霧深き森 その5
ルーラは、涙と霧で顔をぐしょぐしょにしつつ、ひたすら疾走していた。
(あの男の人から、少しでも遠くに逃げなくちゃ、殺される)
頬を撫でる風に冷たいものがまじってきたせいか、ルーラの頬が真っ赤になる。
右腕に暖かい光を感じた。
「陽が傾いてきた、の?……」
ルーラはますます焦った。夜になれば魔物が姿を現す。それまでに、ヴォルン、サクラを何とか探し出さなければならない。
「ヴォルン。サクラ。どこ?どこにいるの!?」
悲鳴に似た声を上げた。
ヴォルンがいるとしたら地上か森の中――サクラは頭上高い空の上だ。
ルーラはキョロキョロし、二匹の名を声が枯れるほど呼ぶ。
「ヴォルン!サクラ!!返事をしてっ!!」
正面と頭上ばかりに気がいき、足元の注意を怠った。
「あっ!!」
小さく悲鳴を上げ、前へつんのめる。何かにつまづいたらしい。
気が動転していたため、受け身を取れずに、転倒した。
「キャァッ!!」
ルーラはバッタリと倒れたまま、起き上がれない。ドジな自分に腹が立ち、情けなくもなる。
と、つま先の方から、微かなうめき声が聞こえた。
「うぅっ……」
「!!」
ルーラは驚き、鼓動が早まる。
上半身をそろそろと起こして、深呼吸一つ。
声のした方を振り返った。
「誰!?――!!ヴォルン!!」」
ルーラはヴォルンの太い首に抱きついた。
「ヴォルン。良かった生きて……」
ヴォルンが生きていた。あまりの嬉しさに、ルーラは声を詰まらせた。円らな瞳から大粒の涙がこぼれ、オブラートをかけたように、傷だらけのヴォルンの姿がかすんで見える。
ヴォルンは野犬たちとの死闘を繰り広げた後、傷を負ったせいで、しばらく意識を失っていたのだろう。目が覚め、目印にした木の側にルーラの姿が見えないことに、愕然とした。そして、自慢の鼻でルーラの匂いをたどり、彼女の行方を追った。
ヴォルンの口から安堵の息が漏れた。
「ルーラ、良かった。姿が見えなくなったから、心配したんだ。野犬を全部倒したつもりでも、もしかしたらまだ生き残りがいたかもしれない。ルーラがそいつらに追いかけられて、道にでも迷ったらっ
……」
「ルーラ!ヴォルン!!」
ルーラの肩が頭上からした声にピクリと動いた。
翼の音を聞き、そちらに顔を向ける。
「サクラ……」
「サクラ!!」
ヴォルンも声を上げた。
二人の頭上を旋回しつつ、サクラが不満そうな顔をする。
「なあに、二人とも。抱き着いちゃって。仲がいいのはいいけど、ここは道の真ん中よ。馬車がきたらどうするの?引かれるわよ」
「わかってるよ。今、離れ……」
「嫌。離れたくないの」
ルーラはか細い声で言うと、ヴォルンの首を強く抱き締めた。
自分が仲間外れになったような気でもしたのだろう。サクラが金切り声を上げた。
「何言ってるの!?」
そして、二人を引き離そうと、ヴォルンの尻尾をくわえ、引っ張る。
ヴォルンが絶叫した。
「ギャウンッ!!」
「な、なによ、ヴォルン。どうしたのよ?変な声出し……あら?どうしたの、その傷?」
ようやくヴォルンがケガをしていることに気づいたらしい。サクラが地上に降りると、彼の周囲をグルグルと回る。
「切り傷だらけじゃない。誰にやられたの?!!やだ」
顔を逸らし、両翼で目を覆う。
「ちょっと、ヴォルン。ズボンが脱げかかってるわよ」
「ウワッ!!見るなよ、サクラ」
かなり焦ったようだ。ヴォルンは素っ頓狂な声を上げると、紺色のズボンを口でくわえ、腹まで持ち上げた」
スボンのずれる音を聞き、サクラが両翼をゆっくり下ろす。
「ふうっ……危なかったわ。もう少しで見える所だった――それで?誰にやられたの?」
「野犬だよ。サクラが宿を探しにオレたちから離れた後、十五匹の野犬が襲って来たんだ」
「なんですって!!野犬!?――それで?野犬たちはどうしたの?まだ、森の中にいるの?」
