悩んでいるんだと思うと、彼のことがよりいっそう身近に感じられた。
悩みのない人なんていないんだ。私だけじゃない。みんな悩んでもがいて苦しんで、それでも前に進もうと努力しているんだ。
「変だな、こんなこと他の人に話したことないのに。宇野原さんだと、話しやすいのかな」
見つめる彼の視線を、正面から受けとめることができなかった。これ以上、心臓を刺激しないでもらいたい。
ひとつ息をはいて、気持ちを静めてから言った。
「真中君は、お父さん思いなんだね」
「うん。父さんのことは心から尊敬しているよ」
よどみなく答えた真中君は、照れたように笑った。
いいな。私には一生言えないだろうな、そんな台詞。
などとぼんやり考えていたら、真中君の顔がみるみる青ざめていった。
「ごめん」
突然、真中君は深々と頭をさげた。なんのことか、さっぱりわからなかった。
「その、お父さんの話は、まずかったよね」
あたふたしている真中君の様子を見て、ぴんときた。教室で藤瀬君を叩いたときの会話を、真中君も耳にしていたのだろう。彼の席はすぐ近くだったから、聞きたくなくても聞えたはず。
気にしないで、全然平気だよ、と私がなだめても、真中君はなかなか頭をあげてくれなかった。周辺を歩く人たちの視線が突き刺さる。道の真ん中で男に頭をさげさせるなんて高飛車な女だな、とか思われていやしないだろうか。背中に嫌な汗をかいた。
本を返却してすぐに、図書館をあとにした。窓越しに、机にかじりつく真中君の姿が見える。
お父さんを、心から尊敬しています。
試しに、心のなかでつぶやいてみたら、肌がすぐにあわ立った。
「おにあいだと思うな、ふたり」
香織はグラスのアイスティーに口をつけた。
彼女の部屋は、私の家のリビングより広い。黒で統一された高級家具、大型テレビに高音質のコンポ、磨きあげられたフローリング。もう数えきれないくらい遊びにきているのに、玄関をあがるたびにいつも緊張してしまう。私のそばでは、ミニチュアダックスフンドのリリィが、すやすやと寝息をたてて丸まっている。
隣の教室にいかなくなって、二週間がたった。真中君と話す時間は誰もきていない早朝と昼休みのほんの数分だし、いちゃいちゃしているわけではないから、学校で私たちが話題にのぼることはなかった。でも、香織はすぐに気づいた。
「つきあっちゃえばいいのに」
「そんな簡単にいかないって」
「気軽にCD貸してくれるくらいなんだから、真中君だって明美のこといいと思ってるはずだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
コンポのなかで回っているのは、真中君に貸してもらったマイ・ブラッディ・ヴァレンタインのアルバム『ラブレス』だった。うっとりしながら聴いている香織の横顔は、すごくおとなびて見えた。
実際、香織は私よりはるかにおとなだ。
二か月前の日曜日。母と駅前のレストランで久しぶりに食事をした夜のことだった。食事を終えてレストランをでると、すぐに母は携帯電話に着信のあった友人に、折り返しの電話をかけた。基本、母は長電話だ。しばらくかかりそうだったので、私は駅のまわりをひとりでぶらつくことにした。
比較的静かな駅前商店街のアーケードを歩いていると、前の方から見覚えのある女性の姿が見えた。香織だった。声をかけようとしたのは一瞬で、私はとっさに店の壁に隠れた。彼女のかたわらに、見たことのないスーツ姿の男性がいたからだ。彫りの深い整った顔立ちの、二十代後半ぐらいの背の高い男性だった。その男性と腕を絡ませている香織は、シックな黒のワンピースを着ていた。頬を紅潮させて、うつむきながら歩く香織は、女としての色香を身にまとっていた。彼女たちの歩いてきた方向には、有名なラブホテル街があった。見てはいけないものを見てしまったという恐怖が、私をじわじわと包みこんだ。
物心ついたときから一緒だった香織が、私の気づかないうちにずっと先をはしっていた。置いていかれたような気持ちになって、商店街の片隅で声を圧しころして泣いた。
腹を割ってなんでも話せるのが親友だというのは、ただの理想論だと思う。誰だって、知られたくない秘密や問題を、ひとつやふたつは抱えている。私にも、父がいないというぬぐい去ることのできない問題がある。香織は、私から言わないかぎり、父のことには決して触れない。だから私も、香織から言わないかぎり、あの男性のことには触れない。それが、暗黙のマナーというものだ。
世間一般からすればいびつな親友関係かもしれないけれど、私にとっては居心地のいい関係なのだ。
「今度の花火さ、真中君も誘ってみようよ」
「え、いいよ、そんな」
「だいじょうぶ。ふたりの恋路の邪魔はしないから」
「そういうことじゃなくて」
花火というのは、七月末にある花火大会のこと。家からすこし離れた運動公園で、毎年おこなわれる。打ちあげる花火の本数もすくないし、派手なものもないけど、打ちあげ場所が近くて迫力がある。小学一年のときにはじめて香織と彼女の両親に連れられて観にいったときの感動は、いまも記憶のなかに鮮明に残っている。以来、香織と一緒に観にいくのが恒例となった。
真中君と一緒だったらそれはそれでうれしいけど、香織に悪い。香織だって、本当はあの男性と一緒に観たいはずだし。かといって、この際ダブルデートといきますか、なんて私が言うのもおかしい。花火だけは、香織とふたりで、嫌なことを忘れて静かに観たい。
ひたすら断っていると、香織はあきらめのため息をついた。
「楽しいと思うんだけどな」
「いいの」
奥手だねえ、と香織は笑った。
香織は、嫌な顔ひとつせずに私にわがままにつきあってくれる。私は、香織のやさしさに甘えすぎている。
片親しかいない私にとって香織は、同い年だけどもうひとりの親のような存在だ。母には相談しにくいことも、彼女は親身になってきいてくれた。困ったことがあったら、いつでも力になってくれた。顔すら知らない父より、よっぽど頼りがいがある。
だけど、香織もいつまでも私だけにかまっているわけにはいかない。他の友だちや、なによりあの男性との時間も大切にしないといけないし。私の存在が香織の足かせになっているのなら、彼女から一定の距離を置かなければならないのはわかっているけど、それは想像しただけでも憂うつになる。
私はいま、香織から自立できるかどうかの、重要な岐路に立たされているのかもしれない。
「早く、夏休みにならないかな」
