第98話 絶望の孤児院
翌日、俺たちは馬車を走らせ、シグルーンの恩人の娘、アイノが営むという孤児院のある隣町へと向かった。
覚悟は、していたつもりだった。
シグルーンの話から、相当ひどい状況に追い込まれているんだろうとは。
だが、俺たちが目にした光景は、その想像を遥かに超えて、ひどかった。
建物は壁のあちこちが剥がれ落ち、窓ガラスにはひびが入っている。
庭だったであろう場所は雑草が生い茂っていた。
そして、その奥にある畑だったと思われる場所は……見るも無残な有様だった。
作物は根元から引き抜かれ、無残に踏み荒らされ、残ったものも水不足で完全に干上がっている。
地面はカラカラにひび割れ、ところどころに塩でも撒かれたのか、白く変色していた。
生命の気配がしない。
ここはもう、作物が育つことのない『死んだ土地』だ。
「……ひどい」
シグルーンが、絞り出すような声で呟いた。
ぎぃ、と錆びついた扉を開けて俺たちを迎えてくれたのは、一人の若い女性だった。
アイノだろう。
その顔は疲弊しきっており、目の下には深い隈が刻まれている。
「……ようこそ、おいでくださいました」
俺たちの姿を認めても、その表情に喜びの色は浮かばない。
ただ、諦めきった、無感情な瞳で、深々と頭を下げるだけだった。
「中へどうぞ」
食堂へと案内され、俺は再び息を呑んだ。
薄暗く、埃っぽい空間。
そこに十数人の子供たちが、ただ静かに座っていた。
「一体、何があったんだ」俺はアイノに尋ねた。「食料はどうしてる? 子供たちが痩せすぎている」
「もう、何も売ってもらえないんです」アイノは、震える声で語り始めた。「パン屋さんも、農家の方も……。『伯爵様に逆らえない』と、泣きながら謝られて……。ここ数週間、子供たちには水で薄めたスープしか……」
その言葉に、シグルーンが悔しそうに歯噛みする。
「……あの男のやりそうなことだ。領主の権力を使えば、街の商人たちを従わせるのは容易い」
「寄付金はどうしたんだ」俺は重ねて問う。「院長先生は、街の皆から慕われていたはずだ。お前さんのことも、みんな知ってるだろう」
「それも……酷い噂を流されて……」アイノの瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。「『孤児院は不衛生だ』とか、『私が父の遺産を食い潰している』とか……。根も葉もない嘘ばかりです。今では、誰も、もう私たちを信用してはくれません」
「ヘンリクは、なぜそんなことをするんだ?」
わざわざお金や手間をかけてまで、この孤児院に嫌がらせをする理由とはなんだ?
「たかが一介の孤児院を潰すために、わざわざ金や手間をかけてまで嫌がらせをする理由が分からん」
俺の疑問に、シグルーンが悔しそうに、そして自らを責めるように呟いた。
「……私だ。奴の目的は、私だよ」
「シグルーン、お前が目的というのは……?」
「あの男は、私がこの孤児院を何よりも大切にしていることを知っている。私が陰ながらアイノを支援していることも、おそらくは突き止めているだろう。……だから、やるんだ。私に最も精神的な苦痛を与えるために。私が……お前と幸せそうにしているのが、許せないんだよ。あの男は……そういう人間だ」
その言葉に、アイノがはっとしたように顔を上げた。
「では、私のせいで、シグルーンさんまで……! 申し訳ありません……!」
「お前が謝ることじゃない」シグルーンは静かに首を振った。「悪いのは全て、あの男と……過去に決着をつけられずにいた、私だ」
アイノはその場に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。
「毎晩のように、チンピラが家の周りをうろついて……石を投げ込まれ、子供たちは怖がって眠れなくて……! 私が、私が不甲斐ないばかりに……この子たちを……っ!」