サクラが長い首を低くし、森の中を伺おうと、金の目を光らせる。
「野犬はオレが全部倒したよ」
「あら、そう。やあねえ、ヴォルン。脅かさないでよ」
「イチチッ……叩くなよ、サクラ。おまえの翼は固い鱗でできているんだ。オレの傷に響くんだよ」
「あ、ああ……そうね。そうよねえ」
顔を引きつらせつつ、今さら遅いのだが、ヴォルンの傷口を撫でた。
「!!」
ルーラはサクラと目を合わせ、決まり悪げに俯いた。離れろと、と言われたにも係わらず、まだヴォルンに抱き着いている。ひどく心細いのだ。ヴォルンの柔らかい毛に覆われた首に手を回しているだけで、気持ちが落ち着く。
案の定、苛立ちが頂点に達したらしい。サクラがツツッとこちらに来た。
首を長くし、嫌みを言う。
「ルーラ。ヴォルンに甘えるのは後にしなさいよ。宿に着いてからでもいいでしょ……あら?泣いてるの?目が真っ赤よ」
(私きっと、ひどい顔してる……)
ルーラは落ち込んだ。サクラの問いに答える元気すらない。
心配になったのだろう。ルーラを勇気づけようとしたのかもしれない。サクラが彼女の肩に飛び乗った。
「ルーラ、何があったの?泣いてるってことは、それだけ怖い思いをしたってことよね?」
「……」
ルーラは無言で頷いた。
「野犬に襲われたのが怖かったの?」
首を大きく左右に振って、サクラの問いに答える。
「それじゃあ、もっと他に怖いことがあったのね?」
ルーラは一度だけ、コクリと頷いた。
やや首をひねり、サクラに懇願の眼差しを向ける。
「サクラ……私、殺されちゃうの……」
「えっ!?」
「ルーラ。野犬は全部倒した、ってさっき言っただろう。もう誰も襲ってきたりしない……」
「違うのよ、ヴォルン。野犬じゃないの。私を殺そうとしているのは……」
ルーラは言葉に詰まった。血のついた剣を手にした青年の姿が視界をよぎる。
首を大きく振りかぶって、ヴォルンの首にしがみつく。
「怖い!!」
「怖いのはわかったから、詳しく話してちょうだい」
サクラは容赦ない。ルーラの髪の毛を口で摘まみ、軽く引っ張る。声がくぐもろうが、お構いなしだ。
「……ほら、ルーラ。話して。誰がルーラを殺すの?……」
サクラに詰問されたら、逃げられないことを、ルーラは良く知っている。おまけに、彼女の物をくわえる力が強いことも。
ルーラの頭がサクラの方に引っ張られ、手がヴォルンの首から外れた。
「!!」
ルーラは、後ろに引っ繰り返りそうになったのを、手を後ろについて逃れた。
ヴォルンがこちらを向いて、サクラを睨みつける。
「やめろよ、サクラ。ルーラが可哀想だろう」
「わかってるわよ。わかってるけど……ルーラが話してくれなきゃ、私たち動けないのよ……」
目を伏せたサクラの声が曇る。
それを聞いて、ルーラは動揺した。
「サクラ、泣いてるの?」
サクラの顔を覗き込み、瞳が潤んでいるのを見るや、急いで姿勢を正す。
「ごめんね、サクラ。ちゃんと何があったか、話すから。泣かないで」
「ああ、良かった」
ルーラはサクラが笑んだのに、唖然とした。どうやら、サクラは演技をしていたらしい。
「ひどい、サクラってば」
ルーラは頬を膨らませ、プイッと横を向いた。
いつの間に移動して来たのか、目の間にいるヴォルンを見て、びっくりする。
ヴォルンは傷口を舐めていた。一対一の戦いならウォーミングアップのつもりで済んだのだろう。が、十五匹との野犬との戦いに、かなり苦戦したらしい。ヴォルンの体は引っ掻き傷だらけで、血の塊がこびりついていた。
「ヴォルン、手当してあげる」
ルーラはヴォルンの方へ手を伸ばし、ハタと気づく。彼が背負っていた二つの荷袋がない。中には、どんな傷や病気でも完治させてしまう『癒しの水』が入っていたというのに。
(荷物は……!!)