香織は、しみじみつぶやいた。
ケヴィン・シールズとビリンダ・ブッチャーの至高のコーラスワークとフィードバックノイズの洪水が、私の涙腺をやたらに刺激した。
「あちゃあ、早くきすぎたか」
運動公園を見まわした聡子は、苦笑いをうかべた。脇には折りたたんだシートを抱えている。
澄みきった青い空に、降りそそぐ太陽。なびく爽やかな風が、うだるような夏の暑さを和らげてくれる。まさに、絶好の花火日和だった。
私もいく、とテニス部の練習をずる休みして聡子も強引にくっついてきた。花火は夜からなんだし、練習が終わってからでもまにあうでしょ、と説得してみたものの、場所とりも花火の醍醐味じゃない、と言ってきかなかった。顧問の先生や先輩のお説教などどこ吹く風で、聡子はいつになくご機嫌だった。後先考えずに突っぱしる彼女の行動力には、いつも驚嘆してしまう。
花火大会がはじまるのは午後八時からだけど、現在の時刻はまだ午後の二時をすぎたところ。いちばん観やすい場所を確保するために張りきって早めにきたはいいものの、夜店の骨組みさえも見当たらない。本当に今日が本番なのか不安になるくらい、運動公園は閑散としていた。
ジャングルジムのある小高い広場にシートを敷いた。ここからの花火の眺めは絶景だ。池の向こう側から打ちあがる花火が、水面にうつりこむのを、じっくりと観ることができる。開始はまだまだ先だけど、早くも胸がおどっていた。
時間が有り余っていたので、私たちは運動公園を散策することにした。陽光をたっぷりと浴びた葉桜が、緑を濃くしている。葉擦れの音が、耳に心地いい。
池のほとりでパンくずをまいたら、近くを泳いでいたカルガモの親子が寄ってきた。子ガモはもふもふしていて、とてもかわいい。母ガモが、子ガモたちのぶんまで横どりしてついばんでいる。子ガモたちは母ガモのまわりをちょこちょこ泳ぎながら、不服そうに鳴いていた。
「自分が、いちばんかわいいんだ」
香織が寂しげにつぶやく。なんだか、自分に向けられた言葉のような気がしてならなかった。
母に守られ、香織に守られて、ここまで生きてきた。でも、私は誰かを守ったことがない。父がいないという悲劇のヒロイン気どりで、守ってもらえて当然という意識が、私のなかに根づいている。あの母ガモみたいに、おいしいところだけをとっていく。傷つくことが怖いから、聡子のように一歩を踏みだせない。
私は、中途半端で脆弱な人間だ。このまま、おとなになってもいいのかな。
母ガモが、パンくずの中心からそっと離れた。パンくずはまだ充分な量が残っている。お腹を空かせた子ガモたちは、夢中になってついばんでいた。母ガモはその様子を見ながら、満足そうに鳴いた。
「やっぱり親だね。ちゃんとこどものことも考えてる」
香織の顔に笑みがもどった。
カルガモは繁殖期に子ガモが高密度になると、調整のために攻撃して殺すことがある、となにかの本で読んだことがある。ちゃんとこどものことを考えていたら、この世に児童虐待なんて存在しないはずだ。こどもなんて、親からしたら自分の人生のオプションのようなものなんじゃないか。
父が私のことを簡単に切り捨てられたのも、きっとこの先の人生において邪魔だったからにちがいない。
カルガモ親子の泳ぎをしばらく見ていたら、聡子がわざとらしいほどの大きなあくびをした。
「つまんない。どっかいこうよ」
私はこうやって公園でまったりしているだけでも充分楽しいけれど、体育会系の聡子はじっとしていられない性分なのだろう。時刻はまだ三時にもなっていない。だから練習が終わってからくればいいって言ったのに。
「どっかって、どこ」
香織がたずねる。この運動公園は町のはずれにあるので、まわりには遊べるところがない。近くに小さな商店街はあるものの、不況のあおりでほとんどの店がシャッターを閉めている。
運動公園の案内看板としばらくにらめっこしていた聡子が、あっと声をあげた。
「ここに野球場があるじゃん。今日は日曜だから、きっと試合やってるよ。観にいこう」
案内看板を指さす聡子の笑顔が、かげろうのように揺れた。彼女は、私が野球嫌いなことをまったく知らない。ましてや、父がプロ野球選手だったことも。
「聡子って、野球興味あったっけ」
香織の声も、どことなくうわずっている。
「あるある。なんてったって私、千葉マリナーズのファンクラブに入ってるんだから」
聡子は財布から会員証をとりだした。黒光りしたそのカードは、グロテスクに見えた。
「ほら、私たち、あんまり野球詳しくないし」
なおも香織がやんわりと断りを入れたが、聡子にはまったく通じていなかった。
「まかせて。私がぜんぶ教えてあげる」
「でも」
「いいから。いこう」
聡子は私と香織の手を引いて歩きだした。さすがテニス部のホープ、なんてばか力。抵抗することもできず、私たちは聡子のなすがままになっていた。
球場に近づくにつれ、男性のかけ声と甲高い金属音がきこえてきた。どうか試合がありませんように、といういちるの望みもこれで絶たれた。
「だいじょうぶ」
香織が、心配そうに小声でたずねた。
いままでみたいに嫌なことに目を背けてばかりいたら、同じところをぐるぐるまわっているだけだ。私は、腹をくくることにした。足の震えは、なかなかおさまらなかったけど。
入口の階段をのぼると、眼前にグラウンドの全景が広がった。綺麗に刈り揃えられた芝生の青が、目にも鮮やかだった。濃厚な土の香りが、鼻をくすぐる。不思議なことに、足の震えがぴたりととまった。
バックネット裏のベンチに腰かけて、スタンドを見まわした。三塁側に、家族連れが二組いるだけだった。スコアボードには、チーム名や選手名はおろか、得点すらも書かれていない。
「ただの練習試合かな」
腰をあげた聡子は、バックネットのそばまで歩いていった。グラウンドでは、ちょうど攻守交代がおこなわれている。
「すみません。得点経過はどうなってますか」
聡子は、ベンチにもどってくるひとりの選手に話しかけた。彼女の辞書に、人見知りという文字はない。
「三回が終わって、ゼロ対ゼロです。いい試合ですよ」
縦縞のユニフォームの選手が、丁寧に答えた。その声を耳にした瞬間、私はバックネットに駆け寄っていた。
「真中君」
彼は、眼鏡の奥の目を真ん丸にした。
「宇野原さん。どうしてここに」
「え、なに、どういうこと」
聡子の視線は、私と真中君のあいだをいったりきたりしていた。
