霧深き森 その1
アルシュラン大陸最南端に突き出たキアルデ半島の西、カシス海に、エルメキアと呼ばれる無人島が浮かんでいた。魔界を思わせるその島の大地は、血のように赤く、漆黒の深い谷がどこまでも続いている。森の木木は魂を持つ生き物のように不気味にうごめき、島は瘴気に満ち溢れていた。
島のあちこちにある峡谷は、魔界へと通じる扉となっているのか、無数の魔物たちが、そこから人間界――アルシュランへと、糧とする人間の血肉を求め出現していた。
魔界を統一せんとする魔王ゼノムが誕生したのは、今から千年前。エルメキア島が魔の島と人々から恐れられ、名付けられてからだった。
魔王ゼノムは魔界で生まれたばかりの頃、獣でも人型でもなく、液状体だった。彼は魔界の王となるため、強いては人間界をも支配するため、人型にならねばならずにいた。
ゼノムは産まれた直後、魔界からエルメキアに現れ、カシス海上空を浮遊してアルシュランに渡り、海岸沿いにあるブリアン国へと辿り着いた。
ゼノムは闇に紛れ、五百年もの長い間、人々の心に潜む『邪悪な闇』を自らの体に取り込みながら、機が満ちるのを待っていた。そして、液状体から人型へと変化したゼノムは、アルシュラン大陸全土を破滅に追いやり、手中に治めんとするため、無数の魔物を操り、残酷非道な殺戮を繰り返し行った。人々の耐え難い苦痛や愛する者を失う悲しみ、自己を破壊してしまうほどの耐え難い怒りは、彼にとって欠く事のできない大切な生きていくための糧である。が、ゼノムの栄華はそれ以上は続かなかった。なぜなら、突如として現れた聖なる騎士と呼ばれる若者によって、アルシュラン大陸の最も西に位置する最果ての地――現在では失われたとされる――ダミアで封印されてしまったからだ。
聖なる騎士と名付けられた若者が、どのような手段でゼノムを封印したのか、確かなことは誰にも伝えられていない。人型となったゼノムを元の液状体へと戻し燃焼させたか、あるいは、何らかの物体に封印したと考えるのが妥当な線だろう。だが、どんな武器を用い、騎士がどのような若者だったのかは、誰も知り得ない。彼はゼノムを封印した後、姿を消してしまった。恐ろしく巨大で、人知を超越した力を持つとされるゼノムを封じ込めたのだ。自らの命をその引き換えとした、と思ってもいいだろう。ただ、聖なる騎士と呼ばれた若者が、魔王ゼノムを封印したという言い伝えだけが、アルシュラン大陸に存在する多くの国々に残された。
ここに一人の少女がいた。
アルシュラン大陸中央に位置する緑豊かで、一年中さざめく鳥たちの声や匂い立つ花の香りに覆われたロマネス国。
彼女は、アルシュラン大陸の中で二番目に広大な土地を統べるロマネス国の王、ジョエル=ロマネスと、ジョエルの元へ嫁いできた隣国クレールの第二王女ラーラとの間に生まれた。
悲運な事に、ロマネス国の王妃であり、少女の母親でもあったラーラは、病弱だったために、彼女を産んですぐ亡くなった。
ルーラ=ロマネスと名付けられたその子供は、陽の光を思い起こさせる金色の巻き毛をしており、瞳は静かに佇む湖のような淡い蒼色をしていた。肌は人形のように白く、小柄な体は今にも折れそうなほど、ほっそりとしている。細い首には、バラの花びらを思わす薄紅色の痣があったが、なぜかいつも首には淡いピンク色のリボンが巻かれ、まるで痣を隠している風に思えた。愛らしい顔立ちをした彼女の側には、少女を守るようにして、彼女の姿形とは対照的な二匹の獣がいた。獣の内の一匹の名は、ヴォルン。獰猛な狼に酷似した姿をしており、半分は人でありながら、残り半分は闇の物である忌まわしき魔物の血を受け継いでいた。人間と闇の物の血の両方を持つヴォルンのような生き物を、アルシュランの人々は獣人と呼んだ。それと、ルーラの肩に乗れてしまうくらい小さな、鷲と同等の大きさのドラゴンが、彼女の側にいた。アルシュランでは珍しいピンク色の体表をしたドラゴンの名はサクラ。ドラゴンは普通、言葉を話せないのだが、彼女はなぜか言葉を喋れた。
ルーラは大勢の召使いたちや、心暖かい城の者たちに囲まれ、永遠に続くかと思われるほど幸福で、何不自由ない日々を送っていた。だが、城内に久方ぶりに姿を見せた予見者のアオン=ダガールによって、彼女の平穏な生活は破られた。
