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仲間を全員失った元英雄のおっさん(42)、辺境で子育てを始めたら娘たちが最強すぎてスローライフが崩壊する件  作者: 河東むく


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第99話 ダンスタン、宙を舞う

 娘たちの活躍により、アイノさんの孤児院に、温かい光が灯った。


 笑うアイノさんや子供たちの顔。

 あの光景を守るためなら、俺はなんだってできる。

 そう、改めて思った。


 一夜明け。

 俺とシグルーンは、孤児院の再生作業をアイノさんたちに任せ、ヘンリク伯爵が治める街を訪れていた。

 目的は一つ。

 クソ野郎を社会的に終わらせるための、決定的な弱点を探り出すことだ。


「まずは、商人ギルドだな。金の流れ、人の流れ、情報の流れ。街の全ては、一度ここに集まる」


 俺の言葉に、隣を歩くシグルーンが頷く。


 だが、ギルドに足を踏み入れた瞬間、俺たちはすぐに異変に気づいた。

 活気がない。

 いつもなら、威勢のいい商人たちの声や、カウンターの職員の忙しない声が響いているはずなのに、まるで通夜みてえに静まり返っている。


「すみません、ギルド長のジョルさんはいらっしゃいますか?」


 シグルーンがカウンターの若い職員に声をかける。

 だが、職員はびくりと肩を震わせると、怯えたように視線を泳がせ、俯いてしまった。


「あ、あの……ギルド長は、本日、体調不良で……」


 声が、震えている。

 嘘だ。

 こいつは、何かを隠している。


 俺は、斥候としての感覚を研ぎ澄ませる。

 ギルドの中にいる商人たちも、誰も彼もが、俺たちと視線を合わせようとしない。

 まるで、見えない何かに怯えるように、息を潜めている。


「……ダンスタン。何か、おかしいぞ」とシグルーンが言った。


「ああ、分かってる」


 俺たちは、それ以上何も聞かずにギルドを後にした。

 街の空気そのものが、重く、淀んでいる。


 何かが、起きる。

 いや、もう既に、何かが水面下で限界まで膨れ上がっている。

 俺の長年の勘が、最大級の警報を鳴らしていた。


◇◇◇


 ギルドを出て、中央広場へと続く大通りを歩く。


「一体、何があったんだ……。ジョルさん……」


「知り合いなのか?」


「私は冒険者ギルド、彼女は商人ギルドという違いはあれど、近隣だからな。何度も会ったことがある」


「心配だな」


 俺は、あんまり人付き合いというものをしてこなかった。

 友達なんてのもいないし、そこらの感覚はよくわからんが……。

 まあ、ギュンターが急に不在になったら心配にはなるか。


 そんなことを考えて歩いていたときだった。


「―――きゃあああああっ!」


 甲高い悲鳴が、広場の方から響き渡った。

 それを皮切りに、人々の絶叫が聞こえてくる。


「なんだ!?」


 俺たちは顔を見合わせ、すぐさま広場へと駆け出す。

 人波をかき分けた先。

 誰もが、同じ方向を、ただ呆然と見上げていた。


 俺も、その視線の先を追う。


 広場の中央にそびえ立つ、街で一番高い建造物。

 古い時計塔。


 その、てっぺん。

 針が時を刻む文字盤の、さらに上。

 空に一番近い、小さな展望台の……欄干の、外側に。


 一人の女性が、立っていた。


 風が、彼女の髪を乱暴に揺らしている。

 その姿は、今にも風に吹き飛ばされてしまいそうなほど、儚く、小さく見えた。


「ジョルだ」とシグルーンがつぶやいた。


 彼女の瞳には、何の光も宿っていない。

 ただ、虚ろに、眼下に広がる世界を見下ろしているだけだった。

 広場にいる誰もが、息を呑み、ただその光景を見上げている。

 衛兵が駆け寄ろうとするが、もう間に合いそうにもなかった。


◇◇◇


 彼女は一度、ぎゅっと目を瞑り、何かを振り払うようにかぶりを振った。

 そして、最期の覚悟を決めるかのように、一度、深く、息を吸い込んだ。


 その、ほんの数秒のためらい。

 死の淵に立った人間だけが見せる、生の執着。


 俺にとっては、それで十分すぎた。