真中君が野球のユニフォームを着ている。スポーツとは無縁の人だとずっと思っていたので、私は幻影でも見ているような気分になった。
「真中。次、打席まわってくるぞ」
三塁側のベンチから声がかかると、真中君は苦笑いをうかべてベンチに消えていった。
「ちょっと、なんなの」
聡子は、ぼう然と立ちつくす私の腕をとった。
「同じクラスの、真中君」
「え」
「いつも成績がトップの」
「うそ、まじで」
聡子は目をしばたたかせながら、グラウンドに視線をもどした。私と目があった香織は、放心したように首を横に振った。もしかして、と思ったが、どうやら香織もまったく知らなかったらしい。
「どっかで見たことある人だと思ったら、そうだったのか。真面目なガリ勉君ってイメージしかなかったけど、なんで野球なんかやっているんだろう」
聡子は首をかしげた。そんなの、私のほうがききたいくらいだ。
好きなものと嫌いなものが別々にくるならまだしも、好きなものと嫌いなものが組みあわさって目の前にだされたら、普通、人はどういう反応を示すのだろうか。私はただ、冷たい汗をかきながらおろおろするしかなかった。
見なかったことにして、この場を立ち去りたい。だけど、私の知らない真中君の姿を目に焼きつけたい。ふたつのあいだで、気持ちは揺れ続けていた。
ヘルメットを被った真中君が、ベンチからでてきた。右バッターボックスに入って構える。ピッチャーが足をあげるのにあわせて、左足をすこしうかせた。
乾いた音とともに、打球は鋭いライナーとなり、外野へ抜けていった。三塁側ベンチから歓声があがると、一塁ベース上の真中君は照れくさそうに笑った。
「すごい」
興奮した聡子が叫んだ。
「真中君、絶対経験者だよ。素人が、あんなスイングできるわけがない」
「そうなの」
香織がたずねると、聡子はこくりとうなずいた。
「勉強もできて、スポーツもできて。尊敬しちゃうなあ」
聡子の目が、突如として輝きだした。まずい。聡子の惚れやすい病気がはじまってしまった。
熱しやすく冷めやすい聡子は、彼氏が頻繁に変わった。自分から猛烈にアタックしてつきあったくせに、給食のときの箸の持ち方が変だという理由だけでわかれたこともあった。天真爛漫というか節操がないというか。
それに加えて聡子は、香織に匹敵するほどの美貌の持ち主だから、たちが悪い。そんな美人に声をかけられたら、男子が次々と引っかかってしまうのもうなずける。
聡子と私なんて、月とすっぽん。私がもたついているうちに、聡子は遠慮なく真中君をかっさらっていくかもしれない。
と、私が危機感をつのらせているとはつゆ知らず、聡子はのほほんと野球の解説をはじめた。ポジションからカウント、得点の入り方まで、冗舌に語った。聡子の意外な博識に、香織はいたく感心していた。
「ずっとテニスばかなんだと思ってた」
「ばかとは失礼な。能ある鷹は爪を隠す、と言ってほしいね」
聡子は胸を張った。
うわの空できいていたはずなのに、聡子の解説が自然と頭に入ってくる。ずっと前から知っていたような、どこか懐かしい感じ。六回が終わるころには、野球のルールがあらかた理解できるようになっていた。
私のなかに流れている父の血が、そうさせるのか。
ショートを守っていた真中君を、強烈なゴロが襲った。それでも、彼は臆することなく丁寧に捕球して、一塁へ正確に放った。サードの人とグラブでハイタッチをする真中君は、学校でも見せたことのないほどの満面の笑みをたたえていた。
両チームとも、年齢構成はばらばらだった。真中君と同学年ぐらいの男子もいれば、明らかに五十代のおじさんまでいた。真剣勝負のなかにもどこかほのぼのとした雰囲気があって、あちこちで笑顔が咲いていた。お腹のでた中年の人たちもみんな、野球小僧にもどっていた。
観るのも嫌だった野球が、みんなをあんなにも笑顔にしているなんて。回を追うごとに、私は試合にのめりこんでいった。
試合は二対一で、真中君のチームが勝利した。決勝点は、真中君のタイムリーヒットだった。今日のヒーローは、三塁側ベンチ前でチームメイトからもみくちゃにされていた。
気づいたら、立ちあがって拍手を送っていた。
球場の外で待っていたら、真中君がチームメイトに冷やかされながらでてきた。土で汚れたユニフォームや彼のはにかむ顔が、私の鼓動を加速させた。
「かっこよかったよ」
聡子の目は、とろんとしていた。いかん。完全に恋に落ちている目だ。べつの意味で鼓動がさらに加速する。
「ありがとう。君たち、ひょっとして花火を観にきたの」
真中君がたずねると、香織が、早くきすぎて暇だったので野球を観にきたと答えた。真中君は、なるほどとうなずいた。
「すごい偶然だね。こんなところで会うなんて」
「これって、運命かも」
聡子は顔の前で手を組んで目をうるうるさせたが、真中君はやや困惑の表情をしていた。すこしほっとした。
「僕たちもこれから着替えにもどって、夜から花火を観るんだ。祝勝会も兼ねてね。よかったら、君たちも一緒にどう」
「楽しそう。ぜひぜひ」
はしゃぐ聡子の隣で、香織は戸惑う私に微笑みを向けた。
「私たち、あそこに場所確保しておいたから」
聡子はジャングルジムのほうを指さした。いつのまにか、人の姿が目につくようになっていた。夜店の骨組みも、ほぼ完成しつつある。
「いい場所だね。六時ごろに十五人ぐらいでいくから、悪いんだけど、もうちょっと広めにとっておいてくれないかな」
「うん。まかせといて」
聡子は、親指を立てた。
二人が三人、三人が十八人。静かに花火を観るなんてことはできそうもないけど、それほど残念には思わなかった。
私も、心のなかではしゃいでいたのだ。
六時ちょうどに、真中君は監督さんやチームメイトを引き連れてやってきた。真中君以外は知らない人ばかりだったので、最初はかなり緊張した。聡子はものの数分で溶けこんでいたが。
空が徐々に暗くなっていく。桜の木に吊された紅白の提灯に、明かりが灯る。昼間は閑散としていた運動公園が、いまは人でごった返していた。綿アメや焼きそばなどの夜店の前も賑わっていた。
シートに座るなり、おとなたちは缶ビールで、こどもたちはコーラやオレンジジュースで乾杯した。監督さんが夜店で買ってきてくれた焼きそばやたこ焼きが、目の前にずらりと並んだ。外で食べる焼きそばって、どうしてこんなにおいしいんだろう。夢中になって食べたら、あっというまになくなった。