アルシュランには予見者や予言者と呼ばれる者たちがいた。予見は鏡や水晶に映し出したものを、己の未来を知りたいと思う者に見せ、予言は予見者が予見した未来を、言葉として己の将来を知りたいと願う相手に伝える。予見者になる資質を持つのは、アルシュランの西、クレッセント国にある魔道士連盟で魔法を学び取得した者だけ。あるいは、彼、彼女らから魔法を習った者だ。これら全てを魔道士とアルシュランでは呼ぶが、予見できない者も中にはいた。極まれにだが、魔道士ではなく、解明されていない特殊な力――生まれつき備えている可能性が多い――を持つ者が、予見者となる場合もあった。アオン=ダガールもその内の一人である。
いつの頃からだろう。何不自由なく育ったルーラの心にいつも拭いきれない空虚感があったのは。
(気づいたのは何歳の時だったろう………ぽっかり開いた心の穴を埋めなければ、その内、私は私でなくなってしまう。どこかにあるだろう。ううん。きっとあるはずの私の半身……)
彼女は胸の中で幾度も呟き――胸の内に溜まった言葉は、やがて願いへと形を変えた。
(会いたい。私の半身に)
ルーラは自分でも気づかぬ内に、そう思い始めていた。
ルーラが明日で満十七歳の誕生日を迎えようとしていたその日。アオン=ダガールが突如、姿を見せた。
ロマネス国の南西、人里離れたレザン湖の岸辺に、ひっそりと住まう美しい女性――名は、アオン=ダガールと言った。
ルーラが彼女を見たのは、これが初めてではない。アオン=ダガールは、彼女が幼い頃より、ロマネス国の未来を占う者として父王ジョエルの元に仕えていたのだ。
アオンは人と思えないような美しい容姿をしていた。漆黒の闇に似た黒く艶びた髪を腰の辺りまで伸ばし、その肌は気味悪いほど透きとおるように白かった。それだけなら、ハッと人目につくだけである。が、彼女の瞳は不思議な色をしていた。雨降る前触れのような曇り空の色。彼女が闇の中に立つと、瞳の色は清楚で物憂げな月の光を思わせる銀色となった。そして、前髪の後ろ、隠れるようにある額に埋め込まれた黒水晶の石……。珍しい容貌のせいと、何年、何十年経っても変わらない姿形のせいで、城内の者の幾人かは、彼女を畏怖の目で見つめていた。だが、ルーラにとってのアオンは違った。物心つかない時から彼女を目の当たりにしてきたせいだろうか。それとも、父が彼女に接する態度を見てきたためだろうか。
ルーラの父ジョエル=ロマネスは、アオンの容貌など気にも留めず、英知溢るる予見者としての彼女を敬い大切にしてきた。アオンのことを語ってか、すべての人について当てはめてか、ジョエルはルーラに良く言った。
「人を容姿だけで判断してはいけない。人を美しくさせるのは心だ。ルーラ。その事を良く覚えておくんだよ」と。ジョエルはルーラの前では国王ではなく、他人の心を大切に思いやる一人の人間だった。
ごくまれにだが、ルーラは父ジョエルと共に。アオンを交えて食事をした。その時のアオンは、普段の氷のような冷たい表情が嘘だと思うほど、穏やかな笑みを浮かべた。
予見されるのは良いことについてばかりではない。人の未来を変えてしまう可能性のある悪いものも。アオンは自身の心情を人に悟られぬよう、いつも凍てついた仮面を被っていたのだ。ルーラは悲しい彼女の性を初めて理解し得た時、我が身のように泣いた。
アオン=ダガールが、ルーラたちの前に姿を現すことは滅多になかった。ロマネス王に仕えていながら、城の外に――しかも人里離れた場所に住居を構えていた。
ルーラは物心ついた時、その訳を父に聞いた。
「どうしてアオンは、いつもお外で一人ぼっちなの?寂しくないの?」
「アオンにとって一人でいるということは、おまえがヴォルンやサクラと一緒に遊ぶのと同じくらい大切なことなんだよ」
ルーラの柔らかな金色の髪を撫でながら、ジョエルはそう答えるのみ。
ルーラが本当の訳を知ったのは、それからだいぶ後である。アオンは自分自身の存在が城の者たちを脅えさせているのを知っていたのだろう。だからこそ、予見を主であるジョエルに知らせる時以外は、城へ足を運ぼうとしなかったのだ。