ずっと後方、目印にと決めていた木の根元に、茶色の袋が見えた。少し橙がかって見えるのは、照らす陽が傾いてきたせいだろう。
(荷物を取ってきて、ヴォルンの傷を癒しの水で濡らさないと)
ルーラは立ち上がりかけた。膝を立てた所で、違和感を感じる。
後ろを振り返って、ドレスの裾を踏んでいるヴォルンと目が合う。
「ルーラ。どこに行くんだ。まだ話の途中だろう?」
「ええっ!?そうなの、ルーラ。私たちに訳を話さないで、一人でどこかに行く気?」
「ち、違うわ。荷物を取ってくるだけよ」
「荷物?」
サクラがルーラの視線を追い、後方を振り返る。
「ああ、私たちの荷物ね。それなら、私が取ってくるわ」
ルーラの肩の上でポンと軽くジャンプすると、飛び立った。
荷物はサクラが予想していた以上に重かったらしい。サクラは二つの荷袋をくわえたはいいが、持ち上げられず、悪戦苦闘している。飛んで持ってくることはできない、と判断したのか、荷物をズルズルと引きずって来た。
荒い息を吐き、ルーラの肩の上に留まる。
「……つ、疲れちゃったわ……荷物、結構重いわね……」
大きく嘆息つき、催促するように、こちらを横目で見た。
「さあ、ルーラ。荷物は運んできたわよ。これで、話してくれるわね。私たちが側にいない間、いったい何があったの?」
「だから……殺されちゃうの」
ルーラは目を伏せた。自分の身に何があったのか、怖くて話せない。慌てて話を逸らす。
「ヴ、ヴォルンの傷の手当をしなくちゃ」
腰を落とすと、荷物の一つの口を開け、手を入れた。
「待ってて、ヴォルン。傷口を癒しの水で拭いてあげるか……」
「ルーラ」
ヴォルンが長い鼻の先を彼女の手の甲に押し当てた。まるで、待ったをかけるように。
「ルーラ、オレやサクラのことが信用できないのか?誰に殺されそうになったか言っても、オレたちじゃ頼りにならない――そう言いたいのか?」
「!!」
ルーラは瞳を大きく見開き、首を振った。
「違うの、ヴォルン!そうじゃないの!!そうじゃないのよ……」
ヴォルン、サクラの瞳に圧倒され、ゴクリとツバを呑み込む。
「わかった。みんな、話すわ。ヴォルンとサクラを探している間に、ゲオルグっていう恐い人に捕まって、売られそうになったの」
「なんですって!!売られそうになった!?」
「シーッ。サクラ、口を挟むなよ」
ヴォルンが大声を上げたサクラを厳しく窘めた。
悪いとおもったらしい。サクラが口を閉じる。
こちらに視線を移したヴォルンが、ニカッと笑んだ。
「ルーラ、それで?ゲオルグは今もルーラのことを狙っているのか?」
「ううん。ゲオルグは……」
ルーラは、ゲオルグの無残な死体を思い出し、顔を蒼白にさせた。
彼女の尋常でない様子に、ヴォルン、サクラが何か感じ取ったのだろう。嫌な予感がしたのか、ヴォルンが後ろを、サクラが正面に視線をやる。幸い誰の姿も見当たらず、二匹は安堵のため息をついた。
「フーッ……」
そして同時に、ゆっくりと口を開く。
「ルーラ」
またもや二匹の瞳に圧倒され、ルーラは話さざるを得なくなった。
声を震わせ、大粒の涙を落とす。
「……ゲオルグは、急に現れた男の人に殺されちゃったの……」
「あら。じゃあ、ルーラが怖がることはないじゃない。ゲオルグっていう人は死んでしまったんだもの……」
「違うのよ!!」
ルーラはヒステリックに叫んだ。そうでもしなければ勢いがつかない。
「殺されそうになったのは、ゲオルグだけじゃないの!私もなのよ!!男の人は恐い目をして、私の方に近づいて来たの!!」
思わぬルーラの重大発言に、サクラが飛び上がんばかりに仰天する。
「まあ、大変!ヴォルン、どうするの!?」
「二人共、ちょっと待ってくれ。今、ルーラの言ったことを頭の中で整理するから」
意外や、ヴォルンは冷静らしい。頭を抱え呻く。
が、サクラは落ち着いてはいられない。ルーラが見知らぬ青年に殺されかかったのだ。
「何を言ってるの!落ち着いてる場合じゃないでしょう!!」
「わかってるよ!!」
ヴォルンがついに切れた。すくっと立ち上がり、サクラをねめ付けた。が、傷が痛むのか、すぐに膝をつく。
「オレはまだ戦えない。起き上がれるようになるまで、もう少し時間がかかるんだ……」