聡子の見こみどおり、真中君は小学二年のときからリトルリーグで野球をやっていた。小学五年のときにはクリーンアップを打つまでになったが、小学六年になったころから視力がどんどん悪くなっていき、バッティングの調子を崩してしまう。まわりのおとなたちは視力回復手術を受けて野球を続けることをすすめたが、真中君はあっさりと野球をやめた。自分の今後の成長と実力を冷静に見極めたうえでの決断だった。中学に入ってからは勉強に専念したが、それでも、たまには息抜きで野球をしたくなって、リトル時代の友だちから紹介された草野球チームに入ったということだった。
「僕には厳しい練習とか上下関係とかが肌にあわなくて。こうやって好きなときに野球をしているほうが楽しいし、充実しているんだ」
真中君は紙コップに入ったコーラに口をつけた。
「もったいないなあ。あんなにうまいのに」
聡子が言う。オレンジジュースしか飲んでいないはずなのに、顔は真っ赤だった。
「プロにいったり甲子園にでたりするレベルの人は、あんなもんじゃない。比べるのもおこがましいよ。野球を楽しめるだけのある程度の下地さえあれば、僕には充分なんだ」
「すごいね。自分のことを客観的に見れてる」
香織が感心したように言う。
「そうでもないよ。未熟な部分もまだまだたくさんあるし」
照れ笑いする真中君と、視線がぶつかる。鼓動が、せわしなくなる。彼の未熟な部分、将来の夢について思い悩む姿を、私は知っている。ふたりだけの秘密。ひとりで勝手に舞いあがってしまった。
七時をまわると、おとなたちはすっかりできあがっていた。漂うアルコールの匂いだけで、酔ってしまいそうになる。
みんなで学校の話で盛りあがっていたとき、ひとりの大柄な中年男性がやってきた。ビニールの手さげ袋のなかは、缶ビールでいっぱいだった。
「遅いぞ、藤瀬」
監督さんがたしなめるように言うと、苦笑いをうかべた中年男性はシートの上にあぐらをかいた。その名前。ごつごつした頬。背筋がぞくっとした。
藤瀬君のお父さん。真中君の渋い表情を見て、それは確信に変わった
「すみません。駆けつけ一杯ということで」
藤瀬君のお父さんは、五百ミリリットルの缶ビールをたったの五秒で飲み干した。その見事な飲みっぷりに、おとなたちは拍手喝采を送った。
「たまに遊びにくるんだよ。監督とは、大学の先輩後輩の間柄だから。今日はまずこないと思ってたんだけどなあ」
真中君が、小声ですまなそうに言った。
「どうしよう」
「だいじょうぶ。藤瀬君はこういうところにはこないから」
「ほんと」
「うん」
ふたりでひそひそ話をしているのが面白くなかったのか、聡子が、そこなにやってんの、と声を荒げた。私たちはほぼ同時に、唇に人さし指をくっつけた。
生きた心地がしないというのは、まさにこのことだ。叩いてしまった人の父親が、すぐそばに座っている。藤瀬君はお父さんに、私のことを話したのだろうか。いや、女の子に叩かれたなんて、恥ずかしくてお父さんには言えないか。でも、ひょっとしたら言っているのかもしれない。
缶ビールを一気に三本も空けた藤瀬君のお父さんは、監督さんたちと野球談義に花を咲かせた。話題はほとんどが千葉マリナーズのことだった。ここ最近のふがいない成績を嘆き、昔の黄金時代を懐かしむように話していた。
ここにマリナーズファンの聡子が加わったら、父のことがばれてしまうかもしれない。緊張は極限にまで達したが、聡子は忽然と姿を消していた。あたりを見まわすと、仲よくなったチームの若い男子ふたりにはさまれて、夜店のほうへ歩いていく聡子の後ろ姿が見えた。早い、早すぎる。
「私たちも、夜店いこうか」
香織が気をきかせて言ってくれた。私と真中君はうなずき、そっと腰をあげた。
「だから、みんな佐藤のことを過小評価してるんだよ」
藤瀬君のお父さんが、がなるように言う。踏みだした足が、とまった。
「でた、藤瀬さんの佐藤びいき」
「ひいき目じゃねえぞ。佐藤があそこで前川を抑えなかったら、マリナーズは日本一になれなかったんだ」
「でも佐藤って、あのシーズンしか活躍できなかったよね」
「あいつはあの試合で、燃えつきちまったんだよ。太く短い野球人生。潔くてかっこいいじゃねえか」
藤瀬君のお父さんの熱弁に、おとなたちはあきれたように笑った。 身体の奥底から、得体の知れないなにかがこみあげてきた。ふと、母の乙女のような顔が思いうかんだ。
「明美」
我に返ると、香織が私の顔を不安そうにのぞいていた。
「いこう」
私は、香織の手を引いた。
夜空に、色とりどりの大きな花が咲く。咲くたびに、歓声と拍手が交錯する。香織も聡子も、息をのんで花火を見つめている。
私の隣には、真中君がいる。彼の小指と、私の小指が軽く触れた。あわてて離すと、真中君の小指が追いかけてきた。私たちは、ごく自然に、そっと手をつないだ。
明滅するカラフルな光は、私の心に深く染みこんでいった。
翌朝の七時。母が出勤したのを見送ったあとで、母の部屋へ入った。無駄なものがいっさいない、殺風景な部屋。置いてあるものはデスクと本棚とタンスぐらいなものだった。
椅子に座り、机上のノートパソコンを起動させた。インターネットに接続し、検索サイトをひらく。ひとつ深呼吸をしてから、震える指で『佐藤史朗』とひと文字ずつ入力した。検索結果のいちばん上に、ウィキペディアがでた。
『佐藤史朗は元プロ野球選手(投手)。明理大学を経てドラフト三位で千葉マリナーズに入団。中継ぎとして日本シリーズにも登板したが、その後は左肘の故障などで成績はふるわず、五年目に自由契約。同年、引退した。実働五年 通算七十七試合登板 生涯成績 一勝五敗 防御率五.八二』
書かれていた文章は、たったこれだけだった。母がぱっとしない選手だったと言っていたのも、うなずけた。
けれど、藤瀬君のお父さんの言葉が、頭に焼きついて離れない。父は、日本シリーズで本当に活躍したのだろうか。
動画投稿サイトでも父の名前で検索をはじめたが、まったくヒットしなかった。『千葉マリナーズ』で検索しても、往年のスタープレイヤーや現役選手の動画ばかりで、父に関する動画はひとつもなかった。
あきらめかけたとき、藤瀬君のお父さんが前川という名前を言っていたのを思いだした。野球にうとい私でも、その名前は聞き覚えがあった。たしか、いまもメジャーリーグで活躍している選手だ。
『前川』で検索したら、四百万件もヒットした。ウィキペディアで、メジャーリーグにいく前は広島ベアーズに所属していたことがわかった。