アオンは自分についての事柄を一切、他人に話そうとせずにいた。そして、ジョエルやルーラもまた、聞くことはなかった。
(一度、聞いてしまったら、アオンは私たちの目の前から霧が晴れるように、不意に消えてしまう……)
ルーラは、そんな気がした。
ルーラが十七歳となる誕生日の前日、アオンはふらりと城内に姿を現した。城の者たちがざわつくのが、彼女の室内にも聞こえてきたが、召し使いたちは明日の自分の誕生祝いの準備をするのに大忙しだった。ルーラはそのせいもあるのだろう、と大して気にも止めず、ヴォルンやサクラと共に、これから後も変化なく繰り返されるであろう安らかな一日を過ごした。
翌日、盛大な誕生祝いの宴が催され――その夜、父の自室である王の間へ呼ばれたルーラは、ジョエルの口から思ってもみなかったことを聞かされた。
「昨夜、私はアオン=ダガールから不吉な予見を見せられた。その予見の内容は、ロマネス国にあと一年したら災いが起こる、というものだ。それを防ぐ手立ては、ただ一つ。アルシュラン大陸のどこかに存在し、聖なる剣とされる聖剣エスペランサを手にした騎士を連れて参ること。ルーラ。国の未来を左右しかねない、この重大な役目をおまえに託したい」
長い間続いてきたルーラの平凡な日常は、父の命により一変した。だがルーラは、父の命の裏に、彼女の命運を揺るがすほどの大いなる真実が隠されていようとは、少しも思ってはいない。
翌朝。ルーラはヴォルンとサクラを連れ、アルシュラン大陸で聖なる騎士と呼ばれる者を探す、未知の世界に対する希望と不安に満ち溢れた旅に出たのだった。
「暗くなってきちゃった……」
ルーラは声を微かに震わせ、頭上を仰ぐ。
まだ日暮れには随分間があるというのに、辺りは次第に薄暗くなりつつあった。木々の葉が落とす濃い影のせいではない。徐々に現れ始めた白霧のせいだ。
霧が出始めたのは、ルーラが朝から昼まで森の中の道を歩き通して少し休憩しようか、と思った時である。
ルーラは、『聖なる騎士を探せ』という父の命を受け旅をし始めたというのに、なぜか歩きづらいドレスを着ていた。それも、丈が彼女の踝まである。
霧の作り出す陰影が、薄紅色のドレスの色を、微妙に変えている。頭頂部と腰の後ろを飾る大きなリボンは湿り気を帯び、ややひしゃげていた。
「熱いな……」
ルーラは汗ばんだ首に手をかけ、顔を強ばらせた。つい、首を飾る薄紅色のリボンを取っろうとした。
リボンは、物覚えがついた頃から、彼女の首にあり、父から固く『取ってはいけない』と言われてきた。もしかすると、それより以前、生まれた頃からあるのかもしれない。ルーラは父との約束を一途に守った。汗をかいた時、朝昼のシャワーを浴びる時、寝る時すらリボンを解いたことがない。一年中、十七になった今でも、ルーラは首にリボンをしたまま。城にいる際は、父の目があったせいか、それが当たり前のこととして、ルーラの頭に植え付けられていた。今はどうだろう。ルーラがリボンを取ったとしても、厳しく窘める父は側にはいない。
(このリボン、どうして取っちゃいけないの?……)
ルーラはリボンをなぞり、胸の内がザワザワと騒ぐ感じを覚えた。
慌てて、リボンから手を離す。リボンを取る勇気がなくなった。父との約束を思い出したせいではない。なにかひどく、嫌な予感がした。
気を紛らわそうと、周囲を見回す。
「霧が……」
霧がこちらに向かって、左右にある森の方から、静かに近づいてきた。
視野が狭められ、不安を覚えたルーラは、ぽつりと漏らす。
「本当に暗くなってきちゃった……」
そして、足元と肩に目をやった。
「ヴォルン。サクラ。急いで泊まれる所を探そう。もっと暗くなっちゃったら、道に迷っちゃうかもしれないもの」
「私が上空から探してみるわ。その方が見つけやすいでしょう。ルーラ、腕を伸ばして」
ルーラはサクラに言われるがまま、腕を前に伸ばす。
彼女の肩に乗っていたサクラが、ルーラの肩から肘へと、横歩きして移動する。
