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  作者: 一ノ瀬亮太郎
1/6

【一】

「ごめんください」


 戸口の腰高障子の向こうから(おとな)う声がした。この裏長屋の住人なら勝手に入ってくるから、余所(よそ)の者だろう。


「いま手が離せねえ。勝手に開けてくれ」


 茂次(しげじ)は彫金の手を休めることなく答えた。障子の滑る音がしたので手元から顔を上げてそちらを見ると、薄紫の江戸小紋に丸髷という落ち着いた姿だが、どことなく素人ではない雰囲気をまとった女が立っていた。その右手は、裾にしがみついてぴったり寄り添う五、六歳の女の子の肩に掛けられている。茂次の娘、おみよだ。


「泥だらけで道に倒れて泣いていたのをお連れしました」


 おみよの着ている粗末な木綿の古着には、丁寧に(ぬぐ)ってあるものの泥汚れの跡があちらこちら残っている。


「こいつは世話かけたな。おみよ、こっちへ来い」


 おみよは少しためらった後に女の裾を(つか)んでいた手を離した。


「あいにく礼と言っても小銭くらいしかないが……」

「礼なんて結構ですよ。でも気が向いたらお店に来てください」

「店?」

「通りに新しく店舗(たな)を借りて越してきたんです。お酒と簡単な肴を出します」

「煮売屋か」

「ええ。煮魚、煮豆に煮しめを揃えてます」

「そうか。一仕事終えて懐が(ぬく)まったら顔を出すよ」

「お待ちしてます。ではこれで」


 軽く会釈して出て行く女の後ろ姿は、障子を閉める仕草も含めて、いかにもおかみさん然としていた。


「おみよ、また(いじ)められたか」


 茂次はまだ土間に突っ立っているおみよに言った。おみよは黙って首を横に振っただけで、擦り切れた草履を脱いで畳に上がった。


 おみよに母親はいない。死んだわけではない。茂次が引っかかった性悪女だった。女は茂次の他に大店(おおだな)の若旦那とも付き合っていた。もちろんそちらが本命だった。子が出来ると若旦那の子だと言い張って、大店のおかみに納まろうとした。しかし若旦那がまったく相手にしないものだから、生まれたばかりの赤ん坊を茂次の長屋に置いて行方をくらませてしまった。茂次は長屋の女房たちに乳をもらっておみよを育てた。


「おみよ、やっぱり(かか)のことで苛められたんか?」


 おみよは何も答えず、枕屏風で囲った中から薄い夜具を引っ張り出して頭から引っ被った。これ以上なにを訊いても応じないという意思表示だ。


 重蔵は農家の次男で部屋住みだった。長兄に子が出来た途端、家を追い出された。それで江戸に流れてきたばかりのときに、茂次はおみよの母親に出会った。他に知り合いもいない中、近所ですこぶる評判の悪い女だとも知らずに引っかかってしまったのだ。


 長屋の者たちが、茂次の前でおみよのことを悪く言ったりはしないが、家ではあれこれ言っているのだろう。それを聞かされている子供たちが大人の見ていないところでおみよを苛めているに違いない。


 しかし、長屋の皆にはずいぶん世話になったし、なによりおみよ本人が苛められていることを認めないので、茂次は長屋の者達に何も言えないでいた。

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