動画投稿サイトにも、前川選手の動画はあふれていた。百五十キロ以上の剛速球をいとも簡単にスタンドへ運ぶ姿は、スーパースターのオーラに満ちあふれていた。こんな選手を父が抑えただなんて、とても信じられない。
『前川』『千葉』『広島』『日本シリーズ』等々、いろいろな言葉を入れて検索してみた。一時間ほど格闘したのち、あるひとつの動画にたどり着いた。
その動画のタイトルには、試合の日付しかなかった。八回の裏、五対四でマリナーズがリードしているが、ツーアウト満塁の絶体絶命の大ピンチだった。カウントはツーボール・ツーストライク。
左バッターボックスに入った前川選手が、ゆっくりと構えに入った。彼の眼光の鋭さは、画面を通しても伝わってくる。赤のユニフォームが、ひときわ鮮やかに見えた。
マウンドに立つ左ピッチャーは、肩で大きく息をしていた。黒と白のユニフォーム。背番号二十六、SATOH。
背中を見ただけで、父だとわかった。
画面が切りかわり、父の顔がアップになる。はじめて見る、父の顔。眉間にしわを寄せて、歯を食いしばる父。あごから、大粒の汗がしたたり落ちる。
右足をあげ、前に踏みだす。長い左腕が、しなる。呼応するかのように、前川選手も右足を踏みだした。バットが、大きな弧を描いた。
白球は、キャッチャーのミットにしっかりとおさまっていた。前川選手がバットを叩きつけて悔しがるのと同時に、マウンド上の父はこぶしを握りしめて猛々しくほえた。怒号にも似た歓声があがったところで、動画はぴたりととまった。
静止した画面を見つめたまま、しばらく動くことができなかった。歓声が、窓の外の蝉時雨に変わる。
これが、お父さん。
プロ野球選手だった、お父さん。
お母さんが愛した、お父さん。
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父の顔はもう、ぼやけて見えなくなった。
朝と同じパジャマ姿のままで両目を真っ赤に腫らした私を見て、帰宅した母は目をみはった。
「どうしたの」
バッグをソファに置くと、母は床に膝を抱えて座る私の顔をのぞきこんだ。
「ごめん。夕飯の支度、してない」
「そんなことはいい。なにがあったの」
母は、私の両肩に手を置いた。とっくに枯れたと思っていた涙が、またあふれだしてくる。
いい歳して、母の胸のなかで思いきり泣いた。
久しぶりに、母が夕飯を作ってくれた。冷蔵庫のなかのありあわせで作った肉野菜炒めだったけど、味が濃くておいしかった。朝からなにも食べてなかったから、いくらでもお腹に入った。ご飯も二杯おかわりした。
食後に麦茶を飲んだら、ずっとたかぶっていた気持ちが落ち着いた。いつもならお酒に手を伸ばす母も、今日は麦茶しか飲んでいない。空になったコップを見つめながら、母は小さく息をはいた。
「明美、いくつになったっけ」
「十四」
「そっか。潮時かもね」
ひとりごとのようにつぶやいた母は、うれしいような、悲しいような、なんともいえない目をしている。
姿勢を正した母は、ゆっくりと語りだした。
「私とお父さんね、大学のときに知りあったの」
はじめて母が、父のことを『あの人』ではなくて『お父さん』と呼んだ。
「硬式野球部のエースで、プロにも注目されてたすごい人だったんだけど、私は野球音痴だったから、いまいちぴんとこなかった。たまたまゼミが一緒で仲よくなって、自然につきあいはじめたから、野球がきっかけになったわけじゃないんだよね。つきあうようになってからちょくちょく試合を観にいくようになって、私も野球のことを詳しく知ろうとしたんだけど、お父さんはそんなことしなくてもいいって言った」
「どうして」
「野球とプライベートはきっちり分けたいんだって。デート中に野球の話をされたらうんざりするって。だから私は、野球のことを知ろうとしなかった」
母の表情が曇る。
「卒業後は銀行に就職が決まってたんだけど、ドラフトでマリナーズへの入団が決まった直後にお父さんにプロポーズされてね。まだ早すぎるってまわりから反対されたけど、押しきっちゃった。当時は若かったから、なんとかなるだろうって楽観してた」
母は、ひとつため息をついた。
「だけど、お父さんはなかなか芽がでなくて、ずっと二軍暮らしだった。二年目には無理がたたってフォームを崩した。私はそんなときも、家では野球の話をしないようにした。つらいことを蒸し返しても意味がないと思っていた。だけど、それが根本的に間違ってたんだよね」
「間違いって」
「明美が生まれて、私は子育てに追われた。お父さんは遠征続きで、ほとんど帰ってこない。たまに帰ってきても、疲れた顔をしていたから、野球の話は避けた。だけど、お父さんは、私に野球の話をきいてほしかったの。つらいこと、苦しいことを、私と分かちあいたかったんだよ。だけど、私はうまく切りかえられなかった。よかれと思って、野球の話はしなかった。それから三年目を迎えた春になって、とうとうお父さんは家に帰ってこなくなった」
母は、そっと唇を噛んだ。
「きっと息苦しかったんだろうね、家に帰ると。私が、意図的に野球を避けていたから。本当は、なぐさめてほしかったんだよ。弱みを見せたかったんだよ。あのとき、どうして気づいてあげられなかったんだろう」
「お母さんは悪くない。それは、お父さんが悪いでしょ」
身を乗りだして言うと、母は首を横に振った。
「結局は、お父さんの表層的な部分しか見ていなくて、内面を深く見ることができなかった私が悪いの。だから、他に女の人ができたって知ったとき、ショックというよりもほっとした。受け入れてくれる人に出会えたんだって」
「そんな」
「離婚の話は、私からきりだした。慰謝料はいらない。明美とふたりで生きていくって。お父さん、泣きながら、すまない、すまないって何度も謝ってたなあ。もう、めちゃくちゃかっこ悪かった。あんなお父さんの姿、二度と見たくなかった。まあ、そういうところが、いけなかったんだけどね」
母は静かに笑った。
「あの年のお父さんは、とても輝いてた。シーズンでも、日本シリーズでも。それをテレビで観てたら、離婚したのは間違いじゃなかったんだって思った」
今日の母は、はかなく、小さく見える。息を吹きかけたら、消えてなくなってしまいそうなくらいに。
「明美には苦労かけたね」
「え」
「私がふがいないばかりに、寂しい思いをたくさんさせた。母親失格だな」
母の自虐的な言葉に、たまらず食卓を手で叩いた。