上空に飛び立つのには、桃色の鱗で覆われた両翼を左右に拡げ、はためかさなければならない。そうすると、固い翼の先が自然とルーラの顔をつついてしまう。サクラはそれを懸念したのだ。ドラゴンでありながら、鷲ほどの体しか持たないサクラだが、翼は鳥の持つ羽とは違い柔らかくはない。つつかれたルーラの顔に傷ができてしまうだろう。
ルーラは心配そうにサクラを見つめた。
「サクラ、気をつけてね。あんまり遠くに行ったりしないでね。この霧の中だもの……」
乳白色になりつつある辺りを見回し、顔を曇らせる。
「空を飛ぶサクラにも、私やヴォルンの姿が見えなくなっちゃうかもしれない……」
「やあねえ。不吉なこと言わないで。霧の中にいるルーラには私が見えなくても、私にはルーラがちゃあんと見えるわ。私の目がいいの、知ってるでしょう?それとも――鳥みたいに私の目も悪いと思ってた、なあんて言わないでちょうだいよ。私は鳥じゃなくて、ドラゴンなんですからね」
サクラが得意げに胸を反り返らしてみせる。
意気消沈しているルーラを元気づけようというのか、彼女の足元にいたヴォルンが明るい声を上げた。
「オレだって、サクラの姿ぐらい見つけられるよ。目はサクラよりは良くないけど、鼻は利くからな。耳もだ。サクラが大声でルーラの名を呼べば、すぐに姿を見つけられる。ルーラはオレの側から離れずにいれば、大丈夫だよ」
「あら。なあに、格好つけちゃって。ナイト気取りね」
サクラがチラとヴォルンに目をやり、鼻で笑んだ。
ヴォルンはというと、大らかな性質のせいか、別段気にも止めない、という風である。
ルーラの方を見上げて、ニカッと笑う。
「なっ、ルーラ。霧の中に一人っきりなんてことは絶対にないから、大丈夫だよ。オレがルーラを独りぼっちにする、なんてこと、今までしたことないだろう?ルーラとの約束を破ったことも、だ」
「そ、そうだけど……」
いつもなら、ルーラはヴォルンの屈託のない笑顔で、すぐに元気になった。が、今は普段とは状況が異なる。次第に濃くなる霧は、彼女の側にいるサクラやヴォルンの姿を、隠し始めていた。
一抹の不安がよぎる。
(もし魔物が襲ってきたら……)
魔物とは、人間の血肉を糧とする化け物だ。魔物の種類は色々あり、彼らを倒すのを生業としているダークハンターや魔道士でさえ、その数について把握できていない。さらに厄介なことに、魔物は動物のように、異なる性質を身につけていた。
ルーラの心の声を聞いたのだろうか、何かを探ろうと、ヴォルンがフンフンと鼻を動かした。
長い鼻面を上に向け、フッと息を吐く。
ヴォルンに吹かれた部分だけ、霧が揺らめき、いびつな丸ができた。
それを見ていたルーラが、ぽかあんとした。
ヴォルンは立て続けに息を吐き――ルーラの口から軽やかな笑い声が漏れる。
「ヴォルンってば、笑わせないで」
よほどおかしかったのだろう。ルーラは笑い声が漏れないよう、両手で口を覆った。
「キャッ!!」
ルーラが腕を曲げため、バランスを崩したサクラが、柔らかい土の地面の上に転げ落ちる。両翼を拡げたまま、呆然とした。
彼女の無様な姿を見、ヴォルンが吹き出す。
「ワッハッハッ!!バカだなあ、サクラは。ルーラの腕にちゃんとしがみついてないから、転げ落ちたりするんだよ。普段楽して、ルーラの肩の上にばっかり乗ってるから、足の爪か筋肉が弱ってきたんじゃない……」
「ヴォルン。今、何て言ったの!?もう一度同じことを言ったら、私の自慢の口でつつくわよ!!」
目を剥いたサクラが素早く起き上がるや、金切り声を上げた。
ヴォルンをキッと睨み据え、上体を前に突き出し、後ろに回した両翼を背中につけ、ピーンと伸ばす。そして、雄牛のように片足で地面を蹴り上げる。
サクラの攻撃姿勢だ。彼女は勢いをつけたと同時に走り、敵とみなした相手に突進し、長く尖った口先で相手の体を突く。
危険を悟ったヴォルンが後方へ退き、ルーラの後ろに隠れた。
サクラの双眸が見開かれ、金色の光を帯びる。
「卑怯よ、ヴォルン!ルーラの後ろに隠れるなんて!!」
「オレはサクラとケンカしたくないんだよ。どっちが負けても勝っても、いいことなんてないからな」
ヴォルンはあくまで大人の態度で接する、と決めているようだ。
コン!!
