第99話 ダンスタン、宙を舞う
娘たちの活躍により、アイノさんの孤児院に、温かい光が灯った。
笑うアイノさんや子供たちの顔。
あの光景を守るためなら、俺はなんだってできる。
そう、改めて思った。
一夜明け。
俺とシグルーンは、孤児院の再生作業をアイノさんたちに任せ、ヘンリク伯爵が治める街を訪れていた。
目的は一つ。
クソ野郎を社会的に終わらせるための、決定的な弱点を探り出すことだ。
「まずは、商人ギルドだな。金の流れ、人の流れ、情報の流れ。街の全ては、一度ここに集まる」
俺の言葉に、隣を歩くシグルーンが頷く。
だが、ギルドに足を踏み入れた瞬間、俺たちはすぐに異変に気づいた。
活気がない。
いつもなら、威勢のいい商人たちの声や、カウンターの職員の忙しない声が響いているはずなのに、まるで通夜みてえに静まり返っている。
「すみません、ギルド長のジョルさんはいらっしゃいますか?」
シグルーンがカウンターの若い職員に声をかける。
だが、職員はびくりと肩を震わせると、怯えたように視線を泳がせ、俯いてしまった。
「あ、あの……ギルド長は、本日、体調不良で……」
声が、震えている。
嘘だ。
こいつは、何かを隠している。
俺は、斥候としての感覚を研ぎ澄ませる。
ギルドの中にいる商人たちも、誰も彼もが、俺たちと視線を合わせようとしない。
まるで、見えない何かに怯えるように、息を潜めている。
「……ダンスタン。何か、おかしいぞ」とシグルーンが言った。
「ああ、分かってる」
俺たちは、それ以上何も聞かずにギルドを後にした。
街の空気そのものが、重く、淀んでいる。
何かが、起きる。
いや、もう既に、何かが水面下で限界まで膨れ上がっている。
俺の長年の勘が、最大級の警報を鳴らしていた。
◇◇◇
ギルドを出て、中央広場へと続く大通りを歩く。
「一体、何があったんだ……。ジョルさん……」
「知り合いなのか?」
「私は冒険者ギルド、彼女は商人ギルドという違いはあれど、近隣だからな。何度も会ったことがある」
「心配だな」
俺は、あんまり人付き合いというものをしてこなかった。
友達なんてのもいないし、そこらの感覚はよくわからんが……。
まあ、ギュンターが急に不在になったら心配にはなるか。
そんなことを考えて歩いていたときだった。
「―――きゃあああああっ!」
甲高い悲鳴が、広場の方から響き渡った。
それを皮切りに、人々の絶叫が聞こえてくる。
「なんだ!?」
俺たちは顔を見合わせ、すぐさま広場へと駆け出す。
人波をかき分けた先。
誰もが、同じ方向を、ただ呆然と見上げていた。
俺も、その視線の先を追う。
広場の中央にそびえ立つ、街で一番高い建造物。
古い時計塔。
その、てっぺん。
針が時を刻む文字盤の、さらに上。
空に一番近い、小さな展望台の……欄干の、外側に。
一人の女性が、立っていた。
風が、彼女の髪を乱暴に揺らしている。
その姿は、今にも風に吹き飛ばされてしまいそうなほど、儚く、小さく見えた。
「ジョルだ」とシグルーンがつぶやいた。
彼女の瞳には、何の光も宿っていない。
ただ、虚ろに、眼下に広がる世界を見下ろしているだけだった。
広場にいる誰もが、息を呑み、ただその光景を見上げている。
衛兵が駆け寄ろうとするが、もう間に合いそうにもなかった。
◇◇◇
彼女は一度、ぎゅっと目を瞑り、何かを振り払うようにかぶりを振った。
そして、最期の覚悟を決めるかのように、一度、深く、息を吸い込んだ。
その、ほんの数秒のためらい。
死の淵に立った人間だけが見せる、生の執着。
俺にとっては、それで十分すぎた。
俺の頭の中で、何かが、カチリと音を立てて切り替わった。
錆びついたリミッターが、完全に外れた。
俺は地を蹴っていた。
向かう先は、時計塔じゃない。
その隣に立つ、三階建ての石造りの商店だ。
「ダンスタン!?」
シグルーンの驚愕の声が背後から聞こえるが、もう俺の耳には届いていなかった。
壁に張り付く。
窓枠のわずかな突起、石壁の小さな亀裂。
その全てを足場として認識し、俺は壁を駆け上がっていく。
ドン、と屋根の縁を掴み、一気に体を引き上げる。
着地と同時に、次の屋根へと跳躍した。
瓦が数枚、音を立てて砕け散るが、構うもんか。
屋根から屋根へ。
俺が最後の屋根の縁を蹴ろうとした、まさにその瞬間。
時計塔の上のジョルの体が、ついに重力に従った。
彼女の体が、ゆっくりと、空中に投げ出される。
間に合えッ!