「そんなことない。寂しかったけど、お母さんがそばにいてくれたから、私は頑張ってこられた。新しいお父さんがほしいだなんて、いちども思わなかった」
「明美」
「お母さん、生きてこうよ。ずっとふたりで」
母とふたりなら、どんな困難も乗り越えられる。いや、絶対に乗り越えてみせる。
母は一瞬きょとんとしたあとで、腹を抱えて笑った。
「ばかだねえ、あんたは結婚して幸せにならなきゃいけないの。ずっとふたりなんて嫌だよ、気持ち悪い」
「気持ち悪いって、ひどい」
「孫の顔くらい、見せてよね」
「まだ早すぎるでしょ」
言ってるうちにおかしくなって、吹きだしてしまった。しばらくのあいだ、ふたりで笑いあった。
伸びをした母は、おもむろに腰をあげた。
「ちょっと、お風呂で泣いてくる」
「うん」
母の背中は、いつもの大きさにもどっていた。
翌朝。フレンチトーストとサラダの朝食を済ませると、母は私に一枚のハガキを手渡した。
「なに、これ」
「お父さんからの年賀状」
私は息をのんだ。ハガキの表面には、父の名前と住所が書かれてあった。裏面には、干支のウサギが跳びはねている絵が描かれている。今年の年賀状だ。
「私はもう、お父さんとけりをつけた。今度は明美がけりをつける番。それをどうするかは、あなた自身で決めなさい。会いにいってもいいし、嫌だったら破り捨てたって構わない。じっくり考えてから、結論をだしなさい」
「お母さん」
「まあ会ってもがっかりするだけだろうから、おすすめはしないけどね」
母は片目をつむった。
玄関でヒールをはく母の姿を、後ろから黙って見つめた。見慣れた光景が、今日はひときわまぶしく映った。
ふり向いた母は、手をふった。私も、手をふった。
玄関のドアがひらく。朝の新鮮な陽光が、さしこんでくる。
「お母さん」
「なあに」
「ありがとう」
微笑みをうかべた母は、ゆっくりとドアをしめた。
遠ざかる母の靴音をききながら、もういちど、ありがとうとつぶやいた。
プリントアウトした地図をクリアファイルにとじて、バッグに入れた。年賀状は、財布のあいだにはさんでおいた。
昼すぎに玄関をでると、焼けつくような日ざしが襲ってきた。熱せられた路面が、蜃気楼のように揺れている。すぐに額から汗がにじんだ。
駅に向かって歩いていると、香織がリリィを散歩しているのが見えた。私に気づいた香織は、足をとめた。リードをいっぱいに伸ばしたリリィは、しっぽをふりながら私の靴をくんくん嗅いでいる。
「どこいくの」
「お父さんに、会いにいく」
香織は目を丸くしたが、すぐにいつもの穏やかな表情になった。
私たちのあいだに、余計な言葉はいらない。心で、いくらでも会話ができる。
「気をつけて」
「うん」
私たちはすれちがい、ゆっくりと遠ざかった。
「明美」
後ろを振り返ると、香織はこちらを向いて微笑んでいた。
「会えるといいね」
私は大きくうなずいた。
エールでも送ってくれているかのように、リリィが甲高い声で鳴いた。
駅なかにあるファストフード店で遅めの昼食をとったあと、のぼりの快速電車に乗った。駅を通過するにしたがって、落ち着かなくなっていった。iPodから流れるスーパーカーの音楽が、まったく頭に入ってこない。
会いにいくと決めたものの、父の反応が怖かった。いまさらのこのこ現れやがって、と一蹴されるか。無視されていなかったことにされるか。いずれにしても、手放しで歓迎してくれるとは到底思えない。
最寄り駅に到着し、改札をくぐった。バッグのなかから地図をとりだす。父の家があるニュータウンまで、ここから歩いて二十分ぐらいかかる。普段ならなんでもない距離なのに、ものすごく遠く感じられた。引き返しちゃえば、ともうひとりの自分がささやく。私は頭をふり、一歩ずつ踏みしめるように進んだ。
午後四時をまわっても、日ざしはいっこうに衰える気配がなかった。首筋や腕に、刺すような痛みがはしる。皮膚のあちこちから、汗がしたたる。途中にあった自動販売機で買ったスポーツドリンクを飲んで、のど渇きをうるおした。
父の家は、ニュータウンのはずれにあった。築三十年くらいの、古ぼけた家だった。表札に書かれている佐藤の字も、ところどころがはげていた。元プロ野球選手なのだから、契約金とか給料もたくさんもらっていたはずなのに。ましてや、慰謝料も払ってないのに。あまりにも想像とちがっていたのであ然とした。
家の前に、三人の男の子がやってきた。私はあわてて電柱の陰に隠れた。三人とも五歳ぐらいのちびっ子だった。そのうちのひとりの男の子が、ジャンプしてインターホンを押した。すこしして、ドアが音をたててひらいた。私はごくりとつばをのみこんだ。
でてきたのは、やはり五歳くらいの、男の子だった。くりっとした大きな目が印象的な、かわいらしい子だった。その子はゴム製のサッカーボールを脇に抱え、迎えにきた三人の友だちとはしゃぎながら、私の立っているところと反対方向に元気よく駆けていった。
家からでてきたということは、あの子は佐藤家の子。ということは、私の異母弟にあたる子。目の前が暗くなり、身体の力が抜けた。ありえないことではなかったけど、実際に目の当たりにするとショックは大きかった。
ということは、いま、家のなかには、父の再婚相手がいる可能性が高い。鼓動が、激しさを増した。いくべきか、いかざるべきか。冷たい汗が、こめかみを伝う。
結局、インターホンを押すことはできなかった。父と会う以上に、再婚相手と会うのが怖かった。それこそ、なにを話していいのかわからない。
いつも、こうだ。肝心なときに、心がぽきりと折れてしまう。
電柱に寄りかかって途方に暮れていると、こどもたちのはしゃいだ声がきこえてきた。ここからはそう遠くないところだ。私は、声に引き寄せられるようにして歩きだした。
滑り台と砂場ぐらいしかない小さな公園に、さっきの四人はいた。サッカーボールを蹴って、元気いっぱいにはしりまわっていた。元プロ野球選手の息子なのに、サッカーを楽しんでいる。なんだか皮肉に思えた。
水飲み場の脇にあるベンチに腰かけて、弟の様子を眺めた。汚れを知らない純真な笑顔が弾ける。
あの子には、私の存在なんて必要ない。
私がいたところで、あの子の人生にはなんの役にもたたない。
午後五時をまわり、防災無線から夕焼け小焼けのメロディが流れてきた。それにあわせて男の子がひとり、またひとりと、公園をあとにした。ひとりぽつんと残った弟はまだ遊び足りないのか、ボールを両手にもって寂しそうにしていた。