と、彼の目の中に光が散った。
ゴン!!
今度は鈍い音がした。
サクラが情けなそうな声を出す。
「いたた……」
「ヴォルン、サクラ。いい加減にしてっ!!」
ルーラは拳を振り上げて怒ったものの、彼女の円らな瞳から大粒の涙が零れた。
道端に座り込み、鼻をすする。
「……もう、サクラとヴォルンってば。ケンカしてる時じゃないでしょう。目の前がだんだん真っ白になって、見えなくなってきてるのに……早く泊まる所を見つけないと、迷子になっちゃうし、魔物だって出てくるかもしれない……」
ルーラの涙は、サクラとヴォルンのケンカを止めるのに絶大な効果を発した。いや。正しくは、サクラの怒りを静めた。
慌てたらしい。サクラがオロオロと、ルーラの回りを回る。
「ルーラ。泣かないでちょうだい。私とヴォルンは……ふざけてただけなのよ」
「そうだよ、ルーラ。オレとサクラが本気でケンカなんて、するわけないだろう」
「魔物は?魔物がきたらどうするの?」
ルーラは自分の正面に来て、こちらを心配そうに伺う二匹を上目使った。
サクラの身長は首を垂直に立てると、尾までの長さが一メトスにも及ぶ。ヴォルンに至っては、犬のようにお座りのポーズを取ってみても、一メトス半にはなる。四つ足で歩いている際は、さほど大きく見えないが、直立すると、彼の背丈は二メトスを越した。しゃがんだルーラが小さく見えるはずだ。
困惑したのか、二匹が顔を見合わせた。
こちらに背を向け、何やらぼそぼそと相談事を始める。
「魔物が襲ってきた時どうしたらいいかなんて、私、考えてないわよ。陛下も何もおっしゃってなかったわ。ルーラはロマネス王家に代々受け継がれてきた宝剣を陛下から譲り受けてきたけど、あれで魔物と戦えるの?」
「剣の扱い方を知ってる戦士や騎士なら、短い宝剣でも十分に戦えるよ」
「じゃあ、ルーラは?」
「ルーラは……」
ヴォルンが振り返ると、慈悲深い目でこちらを見つめる。
サクラの方に向き直り、首を軽く左右に振った。
「無理だと思う」
「無理だ、なんて――それじゃあ、魔物に襲われた時、私たちどうすればいいのよ」
「逃げるしかないよ……」
ヴォルンがため息交じりに呟いた。
胸を逸らしたサクラが、ムキになって言う。
「逃げるなんて、私は嫌よ。ドラゴンに生まれた誇りが許さないわ。ドラゴンはねえ、民家よりも大きくて、炎だって吐けるのよ。アルシュランの人々は、魔物よりもドラゴンを恐れているんだから」
「なら、サクラ一人で戦えばいいだろう。オレはルーラを救う方を優先するよ。逃げられなくて相手が襲ってきた時は、オレの牙とこの爪で……」
ヴォルンが肩を怒らした。
シャッという音が、ルーラの耳に聞こえた。
前足の指に力を入れたヴォルンが、鋭い爪を立て、空を切ったのだろう。
「魔物を切り裂いて、ルーラを襲おうとする奴らに全身でぶつかって行ってやる。オレが誇れる武器は爪と牙と、体だからな」
ヴォルンの口の端が耳に届きそうなぐらい持ち上がったのが、ルーラの目に入る。
(ヴォルンってば、格好いいんだ)
ルーラは、銀の毛で覆われた彼の背に、頼もしいものを感じた。
彼の気合に圧倒されたのか、サクラがやや尻込みする。
「……そ、そう。わかったわ。下手に戦っちゃダメ、ってことよね。魔物が襲ってきた時の対処法はヴォルンに任せるわ。後は……そう。万が一、戦ってケガをした場合はどうするの?こんな誰もいない所でケガなんてしたら大変よ」
「ケガした時は、いいものがあるでしょう。サクラ」
「ワアッ!!」
ルーラの喜々とした声と共に、ヴォルンの口から素っ頓狂な声が漏れる。
ルーラがヴォルンの背に抱き着いたのだ。
ルーラは、ヴォルンの背に跨がる二つの荷袋を、得意げに揺すってみせた。