経済的に、物理的に、そして精神的に。
この小さな孤児院は、社会的に抹殺されようとしていた。
これが、ヘンリク伯爵がもたらした絶望の正体か。
ヘンリク伯爵をなんとかする前に、まずはこの孤児院を立て直す必要がある。
俺は、背後に控えていた三人の娘たちに向かって告げた。
「――お前たちの出番だ」
◇◇◇
最初に動いたのは、クータルだった。
彼女は、俺の言葉に頷くと、ゴミで埋められた井戸と、塩害で死んだ畑の前へと歩み出る。
そして、小さな両手を、いっぱいに広げた。
「えーい! 元気になれ〜!」
無邪気な掛け声と共に、彼女の体から、凄まじい黄金色の光が放たれた。
光は、まず汚された井戸へと注がれる。
すると、ゴミや汚泥は瞬く間に浄化され、底から清らかな泉が湧き上がってきた。
続いて、光は死んだはずの大地へと降り注ぐ。
「なっ……!?」とアイノが信じられないものを見る目をしていた。
食堂の窓から、虚ろな目をしていた子供たちのうちの何人かが、そのありえない奇跡に気づき、ゆっくりと視線を向け始めていた。
光が収まった時。
そこに広がっていたのは、以前よりもずっと豊かに、生命力に満ち溢れた、祝福の大地だった。
トマトはルビーのように輝き、トウモロコシは黄金色の宝石のように、キラキラと光を乱反射させている。
「……うそ」
アイノの唇から、か細い、吐息のような声が漏れた。
その奇跡の野菜を、今度はピヒラが両手いっぱいに受け取る。
「――次は、私の番ですね」
ピヒラは、にこりと微笑むと、厨房へと駆け込んでいった。
しばらくして、食堂に、食欲をそそる最高の香りが満ちていく。
ピヒラが、採れたての野菜と、俺たちが持ってきた肉を使って、特製のビーフシチューを作り始めたのだ。
その温かくて優しい香りが、絶望に満ちていた孤児院の淀んだ空気を、少しずつ変えていく。
やがて、湯気の立つ大きな鍋が、食堂のテーブルに運ばれてくる。
最初は、誰も手をつけようとしなかった。
心を閉ざした子供たちは、外部からの施しを、ただ警戒していた。
だが、その温かいシチューの香りは、抗いがたい魅力に満ちていた。
一人の、一番小さな男の子が、おずおずとスプーンを手に取る。
そして、警戒しながら、一口。
その、シチューを口に運んだ、瞬間だった。
少年の、光を失っていた瞳が、大きく見開かれた。
温かい味が、凍てついていた彼の心と体に、じんわりと染み渡っていく。
少年は、もう何も言わなかった。
ただ、夢中で、無我夢中で、シチューをかき込み始めた。
その姿が、引き金になった。
一人、また一人と、子供たちがスプーンを手に取り、シチューを口に運んでいく。
食堂は、あっという間に、カチャカチャという食器の音と、子供たちが夢中で食事をする音だけで満たされた。
ひとまず、これで肉体的な面は問題ない。
最後は……。
ぽろん、とリュートの優しい音色が響く。
ミーシャは、食堂の隅の椅子にちょこんと座ると、静かに、子守唄を奏で始めた。
その、切なくて、温かい音色に、クータルの天使のようなハミングが、そっと寄り添うように重なった。
姉妹が奏でる、奇跡のデュエット。
シチューをかき込んでいた、一人の女の子の手が、ぴたりと止まった。
彼女は、音楽が聞こえる方へと、ゆっくりと顔を上げる。
その、虚ろだった瞳に、光が宿った。
そして。
ふっと、その唇に、小さな笑みがこぼれた。
一人、また一人と、子供たちの顔に笑顔が戻っていく。
やがて、食堂は、忘れていたはずの、賑やかで、温かい笑い声に包まれた。
アイノは、その光景を前に、ただ、その場に崩れ落ち、声を上げて泣いていた。
俺とシグルーンは、娘たちが起こした奇跡を、ただ黙って見つめていた。
さて、反撃開始といこうか。