 俺の頭の中で、何かが、カチリと音を立てて切り替わった。

 錆びついたリミッターが、完全に外れた。


 俺は地を蹴っていた。

 向かう先は、時計塔じゃない。

 その隣に立つ、三階建ての石造りの商店だ。


「ダンスタン!?」


 シグルーンの驚愕の声が背後から聞こえるが、もう俺の耳には届いていなかった。


 壁に張り付く。

 窓枠のわずかな突起、石壁の小さな亀裂。

 その全てを足場として認識し、俺は壁を駆け上がっていく。


 ドン、と屋根の縁を掴み、一気に体を引き上げる。

 着地と同時に、次の屋根へと跳躍した。

 瓦が数枚、音を立てて砕け散るが、構うもんか。


 屋根から屋根へ。

 俺が最後の屋根の縁を蹴ろうとした、まさにその瞬間。

 時計塔の上のジョルの体が、ついに重力に従った。


 彼女の体が、ゆっくりと、空中に投げ出される。


 間に合えッ!


 俺の体は、宙を舞った。


 眼下に、驚愕に見開かれたジョルの瞳が見える。

 俺は、空中でその体を抱きかかえた。

 ずしりとした、命の重み。


 そのまま、時計塔の壁面へと激突する。

 凄まじい衝撃。

 だが、俺は衝撃を殺すように、壁を滑り降りていく。

 足の裏でブレーキをかけ、落下速度を殺しながら。


 やがて、俺たちの体は、地面に、静かに着地した。


 しん、と。

 あれだけ騒がしかった広場が、水を打ったように静まり返っていた。

 何が起きたのか、誰にも理解できていない。


 やがて、その静寂を破ったのは、誰かの、ぽつりとした呟きだった。


「……すげえ」


 それを皮切りに、爆発的な、地鳴りのような歓声が響いた。

 驚嘆と、畏敬の念がごちゃ混ぜになった、万雷の喝采。


 俺は、腕の中で震えるジョルの顔を、ただ、じっと見つめていた。


◇◇◇


 ギルドの一室に、ジョルを運び込んだ。

 温かいハーブティーを差し出されても、彼女はしばらくの間、虚ろな目でテーブルの一点を見つめるだけだった。


 やがて、張り詰めていた空気を破ったのは、シグルーンだった。


「ジョル! なぜあんな馬鹿な真似をした! 死んで何かが解決するとでも思ったのか!」


 その声は怒っていたが、ジョルの冷たい手を握りしめる彼女の手は、心配で微かに震えていた。


 ジョルは、その叱責に、力なく顔を上げた。


「シグルーン……ごめんなさい……」


 ぽろり、と。

 生気のない瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。


「助けていただいて……ありがとうございます。……でも、どうして……。もう、楽に、なりたかったのに……」


 生き残ってしまった、という絶望。


 その、あまりにも痛々しい言葉に、シグルーンはぐっと息を詰まらせた。


「何があった。何がお前をそこまで追い詰めたんだ。話せ!」


 シグルーンの問いかけに、ジョルの心の堰が、ついに決壊した。


「夫が亡くなって……私、必死だったんです。このギルドは、あの人が命をかけて築いたものだから……女手一つでも、守り抜かなきゃって……」


 嗚咽が、漏れる。


「でも、あの男は……ヘンリク伯爵は、そんな私の足元を見て……!」


 伯爵の名前が出た瞬間、シグルーンの表情が凍りついた。


「あの男は、笑いながら言ったんです。『ギルドの未来か、お前の体か、どちらかを選べ』と……。今日の、日没が……その返事の、期限だったんです……」


 ジョルは、力なく笑った。それは、全てを諦めきった者の、乾いた笑みだった。


「助けていただいても、何も変わりません。地獄が、また始まるだけ……。だから、もう……」


 シグルーンの瞳が、燃えるような怒りの色に染まった。

 かつての自分と、目の前の友人の姿が、痛々しいほどに重なって見えたのだろう。

 彼女の拳が、白くなるほど強く握りしめられる。


「もう大丈夫だ」と俺は言った。


 ジョルが、はっとしたように顔を上げる。


 俺は、その涙で濡れた瞳をまっすぐに見つめ返し、はっきりと宣言した。


「地獄は、俺が終わらせてやる。俺たちが、あんたを守る」

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