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仲間を全員失った元英雄のおっさん(42)、辺境で子育てを始めたら娘たちが最強すぎてスローライフが崩壊する件  作者: 河東むく


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第98話 絶望の孤児院

 翌日、俺たちは馬車を走らせ、シグルーンの恩人の娘、アイノが営むという孤児院のある隣町へと向かった。

 覚悟は、していたつもりだった。

 シグルーンの話から、相当ひどい状況に追い込まれているんだろうとは。


 だが、俺たちが目にした光景は、その想像を遥かに超えて、ひどかった。


 建物は壁のあちこちが剥がれ落ち、窓ガラスにはひびが入っている。

 庭だったであろう場所は雑草が生い茂っていた。


 そして、その奥にある畑だったと思われる場所は……見るも無残な有様だった。

 作物は根元から引き抜かれ、無残に踏み荒らされ、残ったものも水不足で完全に干上がっている。

 地面はカラカラにひび割れ、ところどころに塩でも撒かれたのか、白く変色していた。


 生命の気配がしない。

 ここはもう、作物が育つことのない『死んだ土地』だ。


「……ひどい」


 シグルーンが、絞り出すような声で呟いた。


 ぎぃ、と錆びついた扉を開けて俺たちを迎えてくれたのは、一人の若い女性だった。

 アイノだろう。

 その顔は疲弊しきっており、目の下には深い隈が刻まれている。


「……ようこそ、おいでくださいました」


 俺たちの姿を認めても、その表情に喜びの色は浮かばない。

 ただ、諦めきった、無感情な瞳で、深々と頭を下げるだけだった。


「中へどうぞ」


 食堂へと案内され、俺は再び息を呑んだ。

 薄暗く、埃っぽい空間。

 そこに十数人の子供たちが、ただ静かに座っていた。


「一体、何があったんだ」俺はアイノに尋ねた。「食料はどうしてる? 子供たちが痩せすぎている」


「もう、何も売ってもらえないんです」アイノは、震える声で語り始めた。「パン屋さんも、農家の方も……。『伯爵様に逆らえない』と、泣きながら謝られて……。ここ数週間、子供たちには水で薄めたスープしか……」


 その言葉に、シグルーンが悔しそうに歯噛みする。


「……あの男のやりそうなことだ。領主の権力を使えば、街の商人たちを従わせるのは容易い」


「寄付金はどうしたんだ」俺は重ねて問う。「院長先生は、街の皆から慕われていたはずだ。お前さんのことも、みんな知ってるだろう」


「それも……酷い噂を流されて……」アイノの瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。「『孤児院は不衛生だ』とか、『私が父の遺産を食い潰している』とか……。根も葉もない嘘ばかりです。今では、誰も、もう私たちを信用してはくれません」


「ヘンリクは、なぜそんなことをするんだ?」


 わざわざお金や手間をかけてまで、この孤児院に嫌がらせをする理由とはなんだ?


「たかが一介の孤児院を潰すために、わざわざ金や手間をかけてまで嫌がらせをする理由が分からん」


 俺の疑問に、シグルーンが悔しそうに、そして自らを責めるように呟いた。


「……私だ。奴の目的は、私だよ」


「シグルーン、お前が目的というのは……?」


「あの男は、私がこの孤児院を何よりも大切にしていることを知っている。私が陰ながらアイノを支援していることも、おそらくは突き止めているだろう。……だから、やるんだ。私に最も精神的な苦痛を与えるために。私が……お前と幸せそうにしているのが、許せないんだよ。あの男は……そういう人間だ」