「ローランの癒しの泉から汲んできた癒しの水は、どんな傷やケガでも治すことができるのよ。お父様も、癒しの水を分けて下さった泉を管理している人もおっしゃってたわ。それとね、もう一つ、宿の人からいいことを聞いちゃった。小さなローランが、アルシュランで一番強いといわれているベルグワンに乗っ取られないのは、癒しの水があるからなんだって。そうよね?ヴォルン」
「う、うん。少し語弊があるけど……」
ヴォルンはなぜか口を濁した。
『癒しの泉』とは、ルーラたちが数日前滞在した、強大国ベルグワンとロマネスの両方に接して存在する緑の小国ローランにある。そして、ローランを乗っ取ろうとしたのは、ベルグワンだけでなく、ロマネスもだ。両大国の三分の一程度にも満たないローランを、その気になればロマネスもベルグワンも滅ぼして、自分たちの領土にする事ができた。が、そうできない訳があった。ローランには全ての病や傷を一瞬にして治すといわれている『癒しの泉』があり、これが涸れ消失してしまうことは、ローランはおろか、周囲の国々にとっても多大な損失をもたらす結果となる。そのため、病気や怪我を治すために『癒しの泉の水』を求めて来た者には入国を拒まない、という条件で、ローランとロマネス、ベルグワンの三国との間に不戦条約が結ばれた。
ルーラは国々の間の細かい事については、非常に無頓着だ。生まれてから十七歳に至る現在まで城から一歩も出たこともなければ、他国の情勢について父から教わったこともない。教育係からも。いずれは王女になって父王であるジョエルの後を継ぎ、ロマネスを治めなければならない立場に置かれるというのに、不思議なことである。
「陛下には、『ルーラには何も教えるな』って言われてきたけど……少しは教えた方がいいよな。他の国のことについて何も知らないなんて、ルーラがバカにされるだけだ」
「ヴォルン。どうしたの?大きな独り言なんて言っちゃって。他の国がどうしたの?お父様が何か言ってらしたの?」
ルーラも少しは自覚しているらしい。急に萎えた声を出した。
「もしかして……ローランとロマネスとベルグワンの関係のこと?」
「えっ?いや、そうじゃなくて」
「三つの国は仲良しなんじゃないの?」
「……」
口下手なヴォルンが、つい言葉に詰まった。
ルーラは不安を覚えた。
霧のせいで視界が悪くなってきているため、ヴォルンの方へ顔を近づける。そうすれば、彼の瞳に現れ出るだろう嘘が良く見通せた。
「やっぱり、まだ他に何かあるんだ……」
ヴォルンをじっと見つめたルーラの口から、深いため息が落ちた。
「お父様もヴォルンもサクラも、お城のみんなも、いつも私に隠し事してる。私は子供じゃないのに。ちっとも教えてくれない。世話係のフィーユも教育係のプレジオも楽しいお喋りはしてくれるのに、私がアルシュランの地図を見ながら他の国のことについて聞くと、『姫様は何も知らなくていいんですよ』って笑って、私の側から逃げちゃうの。お父様だって『いつかは自分の目で確かめる時が来るよ』って、それしか言って下さらないんだから」
ルーラは独りごちて、ぷうっと頬を膨らませた。
「い、いいじゃないか。自分の目で確かめる時がきたんだから」
「そうよ。ローランに行って、ルーラが見たいって言ってた癒しの泉を自分の目で見ることができたじゃない。癒しの泉はどうだった?そういえば、感想をまだ聞いてなかったわね。ねえ、ヴォルン」
「そ、そういえばそうだ。ルーラ、感想は?」
「感想って……」
いきなり問われたルーラは、地面を凝視し、考え込んだ。
霧は下の方にはまだ流れてきていないのか、地面の赤茶けた土が良く見えた。が、徐々に霧が上から下に降りてくると、地面の色がうっすらと白く濁り、池ができたような錯覚を思い起こさせる。