公園から離れようと腰をあげたとき、私に気づいた弟が駆け寄ってきた。あまりにも素早かったので、隠れる暇もなかった。
「遊ぼ」
「へ」
「サッカーしよう」
弟はにこにこと笑いかけた。
「私、あんまりサッカーわかんないし」
すると、弟の顔がみるみる曇っていった。両目には涙もたまっていて、いまにもあふれだしそうになっている。しまった。ここで泣かれたら、私は不審者扱いされてしまう。
「わかった。やろうやろう」
私が言ったとたん、弟の涙は引っこんで満面の笑顔になった。見事なまでの切りかえの早さ。弟には子役の素質があるのかもしれない。
弟のシュートは、ちびっ子とは思えないほどの力強さだった。柔らかいゴムボールなのに、腿に当たった瞬間に鈍い痛みがはしった。力まかせに思いきり蹴りこんだが、ボールの中心をとらえることができずに、山なりになってしまった。
「へたくそ」
時にちびっ子は、無邪気に毒をはく。ドッジボールみたいに上から投げて、顔にぶつけてやりたくなった。
それでも、蹴っていくうちに、徐々にこつがつかめてきた。真っ直ぐに飛ぶと、気持ちがよかった。いつのまにか私は、ボールを蹴るのに夢中になっていた。
こんなかたちで、弟と遊ぶことになるなんて。あの子、私が本当にお姉ちゃんだと知ったら、びっくりするんだろうな。
「こら、貴弘。いったい何時だと思ってるの」
背後からかかった女性の声で、私は足をふりあげるのをとめた。恐る恐るふり向くと、そこにはエプロン姿の長身の女性が、険しい顔をして立っていた。
貴弘は、しゅんとしながら女性の足にすり寄った。
「ごめんなさいね。うちの子が迷惑かけて」
「いえ、とんでもないです」
声がかすれて、でにくかった。女性は、私の足もとにあるボールを手にとった。
この人が、父の再婚相手。
身体の震えがひどくなり、歯止めが効かなくなる。私はもう、冷静ではいられなくなった。逃げろ。とにかく、逃げるんだ。
「私はこれで」
女性に背を向け、早足で歩きだした。一刻も早く、ここから立ち去りたかった。やっぱり、くるべきじゃなかったんだ。
「待って」
女性が声をかける。私の靴裏は、磁石のように地面にぴたりとはりついた。
「あなた、明美ちゃんでしょ」
心臓が、口から飛びでそうになった。
なんで。どうして。背中に『宇野原明美』って名札でもくっついてたのか。
そっと振り返ると、女性はにっこり笑っていた。
「やっぱりそうだ」
「は」
「その困った顔、お父さんにそっくり」
女性は、名前を沙也香さんといった。
貴弘を真ん中にして、私たちは手をつないで歩いた。日が沈んでうす暗くなった空には、よいの明星がまたたいている。
沙也香さんは私を、自宅に招いてくれた。歩くたびに木の床はきしみ、壁には汚れや染みがいくつもついていた。
「リフォームしたいんだけど、お金がなくて」
私の視線に気づいた沙也香さんは、すまなそうに言った。
リビングの食卓に通された私が腰かけると、沙也香さんが冷たいウーロン茶をもってきてくれた。貴弘はテレビにかじりついて、アニメを食い入るように観ていた。
「貴弘。そんなに近づくと目が悪くなるでしょ」
沙也香さんが注意すると、頬を膨らませた貴弘は一歩後ろにさがった。
沙也香さんはたぶん母と同じぐらいの年齢だと思うが、ファッション誌にモデルとしてでていても充分通用しそうなくらい、綺麗な人だった。母といい、沙也香さんといい、父は美女を射止めるのが上手らしい。そう思うと、なんだか腹立たしくなった。
「まさか、明美ちゃんに会えるだなんて、夢にも思わなかった」
コップを両手で包むようにもった沙也香さんは、まじまじと私を見つめた。視線をあわすことができず、うつむいた。
「お父さんに、会いにきたの」
「ええ。まあ」
「最近、帰りが遅くてね。九時すぎになっちゃうかも」
沙也香さんは壁時計を見た。時刻はまだ六時半をまわったところだった。キッチンからは、カレーのいい匂いがする。
「明美ちゃん」
「はい」
「私のこと、どう思ってる」
顔をあげると、沙也香さんは真剣な眼ざしを向けていた。
「あなたのお父さんを奪った、最低な女だと思ってるでしょ」
「そんなことありません」
「ほんとのこと言って」
「ほんとです」
最後は、涙声になっていた。
「やさしいな、明美ちゃんは」
沙也香さんは、表情をやわらげた。
「ひどい女だって、ののしってくれたらいいのに」
そんなこと、言えるわけがない。悪いのは、父なのだから。
アニメが中盤にさしかかると、貴弘がお腹が空いたとぐずった。沙也香さんは私にもカレーをごちそうしてくれた。隠し味のフルーツの甘さが口に広がる。食べ進むうちに、張りつめていた気持ちがすこしずつほぐれていった。貴弘はカレーを口いっぱいにほおばりながら母親に、おねえちゃん、サッカー、超へただったんだよ、と得意気に話した。おのれ。私は食卓の下でこぶしを震わせた。
食べ終わると、貴弘はまたテレビの前にもどっていった。
「お父さんはいま、どんな仕事をしているんですか」
キッチンで洗い物をする沙也香さんにたずねた。
「今年から、健康食品の営業をやってる。引退してから、これで四度目の転職。どれも長続きしないんだよね」
沙也香さんはため息をついた。
「不器用な人だから、無理もないんだけど」
本当に困った話なのに、沙也香さんの顔に悲壮感はみじんもない。笑みさえうかんでいる。まるで、不幸すらも楽しんでいるかのようだった。
「お給料も安いし、貴弘が小学校に入ったら、私もパートにでるつもり。やっぱり、一馬力は大変ね」
食卓にもどった沙也香さんは、私に食後のアイスコーヒーをだしてくれた。貴弘は、テレビから流れてくるアニメの主題歌にあわせて口を動かしている。
アイスコーヒーを一口飲んでから、たずねた。
「沙也香さんは、お仕事、なにやってたんですか」
「スポーツ新聞の記者。しかもプロ野球担当」
「え、ほんとですか」
「それがきっかけで、お父さんとも出会ったんだから」
ストローでアイスコーヒーをかきまわしていた沙也香さんの表情が、ふいにかげった。
「先の話、ききたい」
「え」
「あなたには、つらい内容になるから」
手をとめた沙也香さんは、私をじっと見つめた。グラスのなかの氷がとけて、崩れる音がした。
傷つくことを怖れていたら、前に進むことなんてできない。私は、覚悟を決めてうなずいた。