 その言葉に、アイノがはっとしたように顔を上げた。


「では、私のせいで、シグルーンさんまで……! 申し訳ありません……!」


「お前が謝ることじゃない」シグルーンは静かに首を振った。「悪いのは全て、あの男と……過去に決着をつけられずにいた、私だ」


 アイノはその場に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。


「毎晩のように、チンピラが家の周りをうろついて……石を投げ込まれ、子供たちは怖がって眠れなくて……! 私が、私が不甲斐ないばかりに……この子たちを……っ!」


 経済的に、物理的に、そして精神的に。

 この小さな孤児院は、社会的に抹殺されようとしていた。


 これが、ヘンリク伯爵がもたらした絶望の正体か。


 ヘンリク伯爵をなんとかする前に、まずはこの孤児院を立て直す必要がある。


 俺は、背後に控えていた三人の娘たちに向かって告げた。


「――お前たちの出番だ」


◇◇◇


 最初に動いたのは、クータルだった。

 彼女は、俺の言葉に頷くと、ゴミで埋められた井戸と、塩害で死んだ畑の前へと歩み出る。

 そして、小さな両手を、いっぱいに広げた。


「えーい! 元気になれ〜!」


 無邪気な掛け声と共に、彼女の体から、凄まじい黄金色の光が放たれた。

 光は、まず汚された井戸へと注がれる。

 すると、ゴミや汚泥は瞬く間に浄化され、底から清らかな泉が湧き上がってきた。


 続いて、光は死んだはずの大地へと降り注ぐ。


「なっ……!?」とアイノが信じられないものを見る目をしていた。


 食堂の窓から、虚ろな目をしていた子供たちのうちの何人かが、そのありえない奇跡に気づき、ゆっくりと視線を向け始めていた。


 光が収まった時。


 そこに広がっていたのは、以前よりもずっと豊かに、生命力に満ち溢れた、祝福の大地だった。

 トマトはルビーのように輝き、トウモロコシは黄金色の宝石のように、キラキラと光を乱反射させている。


「……うそ」


 アイノの唇から、か細い、吐息のような声が漏れた。


 その奇跡の野菜を、今度はピヒラが両手いっぱいに受け取る。


「――次は、私の番ですね」


 ピヒラは、にこりと微笑むと、厨房へと駆け込んでいった。


 しばらくして、食堂に、食欲をそそる最高の香りが満ちていく。


 ピヒラが、採れたての野菜と、俺たちが持ってきた肉を使って、特製のビーフシチューを作り始めたのだ。

 その温かくて優しい香りが、絶望に満ちていた孤児院の淀んだ空気を、少しずつ変えていく。


 やがて、湯気の立つ大きな鍋が、食堂のテーブルに運ばれてくる。

 最初は、誰も手をつけようとしなかった。

 心を閉ざした子供たちは、外部からの施しを、ただ警戒していた。


 だが、その温かいシチューの香りは、抗いがたい魅力に満ちていた。

 一人の、一番小さな男の子が、おずおずとスプーンを手に取る。

 そして、警戒しながら、一口。

 その、シチューを口に運んだ、瞬間だった。


 少年の、光を失っていた瞳が、大きく見開かれた。

 温かい味が、凍てついていた彼の心と体に、じんわりと染み渡っていく。

 少年は、もう何も言わなかった。

 ただ、夢中で、無我夢中で、シチューをかき込み始めた。


 その姿が、引き金になった。

 一人、また一人と、子供たちがスプーンを手に取り、シチューを口に運んでいく。

 食堂は、あっという間に、カチャカチャという食器の音と、子供たちが夢中で食事をする音だけで満たされた。


 ひとまず、これで肉体的な面は問題ない。

 最後は……。


 ぽろん、とリュートの優しい音色が響く。

 ミーシャは、食堂の隅の椅子にちょこんと座ると、静かに、子守唄を奏で始めた。


 その、切なくて、温かい音色に、クータルの天使のようなハミングが、そっと寄り添うように重なった。

 姉妹が奏でる、奇跡のデュエット。


 シチューをかき込んでいた、一人の女の子の手が、ぴたりと止まった。

 彼女は、音楽が聞こえる方へと、ゆっくりと顔を上げる。

 その、虚ろだった瞳に、光が宿った。


 そして。

 ふっと、その唇に、小さな笑みがこぼれた。


 一人、また一人と、子供たちの顔に笑顔が戻っていく。

 やがて、食堂は、忘れていたはずの、賑やかで、温かい笑い声に包まれた。


 アイノは、その光景を前に、ただ、その場に崩れ落ち、声を上げて泣いていた。


 俺とシグルーンは、娘たちが起こした奇跡を、ただ黙って見つめていた。


 さて、反撃開始といこうか。

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