俺の体は、宙を舞った。
眼下に、驚愕に見開かれたジョルの瞳が見える。
俺は、空中でその体を抱きかかえた。
ずしりとした、命の重み。
そのまま、時計塔の壁面へと激突する。
凄まじい衝撃。
だが、俺は衝撃を殺すように、壁を滑り降りていく。
足の裏でブレーキをかけ、落下速度を殺しながら。
やがて、俺たちの体は、地面に、静かに着地した。
しん、と。
あれだけ騒がしかった広場が、水を打ったように静まり返っていた。
何が起きたのか、誰にも理解できていない。
やがて、その静寂を破ったのは、誰かの、ぽつりとした呟きだった。
「……すげえ」
それを皮切りに、爆発的な、地鳴りのような歓声が響いた。
驚嘆と、畏敬の念がごちゃ混ぜになった、万雷の喝采。
俺は、腕の中で震えるジョルの顔を、ただ、じっと見つめていた。
◇◇◇
ギルドの一室に、ジョルを運び込んだ。
温かいハーブティーを差し出されても、彼女はしばらくの間、虚ろな目でテーブルの一点を見つめるだけだった。
やがて、張り詰めていた空気を破ったのは、シグルーンだった。
「ジョル! なぜあんな馬鹿な真似をした! 死んで何かが解決するとでも思ったのか!」
その声は怒っていたが、ジョルの冷たい手を握りしめる彼女の手は、心配で微かに震えていた。
ジョルは、その叱責に、力なく顔を上げた。
「シグルーン……ごめんなさい……」
ぽろり、と。
生気のない瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「助けていただいて……ありがとうございます。……でも、どうして……。もう、楽に、なりたかったのに……」
生き残ってしまった、という絶望。
その、あまりにも痛々しい言葉に、シグルーンはぐっと息を詰まらせた。
「何があった。何がお前をそこまで追い詰めたんだ。話せ!」
シグルーンの問いかけに、ジョルの心の堰が、ついに決壊した。
「夫が亡くなって……私、必死だったんです。このギルドは、あの人が命をかけて築いたものだから……女手一つでも、守り抜かなきゃって……」
嗚咽が、漏れる。
「でも、あの男は……ヘンリク伯爵は、そんな私の足元を見て……!」
伯爵の名前が出た瞬間、シグルーンの表情が凍りついた。
「あの男は、笑いながら言ったんです。『ギルドの未来か、お前の体か、どちらかを選べ』と……。今日の、日没が……その返事の、期限だったんです……」
ジョルは、力なく笑った。それは、全てを諦めきった者の、乾いた笑みだった。
「助けていただいても、何も変わりません。地獄が、また始まるだけ……。だから、もう……」
シグルーンの瞳が、燃えるような怒りの色に染まった。
かつての自分と、目の前の友人の姿が、痛々しいほどに重なって見えたのだろう。
彼女の拳が、白くなるほど強く握りしめられる。
「もう大丈夫だ」と俺は言った。
ジョルが、はっとしたように顔を上げる。
俺は、その涙で濡れた瞳をまっすぐに見つめ返し、はっきりと宣言した。
「地獄は、俺が終わらせてやる。俺たちが、あんたを守る」