新聞社に入ってすぐ、沙也香さんは千葉マリナーズの番記者になった。主に二軍で、若手の有望選手への取材をしていた。そのなかのひとりに、父がいた。
当時、フォームを崩して二軍でくすぶってた父は、沙也香さんの取材に非協力的だった。なにを質問しても、まともな答えが返ってこなかった。最初のうちは我慢していた沙也香さんだったが、あるとき、ついに堪忍袋の緒がきれた。
「言葉のキャッチボールができない人が、まともな球を投げられるわけがないじゃないですか。だからあなたは、いつまでたっても二軍暮らしなんですよ」
沙也香さんの一喝が相当こたえたらしく、それから父は素直に取材に応じるようになった。
二軍で結果を残した父はその後、徐々に一軍で投げるようになった。次第に沙也香さんとも仲よくなり、一緒に食事をする機会も増えた。それでも沙也香さんは、妻子のある父に対して、特別な感情を抱くことはなかった。あくまでも、選手と番記者としての関係を続けていた。
ふたりの関係に変化がおとずれたのは、二年目の九月の札幌遠征だった。
札幌ドリームスとの首位攻防戦を控えた前日の夜、取材のため現地入りしていた沙也香さんは、父に、宿泊先のホテルに電話で呼びだされた。いつになくしずんだ声だったので、沙也香さんは嫌な胸騒ぎを覚えた。
そっと部屋のドアをあけた沙也香さんは、その光景に目をみはった。部屋の片隅で、父は肩を震わせてうずくまっていた。プロ野球選手になってはじめての経験、ペナントレースを左右する天王山を前にして、父は極度の緊張状態におちいっていた。
恐る恐る近づいた沙也香さんを、父は強く抱き寄せた。抵抗することも忘れるほど、父の精神は弱りきっていた。
身体の震えがおさまるまで、沙也香さんはなにも言わずに父の背中をさすっていた。
翌日からの三連戦すべてに中継ぎとして登板した父は、強打を誇る札幌打線を完璧に封じた。首位攻防戦を制したマリナーズはその後、悲願のリーグ優勝を果たした。
ホテルでの出来事を境に、ふたりはより親密になっていった。秋季キャンプが終わって冬に入ったころ、選手と番記者は男と女の関係になった。
父は、毎週のように沙也香さんの住むアパートに通うようになった。週一回だったのが週二回になり、週二回だったのが週三回になり、三年目の春にはとうとう同棲状態になった。ほどなくして、母と正式に離婚した。
父は沙也香さんに、野球での悩みをすべてぶつけた。沙也香さんはひとつひとつ、全身で受けとめた。そのかいもあってか、三年目の父は貴重な左の中継ぎとして活躍した。広島との日本シリーズに出場し、前川選手を三振にとったのも、その年だった。
だが、シーズンオフに、左肘の故障が発覚した。手術をしても痛みはおさまらず、最後まで球威はもとにもどらなかった。二年後に自由契約になった父は、ひっそりと引退した。
話を終えた沙也香さんは、天井を見あげて息をはいた。時刻は、七時半になっていた。
「お父さんはね、故障は天罰だって言ってた」
「天罰」
「明美ちゃんと、明美ちゃんのお母さんを裏切ったから、天罰がくだったんだって。私も共犯者だし、いまの家計が苦しいのも、ひょっとしたら天罰なのかもね」
沙也香さんは、寂しげに笑った。
「そんなことありません」
私が首を横に振ると、沙也香さんの顔から笑みが消えた。
「父がそのとき活躍できたのも、沙也香さんのおかげです。共犯者なんかじゃない。沙也香さんは、父の恩人です」
沙也香さんの目から、涙があふれてくる。顔を手でおおうと、貴弘に聞えないように、声をひそめて泣いた。それを見ていたら、胸が熱くなってきた。
「ひとつ、きかせてください」
沙也香さんが、小さくうなずく。
「いま、幸せですか」
顔から手を離した沙也香さんは、赤い目で私を見つめた。
「ええ、とっても」
彼女は、屈託のない笑顔を見せた。強がりじゃない。うそじゃない。正真正銘、心からの笑顔を見せてくれた。
それが見られただけでもう、充分だった。身体がすうっと軽くなったような気がした。
「やっぱり、お父さんに会うの、やめにします」
「え」
あ然とする沙也香さんを前にして、私は帰り支度をした。バッグを肩にかけ、玄関へ歩を進めた。
「もうすぐ帰ってくるよ」
沙也香さんが小ばしりで寄ってくる。
「いいんです。会わないほうがいいんです」
もし私が父と会ったら、きっといまの幸せの歯車がどこかで狂ってしまうだろう。いまが幸せなら、無理に空気をかき乱すべきではない。
ここは、そっと身を引くべきなんだ。
靴を履いて立ちあがる。振り返ると、沙也香さんは困惑の表情をしていた。私は、笑みを絶やさないようにした。たぶん、ぎこちなくてぶさいくな顔になっていたにちがいない。
あわててついてきた貴弘は、半べそをかいていた。しゃがんで、彼の顔をのぞきこんだ。
「貴弘君」
「なあに」
「お父さんのこと、好き」
「うん、大好き」
目に涙をためながら、貴弘は白い歯を見せた。沙也香さんと同じく、にごりのまったくない笑顔だった。
よかった。これでいいんだ。貴弘の頭をなでてから、ゆっくりと腰をあげた。
「これからも、お父さんをよろしくお願いします」
微笑んだ沙也香さんは、右手をさしだした。
「明美ちゃんに会えて、ほんとによかった」
「私もです」
私たちは、かたく握手をかわした。
吹きこむ夜風が、ほてった心と身体を冷ましてくれる。
私が見えなくなるまで、ふたりは玄関先で見送ってくれた。
弟は、小さな身体をめいっぱいつかって、手を振り続けていた。
細かく破いた年賀状は、公園のくずかごに捨てた。駅が近くに見えても、涙はなかなかとまらなかった。大粒のしずくが、乾いた路面にいくつもの染みをつくっていく。
父は、母や私だけでなく、沙也香さんたちにまで苦労をかけていた。あんなに素敵な女性を、あんなにかわいい弟を苦しめているなんて。
絶対に許せない。
会ってなんかやるもんか。
背後から、私の名を呼ぶ声がした。はるか昔にどこかで聞いたことのあるような、懐かしい声。きっと空耳だ。空耳であってほしい。
右肩に、大きくて厚ぼったい手が添えられた。はっきりと、体温が伝わってくる。あの声が、耳もとで聞えてくる。
うるさい。呼び捨てにするな。気安く私にさわるな。
あんたなんか、大嫌いだ。
みんなに散々迷惑をかけて、巻きこんで、苦しめて。
最低の男。女の敵。
けれど、あのときのあんたは、最高に光り輝いていた。
それだけは、自信をもって言える。
私には、最低で最高なあんたの血が、半分流れているんだ。
(了)