ルーラは白く濁った箇所を指でポンと弾いた。
霧が飛翔し、散る。
ルーラを目を丸くし、霧が散る様を興味深げに見つめた。
「癒しの水を手に取った時も、こんな風だったっけ……」
「何?どんな風?」
ヴォルン、サクラが同時に声を上げた。
ルーラはびっくりして、危うく尻餅つきそうになった。
「教えてくれよ」
「そうよ。教えて。癒しの水の感想は?」
「感想って、どう言っていいかわからないけど……癒しの水は、手に取ると、光の粒みたいに掌からぽろぽろと零れ落ちちゃうの。それでね。指で弾いたら、霧を弾いた時みたいにちりぢりになっちゃうの。ちりぢりになって消えて、見えなくなっちゃう。見ると、城で飲んでいたお水と同じなのに、手にすると何となく違うの」
「それだよ。それ。『癒しの水』はアルシュランの川の水や井戸の水と全然違うんだ。だから、ローランの国の人々だけじゃなく、ロマネスやベルグワンの人間も『癒しの水』を大切にしようとする。『癒しの水』は奪い合っちゃいけない。分け合わなきゃいけないんだ。ルーラが宿の人から聞いたように、ベルグワンや他の国がローランを乗っ取ろうとしないのは、『癒しの水』があるせいなんだよ」
「――じゃあ。『癒しの水』は、みんなの仲を取り持つ大切な役目を果たしているのね」
ルーラがキラキラと目を輝かせた。
安堵したらしい。ヴォルンが口の両端を高く持ち上げ、大きく頷いた。
ヴォルンにしてみれば、ロマネスがかつてローランに攻め入ろうとしたことがあるなどと、口が裂けてもルーラに言えやしないだろう。知ったら最後、ルーラは父に対して恐れを抱いてしまう。彼女は、父でありロマネス国の王ジョエルを心優しい父親として見つめ、冷たいところなど一つもない、と決め込んでいた。ルーラはジョエルに怒られたことはおろか、厳しい躾を受けたことすらなかったのである。
ルーラの細い指先が、ヴォルンの背負っている荷袋の上を撫でた。
「この中には『癒しの水』を入れた筒が四本入ってるわ。ケガをしたら……それで治せば大丈夫。魔物が襲ってきたら……」
「オレが相手になってやる」
「!!うんっ!!」
ルーラは、燐として輝きを宿すヴォルンの瞳を見、頭を上下に揺すった。
と、その彼女の顔が急に曇る。
肩をさすり、周囲を見回した。
「霧が濃くなって、なんだか寒くなってきたみたい……」
「そう、ねえ」
平然とサクラが答えたが、瞳に焦りの色が浮かぶ。
ヴォルンと視線を合わせ――二匹が頷く。
サクラが両翼をはためかせ、飛ぶ準備を始めた。
「ルーラ。ヴォルン。私、行ってくるわ。上空を飛んで、近くに民家がないか探してみるから、その間あまりウロウロしないように、目印になる物を見つけておいて」
「目印になるものって?……」
ルーラは目を凝らし、それらしい物を探した。
彼女よりも目の利くヴォルンが、素早く何かを見つけ、クッと顎を上げた。
「あの木がいい。森のどの木々よりも一番幹が太くて背丈が高いし、葉の色も濃い。色が濃いってことは、真っ白な霧の中でも容易に見つけられる、ってことだ。地上からでも目につきやすいんだ。空を飛ぶサクラなら、もっと簡単に見つけられるよな?」
「ええ。もちろんよ」
サクラが自信満々に胸を逸らす。
ルーラはというと、彼女とは違い、憂鬱な表情をした。
サクラの顔をじっと見つめ、おどおどと問いかける。
「サクラ……本当に平気?私やヴォルンのいる場所を見つけられる?……もし見つけられなくなったら、サクラは迷子になっちゃうのよ。サクラがいなくなったら、私やヴォルンも泊まる所を見つけられなくて、霧の中で迷子になって……」
その先は恐ろしくて言葉にはできず、胸の内で呟いた。
(みんな、死んじゃうかもしれない……)
パンッ!!