顔を伏せ、悔しげにうめいた。ルーラの言っていることが本当だとしたら、すぐさま、この場を離れなければ危険だ。しかし、野犬たちと格闘した際、どこかに体を強く打ちつけたらしく、思うように起き上がれなくなっていた。
ヴォルンの気持ちを理解したのか、サクラがうなだれる。
ルーラはというと、ゲオルグや青年のことを話したせいで、再び恐怖に襲われた。
ヴォルンの後ろを見つつ、体の震えが止まらない。
(もし、あの男の人が私の後を追って来たら……)
それを振り払おうと、首を激しく振る。
「イチチッ……」
ヴォルンの声に、ハッとした。
ヴォルンは弱音を一言も吐かず、傷口を何度もなめている。染みるのか、時折鼻に深い皺を寄せた。
(ヴォルン、痛いの我慢してる)
ルーラはそんなヴォルンが気の毒になった。青年のことを考えている場合ではない。ヴォルンの傷を手当する方が先だ。
荷袋の中から筒を一本、ドレスのポケットからハンカチを取り出す。筒の蓋を開けようとした。
蓋が立てる音を聞いたヴォルンが、こちらに微かな笑みを向けた。
「ルーラ。オレの傷は癒しの水を使わなくても治るよ。癒しの水は、ルーラがケガした時のために取っておくんだ」
「ヴォルン……」
「あれ?ルーラもケガしたのか?」
血の匂いを嗅ぎつけたのだろう。ヴォルンがルーラの左掌を、心配そうに見た。
これに、サクラがすぐに反応する。目だけでなく、耳もいいらしい。
「ルーラ、そうなの?ケガをしたって――どこを?見せて」
「ち、違うの。ケガなんてしてないわ。これは……」
ルーラは左手を庇うように、その上に右手を重ねた。
彼女の様子が気になるのか、サクラがわざわざ地面に下りる。こちらを上目使った。
(サクラ、怖い……)
獲物を捉えたような鋭い瞳。それは、何かを連想させた。
「!!」
ルーラの頭で何かが弾けた。
サクラの瞳を切っ掛けに、青年の冷徹な眼差しが、やがて全てのいきさつがフラッシュバックしてゆく。
(あれ……?)
瞬く間に移りゆく映像と、自分の言った言葉――青年に殺される――との間に小さな矛盾が生じているのを、不思議に思う。
ルーラは筒を手にしたまま、首を大きく傾げた。
(変よ。思ってたのと、何か違うみたい……)
何が違うのか、答えを探すには、もう一度記憶を辿ってみる必要がある。ルーラは、ヴォルンやサクラに話したセリフを心の内で反すうして、今までの出来事を顧みた。
(ゲオルグっていう人に襲われて、殺されそうになって、そのゲオルグさんを殺したのは、あの男の人で……あれっ?やっぱり、おかしいわ。私がここにいられるのは……)
ルーラは両手を拡げ、自身をしげしげと見つめた。自分が無事だ、と確かめる。
(私、何もされてない)
顔を上げ、明るさを取り戻した景色に視線を投じた。
(じゃあ、あの男の人に殺されるっ、て何で思ったんだろう)
サクラと再び目を合わせた。相変わらず、こちらを伺うように睨んでいる。
「ルーラ。左手の血はどうしたの?」
「この血は……」
ルーラは左手を返してみた。こびりついた野犬の赤黒い血が、陽光にさらされ過ぎた土に似て、カラカラに乾いていた。水で手を洗わなくとも、ハンカチでこすれば、簡単に落ちそうだ。
「!!」
またもや、青年の姿が目の前にちらついた。すぐ目の前にいるような奇妙な感覚すらする。
(血……何か思い出せそうなのに)
ルーラは目を閉じた。青年の姿がはっきり見える。彼が何を持っていたのかも。
「――ああ!!」
ルーラは大声を張り上げ、立ち上がった。青年に対して、まるっきり思い違いをしていたことに気づいた。青年の血のついた剣を見て、殺される、と勘違いした。
彼女が急に立ち上がったため、サクラがよろける。が、しっかりと彼女の肩を掴んで、転がり落ちるのを逃れた。
「ルーラ、どうしたの?」
「ルーラ?」
(どうしよう。あの男の人は私を助けてくれたのに、殺されるなんてひどいこと言っちゃった。謝らなきゃ……)
ルーラは、サクラ、ヴォルンの声が耳に入らぬほど、青年のことで頭が一杯だ。
「二人ともここで待ってて。私、もう一度、あの男の人の所へ行って来るから」
「えっ、行くって、どこに行くの?」
「ルーラ、どうしたんだよ。オレたちにわかるように話を……」
ヴォルンが言いかけるより早く、ルーラはクルリと向きを変えた。筒を手にしたまま、駆け出そうとする。