「!!」
サクラの羽で背中を叩かれ、ルーラは驚いた。
「サ、サクラ?」
「なによう。不安そうな顔して。ちょっとルーラの側を離れて、宿がないか見てくるだけじゃない。すぐに帰ってくるわ。ロマネスを旅立ってから、三人で取り決めした約束、忘れたの?」
ルーラは、こちらに首を擦り寄せ、上目使ってきたサクラに、大きく首を左右に振って答えた。
「忘れてなんかいないわ。泊まる所を探す時は、サクラが空から、私とヴォルンが地上から、でしょう?」
「そうよ。城でも係がちゃんと決められていたでしょ。食事を作るのは料理長。城を綺麗にするのは清掃婦。庭の手入れは庭師が――役割が決まっているってことは、いいことよ。生活することの励みになるし、退屈しなくても済むわ。旅をする時も同じことがいえるのよ。何かをしなければならない――そう思うことで、不安や焦りが解消されるわ。ゆっくりでもいいから、毎日しなければならないことをきちんとやって、陛下から託された大事な命をまっとうする。ルーラの使命は……」
「『聖なる騎士を探す』だろ?サクラ。それ、もう耳にタコができるぐらい聞いたよ。なっ、ルーラ」
「――う、うん……」
サクラから目を逸らしたルーラは、ためらいがちに頷いた。
サクラは少々説教する癖があるようだ。
ルーラにしてみれば、ありがたいことなのだが――時折、困惑した。
(私がいけないんだけど……)
胸の内でぼやいてみせる。
不安がってばかりいないで、たまには勇気のある所を見せたい。サクラやヴォルンのようにキビキビと行動し、旅を楽しむ。が、ルーラがロマネスを旅立ってから、まだ二週間ほどしか経っていない。外の世界を見慣れていないルーラにとって、興味をそそるものは山ほどあるが、遠くから見るだけだ。近づいて観察する勇気も、楽しむ余裕すらない。
「……」
つい深いため息が漏れた。
いつの間に下に降りて来たのだろう。霧が地面を這っていた。
ルーラの顔が蒼白になる。
「!!」
サクラの方へ顔を向け、取り乱した。
「サ、サクラ!早く行って!!霧が私を森の中に閉じ込めてしまわないうちに、宿を見つけてきて!!」
「ちょっ――」
両肩を掴まれたサクラの首がガクガクと揺れた。
サクラは声を上ぜらせつつ、甲高い叫び声を上げた。
「……ル、ルーラ。やめて!痛いわ!!」
「――あっ!?」
我に返ったルーラが、サクラの肩から慌てて手を離す。申し訳なさそうに頭を垂れた。
「ごめんね、サクラ。私……」
「いいわよ、もう。目の前が真っ白になったら、誰だって怖いもの」
サクラの口から苦笑が零れた。
こちらに背を向けると、ヴォルンをちらと見た。
「ヴォルン。ルーラを頼んだわよ」
そして、両翼を激しくばたつかせ――宙に浮いた。
「行ってくるわ」
「サクラ……」
ルーラの頭上を何度か巡った後、明るく笑う。
「宿を見つけたら、大声で知らせるわ」
「ありったけの声を出せよ」
からかい交じりに言ったヴォルンがサクラを見上げ、ニカッと笑む。
ルーラは手を伸ばし、サクラの長い首筋を撫でようとした。
「サクラ。待っ……」
その手が空しく宙を舞う。
サクラは高く高く飛んだ。
「サクラ……」
ルーラは小さく遠ざかって行くサクラの姿を心配そうに見つめた。




